拍手031弾:

― 人物性格物語 ⑬ 山尾庸三 ―

「木戸さん、山尾がお会いしたいと」
「庸三……。すまないが俊輔。私は体調がよろしくないから、庸三とは会わないよ」
 はい? と伊藤は木戸を見つめる。
 普段に比べると木戸は頗る体調がよろしく、先ほどまで道場で竹刀をふるい、
 在りし日の桂小五郎を思わせる姿に、伊藤は感激の涙が流れるかと思ったほどだ。
「……木戸さん、体調がお悪くなりましたか」
 ハッとした木戸は伊藤を見つめ、ばつの悪げな顔をして首を振りながら、
「昔から私はどうしても庸三は苦手なのだよ」
 と、吐息を一つこぼして、紅茶カップを手に取る。
「めずらしいですね。木戸さんが苦手にする人がいるなんて」
「私にも苦手に思う人間はいるよ」
「たとえば薩摩の寡黙で鉄面皮の人間とかですかね」
 木戸は答えずに優雅に紅茶を飲む。
「でも山尾は……」
「俊輔、おまえは庸三のおかしな趣味は知らないのかい」
 アッと伊藤は声をあげてしまう。
「私はその趣味のために何度恐ろしい目にあったか知れないよ」
 ハハハ……と乾いた笑いを漏らしながら、伊藤は重い吐息を漏らす。
「僕も同じく英国でひどい目にあいましたよ」
 二人して目を合わせながら、重い吐息を漏らさせる山尾庸三。
 明治三年現在民部権大丞たる山尾は、極めて有能な官吏であり、留学経験から英語が堪能な部分を重宝されているが、
 この山尾。長州閥だけが知るちょっと困った「趣味」があったりする。


 木戸と伊藤が紅茶を重い雰囲気の中で飲んでいると、
 トントントンと扉が叩かれ、外から「木戸さぁ~ん」という声が聞こえてきた。
 あからさまに木戸はビクリと肩を浮かし、なにやら周囲をキョロキョロと見回す。
「いかがされましたか、木戸さん」
 その木戸の目に窓が映り、躊躇うことなく窓に駆け寄る木戸の腕を伊藤が掴む。
「き、木戸さん」
「見逃しておくれ、俊輔」
「国家の参議たる方が……刺客が送られてきても平然と対処される方がそんな山尾如きで」
「私は刺客よりあの山県や大久保よりも庸三が怖い」
 その比較に出される人物にとてもとても笑えない伊藤は、それでも木戸の腕を離さず、
「窓から逃げ出すところをあの大久保などに見られたらなにを言われるやら」
「離せ、俊輔」
「ダメですよ。それに歯医者よりは怖くないでしょう」
 ピクリとなった木戸は、それこそ一番に恐怖を感じる歯医者と現在の「山尾」を比較にかけ、
「同じくらい怖い」
 と告げ、窓を開け、そこから飛び出そうとしたときに、扉が開かれた。
 ゾゾッと見るからに鳥肌が立つ木戸のもとに、
 これぞ足音を一切立たせぬ忍び足で近づく山尾は、まさに人としての気配は一切感じられない。
「木戸さぁん」
 仕事を離れたときの山尾は、語尾に独特な間延びがある。
 金縛りのように体が固まっている木戸を見て、伊藤は開かれた窓をパタンと閉めた。


