時空の彼方から 外伝4 桜が誘う時の扉

4章

 宮から南西に見える斑鳩を、ぼんやりと海人は見ている。さして意味などない。ただうっすらと見えるあの小高い丘が、この地で何よりも清らかな気で包まれていたから気になったのだ。
 丘一面を包みこむ聖なる気は、実家の上宮村一帯を包みこんでいた七色に帯びた靄によく似ている。
 よく従妹の彩乃に「きれいな靄」といって指差したが、彩乃のその目には映っておらず、常に首をかしげるばかりだった。
 だが上宮村には、上宮王以来の「血」と「力」に対する畏敬の念が常にあり、他に視えぬものを映すその目を神秘とし、崇める対象としていた。子どもながらに不可解と思いつつも、常に彩乃は海人の目を「すごい」といって褒めたたえる。なんだかその彩乃の目が嫌で、いつしか人前で海人は「きれいな靄」については語らなくなった。
「斑鳩が珍しいのか」
 鎌子は絶えず書物を読んでいる。巻物につらつらと長く書かれたもので、それひとつ読み切るのに一日は有にかかるものだ。
 最初は巻物が珍しくて、ジッと見ていた海人だが、紙という素材が非常に珍しく高価であると聞かされ、かなり驚かされた。鼻紙に使われているあの柔らかなちり紙も貴重なのかもしれない。どうも自分の住んでいた上宮村とこの地「アスカ」はかけ離れているといちいち驚かされるが、そこは子どもの順応性といってもいい。こういう世界もあるのだ。お伽噺の世界のように、とおかしな納得の仕方をしている。
「あそこは……きれいなの」
「故厩戸皇太子が心血を注いで造られた斑鳩だ。仏教という法典に法った宮は華麗にして荘厳」
 鎌子の言葉はほとんど意味不明だったが、宮殿の美しさを言っているということだけは海人には分かった。そうではないのだ。海人が言いたいのは、宮殿を包みこむあの七色の靄のきらびやかなことを言いたいのだが、 きっと彩乃同様この鎌子にも見えていないのだ、と思い、つい口をつぐんだ。
 するとポンポンと頭を叩かれる。振り向くと、鎌子はわずかに笑い、
「斑鳩は清浄な気で覆われている。厩戸皇太子の徳の高さであろうが、あの気は……斑鳩を守護する」
「……お兄ちゃんは視えるの」
「何がだ」
「……なないろのもや……」
 鎌子は笑った。
「あぁ。視えるとも」
 嬉しくなって、つい海人は鎌子に抱きついてしまう。
「上宮村もあの靄がつつんでいたよ。でも、ほとんどの人が視えない。ばばさまもうっすらと視えるというくらい」
「……あの七色の気が海人の故郷をも包んでいたのか」
「うん」
 なんだか得意げな気分になって、七色の靄について、知る限りのことを海人は話した。
 すると鎌子はわずかに考える素振りを見せたが、すぐにポンポンと海人の頭を叩く。
「この飛鳥にて清浄なる気はかの斑鳩にしか視えず。されど澱みの気ならば、この岡本宮が最も濃い」
「でも暗くよどんでいたのに、中に入ったら……よどみが見えないよ」
「内からは神官が潔めているため、澱みは入らないのだ。この潔めが衰えると、海人の見た澱みが内にも入って覆い尽くす」
「……こわい」
「当代の神祇伯はそれなりの御力を有している。何よりも大忌祭が行われたばかりだ。宮は清浄に包まれている……しばらくは保つ」
 確かに外で見たあの澱みは見られず、宮の中は清々しいほど澄んでいて、海人は楽に呼吸ができる。
 澱みに近づけば近づくほど、なぜか呼吸が苦しくなり咳き込むのだ。それをよくよく承知している祖母は、決して澱みを海人に近づかせないため、外に出るときはいつも呪をかけてくれていた。
「ここにいる限りは大丈夫だ」
「……だいじょうぶ?」
「あぁ」
 これも不思議なことなのだが、鎌子が「大丈夫」と言うと、海人は妙に何もかも「大丈夫」と思えるのだ。例え父母や祖母と離れたこの境遇においても、鎌子がいるなら自然の流れで「大丈夫」と思えてしまう。そのことを海人事態が不思議がることはない。顔を合わせて数日しか経っていないが、海人にとっての鎌子はまるで実の兄の如し近しい「守ってくれる」対象だった。
「そのうちあの斑鳩に連れて行こう。大王の許可が下り、斑鳩が受け入れてくれたならば……」
「お兄ちゃん」
「なんだ」
 その陽に透かれてなお真っ黒な瞳が、海人には大のお気に入りだ。
「海人はお兄ちゃんがいれば、だいじょうぶだよ」
 にっこりと笑うと、わずかに茫然とした鎌子だったが、すぐにいつも通りの表情となり、くしゃくしゃと海人の髪をかき混ぜた。


