松菊探偵事務所―事件ファイル2―

22章

 勝安芳。号の海舟の名で世に名高い幕末三舟の一人であり、江戸城無血開城の立役者として、江戸の人々からは「恩人」として敬われている。その一方で幕府に引導を渡した張本人とも言われ、明治も七年が経過した今でも、かつての仲間である旧幕臣に命を狙われていた。
 その勝だが、現在は新政府で参議兼海軍卿の立場にある。
「おぉぃ桂さんよ、俺様は疲れた」
 大手町の内務省から馬場先門内の廟堂までの距離は近いが、勝に会うためにここから築地の海軍省に行くとなるとはっきりと言って徒歩では一時以上かかる。
 参議を兼ねているので勝は廟堂にいることもあるのだが、本日は姿が見えず、廟堂で捕まえた大輔の川村純義によれば「さぁ、どこにいますかね」ということだった。海軍省の堅苦しさが性にあわないのか、自らの印を川村に渡して、本人は出仕しない日日も多いという話も聞いている。
「ここから築地や赤坂にいって空振りだったらどうするんじゃ。今日はとりあえず事務所に帰った方がいいんじゃねぇのか」
 木戸は馬車を捕まえて勝の邸宅がある赤坂に向かおうと思ったが、さすがに井上の言う通り本日は歩きつかれた。
「源一郎たちが戻っているかもしれないしね」
 その言葉に井上がホッと肩の力を抜くのが分かった。朝から連れ回しているので、相当に疲労困憊のようだ。
(今日中に済ませてしまいたかった)
 なにせ木戸の苦手中の苦手ともいえる人物なのだ、勝は。
 出会いはもはや遠き昔。木戸が桂と名乗り剣術を学ぶためお江戸の練兵館に門下生として住み込んでいたころだから、二十歳のころだ。そもそも勝に関しては第一印象からして最悪だった。
 ……年はざっと幅をきかせて十五か。
 怒り心頭に発し思わず酒を勝にぶっかけてしまった・・・そんな出会いだった。
 それ以降、なにかと連れ回されからかわれ、ついには勝の弟子の坂本竜馬を間に挟んで、そう一時は勝のもとに足しげく通う羽目になった。
 あのころの自分は必死に背伸びをしようとしていたと思う。長州藩の中では医者の倅が馬廻となったことを嗤われぬように、誰よりも強く武士らしくと肩ひじ張って生きていた。
 そんな自分が勝の傍では自然体で立ちまわることができたのだ。気を遣うこともなく、喜怒哀楽を隠すこともなく、時には子どものようにはしゃいで、遊んで。
 いちばんに人生を謳歌していたころの自分を勝は知っている。
 長州藩の若き志士たちの指導者という立場になったころ、幕臣の勝との関係は微妙になった。偶然、かち合ったとき、勝はなにひとつ変わらぬ顔で「おぅ、桂」と肩を叩いたが、そのとき、自分はいったいどんな顔をしていたのか。
(明日になると、きっと赤坂に赴く足が鈍るに違いない)
 今の今まで思いっきり敬遠していた相手のため、対面するとなると、木戸もかなり緊張する。
「そこらで饅頭でも買って行くか。あの甘党二人にはお駄賃も必要だろうしよ」
「それでは本当に子ども扱いだよ」
 苦く笑い、木戸は井上と並んで飯田橋に向けて歩き始めた。
「・・・けどよ、桂さん。アンタも政の中枢にいた男だ。その・・・聞いたことはないのかよ。七不思議とか」
「まったく。私はその手のことは興味がないからね」
「アンタは確かに現実主義者だけどよ。面白い話には好奇心の虫となるところがあるだろう。・・・この手の話も耳にすれば虫がうずくと思うぞ」
 考えてみれば、この手の話題は木戸の好奇心をそそる話ではある。
「参議に就任はしたけど、すぐに使節団として二年ほど、留守にしていたからね。その手の話題を耳にする時間がなかったのかな」
「だとすればよ。大久保も同じじゃないのか。あんたと一緒に使節団に出かけたんだからよ。それに……この手の話題をあの男が食いつくか」
「食いつくよ」
 井上の顔を見て、木戸はにこりと笑った。
「使えるものならば赤子でも使う。そして生まれてくる子どもが邪魔ならば、生まれる前に殺す。大久保とはそういう人だから」
