12章
それは麹町にある一角、その周囲のみ和を排除したとしか思えぬ、まるで異国にあるかのような情緒ゆかしい英国公使館。
赤レンガ際立つ洋館を取り巻く衛士の夥しい殺気ばった外周を無視するかのように、館よりは優美なバイオリンの調が流れる。
その公使館の門前には、場違いの人間が二人、衛士に時折睨まれながらも階段に座り込みを続けていた。
「あぁぁぁ、一応俺は外務省一等書記官なんだけどさ」
青木周蔵は膝に両肘を立て、掌に頬を埋めている。見るからにつまらなげな風情だ。
「それを言うならばこの俺様も似たり寄ったりだ」
「傲慢不遜な福地源一郎君。間違いないでくれたまえ。君は現在無職。俺は一等書記官」
「つい数ヶ月前まではこの俺も似たり寄ったりの職にいたんだ。しかもあの岩倉使節団の洋行の際は一等書記官だったさ」
少しばかり向きになってぐわぁぁと青木をにらみつけたのは、福地源一郎である。
青木はまさにうだつのあがらぬ書生風な服装をしているのに反し、背広をこれでもかと着崩しネクタイもしてはいない福地は、まぁそれも様になるが、とても公使館に合う正装とはいえなかった。
青木は傍らに立つ福地を見上げるように下から上まで凝視し、
「その一等書記官さまも今では無職。世の中は無情というやつだね」
わざとらしくため息というおまけまでつけてみせた。
「なんだ、もう一度言ってみろ、チビガキ」
「自称天才の福地君。世の中は君という傲慢不遜な人間を使うほど甘くは無いということをいっているのだよ」
「なにを言うか。この俺は認めた人間以外は誰であろうと遣えるつもりはない。……青木周蔵、俺様が新聞記者になったならばおまえだけはぜったい取り上げてやらん」
「やっぱりうだつのあがらぬ新聞記者には、俺みたいな崇高な人間は取り上げられないって奴だよね」
「おまえがどれだけ上になろうと徹底して無視だ。ざまぁみろ」
「あぁあ、まるで子供みたいでいやになるよ」
「おまえがいうか、このチビガキが」
と、福地は青木の首を少しばかり力を込めて絞め始めた。
「し……死ぬ」
「これくらいで人間死ぬかよ、阿呆」
「ご……傲慢不遜な福地君。君が新聞の記事になるのは、もしかしたら人殺しかもね。お似合いだよ」
「おまえを殺したときか、チビガキ。ならおまえはその記事は見れないな」
わずかに殺気を込めた両者がにらみ合いを始めたとき、それはほんのわずかに聞こえた小枝を踏む足音。
「……福地君」
衛士はほとんど決められた場所を動かない。見回りのものはいるが、その研ぎ澄まされた神経により小枝を踏むことはまずはない。
まして踏んだとしても、今の音は軍靴のものではなく、草履が枝を踏むときに鳴らすものだ。
青木に小さく頷いた福地は、両者とも同じ方向に目を向けた。
それは警戒厳重な、外庭が面している裏手だ。
「だから俺は正々堂々面前から乗り込んでくるなんてありえないっていったんだよ」
「馬鹿言うな。こんな裏手という常識的襲撃などありえないといったのはおまえだろうが、チビガキ」
走りながらも口で言い合うこの二人。全くといって緊迫感の欠片すらない。
耳には小さな音が聞こえる。ドサッと何かが草むらに倒れる音や、人がズルズルと引きづられていくその音。
嫌な予感というものではない。この時ほど二人とも想像が当たって欲しくは無いと願った。
「……福地君」
裏手に差し掛かったその時、
「あぁ」
すでに警備兵のほとんどは気絶させられているか、全身縛られ拘束されていた。
ざっとこの裏手だけでも五十人はいるだろうに、何一つ悲鳴も援護を呼ぶ声すらも聞こえなかった。
「……うん?」
辺りに香る匂いに気付いたのは福地である。
「自称天才の福地君。なにか思い当たることがあるならば、さぁ今すぐいいたまえ」
「ざけんな、チビガキ。おまえこそ傲慢不遜な人を見下す奴だろうが」
くわぁと強面をして後、福地はくんくんと周囲のにおいをたどり、おいおい、とその場に座した。
「まるで犬のように鼻のよい福地君。これはなんだね」
