宵ニ咲ク花の如シ

2章

 長州藩の私費留学生として練兵館の寄宿生となった桂小五郎は、入塾したその日にある男に声をかけられた。
「長州の優男。そんな腕で刀をもてるのか」
 粗野な口調に、小五郎は振り返りおだやかな笑みを返すに留めた。
 偉丈夫なその巨漢は、仁王立ちするだけで他の者を圧倒する。「力の斉藤」という称号を自らが背負って立つ古風ゆかしい古武士の風格すらある男。練兵館主斉藤弥九郎が三男歓之助。 「鬼歓」の異名を持つこの男は、練兵館で一、二の強さといわれている。
「桂小五郎と申します」
「知っている。新太兄上からその名は聞いているさ」
 歓之助は乱雑な足取りで大幅な歩を刻む。
「金持ちの坊ちゃん。ついでに……その剣に何一つ気迫すらない。そんなのでよく剣を取る」
「私にも譲れぬものがあります」
 わずかに顔をあげて、小五郎は口を開いた。
「そのために剣を取るのか」
「はい」
「そういうあまさが俺はいちばんに嫌いだ」
 歓之助は竹刀を二本手にとり、その一方を小五郎に向けて放り投げた。
「取れ。その甘さ、叩きのめしてくれる」
 歓之助は最初から容赦がなかった。

宵ニ咲ク花の如シ 2-

 竹刀を構えただけの小五郎に向け、容赦のない一撃を繰り出す。気迫に殺気まで込めた重い一撃は受ければ、その身は宙に飛ぶか腕が折れるだろう。紙一重で避けようとも、次の一撃を避ける体勢は整わず、胴に竹刀をくらい壁にまで飛ばされた。
 意識を保つことすらできず、ぼんやりと真っ白になった視界を意識する。その時、頭より浴びせられた真水が、小五郎の意識を覚醒させ、痛打を認識させた。
「立て、桂小五郎。目の前に立つ敵からは一切目をそらすな。憎め、憎んで、憎んで……憎みぬけ」
「無理ですね」
 竹刀を杖代わりにしてようよう立った小五郎は、柔らかく微笑む。
「私は人を憎むことなど……できません」
 その儚げな笑みに、今度は歓之助が思わず呑まれた。
 今までどのような剣豪に立ちあおうとも臆したことはない。むしろこの胸は強いものが目の前にあればあるほど満ち足りた。
 だがこの男はどうだ。
 歓之助は笑いたいのか、それとも怒りたいのか分からない感情に苛まれていく自らにさらに不機嫌になる。
 ……初めてだ。立ちあえば立ちあうほど、苛立つ。
「誰も憎まないか。敵でも……か」
「……私には敵はおりません」
「いずれ敵はできる。憎んで憎みぬく相手もできるだろう。だが今……何のために刀を取る」
 小五郎はふんわりとした微笑を刻みつつ、杖代わりにしている竹刀を見る。
「譲れぬもののため」

宵ニ咲ク花の如シ 2-

 その和やかな黒曜の瞳に一瞬にして刻まれた凛とした覚悟。
 この男の「譲れぬもの」は何かを知りたいと思った。
「あまったれ小僧が」
 だが今はふん、という鼻息と笑いとともに、歓之助その考えを無視する。ついでに竹刀をその場に叩きつけて背を翻した。
「この後、ご指導よろしくお願いします。歓之助さん」
「その前にその甘ったれた性根叩きなおしてくれる」
 その心根はやさしいのは誰もが認める。穏やかに花でも愛でているのが似合う男だと思った。
 陽の光の中を歩くには、この男には太陽の日差しは身を焼くほどの熱でしかなく、そう月の光の下を歩くのがちょうどよい。そして月光は隠されたこの男の本性をわずかに照らす。
 一太刀交えて気付く……この男の剣は月夜にこそ冴える。
 月光に照らされ舞の如し軽やかにして美しく……儚いまでに凄絶に。
 その剣はこの国に冴え渡ろう。
「できるくせに、できることを知らんから腹が立つのか」
 まぁよい。これから、たっぷりとしごいて、いつまであの奇麗事が続けられるか試してくれよう。