「おぅこえぇ」
 身震いという仕草をわざとらしくして見せて、井上はくくっと喉を鳴らし、
「俊輔でも同じことをするだろうと思ってな」
「………そうだね。俊輔は政治家としては大久保さんに近いところが確かにあるよ」
「おいおい間違ってくれるな。俊輔が大久保と同じことをするときは、それは絶対にあんたのためだぞ、桂さんよ」
 それは困ったと苦笑が漏れるのを井上は見逃さず、ニッと笑って袖を引く。前方を指さしながら、
「あそこの饅頭はなかなかなんだ」
 相変わらず話を移すのが上手な男だ。木戸は笑って、井上に引っ張られるままに和菓子所の暖簾を潜った。


 三田の慶応義塾では、福地が拳を握りしめ我慢の限界に挑んでいた。
「七不思議というかなんて言うか伝説というか噂っていうか」
「そうそう。伝説なんだよね。それも極めて確率が低いっていうか」
「誰も見たことがないので、なんとも言えません」
 学生たちはまったく「闇の始末人」について興味関心がないという素振りであり、これでは天下の福澤がわざわざ依頼してきた理由が福地には皆目見当が付かなくなった。
 そのことについてニコニコ顔で青木が学生たちに問いただすと、
「福澤先生。分からないことがほとんどないんですよ」
「だから一度でもわからないってことを素直に認めてほしかったんです」
「あの元禄の世の新井白石は、知らないことがあると全身羞恥のあまり汗だくになったと言うから、福澤先生もそうなのかなって」
 これにはさすがの青木の人畜無害な童顔ニコニコ顔も、わずかに引きつり、
「つまりは君たちは、福澤先生に知らないってことを言わせたくて闇の始末人なんていう伝説を議題に出したってこと?」
 と、さっさと結論を迫る。
「そうです」
 全員がこっくりと頷いたとき、福地の我慢は限界に達した。
「おまえら。それでもこの慶応義塾の学生か。そんなことで師をからかうなど恥ずかしいと思わんのか」
 どうやら学生たちの単なる「遊び」に振りまわされているだけのようで、福地のイライラが爆発した。
「しかもその遊びの検証にこの福地源一郎が付きあわされる羽目になったんだぞ。そんな伝説なんか本所七不思議と同じ程度のことだろうが」
「本所七不思議の方がまだまだ知名度が高いですよ」
 ある学生は目をきらびかせて言った。
「本所七不思議はなんとなく肝試しができて有意義だけど、闇の始末人なんて伝説。なんの役にもたたないと思いませんか」
「役に立たないことを師匠に疑問として提示するな」
 机をバンと叩きつけ、福地は大きなため息をついた。これには犬猿の仲の青木ですら「その通りだ」と頷いている。
「ですが福地さん。天下の双福といわれるあなたなら、福澤先生の知らないことや苦手なことの一つや二つは知っていますよね」
 物見高い学生諸君の関心は、まるっきし違うところに移った。
「私たちにとって福澤先生は崇拝する師でありますが、どうも人間らしさというものがなくて」
「はん? あの福澤さんに人間らしいところがないって。ならよ、原稿取りが来た際に屋敷の方を覗いてみるといいぞ。これぞ、どうにもならんほどの俺様な天下の福澤が見れるからな」
 それにしても福澤は学生の前ではどんな風に猫を被っているのか。
 あの超俺様で、敵を攻撃するところ一寸の容赦もない性格は、はっきりと言って崇拝するところなど皆無に等しい。「敵が多いほど楽しい」などとぬかす天敵の勝海舟とよく似ている。
 福澤という男は、自分の好きなように生き好きなようにして死んでいく、と常日頃から福地はしみじみと思っていたりした。
(だけどな。あの福澤さんがなぜ……この話題を鼻で笑い飛ばさなかったんだ)
 福地はよくよく福澤という男を知っている。あの超現実主義で合理的な男は、この手の話題など「つまらん」と鼻で笑って取りあわおうともしないはずだ。
 それがわざわざ探偵事務所に依頼にきた真意はなにか。