「チビガキ。おまえは拭いを持ってきているか。今、この場でおねんねをしたくなければ鼻を塞いでおけ」
「なんだね、それは」
「睡眠香。異国では人を心地よく眠らせるために使用される麻薬の一種だ。免疫がなければ、すぐに睡魔に負ける」
「……ふふふ……俺はなんともないよ。ほら、こんな風に吸っても」
「阿呆」
「……吸っても……なんとも……おかしいな眠い……ふくちくん……ねむくないのかね」
「俺は免疫がある。だが少し休んで体に馴染ませないとな。香りに負けるんだよ」
「………ねむいよ」
「一度すったら数分後には眠くなるものだ。心配するな。副作用はない。ゆっくりおねんねしていな、チビガキ」
その場にバタリと倒れ、何かむにゃむにゃ言いながら心地よさげに眠った青木をチッと舌うちし、
ゆっくりと深呼吸をしつつスッと立ち上がった福地は、あたりの惨憺なる有様に吐息を一つ落とす。
「こんなもの中で巻かれたらな。それこそ……天誅どころの騒ぎじゃないぞ」
予告状を送りつけてくるなら、正々堂々ときやがれ。麻薬など冗談ではない。
「やばい。木戸さん……」
だが思うように足は動かない。叫ぼうとも声が掠れたものしか響かない。
「敵襲だ」
無残に落ちていた銃刀を杖代わりにし、もはや警護の兵とてない裏口より福地は館内に入った。
「敵襲だ。気をつけろ」
精一杯の大声で叫ぼうとも、それはバイオリンの調べにかき消される。
「私と踊っていただけませんか、山県陸軍卿」
木戸のその一声に、館内で優美にワルツを踊るものは一斉に踊りを止めた。
作法に則った申し込みの礼を尽くした木戸に、さすがの山県も頭が真っ白になったかのように微動だにしない。
瞬き数十度の後に、ようやく搾り出したのはこの言葉だ。
「何の冗談か」
木戸という人間はこのような場で冗談など口が裂けてもいう人間ではないことは百も承知だ。
あの長州時代より付かず離れずであった。木戸の性格も山県はよく知りぬいている。そうでなければ過保護に世話などできるものではない。
そこまで分かりきろうとも、この現実を受け入れられはしないのだ。
「私は正式に申し込んでいるのだよ」
顔をあげた木戸は、優雅な微笑を口に滲ませる。
「古今東西、私も西洋は少しばかり回ったが、男が男と円舞を踊るとは耳にしたことは無い」
「踊ってはいけない、という法律でもあったかい」
「……それはない」
「なら良いのではないかい」
周囲の目は好奇心と侮蔑に包まれ、この前代未聞の申し入れを山県がどう受け止めるかを固唾を呑んで見守っている。
いやな目だ。一つの余興を楽しむかのような目は、山県は好かない。
「……それならば……致し方ない」
申し入れたのは長州の麗しき貴公子。誰もが認める「首魁」たる木戸孝允。
白の燕尾服が清楚さと優しさを十分にかもし出し、なおかつ木戸の黒曜の瞳とふわりとした黒髪を引き立たせる。
「無作法だが……一曲お相手を願います」
「ありがとう」
差し出された手にそっと山県は手をあて、中央に進み出た途端に音楽が鳴り響く。
「狂介はワルツはどこで覚えたのだい」
「露西亜で。このようなものを覚えるくらいならば、異国の言葉を取得した方がまだ有意義と思ったほどだ」
「らしいね」
バイオリンの格式ある調が体を包み込む。
力強い山県のリードに、木戸は少しばかりきょとんとし、
流れるかのような動きに満面の笑みを称えた。
麗しき旋律に自然と足が動き、ワルツの調べに乗り、輪を描くように軽軽と体が踊りだす。
それは白と黒の一対の流麗なる円舞。
木戸にあわせるかのように山県は動き支える。手と手を取り、促されるように颯爽と軽軽と舞うかのようにステップを刻む。
もともと神道無念流を究めた木戸である。練兵館の剣術は舞のように隙がなく、舞の如し美しさと、一瞬に繰り出される力強い一撃が定評であった。
力の斉藤と呼ばれた練兵館の塾頭であった木戸。
扇を持たせば軽やかに舞を演じるように、円舞も玄人のような踊りを披露する。
対する山県は一つ一つの動きに重みと謹厳さがある。
