かの日の写真―薫子編―

7章

 晩秋を迎えたころ、乾いた空っ風とともに尚高が館に帰って来た。
「お父さま」
 予定よりは早い帰宅となる。尚高いわく大病を患った娘が心配でならずに戻ったと口にしてはいるが、真実のところは知れない。
 昨今はドレスや着物よりも袴姿がお気に入りの悠子は、いちばんお気に入りの臙脂の袴と紅葉を散らした着物を着、軽く長羽織を羽織って尚高を出迎えに行った。
「悠子」
 駆けてくる娘を即座に抱き上げて、その頬にキスを落す。
「お父さま、お父さま」
 貴族、特に皇族に近い華族は父親を「おもうさま」母親を「おたあさま」と宮中風に呼ぶのが一般化しているが、薫子は母董子が武家の出であったため、そういう呼び名に慣れておらず、また高道からして「好きにしていいですよ」とのことで、宮中風に改めることなく、また伯爵家に嫁いできても野々宮の義父も尚高もこういうことには無関心、無頓着なため今に至っていたりする。
 いつか悠子も嫁ぐ日を迎えよう。この時代の華族の縁談など本人たちの思いのままになりはしないものではあるし、貿易業を営む野々宮家のことだ。万が一のことかもしれないが会社などが傾いたりした場合は、融資を条件に裕福な家に嫁がすことに迷いはないだろう。
 薫子には信じられないことだが、母董子も実家須城の身代を立て直すために侯爵家に嫁入りしたとのことだ。あまりにも二人の夫婦仲が良いために、そんな結婚秘話があったとは思いもしなかった。
 それよりも母が父に百夜通いをさせた話の方がよほど有名である。
「悠子さん。おもうさまとお呼びなさいと……」
「いやいや。お父さま。お母さま、この頃、おかしいの」
「ほんとうにおかしな薫子さんだね」
 そうしてにこにこと笑いながら屈んだ尚高は、薫子の頬に「ただいま」とキスをする。
 軽く触れるだけの……わずかに温かさを感じるだけだったというのに、一瞬だけ「イヤだ」と顔をそむけそうになる心を必死に耐えた。
「ほんとうにおかしいですね。なにかありましたか」
「いえ。悠子さんも伯爵家の令嬢としての教養をと思いまして」
「おかしなこと。薫子さんからして侯爵家の令嬢らしからぬところがたんとありましょうに」
「まぁ……尚さまは私がそのように型破りの令嬢だと思っておられましたの」
「えぇ」
 穏やかに即答した尚高は、薫子の頭もよしよしと撫ぜて、被っていた帽子を脱ぎステッキとともに渡してきた。
「昔から型破りのお嬢様だと思っていましたよ。今では立派なご夫人ですが、時々昔の顔を覗かせて冷や冷やさせられます」
「尚さま……」
「悠子。身体の調子は本当によろしいのかい。おまえが大病を患ったときいて、食も喉に通らなかったのだよ」
「このとおり元気デス。お父さま、会いたかった」
 ギュッと縋りつくように抱きついてくる娘を、可愛くてならないという表情をして尚高は抱きしめたまま二階にあがっていく。
「いっぱいお土産をもとめてきたよ。ほら、前にいっていたウサギさんの人形をね」
「お父さま、大好き」
「私も悠子が大好きなのだから」
 普段と変わらぬ日常が戻ってきたことに、今は安堵という二字しか薫子の頭には浮かばない。
 薫子は忘れられずにいる。わずかに触れた透の手のあたたかさを、端正な指の形。ギュッと握った力強さ。そして……数箇所にのぼるマメ。
 一度として手に負ったことがないマメというものは、異物のように見え、薫子は何度も自分の手を見返した。
 この手にそのようなものはない。この手は……そのマメをつくらずにきれいにきれいに扱われてきた……ただきれいに見せかけられている手。けれど華族の多くの女性は、薫子と同じ手を持っている。尚高の手も同じ……だ。
「薫子さんにはこれがお土産です。オルゴールというもので、流れる曲は異国の名曲。エリーゼのために、というそうですよ」