 木戸がこの山尾を苦手とする理由は多々あるが、強いて言えば「薄気味悪さ」に悪寒が走るのだ。
 その薄気味悪さとその趣味が折り重なると、木戸の顔は蒼白となる。
 どうにか落ち着いてソファーに座らされた木戸は、目前で珈琲をまずはぺロリと舐めた山尾にゾクゾクと悪寒が駆けた。
「木戸さぁん~。どうして僕から逃げようとするんですかぁ」
 その間の抜けた発音に悪寒はおさまったが、木戸の全身には猫のような張り詰めた緊張感が漲っていた。
「……庸三と関るとろくでもないことはよく心得ている」
「たのしいでしょう」
「間違っても楽しいと思ったことはない」
「これから四谷いきませんかぁ」
「いかない」
 バン、とテーブルを叩いてしまった音に、木戸用に紅茶を入れなおしていた伊藤の肩が浮いた。
「じゃあ……」
「庸三と一緒にはどこにもいかない」
「なんでですかぁ」
 へらへらと変わらずの表情のまま笑っているこの山尾が、いざ仕事になると人が変わったように無表情となり、ビシッと決めるというのは人の目の錯覚ではないかと木戸は実に疑わしく思っていた。
 だが官吏となった山尾は百八十度自らを転換させ、間延びする言葉も引きこめる。
 簡潔な言葉で指示を出し、的確な物言いで人を納得させる。
 仕事中にかける英国式の眼鏡が人格を転換させるのではないかとまで噂になっていた。
「じゃあぁぁぁぁ伝馬町」
「庸三」
「いこういこう、木戸さん。いこう」
 手を引かれ、そのあまりの冷たさにゾッとしながら、そうだ伝馬町だ、と木戸は思い出した。
 練兵館塾頭時代にあった悲惨な出来事が脳裏に浮かび、悪寒を凌ぐ寒気が全身を覆った。


 山尾庸三は木戸よりも四歳年下で、長州藩出身の官吏である。
 かの高杉晋作の英国大使館焼き討ちに加わるなど強行な攘夷派でもあったが、一転して「英国密留学」に伊藤や井上たちと加わっている。
 その山尾も藩士時代は、練兵館で剣術の稽古に励んでいた。
 当時長州者はほとんど九段の練兵館に通っており、塾頭に立った木戸は後輩たちの世話に大忙しだった。
 その中でも山尾は、全く木戸の手を煩わせぬ真面目な男だったのだが、あの肝試しの日よりその評価は一転した。
 練兵館に寄宿している長州の人間たちがそろい、ある夏の暑い日、処刑場のある伝馬町に肝試しにいくことになった。
 これは毎年の儀式のようなもので、塾頭の木戸……当時の桂小五郎も黙認し自らも加わっていた。
 二人一組で処刑場の奥に入り、墓場を回って戻ってくるという経路だが、
 山尾と一緒になった桂は、順番は最期だった。
「行きましょう、桂さん」
 いつもはさして積極的になることはなく、どちらかというとぼんやりな山尾がその時に限っては活き活きとしていた。
 剣士の勘というものが「警戒」を強めたが、たかが肝試しだ。桂は山尾と並んで歩いていると、
「……庸三?」
 見知った道だというのに、なぜか始めて通る道のような感覚になる。
 傍らを見ると、山尾はにたぁと笑って真っ直ぐ前を歩いていた。
 途端に体中にしめる悪寒が強くなっていく。
 わずかに歩調が遅くなってきた桂の腕を引っ張り、山尾は早足で道をすすめる。
「面白いものが見れますよぅ、桂さん」
 間延びする声音にビクリとなり、ニタニタ笑う山尾に薄気味悪さを感じ、背筋にツーッと汗が走った。
 周りを見ればまさに怪談話でよく使われる「火の玉」が方々にようようと浮かんでいるではないか。
「よ……庸三」
「やはりぃかつらさぁんは相性がいい」
「な、なに?」
「人ならざるものとの相性ですよぅ」
 にたぁと口元に浮かばした笑みに、ゾゾッとなった桂は、その後、まさに山尾の言う「人ならざる物」を見ることになり、
 ついでに江戸の街を跋扈する「妖怪」にも出くわして、戻ったときには木戸は確実に寿命が縮み、
 さもさも楽しげな山尾の顔を見て、「この男には関らぬ方がいい」と心に誓ったのである。


