橘ノ花 第二部

6章 + 願い +

 我の目に映る光景は、どこまでもおぼろで、霞がかっていた。
 すべてに現実感がなく、虚無感すら広がる世界。あぁこれが「夢」なのだ、と我は無自覚に悟る。
 夢の中で「現実」と同じように日日を過ごし、日は毎日無造作に繰り返されるばかり。
 選択したのは我であった。現実の残忍さを認識したくないあまりに逃げ込んだこの「夢の中」。
 逃げて、逃げて。だが、いつしか「夢」を終わらせても良い、と思うようになった。現実の非情さを受け止めても良い。
 それは、我が目覚めたならば、この手が掴むことができる確たる人間が一人あるからだ。
 かつて当然のように傍らにあった人間に、この夢の中では手を差し伸ばすその一点すら躊躇うこの心境。
 憎い、と睨み、許さない、と叫ぶたびにこの心に皹が入るような痛みは何か。
 憎いと思うその人間に抱きとめられるその瞬間、絶え間ないほどの辛苦と同時に、それを凌駕する安らぎを得られるのはなぜか。
 全ては夢の中での出来事。この我が目覚めたその時、この目に映る現実はどれほどに非情なものであろうとも。
 目を覚ました先に在るその人間に、我は今、躊躇うことなく手を差しのべることができるだろう。
 夢の中でどれだけの憎悪がこの身を焼いたか知れぬ。我は自らに語り聞かせるかのように「憎しみ」をこの体に染み渡らせた。

橘ノ花 第二部 6-1

 もう良い、と思えるほどに。憎しみが蔓延る夢の世界を終え、現実の辛苦を味わおうとも、それは良い、と願うほどに、
 我はあの冷たい手に触れたい。意識せずに触れ、振り向けば傍らにあるあの頃に戻りたい。
 あの男の雨の香りをこの身全てで受け止めたい。
 強く抱きとめられ、我も抱きつき……離れぬ。
 あの男の冷たい手に触れられ、あの力強さがまるで感じぬ腕に包まれ、その胸の中に顔を埋め、雨の匂いを感じたい。
 おまえが……我には足りないのだ。
 おまえのぬくもりが、おまえの声が、おまえの感触が……まるで足りぬ。欲しい、と焦がれるほどにこの飢えている体を、どうにかして欲しい。
 我は、おまえの全てが……その身すべてが欲しいのだ。
 この夢の中で手に入らぬならば、この夢を終わらせよう。その覚悟はすでに胸にある。
 されど、この夢はどう致せば終わるのか。どうすれば全ては消えるのか。
(おまえが……おまえだけが夢を終わらせられる)
 我をこの夢に誘ったおまえだけが夢を終わらせることができるというに、何ゆえか。
 今、霞がかっていた周囲から、一切の色が消えた。それは灰色の何も色をなさない世界に今、我は立っている。
 ……なぜだ。
 心から沸きあがるその言葉は、決して声にはならない。
 必死に前へ前へと差し伸べたその手は空を切るばかり。
 何も得られず、何も触れられず。この手はまた……何も掴むことは適わず。

橘ノ花 第二部 6-2

 灰色の世界で、我は茫然と立ち尽くしながら、今、初めて、これが夢であって良かったと心から思った。
 ……目を覚ませば、おまえは傍らで微笑んでくれるだろう。これは夢ゆえに……失っては居ない。


「御屋形さま。御屋形さま」
 その声は遠くから聞こえてくる。
「しっかりしてください、御屋形さま」
 あぁ藤の声か。何を叫んでおる。そんな苦しげな声は……今まで聞いたことがないな、と遠い意識の中で思った。
「御屋形さま」
 ピシャリと頬を打たれた感覚もどこか鈍い。
 信長は何度か瞬きして後、傍らにある池田藤三郎の存在をようやく認識できたが、
 その震える体の理由も、流れる涙の訳もようよう理解することが適わなかった。
「いかがした、藤」
「主席さまが。主席さまが。御屋形さま……主席さまが」
 留まることがないその涙を見つつ、信長は小さく呟く。
「……たかが夢の中だ」
 捨て置くようにして放った一つの言葉が、瞬時にこの身に跳ね返ってきたのか。突如、信長の体に到来したのは「恐怖」だった。
(夢だ……夢だ。目覚めたら傍らにいる)
 大丈夫だ、これは夢だ。何事もない。目覚めれば……ちゃんと傍にいる。