軽軽とヒラヒラと舞い踊る蝶を一瞬にして繋ぎとめる力強さと、音楽にあわせて踊りきる天性ともいえる動きはこちらも槍術の免許皆伝といえる腕前から現れるのだろう。
同性が踊っているというのに違和感なく、
いつしか人々は自らが踊るのを止め、つい見惚れてしまう美しさと強さが中央にはあった。
「身分あるご婦人方、どうぞ踊りなさいよ。その生まれながらにしてある身分なら、あの二人よりきれいに踊れるでしょ? 美しく着飾って美しくあるために生きてきたそんなご身分なんだからさ」
山田はツツッと先ほど山県を侮蔑した婦人たちに、にっこりと笑って毒を吐いてやった。
自分たちと同じくらいの背丈の山田を冷たく睨みすえ、臍をかくような顔をして退散していく女たちにふんっと鼻を鳴らす。
「うまいな、あの二人」
ぼんやりと中央で成り行きを見ていた井上が、近くの牛乳を手にし、山田の方によってきた。
「さまになっている。俺様は半年ほど英国にいたが全然全く駄目だった」
「井上さんじゃあさまにならないよ。仮想舞踏会がお似合い。どう? 悪代官が、越後屋か。そちも悪よのうって」
「市!」
「でもまんざらでもないじゃない」
「そうだな……小判を手に越後屋もわるかないぞ」
ククッと笑い、牛乳を山田に渡す。その目は一曲踊りきるらしい中央の二人にそそがれたままだ。
「桂さんは月、山県は闇。闇は月をいっそう美しく冴え冴えと輝かせ、また月は闇のさらなる深さを醸しだす」
「なに? 詩吟? 井上さんらしくないよ」
「たんに思っただけだ。あの二人を見ているとどうも艶やかな夜という言葉を思い出してな。いけないな。これは男女の睦言だろうに」
「ふーん。でもガタがあんなに踊れるとは思えなかった。そこらの家に家庭教師を雇って円舞を習っている上流階級のお公家さんよりも、全然うまい」
「運動神経の賜物だろう。俺様はどうも駄目だな。ヒラヒラとした舞。決められたステップ。寒気が出る」
「なにこれ」
遅れて現れた伊藤博文が、場の光景に絶句しつつ、ふらふらと歩いてきた。
「見ての通りだ、俊輔。ちょっとした座興さ」
「木戸さんがさ。山県を小馬鹿にするご婦人方の発言に少しばかり怒っちゃって。円舞の一つも踊れないとか言われていたからさ……」
「山県が踊れない訳ないじゃない。あの、人に弱味を握られたり小ばかにされるのが大キライな奴が。きっといつか踊らねばならないのだから、陰で人にぐうの音も出されないほど完璧に習得しているに決まっている」
伊藤は天敵ともいえる山県のことは、よくよく承知しているようだ。
「たが俊輔。ご婦人の機嫌を取り、踊り明かしているおまえより、全く舞踏会に出ん山県の方が踊れるぞ」
「……聞多。嫌味はいいから。僕の円舞なんてさまになっていないし。でも……妬けるね、木戸さんと踊れるなんて」
「次は僕が踊ってもらおう。伊藤さん、ガタと踊ったら」
「その寒気がする発想、やめてくれないかな、市」
にたにたと笑いつつ、山田は牛乳をごくごくと飲み干し、
「よしもうすぐ終わる。僕、木戸さんと踊る」
山田が駆け出そうとする前に、それこそ見事に周囲で茫然としていた人々が動き出した。ある者は木戸に一曲申し込み、ある女性は赤面をしつつ山県に円舞を申し込む。
「うわぁぁぁ……僕を通せ。僕は木戸さんと踊るんだ」
背の高い連中や、分厚いドレスで幅を取りヒールで明らかに山田より背の高い女性の人垣を押しのけることができず、必死にもがく山田の有様は哀れみを誘う。
「聞多。この緊張感のなさは何? 嵐の前の静けさって感じでもない。外には暇そうな福地と青木もいたけど……同じように緊迫感なし」
「さっきまでな。山県がだいぶ緊迫していたけどな、この踊りで飛んだな。いいじゃないか、俊輔。来るかこぬか知れぬ襲撃に備えて緊迫するよりも、こういった座興の方がよ。ほら見ろよ、桂さん。少し楽しそうだ」
ここ数日、無理をして笑っていた木戸を知っている分、井上にしてみれば今の円舞を申し込まれて苦笑いしている木戸の方が安心する。
女性からも男性からも誘われ、木戸はかなり困った顔で山県を見、山県といえば人込みに押しつぶされぬように木戸を支えている。
