宵ニ咲ク花の如シ

序章1

 一人は、月光のほのかな灯火が似合うまさに椿の如し毅然とあり、優しげな面とは相反して風の如し颯爽と駆けるきれいな男。
 もう一人は薄氷の上を歩くかのように常に緊縛と冷ややかさを宿しながらも、胸にある熱き信念を絶やさずに走った美しき男。
 この物語は、時代の中において「対局」にあり、されど時は重なり出会い別れを繰り返した二人の男の「幕末」を追う。

 労咳という胸の病で、母と姉を失った男がいる。時は重ならないが、ともに母と姉をこの二人は労咳の病に奪われた。
「歳ちゃん」
 天保九年、此処は武蔵国多摩郡石田村。数え四歳の土方歳三は庭に咲いた蒲公英を摘んで療養中の姉の部屋の前に立っている。
 中庭より入ることができる離れのこの部屋には、入ってはいけない、と母恵津や姉のぶに言われていた。
「周姉。たんぽぽが咲いた」
 土方家十人兄弟の末っ子歳三とは十二歳年が離れている姉周は、先年より胸を病み、一人家族から離されこの離れで暮らし始めた。
 歳三は線が細く儚げな周が、とても好きである。忙しい母にかわって歳三の母親代わりとなりあるときは膝に抱きとめて眠ってくれた。 穏やかに、そして儚げに微笑む薄幸が匂う姉は、近隣で名高い美女である。石田村内を姉に手を引かれて散歩していると、すれ違う人間は必ず振り返って姉を見つめる。密かな歳三の自慢ともいえた。

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「そう、蒲公英が咲いたのね。あたたかいと思っていたら」
 扉越しにしか毎日話すことが許されない姉の顔が見たいと時折無性に思う。
 あの悲しげな微笑を見たい。「歳ちゃん」と自分を呼んで笑って欲しい。
 扉に手をかけるたびに、「歳ちゃん」と悲しげな声が響き、歳三の手はピタリと止まった。
「ごめんなさいね、歳ちゃん」
 その声が胸に突き刺さり、目によぎる熱いものを堪えるために歳三は唇を噛む。
 かなしき響きにはどこか「寂しさ」が滲んでおり、その声音がこの手を制止する強さを宿していた。
「周姉、早くよくなって」
 しぼり出すように言葉にすると、扉の奥では咳き込んでいる音が聞こえた。
「周姉」
「だ……だいじょうぶ。いつもの発作だから大丈夫よ。歳ちゃん、そろそろ母屋に戻って。それから、ここにはあまり近づいてはいけませんよ」
「嫌だ」
 中から聞こえる姉の声音がか細く、歳三は心配ながらも必死に思いを言葉とする。
「顔をあわせられないなら、声をきくために毎日通う。歳三は……周姉の声が聞きたい」
 本当は顔を見たいという思いはあったが、それは幼いながらも耐えて「声が聞きたい」といった。
「周姉……苦しい? 寂しいか」

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「……大丈夫よ。ありがとう、歳ちゃん。大丈夫だから、お戻りなさい」
 扉の前に蒲公英で束ねた小さな花束を置いて、歳三はもう少しこの場に居たかったが、此処は渋々下がった。
「明日も来るから」
 小さな花束を持ってくるから。
 儚げな姉には、蒲公英のような活き活きとした可憐な明るさを持った花はよく映えるのだ。
 そう幼いながらも歳三は分かっていた。姉を取り囲む死相という風情を、どうにか明るい厄除けという意味もある蒲公英をもって祓おうとしたのかもしれない。
 歳三が贈る花束を姉は喜んで、病室に飾っている。


 歳三は春の月を見るのが好きだった。
 朧月夜のあわい光が照らす夜は、寝静まった母屋より抜け出して、一人縁に座して足をぶらぶらと動かしながら月を見ていた。
「……母さま……ははさま」
 そして月を見ていると、恋しいのか。寂しいのか。毎日のように「母」を呼ぶ声が聞こえてくる。
 すすり泣く声に、歳三は姉のもとに駆け寄りたいという思いを、必死に抑えるのに苦労した。
 こうして歳三が夜中に一人月を見ているのも、例え近づけなくともいい。声をかけられなくともいい。すすり泣く姉の傍にいたいという思いが心をしめていたからでもある。
 歳三は十人兄弟の末っ子であるが、盲目の長兄為二郎、現土方家の当主次兄喜六、療養中の三姉周、養子にいった五兄大作と