 渡されたのは小さなピアノの形をした木箱だった。
 そっと螺子をまわしてみると、きれいな旋律が流れ始める。
「まぁ」
 久々に薫子の顔に笑みがのぼった。
「そう、その顔が見たかったのですよ。子どものように好奇心に満ちたそのお顔ね」
 気に入りましたね、と微笑む尚高に、はい、と微笑んだ薫子は、
 心中でこう言い聞かしていた。
 ……これでよろしいのですね、薫子。こうして穏やかに、ただ過ぎ行く日を数えて生きていく。刺激もなく、今心にある「恋」を忘れて、伯爵夫人として日日を生きる。
 はじめからわかっていたことです。
 人妻たる自分に「恋」は無縁であること。今の私の義務であり役目は、ただ……ただ……尚高のためにも野々宮家の世継ぎを産むこと。
 それだけが伯爵家本妻の務め。
(なんて寂しいことなのですか……)
 オルゴールのやさしい調べも、どことなく寂しい。メロディーが悲しい。華族令嬢として当然の務めに楽しみを何一つ見出せない今の自分は、どこでなにを間違えてしまったというの。
「お母さま……お母さま」
 悠子が足元にギュッと抱きついてきた。
「どうしました、悠子さん」
「お母さま。どうしたのです? そんな悲しい顔をして、泣きそうな顔をして。せっかくお父さまが帰って来てくださったのに」
 もっと笑って。にこにこしてくれた方がお父さまも嬉しいはずだよ。
 娘の言葉がズシリと胸の奥に錘を落とした。そんなに悲しげな顔をしているのかしら。娘にも分かるほどに……自分は笑っているつもりなのに。
「ごめんなさい、悠子さん。嬉しいのですよ、お父さまが戻ってきてくださって。なのに母はにこにこと笑えなくてごめんなさい」
 他の人のことで心がいっぱいの母を許して。
 もう少しで心を納得させられるから。卑怯な言い訳「住むところが違う」という理由で納得させるから。
「薫子さん、体調でもお悪いのですか」
「えっ……えぇ……。いつも季節の変わり目は少しばかり体調を崩しますから。尚さまにもご不快に思われることがありましたらお許しくださいませ」
 頭を下げて、部屋を退出しようとする薫子の手を引き、尚高は怪訝な顔をして額に触れてきた。
「熱も少し高いようです。頬も赤くて……風邪のようですね。寝ていらっしゃい」
「はい」
「晩餐には出てこれますね」
「……はい」
「薫子さん」
「はい」
「なにかあったのですね。きちんとはなしてくださいね」
 いえるはずがないではないか。貴方の他に思う人がいます、と。その人に触れたことを悔やみつつも、喜んでいるこの心を。
「疲れているだけです。ゆっくりと休めば元に戻ります」
 顔を背けることで尚高の手から逃れ、薫子は早足で自室に戻った。


 晩餐はほとんど食が口につかず、早々に辞去した。心配した悠子と尚高が部屋を訪ねてきたが、やんわりと一人にして欲しい、ということを口にすると悠子は不承不承部屋に戻っていったが、ベッドに腰をかけたまま尚高は動こうとはしない。
「申し訳ありません、尚さま」
「なにに謝っているのですか」
「せっかくのお戻りだといいますのに、私、なにも……」
「それはよろしいのですよ。ただ……沈痛な顔をなさるので心配ではありますが。薫子、私の顔を見なさい」
 いつものやさしい口調ではなく「薫子」と呼び捨てにされたのに驚いて、ハッと顔をあげた。するとその頬に尚高の生暖かい手が添えられる。
「生気のない目をしています。まるで……意思を封じ込めようとしている……」
「尚さま」
 そして頬にキスを落とされ、唇にそれが続いた。
「なにが心労をかけておられるのかはっきりおっしゃってください」
 挑んでくるようなわずかに厳しい瞳に、薫子の目はつかまってしまった。
 なにか言わなければならない。当然のことだが心底など一握でも口にすることはできないのだ。薫子は逃げることにした。一番もっともらしい一言を口にして……逃げた。