だがそこへコツコツと重い靴音を立て、今まで黙視していた大久保が動くと、ほとんど人間が道を開くのだ。
「なっなに。この僕との扱いの違いは」
山田はその場で地団駄を踏み始めたので、お子様山田の保護者たる井上がその体をひょいと抑えた。
「まぁ見ていな、市。どちらに転んでも座興が見れるぞ」
井上がクッとさも楽しげな笑いを漏らす。
「木戸公」
大久保は低き声音でそう呼んだ。
「長州の首魁殿。一曲、お相手を願えませんか」
またしてもその場は凍りついたかのように静寂を刻み、人の目は「長州の首魁」が「薩摩の長」に何と返事をするか好奇心で満ち溢れる。
廟堂では「冷え切った夫婦」といわれる二人だ。互いに政治の路線は今は同じにし、薩長の宥和を強調するように足並みはそろえているが、ことの根本は長州と薩摩の代表。この二藩の仲の悪さはそれこそ関ヶ原の合戦に遡るほどに折り紙つきである。
木戸は一息を置き、ちらりと背後にある山県の顔を見て、おもむろに優しげな微笑を刻んだ。
「お断りさせていただきます」
一歩、大久保に向けて歩を刻む。
「これは私と山県の座興。長州の仲間のお遊びです。大久保さんを巻き込むなどとても恐れ多い」
「おや、仲間はずれにいたしますか」
「座興は座興のまま。私と大久保さんが踊ったら座興ではなく、駆け引きになりますよ」
最期はにっこりとその場の人間全員に向けて笑顔を見せ、大久保を見事に煙に巻くのに成功したのだが、
「それでも踊っていただきたいのですがね、私の木戸さん」
「佐賀の戦の埃を落としてからおっしゃりなさい、大久保内務卿」
場は好奇より緊迫の糸の上に乗った風情に様変わりする。
廟堂の薩長の長たる二人の冷え切った風にあてられ、一人また一人と後ろに下がる中、
「木戸さん、僕と踊ってよ。僕ならいいじゃない」
井上に押さえ込まれていた山田の発言が、見事なまでに緊迫の糸を消し去った。
「いいよ、市。喜んで」
「わぁい」
ふふん、と大久保を横目で見据えて、はしゃいだ風に木戸に寄る山田だ。
前々よりこの山田を、どことなく憎憎しげに見ている大久保としては、ますます「可愛さあまって憎さ百倍」の存在になりつつある。木戸がいちばんに可愛がっているといわれる山田が、薩摩の頭目は面白くないのだ。
「あの木戸さん。次は僕と踊ってくださいますか」
場に乗じて申し込んだ伊藤に、柔らかく笑んで頷いた木戸。
「じゃあ僕の次は聞多かな」
「冗談じゃない。誰がヒラヒラ舞っていられるかよ。それよりもな、おまえら……そろそろ思い出せよ。今日はな……」
大変な日じゃないか。
その言葉はその場の大扉が乱暴に開かれた音にかき消される。
銃刀を杖代わりにし、まさに服装などはボロボロとなり館内の警備兵を振り切って駆け込んできた福地が、叫ぶ。
「上だ。上から来るぞ」
刹那だった。
公使館演舞場の二階のバルコニーよりガラス扉を乱暴に割り砕き、姿を現したのは顔を頭巾で覆った十数人もの男だった。
同時に灯篭の灯りも蝋燭の灯りも全て、突然の外よりの強風によりかき消され、あたりは闇に包まれる。
女性のかなきり声が響き、ザワッとした喧騒の中、
二階には、身の丈六尺半はあるだろう巨大な力士顔負けの男。際立つはその肩もとに、一人の男が抱えられていることだ。
一見華奢な体格に見えるその男が、白の頭巾を外した。
この闇夜を明るく染める金色の髪が、ふわりと周囲の人に艶やかに映し出される。
「………」
闇夜を染める……金粉が散りばめられたかのようなその髪。
木戸が懐より短刀を取り出し、だが同時に胸元の守り袋をギュッと握り締める。
万感の思いを込めて、その人に向け、その名を告げた。
「……蝶次」
闇夜を彩る金色の蝶は、今、その目を木戸孝允に向ける。
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松菊探偵事務所―事件ファイル2― 12
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