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四姉のぶ以外は既に没している。顔も知らぬ四人の兄姉のことは耳にしたこともなく、また自分が生まれる前に死したという父義諄の存在とともにどこまでも遠い。
 生まれながらにして父無し子の歳三は、末っ子ということもあり兄姉たちに可愛がられて育ってきた。年の離れた長兄、次兄はまさに父親代わりで、歳三は父なし子の寂しさを味わったことはない。それでも、何故なのだろう。見たこともない父を思うことがある。父の顔も知らぬ自分は、この土方家にとってなんなのだろう。自分の居場所としての「家」は、頭の中で春の月のように霞がかっているように思えた。
 自分の居場所はどこか。自分はいかにして生きるべきか。
 生得て直面した父の喪失という思いを、如何に歳三は心の中に収めて生きていかねばならないか。無意識に幼いながらにも苦心していた。
 だからこそ「身内」たる母、兄姉に対する思いは強いのだが、土方家という「家」に対する思いは希薄という矛盾が常に心にはあった。
 自分の存在を証付ける「居場所」を、歳三は生涯をかけて探し歩かねばならなくなる。
 睨むようにして月を見つめ、かほそい姉の声を聞きながら、歳三は手をギュッと握った。
(よくなって……よくなって庭の花の名前を教えて周姉)
 春が過ぎればまずは藤が夏を告げるようにして咲き、そして夏の小さな花が庭を彩るように活き活きとしたみずみずしさを見せる。
 その中を姉と歩くさまを想像すると、歳三はわずかに心にある痛みをやわらげることができた。

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 外に姉に手を引かれ散歩にいったが、覚えているその時の姉の手は本当に弱弱しくたおやかという言葉が当てはまる。
 子どもながらに姉のこの手を守らねば、と無意識に思わせるほどに、どこまでも周は儚げな人だった。


 水無月に入り、梅雨の只中の気鬱な空気が体を包む中、
 四歳年上のすぐ上の姉のぶが、本を歳三に読み聞かせていた。
 この姉はことある事に「姉」という意識のままに末っ子の歳三の面倒を見たがり、執拗に世話を焼く。
 まさに健康そのままの肌や活き活きとしたその目。逞しい体つき。あの薄幸で儚い姉周とは相違して土着の娘の匂いがある。
 時に鬱陶しいと思うこともあるが、姉のぶの「姉さん心」に歳三としてはこたえている方だ。歳三はこの快活な姉が好きであり、年が近いだけあり上の兄たちに対するより遠慮はない。
 本を読みながらこくらこくらと舟をこいでいる姉の髪をギュッと引っ張る。
「なに歳三? 嫌な子ね。髪をそんなに強く引っ張って」
 髪は女の命よ、という姉は、いつも髪を振り乱して野山を駆け巡り、時には畑仕事に出るため髪に泥がついていることすらある。
「寝ていた、のぶ姉」
「眠ってなどいないわよ」
「寝ていた」
「嫌な子ね」
 ばつの悪い顔をして一瞬苦笑したのぶは、その後にこっと笑って歳三の頬に手を当てた。

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「でも眠かったのは確かよ」
 そしてわずかに仮眠をしていた姉の体にギュッと抱きとめられ、歳三は「熱い」と思った。
 現在まさに梅雨の只中で蒸し暑い。この熱気がまとわりつく不快な感覚を一月も味わわねばならず、いっそカラッと晴れた快晴の太陽に焼かれる方がましだとまで思ってしまう。
 そんな中で人の温度ほど鬱陶しいものはないではないか。
 自分の体温すらこの梅雨の時は物憂げに感じるというのに、抱きとめられて嬉しがる子どもなどいるはずがない。
「暑い」
 のぶの両腕より何とか抜け出し、歳三は僅かな苛立ちを込めて姉を睨み据えると、
「歳三の目は姉さまに似たのね。顔立ちは母さま。男の子としては顔立ちは可愛すぎて、姉さんはおまえの将来がとっても心配」
 などと笑いながら口にする。
 姉の手が今度は頭を撫ぜてくるので、「暑い」とばかりに歳三は部屋から逃げ出そうとしたときに、十六歳年が離れた次兄喜六が駆け込んできた。
 兄の傍らをすり抜けて駆け去ろうとした襟首をつかまれ、歳三はのぶの傍らに座らされる。
「のぶ、歳」
 父親代わりの喜六は青ざめた顔で、重々しく言葉を告げた。
「周が死んだ」
 意味がわからず歳三はのぶを見つめ、無意識に手は姉の着物の袖を掴んだ。
「ようやく周は楽になったのだよ。苦しんで苦しんで、先ほど安らいだ顔で逝った」

