本多くんと大鳥さんの小話

9 一人



 朝鮮公使館公使の任を拝命したそのとき、大鳥圭介の頭には警鐘が鳴った。
 現在、清国との戦に突入しようとしている中で、この任の重さは重々認知している。
 だが任についてそれほど大鳥は重視はしていない。世の中、なるようになる、のである。
 ゆえに今、この身を襲う危機感は役のことではなく、もっと重く、さらに苦しく。
 つまりは私的な「嫌な予感」というものだ。
「公使ですか」
 本日も小石川後楽園にて待ち合わせをした大鳥は、数十年の付き合いとなる元部下の顔をジッと見つめた。
「大役ですが、大鳥さんならこなせますよ」
「さてね。それはさして心配はしていないけど」
 どちらかというと心配なのは、朝鮮に渡らねばならぬ間、顔を見ることができなくなるこの「恋人」のことと言える。
 一日でも顔を合わさねば不安になり、出張や渡欧などの際は、それこそ毎回毎回大騒ぎだった。
 ましてやこの元部下殿は、離れることに何一つ寂しさを抱いてくれず、ましてやこれが永遠の別れになろうと構わぬといった風情すらある。
「一緒に行かないか」
 ゆえについつい口にしてしまう。
「大鳥さんはいつもそうですね。何かあるたびに私に共に、と」
「本多がいないと、全然落ち着かないのだよ」
「朝鮮国公使様が、それでは貫録にかけますよ」
 わずかに笑った本多幸七郎は、そのまま空を見上げる。
 失った左目には、現在の太陽の光を映し出すことはないが、その分、右目に負担がかかりすぎていることを大鳥は見逃さない。
 もと医者の大鳥は、渡欧する度の最新の医学書などを買い求め、本多の左目に光を戻すことを学んでいたりする。
「一緒には参れませんが、ご武運をいつもお祈りしています」
 淡くおだやかに微笑む本多の頬に両手をあてる。
 そんな風に笑まれると、急に不安になり、足下が覚束なくなる。
「たまには帰ってくれるよ」
「ダメな公使さまですね」
「おまえの顔を見るために……」
「……はい」
 どれほどの年を重ねようとも、いつまでも傍らを振り返り、求める顔は、変わらない。
 元赤穂の町医者と、列記として幕府旗本当主たる本多。
 あの動乱の世でなければ、決して出会うことがなかった。
「いつまでも誰よりも好きだよ、本多」
「……大鳥さんは、本当にしょうがない人ですね」
 伝習隊士官候補生たる本多とは、あの幕府伝習隊第二大隊が置かれていた小川町で出会った。
 馬上凛々しき、長身のスラリとした体格の、見るからに育ちがよさげな年若き男。
 手綱さばきが手馴れており、大鳥はつい見惚れた。
 適塾に学んで後、伝習隊の教官として後に歩兵頭に進んだ大鳥圭介だが、自らの五尺に満たない背丈だとあのような様になった馬術には永遠に及ばぬだろう。
 それほどに際立った容姿をしている男ではなかったが、あの時、はじめて男に「格好よい」と思ったのだ。
 以来、二十数年が経ちし今も、こうして時を共にしている。
「在任するまでの期間……俺を慰めてくれ」
「はっ……はははは……どんな慰め方をお求めですか」
「そんなの決まっている。よし、馴染みの宿に行こう」
「お……大鳥さん」
「今宵は本多の身体で癒してもらうから」
「もうすぐ五十になろうとしている体のどこがいいのですか」
「鍛えているからだろうな。しかも童顔で年齢通りには見れんよ、本多」
「それでも」
「抱きたいものは、抱きたい」
 そして今にいたるまで一向に本多の身体に飽きはしない自分がいる。
 顔を見れば愛しくオモイ、こうして手と手が重なるだけで情欲が表に出る。
「今日は朝まで寝かさないということで」
「そんな体力があるなら違うことに使ってくださいよ」
 強引に手を引っ張れば、仕方なしという顔でついてくるこの本多を、
 どれほどに自分は愛しているか、知っているのだろうか。