「お世継ぎを……いまだに懐妊の兆しもなく……申し訳ありません」
 嘘を口にしている心の痛みが涙となって流れ、それが言葉に真実味をもくわえた。
「それで私の顔を見れないのですか。……私も出かける前にあなたを責めてしまいましたが……申し訳ない。世継ぎはゆっくりでいいですよ。あなたに嫌われたのではないかと思って本気で慌ててしまいました」
 大丈夫ですから、ともう一度触れてきた口付けは濃厚さを求められた。避けたい気持ちを無理やり押し付け、感情を封じるために尚高に抱きつき、薫子からより深い口付けを求める形をつくった。
「かわいい薫子さん」
 絡み合う舌にくわえ、唇を甘く噛む尚高のキスはいつも丁寧でやさしく……酔いしれる。
 お願いよ……私にやさしくしないで。この罪深い私をこれ以上苦しめないで。
 それすらも許されないというならば尚さま。どうか私の心を縛って、あなたにだけ向けさせるようにしてください。
 私は苦しい。あなたと平穏な時を生きていくのが当然だというのに、
 この心は「恋」を望み、大勢の人を傷つけ困らせることを……本当は望んでやまない。
 あの方に触れたい。あの方とこうして……キスを……。
 人妻にあってはならない不埒な心。
 尚高に透の面差しを重ね、貪るような口付けを求める。それに気を良くしたのか角度を変え、さらに息をつくことを忘れさせる口付けを施す尚高は、
 ようやくのこと離れたかと思うと、名残惜しげに立ち上がった。
「閨のことは薫子さんの体調がよろしい時にしましょう」
 透はどのようなキスをするのだろうか。
 どのように女性をその腕に抱くのだろうか。
 着物を着ている時に首筋のうなじが見えて、官能なにおいを薫子に伝える。
 触れたい。透と許されはしないとわかっているのに愛し合いたい、と。
 透はおそらく自分になんの感情も抱いてはいないだろう。身勝手な片恋を薫子が一方的に抱いているにすぎない「恋」だからこそ、夢想して自らを慰める幻想を期待するしかない。
 もしも透がこたえてくれるならば……と。
 ありはしない現実離れした思いに浸るしか、今のこの感情を封じる手はどこにもない。
 ……尚高の妻である私。書生の透。その手が物語るように生きる場所が違えども、
 好きになってしまった。
 あってはならぬ感情を抱いてしまった。
「…………」
 透さま……と声にはならない言の葉を口にする。ただ唇が動いただけではあるけれど、それが薫子の精一杯の思いだった。


 翌日、薫子はできるだけ元気な顔をして悠子と外を散歩した。この子に辛い思いをさせてはならない。尚高も散歩に付き合ってくれ、三人でゆっくりと歩いた。
 今日は小春日和で清清しい日差しが身体を温めてくれる。
 行き会う人たちに「お仲がよろしいことで」と挨拶がされる。「二人目もそろそろですね」といわれた時には薫子の表情が明らかに曇ったが、尚高が小さな声で「気にしないでよろしいですよ」と囁いてくれた。
 こういう時、尚高はやさしい人だ、と嬉しくなるというのに、
 どうしてか恋情や愛情の熱は冷めてしまったのか、心にはなにもときめきが生まれはしない。尚高に対する思いは恋や愛というよりも「家族」というものにおさまったということかもしれない。
「お父さま。お母さま」
 悠子は嬉しげにはしゃいで、薫子や尚高の周りを駆け回っている。
「薫子さん。そういえば、悠子は徳山君に懐いていたと思うけど」
「……えっ……そういえば。ブランコをつくっていただいたりしましたから」
「寂しがるかな。徳山君の器量を見込んでとある実業家が、ぜひとも手伝いをして欲しい、とせがんできたよ。徳山君には昨日話したけど、二つ返事で喜んでくれた。近日中に館を出て行く」
「……然様ですか」
 心の動揺を表情に出してはならない。声にも出してはいけない。できるだけ平然となにも気付かれないように。