 小五郎が入塾したその日から、斉藤一族きっての風来坊たる歓之助は、ほぼ毎日師範代として竹刀を取った。
 それは練兵館では珍しいことらしく、古くからある内弟子は目を点にして歓之助の稽古を見つめた。通常の稽古時間は、門下生に手加減をした立ち合いや剣さばきを教えていく。だが歓之助の目的は稽古が終わる夕方から始まるのだ。

宵ニ咲ク花の如シ 2-

「桂小五郎」
 半年ほど前に入塾した長州藩士桂小五郎は、練兵館の門下生中一番打ち身擦り傷が絶えず、いつも顔以外のどこかが包帯で巻かれていた。
「少しは性根が曲がったか」
 歓之助のドスが聞いた声に、返すのは柔らかな微笑み一つ。
 練兵館入塾者は、強さとは別の意味でこの小五郎を心から「怖いもの知らず」と思っている。
 なにせ歓之助に臆することなく、いつも泰然と変わらぬ接し方をし、向けられる竹刀を微笑みながら取る。
 夕刻から始まる稽古を一度でも見たことがあるものは、いつか小五郎が殺されるのではないか、と本気で心配し、師範たる弥九郎に掛け合ったものまでいた。
 歓之助の父たる弥九郎はのほほんとこういったものだ。
「歓は真に強いものしか相手にせぬよ。立ちあいを所望するとあらば、桂はその一撃を受けるに値する力があるのじゃろうて」
 気にすることはない。歓之助は一対一で立ちあうときは手加減はできんが、人の力量はちゃんと知っているそんな男じゃて。
 塾生はとても小五郎が強いとは思えなかった。
 いつも穏やかに、気迫も殺気も微塵すらなく、道場の隅っこで剣の型を確かめるばかりの優男。
 剣術を取るよりも、詩や書家で大成しそうな。または学問でも小五郎は十二分に食べていくだけの教養すらある。
『私は一つを覚えるのに、人よりも数倍かかりますから。隅で黙々と稽古をするしかありません』
 と、謙虚に小さく呟く小五郎の剣筋は、とてもとても歓之助と対峙して受け止められる資質などなきに等しい。

宵ニ咲ク花の如シ 2-

あの細い腕がいつ砕かれるか、と同じ長州藩の仲間は特に気に病んでいる。
 その日も夕刻より歓之助と立ち合いとなった。新入塾の少年たちが、脇で師範代の斉藤家長男新太郎に指南を受けている中、歓之助と対峙するのは小五郎一人。一撃は避けられるようになったが、俊敏に刃を返し猛追で打って来る第二撃を封じる手は、未だに試行錯誤中だ。
 胴を打たれ、防具もつけていない体は軽軽と宙に飛び。
 少年たちの息を飲む音が小五郎には聞こえたような気がした。
 目の前が真赤になり、その赤に包まれる感覚の中、あぁ、と不意に脳裏によぎる光景。
 椿の花とともに刻まれた血を吐く長姉捨子の、憎しみと悲しみに満ちたあの瞳。
(姉上……)
 壁に身を打ち付けられた痛みよりも、姉の姿によぎるこの胸の感情の方に小五郎は痛みを覚えた。
「小五郎」
 歓之助の声が脳裏の面差しを跳ね除ける。
「まだ、だ。もう一手打って来い」
 悲鳴をあげる体をどうにか気力でたち、呼吸を整えたとき、不意に道場の外より醒めた気が自分に向けられるのを感じた。
 妙に道場にそぐわぬ気に、小五郎はなぜか一瞬で馴染んで、体に浸透していく。
(どんな人なのだろうか)
 歓之助に視線を向けながら小五郎の心は外に捕らわれていた。