 折りしも日清戦争ぼっ発ということもあり、大使の大鳥の仕事は急務となった。
 とても頻繁に国に戻れず、嫌がる本多を無理やり連れ出し写した写真を毎日見ては「本多……」と呟くばかり。
 その日、朝鮮にも雪が降った。
 真っ白な雪が降るのを見ながら、無性に本多の身体に触れたい、と思った。
 髪をなで、頬に触れ、唇を奪い、その身体を一日ギュッと抱きしめていたい。
 人を人がこれほどに愛せるとは、本多を愛してはじめて知った大鳥だった。
 しかも人に対してさほど興味がなかった男が、一人の人間に対し、常に心におくほどに思う。
 自分という人間を正確に把握していたつもりだっというのに、
 こんなに悋気深い男だったとは思わなかった。
 本多に関わる人間すべてに嫉妬する。本多が笑いかける人間すべてに妬く。
 それだけの特別を見出し、愛しく思えることは幸せなのだろうか。
 もう一度人生をやり直せるとしても、大鳥はきっと本多幸七郎を選ぶ。
 自分以上に愛せる人間を、すべてをかけて愛して、愛されたいと心から願う。
「本多、寒いな」
 おまえの身体の熱が実に恋しい。
 駐清国特命全権公使兼朝鮮公使の任は五年におよんだ。
 事務報告などで帰還は許されたが、戦争の只中ということもあり、大鳥はわずかな時間しか本多と会うことが出来なかった。
 逢うたびにやつれていく顔に、一抹の不安を抱き、出国の際は必ず見送りに来るその身体を抱きとめて、不安を追い払ってきた。
 だか、その日は……。ようやく戻った東京に降る雪は、大鳥の心をも氷と化した。
「……本多……」
 通された部屋は仏間で、そこには真新しい位牌が置かれていた。
「半月前でございました」
 本多の妻がうな垂れるようにして、呟いた言葉に、大鳥はなにを言われたのか分からなかった。
「本多はどこにいますか? ようやく公使は解任になった。もうどこにも行く必要がない」
 枢密院顧問官に任じられている大鳥だ。これからはずっと東京で、本多の傍にいることができる。
 この五年、不在であった分も、これから、だ。たいせつにする。今までよりもずっと慈しんで、愛して……。
「ずっと本多の傍にいる。もうどこにも行かない」
「……お父さま」
 付いて来ていた長女のひなが、潤った目から雫を流しつつ、
「本多のお兄様が、何があってもお父さまにだけは伝えるな、と仰いました。大切な任務中。自分のことで心を揺るがしては」
「俺に本多のこと以上でたいせつなことなどあるのか」
「おとうさま」
 最後にあったあの日、やつれている様子が気になり、脈を見た。
 疲れているだけですよ、と穏やかに笑った顔が心配で、色々な薬を煎じて置いていったのだ。
 あの日、抱きとめた体の頼りなさ。幕府士官であり、旗本の当主であった本多はいつも身体を鍛えていたというのに、あの時は……。
 アレが失う恐怖であったのか。
「置いていくのか……。俺を一人にするのか」
 共に永遠にいよう。永遠をおまえとなら誓ってもいい。永遠に離してなどやるものか。
 自分の命以上に大切であった人間に、置いて行かれたそのとき、
 人はどうやって息を吸い、これから生きていくのだろうか。
 この腕に閉じ込めておきたいほどに、いとしすぎるただ一人の人。
「俺を……置いていかないでくれ」
「お父さま」
 ひなに抱きとめられながらも、大鳥の頭はぼやけて、意識をうまく繋ぐことができなくなっていた。
 欲していたのはただ一人の男の笑顔で、
 望むのは、いつものように「大鳥さん」と呼ぶその声で、
 願うのは、常に傍らを歩くその男だけだった。
 ……酷だ、ひとりでなど生きられるはずがない。