「寂しくなりますね」
「なに、また新たな書生がきますよ。あなたが悲しむことはないのです」
「はい」
 慰めるかのように肩を抱かれて、心の動揺を隠すためにもその手に甘えてしまった。
 本当は歩くのも忘れてしまうほどの動揺で、息も苦しくなるというのに、人とは時に平然を演じることができるのだ。
 ……透さまがいなくなってしまう。
 もう顔を会わすこともできないかもしれない。二度とあの穏やかな瞳に見つめられることも……ない。
 涙は流れはしなかった。鼓動が早まるだけだ。崩れそうな身体だが尚高に支えられているので、歩調も変わらずに歩いていける。
「私も三日後、また出張になります」
 薫子は尚高を見上げる。感情が爆発しそうで涙は出なくとも表情には出てしまった。
「そんな悲しい顔をしないで下さい。ほんとうにかわいいデスね、薫子さん」
 自分が出かけるのを悲しんでくれると思ってくれた尚高に抱きしめられ、その胸の中に顔を埋めてみる。
「お父さまとお母さま、とっても仲良し」
 悠子のはしゃいだ声は高々と響く。
 浅ましく卑怯だと思っても、今は誰かにこの身体を支えて欲しいとおもった。
「尚さま……ごめんなさい」
 動揺と悲しみと混乱の中でも、ひとつだけはっきりしていることがある。
 これで私は選ばなくてもいい。
 このままこの館で平凡に日日を送っていけばいい。
 この片恋もいずれは消えて、穏やかな日に飲み込まれていくかもしれない。はじめからそれが決められた運命なのだから。
 私は尚高の妻。悠子の母。野々宮伯爵家の本妻。
 当たり前のことが胸が痛い。
「いいのですよ。気分が悪くなったようですね。館に戻って休みましょう」


 無碍な日日がはじまった。ただ窓を見つめるばかりで、ため息が多くなった薫子を、心労だと尚高は察し、部屋の中での療養を命じた。
 今度は神戸に出かれるとのことで、見送りにだけは出たが、それ以降悠子も部屋に近づけることはなく一人部屋の中にこもるばかりだ。
 誰の顔も見たくはなかった。一人にして欲しくて、ただ一人でこの思いを心のどこかで封じ込めよう、としていた。
 会いたくても、大手を振って会うことはできない。
 この思いのことを透は知らずにいるのだ。一方的な片恋を押し付けられ透こそ迷惑だろう。
 終わりを知った恋ならば、このまま終わってしまえばいい。しばらくは胸が痛くとも、いつかは思い出に変えられるだろう。
 母董子がアルバムの中で一枚の写真を大切にしていることを薫子は知っている。たった一枚だけ泣きそうな顔で映されたその写真は、母の恋の名残なのかもしれない。
 私も恋の名残があれば忘れられるだろうか。
 この恋を生涯宝物にして、生きていけるだろうか。
「透さま……」
 眠れぬ夜が続いた。目に見えてやつれてきている薫子を使用人たちは心配して、滋養のあるものを食事にとるよう勧められるが、薫子はなにも食べたくはない。喉に食べ物が通らないのだ。
 せめて紅茶一杯だけでも、と嘆願され、言われるままに口にし、そして早めにベッドに入った。
 夕暮れ前にひっそりと部屋を訪ねてきた悠子が、また悲しい顔をして「はやくよくなってください」といって部屋を出て行った。頭を撫ぜてあげればよかったと思う。抱きしめてよくなる、といってあげればよかった。ダメな母親……と自分に嫌悪感が走る。
 数日間眠れなかったためその日は睡魔が襲ってきて、そのまま夢も見ずに眠れた。
 そのため薫子の名を呼ぶ声に、それはついに訪れた夢の瞬間かと薫子は思った。
「薫子さま」
 目を開ければ月光の薄暗さの中でも分かる秀麗な顔があった。
「透さま……」
「明日は館をたちます……。どうしても今夜、薫子さまにお会いしたかった」
 あぁやはり夢なのね、と薫子はおかしくなった。
 恋しくて恋しくて、ただお顔を見たくて、声が聞きたくて。その思いがこうして「夢」になって現れた。