橘ノ花 第二部 6-3

 何度も何度も自分に言い聞かせ、それでも納得しないのか。この体は小刻みな痙攣を始めた。
「夢だ。大丈夫だ。夢だ……夢」
 夢と繰り返し、これが夢で良かった、と安堵の言葉を呪文のように唱え、
 この体にどうにかして「夢」を納得させようとしているというに、妙なものだ。
 夢、と唱えるたびに空虚が全身に染み渡り、大丈夫、と唱えるたびに胸がズキリと痛みを伴わせる。
 なぜ、と問うても分からぬ。
 夢という事実をなぜこの体は受けいれぬのだ。目を覚まさねば、これを夢とは認識してくれぬのか、体は。
(目を覚ませば良いのだ)
 信長は呼吸を小刻みに繰り返す。
 乱雑に繰り返される呼吸音が響く中で、身は徐々に落ち着きという言葉を忘れていった。
「いつになれば……」
 小さくもれた慟哭。
「この夢は終わりになるのだ」
 いつになれば、おまえに触れられるのか?
 今、夢から醒めたい、と心から念じた。
 この色のない灰色の夢の中はもういい。今すぐ抜け出たい。今、この夢を終わりにしたい。夢を消したい。
 力が全て抜けた。膝が折れ、ガクリと地につく感触はある。
「御屋形さま」
 慌てた藤三郎がこの身を支えようとするが、藤三郎からして自分の身を懸命に保つのが精一杯の状態と言えた。

橘ノ花 第二部 6-4

「……なぜ……醒めぬ」
「御屋形さま」
「夢は終わりだ。我を……現に戻せ」
 傍らにあの男がいる現に戻せ。
 ……どうした? 哀しい夢でも見ていたのか。
 と、あの男はわずかに苦笑を滲ませて言うだろう。
 我はその身に飛び込んで、もう二度とこんな夢はごめんだ、と抱きつく。気が済むまで抱きついて決して離しはしない。
 ぬくもりを、感触を。声を、息吹を……心臓の鼓動を。
 なによりも触れたい、と。おまえの命を感じたい、と。
 今、この夢の中でこの手が届かぬところにいってしまったおまえの存在を、どうか今すぐ感じたい、と。
「……御屋形さま。しっかりしてください。大丈夫です。主席さまはあのくらいの崖から落ちても……きっと大丈夫です」
 ようやく藤三郎はどうにか正気を取り戻し、安易な確証も何もない空々しい慰めを口にした。
 信長の耳にはそんな薄い言葉など何一つ届いてはいない。
 他のどのような音も聞こえぬほどに、必死に心で叫び続けていた。
 ……夢は終わりだ。


 伊野則唯は今、この現実を放棄したかった。
 夢と思うことができるならばどれだけ楽であっただろう。
 狂気の世界に埋没できるならば、それはどれほどに幸せであったか知れない。
「ご主人!」

橘ノ花 第二部 6-5

 唐突に目の前で繰り広げられた光景を、容易に認識することは適わなかった。
 鼓動が波打ち、血が逆量し、強烈な眩暈が襲うこの現実において、この目は最期まで「現」を映していた。
 微笑みながら最期の一歩を踏み出した我が主。
 崖下に自ら飛び込んだその人を、伊野は体が金縛りのように固まり、追う事すらできなかった。
 妖禾が間髪置かずに、主を追い、崖に飛び込んだのを目は捕らえている。この自分と妖禾では、土壇場においての反射神経がここまで違うのか。それとも度胸の問題とでも言うのだろうか。
「……夢だ」
 背後ではあの信長が呪文を唱えるように、何かをぶつぶつと言っていた。伊野は目の前で声を立ててへらへらと笑う男に刀を突きつけた。
「飛び込んだ。飛び込んだ。死んだ……死んだよ」
 麻薬が体を覆い、ついには精神まで薬がつかろうとしている。目の焦点は完全にどこぞに飛び、野卑たその笑いは螺子の切れる寸前のからくり人形に等しい。
『生かしておけ……後は頼む』
 主が唯一つ己に徹した言葉を、何があろうとも違えられぬ自分を……伊野は呪いたくなった。
 刀でるいを戒めていた縄を切る。
「……私の……私のために……」
 黙れ、と伊野はか弱い女と知りながらもにらみつけた。
 哀しいまでに儚いその容貌と、その涙。戒めより逃れようと必死になったのだろう。無数の痣や首筋の血がるいの戦いの壮絶さを物語っていた。