 その日から父はおかしくなりました。
 普段はいたって普通で、いつも通りの父ですが、ふとした拍子に遠いところを見て「本多」と笑いかけます。
 私の父大鳥圭介という人は、私ら家族にはそれは頼もしく優しく、時には情けない父でありました。
 そんな父を私も妹や弟たちもこよなく愛し、母みちが逝って後、私たちが父を守らねば、と思ったほどです。
 けれど、父には、わたしたち家族よりも大切な一人の人がいました。
 大切というには言葉が軽すぎます。命そのものの人でありました。
 その人と離れるだけで、子どものように泣きしきる父です。
 亡き母はその人がいないと父は狂うといっておりました。後妻となった継母も、「命以上の人ですらか」と笑っておりました。
 私はその人が幼いときから大好きで、お義兄さまと慕ったものです。
「ひなちゃん……許してください。私は……もう待つことができません」
 幼きときに私が憧れたその人は、やつれ、疲れきり、息を吸うのも苦しげで、
 見舞いに来たものが泣いてはいけない、と思いつつも、思わず涙がポタリと落ちてきます。
「……ひなちゃん」
「お父さまはすぐに帰ってきます。帰ってくるから……お願いです」
 待っていてください。父を置いていかないでください。
 かの戊辰の戦の折も、常に父の傍らにいたその人は、いつもはかなく笑いかけてくる。
 伸ばされた手を握り締めて、冷たくなるその手を、私は必死に温めて。
「お願いです」
 父はこの人がいないと生きてはいけない。
 人間そのものには興味がなく、ただ本多幸七郎というこの人を慈しんで、大切にして、父は幸せなのです。
 もしこの人がいなくなったら、この先、父が辿る道はしあわせなどと程遠いものになる。
「いきてください。いっしょにいきてください。ずっと……あの父を」
 本多のお義兄さまは、その日より数日後、眠るようにして逝ったそうです。
 初雪が帝都にはじめて降った日、
 父が戻る十二日前のことでした。
 現在、枢密院顧問官の父ですが、前と比較してもそれほどの変わりようはないのです。
 旧知の仲間たちと酒を飲み、大好きな海老などの料理を食べ、にこにこと笑い、
 けれど、ふとした瞬間に、遠い目をします。その目には私や家族は決して映さず、ただ一人だけを求めて。
 父は本多幸七郎という方の死を決して認めません。
 自らの心を狂わすことで、どうにか生きることを選んだようです。
「……圭介らしいな」
 訪ねてきた榎本のおじさまが、ため息をついていきます。
「置いていかれることを認めたくないのなら、そうしてまで本多くんを繋いでおきたいなら」
 いっそ狂うしかなかった。
 父は私たち家族のもとに心と身体を残すために、狂気に身を任せたのでしょうか。
 ほんとうは、本多の義兄さまと一緒にいきたいのではないか、と。
「お父さま」
 私はそっと父のお猪口に酒を注ぎながら、
「お父さま、お寂しくはありませんか」
 小さく問いかけてみました。
「寂しい? なぜ? 父はおまえたちと本多がいれば寂しくなどないよ」
「嘘ばっかり。本多さんがいれば、でしょう。私たちはついで」
「なんだ。知っているのか」
「当然です」
 思わず泣いてしまうのを堪えて、私は笑います。
「お父さま、長生きしてくださいませ」
 どれほどの酷か知れないが、私はそう願ってしまいます。
「……いきてください」
 あの日、本多の義兄さまに願ったように、ただその願いだけを紡ぐ。
「わかっているよ」
 父はわずかに笑い、そしてその笑みは徐々に消えていき、沈痛な顔となり、
「……本多……」
 宙に手を伸ばし、そしてしあわせそうに父は笑います。
 狂ったままでもいい、というのは私たちの身勝手でございます。
 父は今すぐにでも思い描くその面影のもとに行きたいのでございましょう。
 それでも留まってくれた父が、わたしたちには大切でございます。
「お父さま」
 背にもたれて、父のぬくもりを感じながら、私は声をたてずに泣いてしまいました。


 手を差しのばす。ふれてくる手に、いっさいのぬくもりはない。
 それでも、それだけで、まだ生きていられる。
「……本多」
 どれほどに触れたいか、知っているかい。
 どれだけ、抱きとめたいか。
 この手でおまえを捕まえたい。願うのは、それだけで。
「早く……」
 迎えに来てくれ。心が砕けて理性では保てなくなるまえに、はやくこの手に触れて、
 楽にして欲しい。