「透さま……お会いしたかった」
 夢ならば禁じられた言葉を言うことが許される。
「とてもお会いしたかった」
「……薫子さま」
 右手が差し伸べられ、あのマメができた手を躊躇わずに薫子は握ってしまう。あたたかな手だ。自分の手よりも大きく逞しく、包み込んで握り締める。
 その手が薫子の顔に触れる。目と目が重なり、どちらからともなく微笑んだ。
 夢のようだ。こうして二人で向き合って手と手を重ねて。
 頬にあたる手はやさしくて、透は頬を染めながら、その手は唇に触れ、止まった。
「薫子さま」
 ゆっくりと自然と透の顔が近づいてくる。息が顔にかかり、薫子はこちらも自然と目を閉じてしまった。
 重なりあうのは唇とくちびる。その温度だけ。わずかに触れ合うだけで、温かさを残して去っていく唇が恋しくて。
 もっと触れて欲しい。離れたくはない。このまま時よ止まれ、と本気で思ってしまった。
「お慕い申し上げておりました、薫子さま」
 小さな告白に胸がドキリと鳴る。何度も幻聴かと思い首を左右に振り、透の顔を上目遣いで見上げると、
「はじめてお顔をあわせましたあの日から。許されぬと知りながらも……」
「許されぬと私も知って……ずっとわかって……」
 それでも思いは留まることは知らなかった。
 両腕により身体を抱きしめられる心地よさ。胸の中はあの書物の如し匂いがして新たな発見が嬉しく、ギュッとされると体と体が触れ合っていることが知れてさらにうれしく、涙がこぼれた。
「私も……片恋と知りながらも……」
「薫子さま」
 ベッドに身体が落とされていくのを遠い意識の中で悟っていた。
 透の鼓動。透の熱。透のすべてを知りたくて、愛しくて。
 透の胸下に組み敷かれながら、しあわせ、と陶酔感に酔いしれそうになり、
 ハッとした。
「だめです」
 胸を押しのけ、一人天蓋付きのベッドの端により身体がガタガタと震えた。
「私は尚高の妻。だめです」
「毎日のように僕に視線を向けて、僕が振り向くとそっと視線をそらした。ずっと薫子さまのお気持ち……僕は知っていたつもりです」
「私は……」
「それでも……。あなたは僕が見たところまったくしあわせそうではないのに」
「……私は……」
 ほんとうは今にも手を差し伸ばして、抱きしめたいというのに、この手は動かず震えるばかりだ。
「僕はあなたが好きです」
「……それは……あの……」
「ただそれだけを言いたかった。それだけで良かった」
 失礼します、と背を翻した透の背に反射的に右手をそえてしまった。
「透さま」
 泣きそうな悲鳴がもれた。もう一度お顔が見たい、と衣を握り締めて、透は立ち止まったまま振り向かず、遠ざかっていく。
 手が自然とはなれていくのを見て、訳もなく叫んでしまった。「あぁぁぁぁ」と涙がこぼれた。
 好きだ、とどうして一言いえなかったのか。恋して、恋して。苦しくて、それでもせつなくて。
 わずかな期間でも、わずかな時でも、本気で思った恋を……。
「…………」
 透はなにも答えずにそのまま足を忍ばせて去っていった。
 微かに響く足音を聞きつつ、
 胸が引き裂かれると思った瞬間、頭の中すべてが真っ白となっていく時も笑って笑って……泣いた。
 拒否したのは、生きる場所の違いだったのだろうか。
 それとも、現状の「保存」を望む無意識の心が現れたのか。
 分からない……なにも分からない。
 恋の名残に落としたのは、この唇に残る、忘れられぬ温度だけ。


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かの日の写真―薫子編-7

かの日の写真―薫子編― 7

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月17日(月)
  • 【備考】―登場人物紹介