 その日は独逸語の講習があるので、独逸帰りの青木は教室に残り一日講師を務めることに話の流れで決まった。
「傲岸不遜な福地くんも、独逸語は話せるはずなのに」
 と面白くないというように口を曲げたが、それには取りあわずに福地は義塾を後にした。
 先ほどからチラチラと意味深長な視線が送られてきていることには気づいてはいた。その視線を捜そうと顔をあげると途端に逸れていって視線の正体は掴めずにいる。
 教室から出ればそっと後を追ってくるのではないかと期待したのだが、背後からの気配はない。
「気のせいだったのか」
 外に出て桜の木に寄りかかり、「さて」とその回転が速すぎる頭の整理に取りかかろうとした。
 福地は福澤という男の歪みも偏屈さもよくよく承知している。文久遣欧使節の一員として約一年もの間、行動を共にした仲でもあった。
 福澤という男は物見高い。総じて知識人というのは好奇心旺盛が憑きものだが、福澤という男はその上を行く男だった。異国の風習から衣食住にいたるまで時間のある限り吸収をし、とにもかくにも出歩いて文化に触れ、夜はひっきりなしに本を読んだ。
 興味があることは貪欲なまでに吸収をし、一方で好奇心がくすぐらないものには見向きもしない。そんなわかりやすい性格をしている。
(ということは、闇の始末人についてはあの福澤さんの好奇心を刺激する内容ってことか)
 そうでなければ国家の参議である木戸を巻きこむとは考えられはしない。
(だがな………)
 この手の話はきな臭いことが多々あるが、どう見ても噂の域を出ないような気がする。
 そこで、不意に視線を感じて福地は顔を上げた。
「……福地さん」
 完全に意識を飛ばしていた福地は、目の前に一人の青年が立っていることに全く気づいてはいなかった。そのため呼び掛けに「おおぅ」と驚いたのだが、その青年の遠慮がちな視線にあぁこの男だなとすぐに勘づく。
 あの教室で「話したそうに」視線を送ってきたのは誰かははっきりとした。
「俺に話したいことがあるんだな」
 決めつけて話すと、青年はコクリと頷き、
「あの……闇の始末人の話じゃないのですが、昔から千代田の城には……」
「おう」
「悪事をする人をこらしめるお堂というものがあります」
「………」
 なんだ、それは。
 福地も元は幕臣である。かの動乱の時代に旗本に取り立てられ、外国奉行支配として雑無を取り仕切っていた。
 それほど長い間、千代田の城に居つくということはなかったが、自分の足でできる限り城内は探索したつもりでいる。
「西の丸近くに紅葉山という山があるんですけど」
「ああ。あの元は古墳だったんじゃないかというアレか」
「はい」
 我が意を得た、と青年の温厚な顔に輝きが伴った。
「あの古墳はもともとは名高い怨霊が封じられたものだと祖父が言っておりました」
(なんか話がおかしなところに逸れてきたぞ)
「待てよ。紅葉山と言えば大権現の廟所があるんだよな」
「えぇ。大権現さまの廟所のふもとに小さなお堂が建っておられることは知っていますか。紅葉山は霊域として入ることは厳しく取り締まられていましたが、そのお堂までなら誰でも行くことができます」
 福地には初耳だった。
 霊域やら怨霊にはまったく興味がなかったためか、その手の話はとんと耳に入ってきた覚えがない。全くの専門外に思わず茫然となってしまった。
「話では四代さまが造られたお堂で、そこに祀られているのは怨霊さまだということです」
「………怨霊ねぇ」
 お江戸の昔から怨霊平将門の首塚はそれはとてつもない力を秘めているということで丁重に扱われ、将門を神とする神田明神も建立されている。
 怨霊信仰は昔からある。だが、どうも紅葉山はきな臭い。
「噂では紅葉山は平将門のもう一つの塚であったのではないかとも……」
「俺はその手の話はまったくダメだ」
 話をさえぎり、福地はポリポリと頭をかいた。
 この手の話はあの井上馨が適任だ。なにせ人ならざるモノが視える目を持っている。
 青年は慌てて手を振り、