10 雪の朝



 蝦夷の地に赴いて二か月。正月も七日が過ぎた。
 普段は箱館市内の警備のため、街に宿泊している土方歳三だが、今日は陸軍奉行の大鳥圭介に用があり、五稜郭にいた。
「これじゃあ市内には戻れないね」
 土方は市内の仲間のもとに戻ろうとしたのだ。
 だが折悪く暴風雪。強風によるよこなぐりの雪を土方は初めて知った。視界不良どころではない。冗談ではなく遭難する。
 そのため五稜郭内にその日は留まることにしたのだが。
「大鳥さん。あんた……なんでずっと外を見ている」
 先ほどまで議論をしていた相手である大鳥は、心ここにあらず、で窓枠に椅子を移動して、外をジーっとみている。
「たいしたことではないのだけど」
「なんだ」
「こんな大雪の夜。なぜか本多がよく外に出るんだ」
「……やめさせろ。死ぬぞ」
「俺も何度も何度も止めてはいるのだけど、やめはしない。ほんの数時、ただ雪を浴びていると意識が覚めると笑うんだ」
「とんでもない。彼はただでさえ体は丈夫ではなく、怪我ばかりだろう。連隊長がこれじゃあ」
「そうなんだけど。なんか訳でもあるのかなって。とりあえずは無理が過ぎないように見張っておかないとさ」
「アンタ、本多くんたち伝習隊には甘すぎるぞ」
「……そんなことはない」
「伝習隊はもともと本多くんたちがまとめあげ、その士官たちがアンタを慕っているからアンタに従っていたんだろう。博打あがりもいれば、江戸の不良どもまでいるんだ。 いいか。本多くんがまた倒れれば、大川や滝川じゃあ抑えきれんぞ」
 敵までもが伝習隊の一糸乱れぬ行動とまとまりに竦みあがったという。
 もともと伝習隊の教官ではあったが、医者あがりの学者の大鳥に気の荒い連中たちがついていくはずがない。
 そこで伝習隊の列記とした幕臣らの士官たちが歩兵たちをまとめあげ、その士官たちが大鳥に忠実に従うためにまとまっていると聞いている。
「それにその大川と滝川までもがけんかっ早さの代表格。俺が何度仲介したか」
 鬼副長に喧嘩の仲介をさせたとして伝習隊の部隊長の二人は、名をはせている。
「じゃあ君が止めてくれよ。俺はもうお手上げだ」
「日ごろ、世話女房として散々に世話をさせているんだ。たまには暴風雪の中で体を張って止めてこい」
「もう何度もそうしているんだ。何度も何度も、だよ。これに関しては俺の言うことを聞かない……今日もまただ」
 外には伝習隊の隊服に黒きマントをつけた一人の青年が、ゆっくりと雪を踏みしめて歩く。
「本多くんか。あの馬鹿が」
 大鳥はため息ばかりでその様子を窓から見ているので、土方は飛び出した。
 だが外に出てすぐに後悔する。軽装で外になど出るものではない。雪に攻撃され、身が軽く竦んだ。
「本多くん」
 どうにか片手をかざし、視界を保ちながら近付くと、
 黒き姿が雪に包まれながら、彼……本多幸七郎は穏やかに微笑むのだ。
「なにしているんだ。こんな雪の中で」
「土方さん」
 雪の中で本多はゆっくりと愛刀を抜き、風と雪を斬るかのようにふるう。
「雪は本当にきれいです」
「君……」
「こうして雪の中にいると何もかも忘れられる。雪に包まれると、自分の身も白くなれるような気がして」
「その前に寒さでやられてしまうぞ」
「凍えないとわからないのです」
「………」
「自分が生きているのか」
 狂っている、と一瞬、土方は背筋が寒くなった。
「俺は今まで君が伝習隊の中でいちばんまともと思っていたが、やはり君は大鳥さんの世話女房だ。こわれている」
 本多はにこりと笑った。
「こんな暴風でない静かな朝にしろ。それこそ凍死寸前の凍えを味わえる」
「朝?」
「しかも良く晴れた日がいい。こんな暴風よりよほど寒い」
 土方は本多の手を引っ張った。
「静かな朝なら、こう大鳥さんに心配をかけることもない」
 窓からじっと様子をうかがっている大鳥は、いつもいつもこうして本多を見ていたのだろうか。
 本当に凍える前に迎えに行こう、と。
 それまでは見守り続ける。じっと耐えて、止めてもきかぬのだから、見守ろうとするその強さ。
「……知ってはいるのです。心配してもらっている」
「そんなたやすいものではないな。アンタ、大鳥さんがいちばん頼りにしているんだ」
「……土方さん」
「自分の身を大事にしろ。生きているうちは自分の命が大事にできん奴……」
「………」
「アンタは軍人だというのにな。まったく生気が……ない。アンタ、なんのためにこの蝦夷地に来た」
「………」
「大鳥さんの世話をするためか。冗談だろう」
「さして……冗談では。私は、大鳥さんのために生きて死ぬつもりでここまで来ただけです」
「アンタ……」
「死ぬことしか頭にない土方さんよりは、まともです」
 言ってくれるな、と土方は思ったが、とりあえずは本多の手を引き、館内に放り投げた。
 大鳥がぬぐいを抱えて待ちわびている。
「本多くんは暴風の時に外に出るのはやめると言っている」
「本当か、本多」
 大鳥はとりあえずは拭いで本多の顔を拭き、髪を拭いている。
 土方も拭いを受け取ったが、なぜかため息が出た。
 どちらがどちらに過保護なのか訳が分からなくなってきた。