宵ニ咲ク花の如シ 2-

 そう目と目が合ったとき、抑えても抑えきれぬ生気がみなぎる切れ長の瞳に、小五郎は親しみを覚えた。
 胸によぎった想いは「類似感」であったかもしれない。
 秀麗なあまい容姿は人目を惹き、人として闘気も生気も漲るその目はハッと息を飲ませる。
 自分とは対局にあるような健康的な少年に、一瞬でなぜ「類似」を思ったのだろう。
 小五郎の胸に怪訝が生じた。全身を包むかのような激痛に苛まれながらも、頭はその少年のことを考えている。
(なにか……気になる)
 道場より足をひょこひょこ引くようにして外に出た小五郎を、背後から付かず離れずの距離を保ってついてくる影。
 口元に笑みを少し滲ませ、小五郎は庭の井戸に向かった。
 歓之助の稽古が終わると、一人で訪れるのはここと決まっている。
 それも人がないことを確認して、だ。
 稽古着を右肩半分のみ外し、井戸よりくみ上げた水にぬぐいを入れて軽くしぼり、それを肩にあてた。
 一撃をかすめただけの肩は脱臼はしていないはずだ。受身だけはここ半年で十分に卓越したことだけは、小五郎も認められる。
 だが拭いの冷たさが体中に染み渡り、水が体内に染みるそのことだけに痛みを催すこの体。
 ギュッと唇を噛み締め、痛みを耐えようとも、耐え切れぬ何かが口より飛び出し、小さな声となる。
「…………」
 剣の道を選んだことに悔いはない。
 古くからの知人や親戚一同は「学問か書家の道」を行くことを

宵ニ咲ク花の如シ 2-

望んだが、桂家の当主として、また長州藩士の一人として、この難局たる時勢に行きゆく道に、小五郎はあえて人を守れる「剣」を選んだ。
 自嘲しつつ懐より打ち身の塗り薬を取り出す。いつものように肩に塗り、湿布をあてねばならないのだが、どうもうまくいかない。
「アンタ不器用だな」
 背後からかかる声に振り返りもせず、小五郎は微笑んだ。
「よく言われますよ」
「貸してみな。やってやる。こういうことだけは俺はうまい」
 傍らに並んだ少年は、背丈は長身といわれる小五郎より一寸ほど低いだろうか。
 塗り薬を手になじませ、なれた手つきで小五郎の右肩に塗っていく。と、彼が下に置いた薬箱が目に入り、あぁ薬売りの行商人か、と小五郎は判じた。
「上手ですね」
「薬売りだからな。それにしても……随分と打ち身がひどいな」
「えぇ。私は……この道場でほとんど剣を使えない未熟者ですから。歓之助さんもよほど苛立つようで、こうしていつも稽古をつけて下さるのですよ」
 先ほどのを見ていたでしょう、と小五郎は傍らの少年のキリッと程よく吊り上る役者の如し瞳を見据えた。
「未熟……。未熟なものにあの鬼歓が本気になるか」
「……苛立っておりますし。本気など恐れ多い」
「本気さ。それはな」
 彼は薬箱から包帯やら湿布を取り出し、小五郎の右肩にあててくれた。

宵ニ咲ク花の如シ 2-

「アンタが鬼歓を苛立たせるほどに、強いからだろう」
 きょとんと思わずなった小五郎は、すぐに口元に微苦笑を浮かばす。
「慰めてくだされてありがとう」
 すると彼は少しだけ茫然となり、その後に声をあげて笑い始めた。
「アンタ……生粋の武士か。薬売りの俺に礼儀正しく頭まで下げる」
「それがなにか?」
「骨の髄まで武士なら、商人など卑しむ。いや……人は人と扱う奴もいるが、その性根のどこかに卑しむ心がある。だがアンタは……違うな。あんたのような人間は始めてだ」
 小五郎には理解不能な一言であり、そして身に流れる血は生粋の武士のものではない、と戒められたような気がした。
「私は医者の倅ですから」
 桂家の当主として、長州藩士として一角の男であろうと、今まで肩肘はって生きてきたことを、彼は一目で見破ったのではないか。
「……医者の倅が名門練兵館に通えるのか」
「縁あって士分の養子になりました」
「それで……アンタ、辛そうだな」
「はい?」
「なんだか知らないが辛そうで、ついでにその目にその歳で孤独が垣間見える。アンタ……あんまり良い境遇にいないだろう」
「………」
「俺はそういうのは分かる。十人兄姉の末っ子で、体が丈夫ならさっさと養子に出されるはずの身だったからな」