「いえいえ。私が話したいのはそういうことではないです」
 そしてニコッと愛想よく笑う。
「先ほどの闇の始末人の話を聞いて、ふと思ったのです。そう言えば、あのお堂は憎きモノを呪うことに霊験あらたかで、心から憎い人の名を書き近くの楠の枝に結べば願いがかなうとか」
「なんだそれは」
「大奥のお末などが苛めの腹いせによく書いていましたが、お役人さまたちも書いていたようですよ」
「憎きものを怨霊さまが退治してくれるってことか」
「はい」
 どうやらこの青年はその怨霊話を信じ込んでいるようだ。
「現に私の祖父もそれで命が助かったといいます」
「うん?」
「祖父はご金蔵を扱う下っぱ役人でしたがあらぬ罪を上役に着せられ、危うく切腹となるところでした。誰に訴えようとも上役の地位や身分により取り合ってもらえず、行き詰った祖父はその怨霊さまのお堂に縋ったのです」
「それで」
「上役は病気を理由に免職をされ、祖父の罪状も晴れたとのことでした。その上役の罪状は迷宮入りだったそうですが、祖父の命は助かったのです。以降、我が家は怨霊さまに篤く帰依しているんです」
(闇の始末人の次は怨霊かよ)
 やれやれ、と頭をかきながら、そう言えば紅葉山の東照大権現の廟堂は打ち壊され、今は無残な姿になっている事実を思い出した。
 昨年の西の丸の出火は紅葉山にもおよび、廃れた廟所は火に包まれ灰となったという話をどこかで聞いた覚えがある。
 そう、その紅葉山には楓山文庫という書物をおさめられた建物があり、そこには福地も何度か書物を借りに足を運んだことがあった。
(紅葉山のお堂か……)
 なにかが頭に引っ掛かった気がした。
 それも小さな引っ掛かりだが、この手のことは福地は見逃さないようにしている。
「よしわかった。その怨霊のお堂な。始末人に怨霊か関わりあるかどうかは知らんが調べてみるぞ」
「あの………」
 青年はおずおずと言いだす。
「怨霊さまはお団子が大好物とのことで、昔は私も何度かお供えにいったものです。今では入ることもできないので、できればお団子を供えてくださるとありがたいのですが」
 怨霊に甘いものとはなんとも似合わない気がしたが、福地は二つ返事で頷いた。
 青年は律義にもお団子代を福地に渡し、
「怨霊さまのおかげで祖父も父も私も生き抜くことができています、とお伝えください」
 ぺこりと頭を下げ、青年は敷地内に戻っていった。
「さてな」
 とんでもないことばかりで頭がついていっていないが、とりあえずは「闇の始末人」ではなく「怨霊」の情報を仕入れることができた。
(怨霊のお堂。単に恨みや憎しみをはらしてほしいと願うだけのお堂なのか)
 もしかするととんでもない代物かもしれない、と勘が告げており、福地はニッと笑う。
「元西の丸の仮御所は、確か昨年全焼したな。廟堂も近くにあったから焼け野原だったはず」
 それ以来、西の丸周辺には立ち入りが禁じられている。
 いつかその西の丸の跡地に宮殿を新築するという話は出ていたが、今のところ政府から正式な発表はない。そのため帝には青山の仮御所に移っていただいていた。
「この手の話は木戸さん行きか」
 とりあえずは事務所に戻りこの情報をもとにどう動くかを決めねばならない。
 今のところ「闇の始末人」についての収穫はとんとないので、もしかすると見当違いかもしれないが「怨霊」話に乗ってみる羽目になるだろう。いや福地の勘はこの「怨霊」話を突き進むべしといっている。
「あぁこの手の話に詳しそうな人がいたな」
 久しぶりに三番丁の知人を訪ねてみようかと思った。
 飯田町に帰るのならちょうど帰り路だ。
 帰路につこうと歩きだしたとき、あぁ青木がいたな、と不意に思ったが、まぁ子どもではない。置いて帰ろうとも構わないだろう。後で散々に嫌味や文句は言うだろうが。

松菊探偵事務所―事件ファイル2― 22

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