 飛鳥の地に雨が降る。数日間、一時も止むことはなく降り続けている。八月といえば旧暦ではすでに秋。肌を突く風は温暖なる飛鳥の地とは言え時に寒く、海人はくしゅんとくしゃみをする。
 見かねた鎌子が綿をふんだんに使った防寒具をかけてくれ、また動物の毛が使われた毛皮の掛け物を海人の膝にかけた。
 綿の製造は戦国期より始まっているが、この時代にも大陸より渡ってきたものがある。また養蚕の技術も渡来人より伝えられたと考えられている。
「お兄ちゃんは寒くないの」
 鎌子の服装は海人から見れば薄着なのだが、これで支障はない、と笑う。寒ければ単を何枚か着重ねれば良いというのだ。
(コートとかカーディガンとか……ないんだ)
 家にある海人が気にいっている紺のカーディガンのぬくぬくとした感触が妙に懐かしくなった。
「さむいの」
 そこに小さな女の子が現れた。といっても海人とさして変わらぬ年頃である。従妹の彩乃よりも少しばかり背が高く、身を覆う気が清浄にして澄み渡っている。
 海人が見かける他の女性とは違い、髪を腰もとまで垂らし、裳に赤袴をつけ、その首より下げている紐には勾玉がかかっていた。
「こうして手に息をかけるとあたたかいの」
 にこにこと笑って海人の横に座った少女は、鎌子を見て、すぐに床に手をつき頭を下げる。
「おや姫巫女。鏡大王が宮殿に伺候されたか」
「はい。ちちうえさまのお供で香具衣もまいりました」
 真っ直ぐ前を見て微笑むその姿が、どうも同じくらいの子どもには視えず、海人は面食らう。何と言うか神事の際の巫女たちのようにどこか神がかっていて透明に視えるのだ。
「海人。こちらは鏡大王という大王家の縁戚にあたる王の息女で、香具衣というのだよ。ちょうど年も海人と同じだ」
「でもこの子。香具衣よりこどもです」
「海人は子どもじゃない」
「子どもなの。こんな温かい日に寒いなんて……たんれんがたりていないの」
「たんれん?」
「身体をきたえていないってことなの。香具衣は冬でも水ごりをします。滝でからだをきよめます」
 水垢離という言葉は実家で聞き慣れているため、おおよそのことが海人には分かった。テレビでも修行者が滝で身を打つ光景を見たことがある。それも季節に関わりなく修行の一貫として続けるということも聞いた。そう祖母の初音が、
『この婆も、儀式の前は滝垢離をする』
 と口にしたので、その寒さや痛さを思って海人は震えた。
 今、宮殿の奥深くでぬくぬくとしている海人よりも、この毛皮の掛け物はこの少女……香具衣の方が必要だと思ったのだ。
「………あげる」
 海人は掛け物を香具衣の肩にかけた。
「あたたかいよ」
 香具衣は止まった。何を言っていいか分からず、そのままきょとんと海人を見るばかりとなる。
 すると鎌子が声をあげて笑った。それはいい。
「海人は偉い。だが、な。毛皮はいけないのだ」
 と、鎌子が香具衣より掛け物を持ちあげ、再び海人の肩にかけた。
「たきごりはつめたいよ。婆さまも……ほんとうは冷たいって。だから……」
「姫巫女は獣の穢れを厭うのだよ。海人の婆さまも獣を近づけなかったのではないか」
 祖母の初音は、決してその身に「動物」を近づけはしなかった。近所に子猫がいて、時折上宮の館にも顔を出すので海人はとても可愛がっていた。その猫に触れた手で何物をも触れることを許されず、祖母はすぐにきよめるように言いつけるのだ。獣の死の穢れがとかく巫女の力に影響する。祖母の話では、穢れを触れたならば七日の間潔斎をせねば、巫女の御力は戻らないというのだ。
「……おばばさまと同じなんだ」
 悪いことをした、としょぼくれた海人に、香具衣はにっこりと笑ってありがとう、といった。
「香具衣は……獣のけがれは身におえないけど……ありがとう」
「うん」
 この日から香具衣と海人は仲良くなり、そろって鎌子のまわりを駆け巡っている。この時代の子ども同士の遊びなど掛けっこや言葉遊び。蹴鞠などしかなく、幼子と言えば追いかけっこばかりだ。
「ケンシ……遊んで」
「鎌子さま、あそんでくださいませ」
「僕とあそんで」
「いえ……香具衣と」
 大陸の衰亡を記された書を穴があくほどに凝視していた鎌子の両側に引っ付き、海人と香具衣がその袖を引っ張る。
 やれやれとばかりに両人の頭をよしよしと撫ぜるだけで、すぐに書物に目を戻そうとするので、面白くない、とばかりに海人が背より乗りかかると、それを香具衣もまねるのだ。