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「姉さま」
 のぶはその場に両手をつき、身を小刻みに震わせ、そのまま沈むようにして泣こうとしたのだろう。
「のぶ姉?」
 なぜ姉が泣くのか分からず、袖を握ったまま不安な思いとなって歳三はのぶを見た。
 震えるのぶはふと自分は「姉」という意識を思い起こしたのか。傍らの歳三をその両腕に抱きとめ、きつく抱きしめたまま涙を落とす。
「歳三、周姉さまがお亡くなりになったの。もう目を覚ましてくれないけど、姉様はようやく楽になられたのよ」
 死という感覚は分からなかったが、目を覚ましてはくれない、という表現は歳三の胸に突き刺さった。
「のぶ姉嘘だ。周姉は元気になって歳三と庭を一緒に歩くんだ」
 強引にのぶの腕から逃げようとする歳三を、逃すまいとしてのぶは抱きとめる。
「ダメよ、歳三。おまえは私といっしょにここにいるの」
「なんで」
「姉様は病気を宿してお亡くなりになったの。それはうつる病だから近寄ってはダメなのよ。歳三はあまり体も強くないし、病にかかったら……」
「のぶ姉。歳三は周姉の顔が見たい」
「ごめんね、歳三」
 すると喜六が歳三の頭をよしよしと撫ぜる。
「おまえの気持ちは周もよく分かっている。ここで見送ってやれ。そしておまえは周を忘れず、若くして逝った周の分も生きてやれ」

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 胸の病で逝った人間は、その葬儀ですら遠ざけられる。死しても近寄っては伝染するという風聞があった。
 美しいままに逝ったという姉の顔を見ることも許されず、母屋でのぶに抱きとめられたまま喪服をつけ歳三はただ座っていた。
 そのため死という感覚はどこまでも不明瞭で、おぼろなものでしかない。
 ただ二度と姉周に会えないという思いが胸に突き刺さり、重苦しい中、家族はみな沈痛の顔をしうつむいているとき、歳三の目からは涙がポロポロと流れた。
「歳三」
 周がそっと袖を掴み、歳三の目をぬぐう。
「歳三は男の子でしょう。男の子はね、どんなに悲しくても悲しくないという顔をしていないといけないの。それから男子たるもの涙は母さまを失った時しか流してはいけないのよ」
 ダメな子ね、と袂で涙をぬぐうのぶの目からも大粒な水滴が落ちていった。
 沈痛の中で行われた葬儀は、のぶの横で座っていただけである。時折兄たちが幼い歳三のことを気にし、親戚たちが弔問に来る中、膝に乗せてくれてもいた。
(周姉……周姉)
 歳三の中に、喪失という思いがにわかに広がる。
 唇を噛む歳三を見て、兄は「歳三は強い子だ」と頭を撫ぜるが、歳三の心の中に広がったのはまた居場所のなさだった。
 何故なのか。
 姉周の死がまた一つ、歳三に「居場所」のない思いを強く抱かせる結果となり、幼い心には家の中においての意味不明な孤独感に若干苛まれ続ける。

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 だが姉の喪失を実感し感慨に浸るまでもなく、
 土方家では再び災厄が訪れる。
 姉の看病疲れもあったのだろう。間もなく、母恵津が倒れた。


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宵ニ咲ク花の如シ 01-9

宵ニ咲ク花の如シ 序章1

  • 【初出】 2007年6月9日
  • 【修正版】 2011年12月18日(火)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。