 山尾とできるだけ視線を合わさぬようにしている木戸を見ながら、
 きっと昔に「ひどい目」にあったな、と伊藤は思った。
 そういう伊藤も英国留学中に、思い出すのもおぞましい震撼さむからしめる事柄に出くわしたことがある。
 アレは深夜、霧の倫敦の街中を歩いていたときだ。遠くにロンドン塔が見え、こんな夜遅くにおかしなことだが名所廻りをしている伊藤である。
 真昼間だと人が多すぎる。
 人に呼び止められようと、伊藤には日常会話程度の英語しか話すことはできない。野村や山尾が一緒ならば通訳をしてくれるが、 もし伊藤、井上聞多が二人で歩いている時に質問攻めにされたならば、この二人の英語能力ではひたすらかわすことしかできないだろう。
 そのため倫敦の名所めぐりは、人がいない夜に限る。
 下宿先のみなが寝静まったときに一人繰り出した伊藤だが、霧の中に不可思議なものを見ることになった。
「えっ……」
 伊藤は不可思議なものは現実的には信用しない。日本に伝わる妖怪や魑魅魍魎など「ふぅん」で終わらせる。
 その伊藤が出くわしたのはまさに日本風に言えば「百鬼夜行」である。
 透き通る存在が地に足などつかずに霧の中を歩いているのだ。
「あっ……あぁぁ」
 腰を抜かした伊藤は、その場から動けず、ビクビクと震えるしかなかった。
「伊藤、伏せろ」
 背後から叩きつけらたかのような声に、伊藤は金縛りが解けたかのように這って声の方に進む。
 声の主は昨今「悪霊払い」の本を熱心に読んでいる山尾だった。
 その後、まさに早口で紡がれる難解な英語を聞き取ることができない伊藤は、
 山尾の放つ呪文が、今、伊藤に忍び寄っていた「不可思議」なものを全て退散させた。
「倫敦の夜は魔の巣窟だ。命が欲しければ出るな。毛色の違うものは餌食となる」
 このときの出来事が、伊藤は生涯「恩義」として山尾に負わねばならない「借り」となった。
 だが伊藤は木戸のように「苦手」意識は、山尾には持たない。英国で共に苦労した仲間であり、官吏としては有能な山尾の能力は高く評価している。
「木戸さん、山尾の話も少しは聞いてあげてください」
「庸三の話など、肝試し場所や妖怪の噂あるところに私を連れ出すことくらいだ」
「そうとは限りませんよ。山尾はこう見えても官吏ですから」
 木戸はジッと山尾の顔を見て、肩の力を抜き、
「用件はなんだい、山尾君」
 普段の長州の首魁の姿を取り戻した木戸に、へらぁと笑った山尾は、
「肝試しにいきましょう~」
「伊藤君、山尾君を部屋の外にポイッと放り出したまえ」
 木戸の目尻はピクピクと動いている。


 その山尾、英国で「工業」について研究していたこともあり、民部より工部大丞に転じた。
 工部省の一室に座した山尾は、工部大輔となった伊藤にまさに仕事を丸投げされることになる。
「伊藤」
 眼鏡着用の官吏の山尾は、いったいあのにたぁとし百人一首読み上げの時のような口調はどこへいったのやら。
 まさに有能な官吏そのままの顔をして、伊藤が放りなげる仕事を片付けていく。
「僕の下には有能な部下がいてくれるから、なにも気にすることなく木戸さんの補佐ができるよ」
 たまには肩でももんでやろうか、という伊藤に、
「肩など凝ってはいない。ねぎらうつもりがあるなら頼みがある」
「僕にできることかい」
「ここに金魚鉢を置いてくれないか」
「おまえ、摩訶不思議なもの同様にまだ金魚に凝る癖は直っていないのか」
「僕は金魚の言葉が分かるんだ」
「何度も聞いているよ」
「その金魚が、伊藤は今日女難の相が出ていると予言していた」
「はいはい」
 山尾には「不思議なもの」を視る「趣味」以外にも、金魚という趣味があり、暇な日は一日中にたぁとした顔で金魚を見ているのだ。
 そして「金魚の言葉が分かる」と豪語している。
「それにここに金魚を置いたら、おまえの仕事の効率が下がると思うんだけど」
「僕は趣味と仕事を一緒くたにはしない」
「それはそうだ」
 考えておくよ、と伊藤は手を上げると、山尾は眼鏡の奥の目をいっそう厳しくした。
 あの「ゴースト~」と追いかける姿と官吏の姿はどうしてこうも違うのだろう。
「あっ、そこに火の玉」
 試しに伊藤が宙をさそうとも、
「今は仕事中だ」
 と一顧だにしない。いつもこの官吏の姿ならば、木戸のあの極度の苦手意識も薄らぐだろうに。
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WEB拍手一覧 031 「人物性格物語⑬山尾庸三」

WEB拍手 人物性格物語⑬山尾庸三

  • 【初出】 2007年07月01日
  • 【終了】 2007年07月09日
  • 【備考】 拍手第31弾・小説五区切りで御礼SSとしています。