「分かった」
 さして得意ではないが毬を蹴って二人の相手をし、それに飽きたならば鎌子は笛を吹いた。中臣家の嫡子たる鎌子は、幼き時からしきたりとして神事に関っている。そのため雅楽の手ほどきは受けていた。 中でも龍笛がいちばんに向いており、今でも時に手慰みによく吹く。
 遊びたがりの二人も鎌子が笛を奏でると途端に静かになり、気付けば、鎌子に寄りかかってすやすやと規則正しい寝息を立てている。
 妙な感じだ。とてつもない違和感が胸に到来するというのに、不意に痛みが込み上げて来て、鎌子の心を戸惑わせた。
 三歳の折に燃え盛る業火の中、父母、中臣一族を目の前で失った。中臣宗家の「血」と「力」を恐れた蘇我家の闇討ちであり、その蘇我の軍勢の中には中臣家の分家の当主たちも顔をそろえていた。
 幼くして鎌子は、従兄の金と共に路頭に迷った。一時は宗家と縁があった茅渟王(宝皇后の父)の元に身を寄せたが、蘇我家の追及の手が厳しく、金の手に引かれ命からがら訪れたのが斑鳩である。
 すでに厩戸皇太子はなく、嫡子山背大兄皇子が当主だった。天下の蘇我と言えども唯一手出しができぬその家で保護されて育ち、時を経て、山背の手において、中臣家の主流となった中臣御食子の養子として大原に送りこまれて、今に至る。
 十三の年まで穏やかな時とは無縁だった。常に鎌子はその身に中臣の血を感じ、蘇我の追及に怯え、心には刃となって「復讐」を常に抱く。
 今でもあの父母を焼いた業火を思い出すたびに、たまらない気持ちになる。一人、剣を持って、蘇我家の居住区である豊浦や甘樫丘に乗り込みたい衝動性にかられた。
(……この鎌子は……今、この感情が分からぬ)
 眠る海人の頭をそっと撫ぜると、眠りの中にあるというのに、その手は必死に何かを探し、鎌子の手に行きあたるとギュっと握ってくる。
 ズキリとした痛みと、身を包みこむ柔らかな心地。慈しみという言葉をあてるのか。それとも優しさとあてるべきか。
 握りしめられる手の温かさ。そのぬくもりが身体全身に伝って、刺ばかりのこの身を穏やかに包みいく。
(これではダメだ)
 と、半ば恐怖が胸によぎり、海人の手を払うと、その反動にぱちりと海人は目を開けたのだ。
「……おにいちゃん……」
 保護者を求めるかのような、頼りない顔をして、ジッと見つめ、
 振り払った手を再び差し出され、幾ばくかの躊躇を抱いたが、されど瞬きするほどの時をおいて、その手を握った。
「おにいちゃん……」
 その笑顔を見ると、優しい心地になる。愛しさという気持ちを思いだす。
 それはこの我が身にはなくとも良い。必要ないものだ。いらぬ、と言い聞かせて、十三の年まで生きてきたと言うのに……。
(この感情は何なのか)
 思わず海人の手を握り締めて、鎌子は心の中に問うた。
 敵を討つまで何一つ感情など必要ない。愛情も情けも慈愛も何一つとして必要ない。前に向かって駆け、そして死ぬばかりだ、と鎌子は言い聞かせてきた。
 この思いを、今、訪れた感情の封じ方を教えてほしい。このままでは我が身は疲弊する。弱くなる。どこまでも……駆けれなくなるのではないか。
 だが同時に思うのは「守る」という言葉の甘美さとも言える。
 従兄の金は常に言い続けていた。
『俺は鎌子という守るべきものがあるから、強くなれる』
 ならばこの我が身も守るべきものを持てば、さらに強くなれるだろうか。
 その小さな手に触れ、愛しげに見つめ、心のままに抱きとめたその時だ。
 ……時をめぐり、時をまわして、導きたる……。
 その身に何かが聞こえた。
 ……守護すべき星。
 あぁ、と鎌子は心でうめいた。われ知らずにして、予感を抱く。
(この海人こそ……我が身の定めとなる星か)
 我が身をかけて守らねばならない一つ星。未だ幼く宿世は開けていないかもしれないが、時はなたれば、星は動き、扉は開く。
「大丈夫だ、私が側にいる」
 今は何の力を有さぬ我が身なれば、いずれ時が来たりせば、必ずやその身を守りとおそう。


 これが宿世ならば……。
→桜が誘う時の扉 5章 へ続く

時空の彼方らか 桜が誘う時の扉1-4

時空外伝4-桜が誘う時の扉4-

  • 【初出】 2011年09月02日
  • 【修正版】 2012年11月23日(金)
  • 【備考】 本編で話には出てくる海人の最初のタイムスリップ話。