宵ニ咲ク花の如シ 2-

「そうですか……」
 肩に包帯もまいてもらい、その慣れた手つきに感心ひとしおだった。
「よし最期はこれだ。石田散薬という飲み薬。打ち身にきくぞ」
 袋を渡され、そこには太文字で「石田散薬」と書いてある。
「打ち身、擦り傷、打撲。なんでも一瞬で聞く家伝の特効薬だ。ほら、これで飲め」
 と、今度は徳利をポイッと渡された。
「ありがとう」
 にこりと笑い会釈も付け加え、まずは粉薬を口にいれ、そのあまりもの苦さにすぐに徳利の中のものを飲みほした。
「!」
 激しく咳き込んで、わずかに涙目で彼を見据えてしまう。
「これは水じゃ……」
「石田散薬は酒で飲み干すに限るんだ。効くぞ」
「なんだかふらふらするような」
「アンタ、下戸か」
 彼は少年らしい笑いを口にのぼらせる。
「いや……。でもあまり飲める方ではないかもしれないね」
「ふーん。じゃあけっこう咽喉にくるだろう。濃度が強い酒だからな」
 エッと目を剥いたときには、すでに遅し。目の前がゆらゆらと揺らぎ、膝を折り支えていた体が……保てない。
「これは……」
「そうだろうな。酒が強くないとあっという間に倒れる。けどな起きたら痛みがほとんどない。あぁ二日酔いがあるかもしれないが」

宵ニ咲ク花の如シ 2-

「……あ……」
 その場にばたりと倒れたとき、ふわっとした良い気分だった。
 同じ意識を失うでも、歓之助に打ちのめされるときとは違う。とても心地よい。
 おぼろげの中で、小五郎は彼の袖を引いた。
「君……君の名は?」
「俺か? 薬売りの歳。そのうちまた顔を出すから、少しは歓之助の追撃を避けれるようにしておけよ」
 彼は自分を肩に担いでくれようとした。
「おーい。小五郎。和田の倅」
 遠くから小五郎を呼ぶ声がこだまする。
「お仲間のようだ。俺はいくな」
 担がれるはずだった体は地に横にされ、最期の意識の中、小五郎は彼の袖を離した。
「……ありがとう」
「またな。和田小五郎殿」
 薬箱を担ぎ颯爽と翔けて行く音が響いた。
 小五郎はもう開くことも適わぬ目を強引に開いて、彼の背中を見ようとしたが、それは適わない。
 ……和田小五郎。
 それはもともと彼に与えられた名。だが今はもうそう呼ぶものは、ほとんどいない。耳に馴染んで離れない彼が呼んだ名は……本来その名を背負って生きていくはずだった自分。
「おーい。桂。和田の子倅……どうした」
「小五郎」
 共に練兵館に留学となった仲間の後ろにある顔を見て、小五郎はホッと息をはく。

宵ニ咲ク花の如シ 2-

 大丈夫。あなたがいるなら。
 自分はここで意識を失おうとも、安心できる。
 安堵の表情で意識を失っていく中、力強い手が小五郎の体を抱き上げた。
「小五郎よ。おまえ……何ゆえ酒など。……忘れたか、酒に弱いだろう」
 その声は耳に入ることなく、
 小五郎は夢の中に導かれていった。
▼ 宵ニ咲ク花の如シ 三章へ

宵ニ咲ク花の如シ 2-

宵ニ咲ク花の如シ 2章

  • 【初出】 2007年12月17日
  • 【修正版】 2011年12月19日(水)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。