かの日の写真―董子編―

序章

 迫り来る激動の時代の足音が、もうお江戸のすぐ側まで聞こえてきている。
 進軍ラッパの高々とした響きも、ほら耳をすませば微かに聞こえるほどに……。
 薩長軍を先頭とした軍隊が、錦の御旗を押し上げて将軍家討伐に迫り来る中、ここお江戸の小石川はさしてそのような現実を気にすることはなく、通常の生活が繰り返されているのだった。
「おとうしゃま……」
 お江戸開闢以来の大身……旗本三千五百石須城家息女董子は、二歳。父母に手を引かれ、まったく意味が分かっていないだろうに「かめら」と連呼して、はしゃぎまわっている。
「おとうしゃまぁ……かめらっておいしいの?」
「董子。かめらは食べられはしないのだよ」
 昨今、横浜よりお江戸に入ってきた「カメラ」で写真なるものを撮りに、須城家は一家そろってお出かけである。
 といっても須城家の長男で、董子の十三歳年上の兄藤一郎は「これからは異国語を勉強せねばならない」と熱意にもえて、緒方洪庵の弟子福沢諭吉が開いている「慶応義塾」なるものに通い、今日も英語を勉強しにいっている。
 どうやら藤一郎の異国文化好きは、この変わり者と名高い父武吉の血を濃く受け継いだもののようだ。
「カメラというのは、人の姿をそっくりそのまま一枚の紙に写すものだ。顔形をそのままなど、楽しいな」
 須城武吉は、幼少の時より異国文化に興味があり、長じては長崎に蘭学を勉強しに行きたいと本気で思ったらしいが、名門須城家の嫡子に異国文化を学ぶ必要はない、と親戚一同に諭され渋々諦めたものの、やはり好きなものを探求する好奇心を抑えることができず、幕府の使いとして異国に渡った勝麟太郎とよしみを通じ、よく徹夜で異国話で花を咲かせたものだった。
『英国やら米国なんてものはなぁ、イエスさえ知っていればなんとでもなるものさ。現に俺はあん時はイエスしか知らなかったんだぞ。なんでもイエス、イエス』
 と、楽しげに笑っていた勝麟太郎など、今では幕府の陸海軍を一手に担い、薩長にも顔が利く男となっている。
 何度も左遷や更迭、ついには後々の人材を育てる海軍練習所の教官までになったと思えば、すぐに幕府に呼び戻されてしまい多忙過ぎる日々を過ごしているようだ。
「だんな様。前に、伊勢町の見世物小屋で身の丈一丈七尺(約五メートル)もあるイカを見ましたが、あれも並んで並んで大変で」
 武吉の妻「蝶子」は三年前にお江戸の話題をさらった「巨大イカ妖怪」の話をしているようだ。確かにアレはすごかった、と武吉は思う。
 お化けイカといって、船を襲っては次々に人を食い尽くしていた、と言われているが、それは嘘八百だろう。確かに普段目にするイカより数倍の大きさで、 「化け物」と呼ばれてもうなずけるが、世の中には自分たちが考えられないものも生息しているものだ。
「あんなイカとは比べ物にはならないものぞ。写真とはな」
「ふぉと……ふぉとぐらふでしたか。そんな意味不明の……しかも、人の魂を抜くと評判で……」
「馬鹿馬鹿しい。人をそのまま紙に写す技術が異国にはあるだけだ。それに、どうやって人の魂を抜く。妖術でもあるまいし」
「おとぅしゃま、おかぁしゃま……」
 董子は父母の話など分からず、ただ久方ぶりに両親と三人で出かけられることがうれしいようだ。
 ふと武吉は董子をヒョイと抱き上げ、肩もとに乗せてしっかりと抑える。
「わぁー高い」
 武吉と蝶子との間にも、今は二人の子どもしかいない。長男藤一郎に続いて董子が生まれる前に三人の女の子があったのだか、すべてが労咳や流行病のコレラによって亡くなってしまっている。そのため、三人の娘の生まれ変わりとして武吉は目の中に入れても痛くないほど董子を可愛がっていた。
(娘たちも、せめて写真として面影を確たる形で残してやれれば……)
 幼くして死してしまった娘たちの面差しはおぼろげで、鮮明に武吉は思い出すことができなくなっていた。そう、董子を見ていると、三人のどの娘の面影もある。だが、どこをどう似ているのか考えねば分からない。
 こんな動乱の時代だ。明日にでも薩長を中心とした軍勢がお江戸に攻め込み、まさに八百八町を火の海にするという噂が広がる中………。人は、そのことを気にせずに通常通りの生活を送ろうとしているようだが、活気あふれた江戸の町とは思えぬほどの重苦しさを空気から感じ取ることもできた。
 上野あたりには幕府の旗本の子弟たちにより編成された彰義隊なるものが、集まっているともいう。
 明日は我が身かも知れぬ。
 幕府に江戸開闢以来二百数十年、長くご温厚を受けてきた須城家だ。
 もしも幕府側が千代田のお城(江戸城)に立てこもり、あくまでも薩長軍と戦うというならば、旗本の当主たる武吉は幕府のために戦に参加しなければならない。
「董子……」
 今、自分が死したとしたならば、この幼い娘は父のことなど何も覚えていないのではないか。
 せめて顔だけでも形として残してやりたい。幼い娘に父という存在が確かにいたということを確信させてやりたい。