 翌朝は昨夜の暴風雪が信じられないほどに、清んだ青空が広がっている。
 日が昇ってわずかしか経っていないが、土方は足を忍ばせて外に出てみた。
 寒さ用の重装備をしてきたが、それでも毛穴が思わず縮むほどの寒さだ。
 だが土方はこの光景が好きだった。誰もが荒らしていないまっさらな雪。それを照らすまぶしい陽ざしは目が痛い。
 蝦夷の雪は実にさらりとしており、水分がさして含まれていないのか、風にも流されていく。
 雪を踏みしめる。ぎしっとする音が耳には不快だが、感触はそれほど悪くはない。
「……本多くん」
 先客がいた。
 軽装だがマフラーの手袋だけは身に付けた本多は、ただじっと雪の中に立ち、空を見ている。
「おはようございます、土方さん」
 本多はゆっくりと振り返り、
「あなたの言うとおりです、土方さん。確かに凍える。体中が……麻痺するほどです」
「君は……おかしいよ」
 本多はくすくすと笑い、そのまま雪の褥にパタリと倒れこんだ。
「本多くん」
「大丈夫です。冷たくて心地よいですよ」
「風邪をひいてしまう」
「風邪くらい……大丈夫ですよ。心地よくて……おかしくなりそうです」
「本多くん」
「これで頭を覚まさなければ、おかしくなりそうなんです。すべてがくるっていて、私もくるっていて……」
「しっかりしないか」
「えぇ。大丈夫です。これで……しっかりしますから」
 連隊長としても副官としてもその若き身の上としては、しっかりしていて、有能であり続け、大鳥などは頼りきっている。
 だが内実は心の中に、「狂気」をかっている。
 温和な彼の中にあるそれは何に由来しているのだろう。
 大鳥のためにココにあり、大鳥のために死すというその覚悟から来る「弱さ」なのか。
「私がしっかりしないと大鳥さんが困りますから」
「本多くん」
「……純白のように白く、日差しでキラキラして……ほんとうに朝の雪はきれいです」
 ふとその光景を見ながら、土方は一句詠んだ。
「横に行 足跡はなし 朝の雪」
「………?」
「下手な発句だけどな」
「土方さんらしいですけどね」
 本多はその場より立ち上がり、その視線をスッと館内に向ける。
「あの方は……」
「………」
「いつもこうして私を見ています。私は……たまに息苦しいのですよ」
「なんだ、鳥のことか」
「誰よりも大切にされているのも知っています。頼られているのも。思われているのも。けれど毎日いっしょですからね。そういうのって息苦しくなるときがあるのです」
「それは分からなくはない」
 土方にも昼夜問わず共にいた相手がいた。
 今でも目を閉ざせば、相手の顔が浮かんでくる。
 だがまだ若いころはその存在に煙たさを感じていた。いなくなればいい、とふと思った時もある。
「だが、そんな相手がだれよりも大切だと思うときもある」
「………はい」
「いや、本多くんの場合はあの鳥は迷惑極まりない男とは思うけどな。鳥事態が……」
「いえ……大鳥さんのことは尊敬しています」
「………そうなのか」
「はい」
「君はつわものだな」
「………」
「鳥の面倒をこれからも見てくれ。アレは君がいないとダメだ……というか存在事態がありえん」
 当の話題の人間は、なにやら寝巻のまま走ってくる。
「本多!」
 ひどくあわてた顔で、駆けてきたかと思うと、開口一番の言葉がこれだ。
「本多は俺のものだ。土方くんには渡さん」
 こんな大鳥の世話女房など狂ってないとできんのかもしれん。
 唖然としていたが、なんだか穏やかなものがこみあげてきて、土方はその場で笑った。
「なっなんだね。その笑いは……」
「大鳥さん。土方さんを呆れさせるのもある意味、才能です」
「なんだよ、本多。俺は本気で心配して」
「はい、ありがとうございます。風邪をひきますから中に入りましょう」
 土方さんも、と付け加え、本多は大鳥の背を押し、そのまま館の中に入っていく。
 今までにぎやかだった外に、朝の静けさが戻ってきた。
 雪が太陽の光でキラキラと光るこの風景は、土方はいちばんにこのむ。
 美しい風景を彩るやさしいまでのきらめき。
 寒さの中にも美しいものがある。
「かっちゃん。アンタに見せてやりてぇな」
 それとも見ているか。空の上から多くの仲間たちとともに。
 この美しき風景が見おさめになったならば、
 俺も……そちらの仲間入りとなろう。


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本多くんと大鳥さんの小話 -5

本多くんと大鳥さんの小話5

  • 【初出】 2011年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月22日(土)
  • 【備考】 9~10話収録