橘ノ花 第二部 6-6

「通勝さまが」
「あなたのためではない」
 伊野は忌々しげにるいを見つめ、肩越しに信長を凝視した。
「……だがあなただからこそ」
 生駒るいという女性に向ける主の心を、伊野はほんのわずかだけでも承知しているゆえに、
 るいに対しても、目の前の岡田という男に対しても激情を抑えることができた。
 心の中ではあの妖禾ならばどうにかするだろう、という……認めたくはないが、確たる信頼の思いもある。
 例え自殺の名所と呼ばれようとも、あの主が自らの命の保証なくして、落ちるとは思えない。
 万に一つも危ういと思えば飛び込むことはない、と伊野は思う。主にはこの後生涯をかけて成就させねばならぬ「復讐」がある。
 それを前にして、一時の激情のために全てを無にする………そんな人ではない、と分かっている。
「誰よりも……あの方を分かっていないのは……」
 理解しようともせず、考えようともせず。されどその手は一瞬の時を躊躇うこともなく、いつも主に差し向け続ける。
 藤三郎に支えられつつ、「夢」という単語を繰り返す信長が、いつもにまして苛立たしく、
 この崖から突き落としてくれようか。この男ならば万に一つも助かるまい、と心の中で思ったりもする。
「夢でも現でもない」
 岡田をぐるぐるに縛り上げ、伊野はへらへらと笑ったこの男を、冷えた感情の中で容赦なく殴った。

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「己が思うところが今ある場所。夢も現実もない。……現実逃避に捕らわれすぎてばかりだと、真に大切なものまでも失う」
 いや、すでに失っているのか。
 伊野はあえてその言葉を口にせず、岡田を引きずるようにして崖を下ろうとしている。
「伊野則唯」
「……なにか」
「……アレは……命を賭ける男ではない」
 その通りだ。そこに唯一つの例外が存在するのが憎らしい。それが「復讐」と名を変えた……信長に他ならない。
「命を……賭けはしない……」
 それは自分自身に言い聞かせると同時に、誰かに肯定して欲しいという切なる望みをかけた信長の問いだった。
「賭けはしないが、もし捕らわれていたのがるいさまではなく貴方であったら……主人はどうしたか見てみたいものだ」
 捨て台詞を置いたまま、伊野は崖を下っていった。
 知れている。分かっている。そして信長だけが分かってはいない。
 万に一つを恐れ、妖禾の手刀の動きを制止させた主が、もしも捕らわれの身がるいではなく信長だったならば、
 寸分の時もおかずに妖禾に命じている。……岡田を殺せ、と。
 躊躇うときも持たず、考える呼吸すらもおかず、冷え切った声で言い捨てただろう。
 もとより主は妖禾の腕には十割の信頼を置いている。
 それが今回「万の一つ」を恐れ命じなかった理由は……何か。
 あの一時の時間において、妖禾が手刀を繰り出さなかったために、もしも岡田がるいを刃で貫こうとも……良いと判じたか。

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 妖禾の腕を誰よりも信じている主が、「万に一つ」を考えるなど伊野には解せなかった。
 だが捕らわれの身が信長ならば、
 主は「万に一つ」という言葉も考えもよぎらせはしない。当然の如しといった口調で妖禾に命じたはずだ。
 そう……信長の命が、己以外の第三者に、一時でも握られているその事実を、主は決して許しはしないのだから。
「思い……思われ……また思う」
 されどその思いに「甘さ」はなく、思いが過ぎれば過ぎるほどに「剃刀」の如し鋭さを匂わせた。
 伊野は咽喉を鳴らし、自分も何と滑稽か、と自嘲の笑いを漏らす。
 万に一つを考えたくはない……という現実逃避に、今自分こそ足を踏みいれている。

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