 異国より伝わった「カメラ」なるものを耳にしたときに、これだ、と思った。
 人の魂を抜き取って、姿を紙に映すとまで言われているが、それは「カメラ」なるものを恐れたものたちの言葉に過ぎなかろう。
 カメラで写真を撮ってもらい、死人が出たとは聞いたことはない。
 そんな思いで歩いている武吉の傍らを、数人の異国人が通り過ぎていった。
 江戸日本橋などは、昨今は異国人が大手を振って歩くようになっており、さして人々もその姿を気にせずにすれ違っていく。いつかはお江戸も、国際都市に変貌していくのやもしれない。
 肩に乗っている董子は異国の人を見るのは始めてらしく、また父の肩に乗っても自分と視線が同じくらいに背丈がある人にビックリしているようだったが、そのうちに慣れていったのかニコニコしている。
「おとうしゃま。あの人、とってもお目目がきれいよ」
 青い瞳が董子には気に入ったらしい。
「それにお鼻も高いの。すごい……」
 異国人というだけで恐れ戦くものが多いというこの国の中で、幼子ほど無邪気に人を受け入れられるものはおるまい。董子が成人するころには、異国人にこの国の人は何一つ恐れも好奇も抱くことなく、人として対等に立てる時代が到来しているのかもしれない。
「本当だね。董子はあの人たちと仲良くなれるかい」
「うん」
 董子は元気良く返事をした。
「とうこ仲良くなる。だって、あの人きれい。とうこはきれいな人、だいしゅきき」
 でも一番はとうしゃまがしゅき、と耳元で囁く娘がいとおしく……この娘のためにもお江戸を火の海になどしたくないものだ、と武吉は思いつつ歩いていく。
 そして、一刻(二時間)ほど過ぎただろうか。
 昼過ぎの日本橋は人が数多おり、ここばかりは重い雰囲気よりも活気が勝っていた。
 オランダ人の写真家の「カメラ」の前には、物見客や順番待ちの客など大勢の人があふれている。
 この時代の写真は高値で、一般庶民には手が届くものではなかったが、大身須城家には気にかける値ではなかろう。
「かめら、かめら」
 半刻(一時間)ほど待ち、ようやく順番が回ってきた。
「本当に撮るのね。いやだこと」
 旗本の中にも武をもって立つといわれた家柄の出身で、およそ異学などとは無縁の世界に生きてきた蝶子は「カメラ」の前の椅子に座っただけで、重いため息などもらしている。
「はい。オクサンもダンナサンも動かないで。そのまま、ここを見ていてクダサイ」
 と、オランダ人が指し示す箇所を見ていたが、董子はジッとしていられないのか、足をバタバタさせたり、椅子からヒョイと立ち上がろうとするので、椅子の後ろに立っていた武吉は、その両腕に董子を抱きかかえた。
「おとなしくしておいで」
 すぐに終わるから、とやわらかく口にすると、董子の動きはピタリと止まった。
 不思議と董子は誰の言葉にも従わず、誰にも触れられるのを好まないという武家の息女らしい誇りが身に備わっているのだが、父の言葉にだけは素直であり、父にしか甘えようとはしない。
 そのままジッと緊張した面持ちでカメラを見つめ続け、終わりました、といわれたときには皆がホッとしたが、董子だけは違った。
 父の腕より飛び降り、トコトコとカメラの前に近づいて、オランダ人にニッコリと話しかけたのだ。
「ねぇ、これってなんの箱。何が入っているの?」
「オジョウちゃん」
 青い目の若いオランダ人写真家はこういった。
「この中には、いろいろな過ぎ去った日々や今の姿などが入っているんですよ。ユメもね」
 董子は首を傾げたが、オランダ人はニコリと笑った。
「オジョウちゃんにも、きっと、いつか、分かるよ」
 流暢な日本語でそう言ったオランダ人は、董子の頭を優しく撫でて、さっそく次ぎの客の撮影に取りかかっている。
 今、撮影された「写真」は後日に屋敷の方に届けてくれるということになった。
「おとうしゃま。すぎさった日々ってなに。ゆめってなに」
 父武吉の袖を引っ張りつつ歩いていた董子がそう尋ねてきた。
「それは、いつか写真を見ながら董子が考えなさい。過去も、そのとき感じた夢も写真の中に閉じこもっているのかもしれないね」
「あぁいやだいやだ。本当に魂を抜かれるのではないかと気が気でならなかったこと」
 蝶子など未だに冷や汗が流れている。
「もう、こんな思いはいやですわ。二度とごめんですこと。異国のものなどこりごり」
「おかぁしゃま。異国の人はきれいだし、あのかめらの中にはいろいろあるみたい」
 本当に蝶子の実の娘か。母の苦手とするものを董子はすんなりと受け入れている。
「また会いたいなぁ。つぎは、あのかめらの中を見るの」
 董子は何度も振り返り、あの青い目をした写真家の姿を目で追っている。そしてニコニコと笑った。
「また会いにくる。とうこ、またかめら見る」
 そんな董子を母親は諦めた目で、父親は頼もしい目で見守り続けている。

 董子二歳、それはかの江戸城無血開城の十日前のことだった。
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