宵ニ咲ク花の如シ

4章

 ……小五郎さん。
 姉捨子が柔らかく微笑みつつ、庭に咲く花をそっと摘んでいる姿。
 鋏で花を一瞬の躊躇いもなく手折るその姿を、小五郎はジッとみている。
『小五郎さん。あなたは花を手折るのにも痛々しい顔をする優しい子ね。花は美しくあってのもの。その美しさをより多くの人に見てもらうことも、また幸せよ』
 こんな庭の片隅に咲いていては、その美しさを目にするのはほんのわずかな人間にかぎられてしまうわ。
 姉は積んだ花を客室に活け、その日近所の親しい人を集めてささやかな茶会を開いた。
 誰の目にも床の間に飾られたその黄色の花は、鮮やかにしなやかに映っただろう。
 そっと客間を覗いたとき、小五郎の目には確かにその花は活き活きと輝いて見えた。美しくも見えた。だが、庭先で日に当たり輝く姿も、月光を浴びて咲く姿も、また綺麗だった。
 人それぞれの美の捕らえ方があり、人それぞれの目に映る美は違う。
 庭に咲いていれば花はこの夏の終わりまで咲いてあっただろう。生きていられた。その綺麗さが小五郎の目を楽しませてくれたに違いない。されど、今、このように大勢の人の前でその美をあますことなく主張することはできなかった。
 人気がなくなった茶室に入り、床の間の花を見つめる。

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 庭にあったときとは違いその凛とした佇まいを、薄暗さの中、ただジッと意味もなく見ていた。
『小五郎さん』
 袖をたすきがけにしていることから、夕飯の支度をしていたのだろう。姉は小五郎の横に座し、同じように花を見つめる。
『花も生き物。人も生き物。いかにして生きるか、いかにしてあるのか。その見極めが大切。人にどう映るかではなく自分がどう見るか、どう思うかですよ』
 未だ三歳の小五郎は、姉の自分と良く似た黒曜の瞳を見返すしかなく、その意味は分からなかった。
 時に憎悪の目をあますことなくぶつけてくることもあったが、この頃は姉は小五郎には厳しくもあり、優しくもある。凛としてたおやかなまさに花のような人であり、
 そんな姉が誇らしく、なによりも好きだった。
 後に振り返れば、この姉こそが自分の初恋だった、と小五郎は笑う。


「小五郎」
 枕元より響くその声に、夢現の状態だった小五郎はゆっくりと目を開けていく。
 それは仲間とともに使用している部屋の一室。いつもと同じ天井の木目が小五郎の目に飛び込んできた。
「稽古中に酒とはどうも小五郎らしくないね」
 枕元には友人の来原良蔵の姿がある。
 一瞬未だ夢現から覚めていなかったためか友人の姿を認識するのが遅れ、またその横にいる男の姿をも意識するのも遅れた。

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「うまい酒か、小五郎。わしにも飲ませろよ」
 酒という言葉に現実を認識し、その瞬間猛烈な頭痛が体内を襲ってきた。
「いわゆる二日酔いじゃて」
 ハッハッハッと笑ったのは、もはや相棒に等しい徳利を取り出しそのままゴクゴクと飲み干す姿が妙にさまになる周布政之助である。
「酒が苦手な小五郎が、まだ宵になる前より飲むとは……ここの稽古はそれほどに苦しいのか」
 その声が頭に響き、小五郎はつい耳を押さえたくなった。
「打ち身がいっぱいのようだけど痛くはないか」
 そういえば毎日稽古の後は身体中に激痛が走り、眠るのも困難な身体だというのに、酒の影響でかぐっすりと眠れ、しかも打ち身の熱や痛みが引いている。あの薬売りが飲ましてくれた石田散薬は思いのほか効いたようだ。
「良く効く打ち身の薬を、渡された御酒と一緒に飲みました。まさか御酒とは思わなくて……ご面倒をおかけしました」
「これまた小五郎らしい。じゃがその打ち身の飲み薬か? ようけん効くようじゃて」
「そうですね」
 今度あの薬売りが訪れてくれたならば、よぉくお礼を言って、たんと薬を購入しよう、と小五郎は思う。
 確か名は「薬売りの歳」と言っていたはず。
(歳……歳殿か。私と同じくらいの年齢の人)
 あの端麗な男前の姿を思い出し、姿も口調も思わず「格好良い」と思ってしまったことを思い出す。
 またすぐにも会えるような気がして、思わず笑みを作った。

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「……お二方おそろいで何かありましたか?」
 この藩の中枢にある周布と、若手有望株とまで言われる来原が二人そろって自分を訪ねてくる、という稀有さに小五郎は首をひねった。
「みなが、練兵館では小五郎だけ苛め抜かれていると言っていてね。少し様子を見に……というのは口実だけど」
「わしがお前の後見役じゃ。藩邸にまったく顔を出さぬ親の遺産がたんとある私費留学生。少し説教をしてくれようと思ったんじゃよ」
「周布さん。あなたの酒癖の悪い説教は若者には嫌われます」
「うるさいぞ良蔵。わしは酒癖が悪いんじゃない。酒は水と同じじゃ」
 そういって酒を飲み続ける周布を止められるものはいない。
 私費で江戸留学生となった小五郎は、後見役に父と親交があったこの周布政之助を頼った。
 周布は藩の執政であった村田清風に若くしてその才を認められ、藩の中枢に今ではある。そして多くの才ある若者を異例とまで言われる大抜擢をし、賞賛もされるが陰口も叩かれていた。
 元来より長州藩には「首相政治」といったものが整い、中枢にて政務を司るのは家老という名家のお歴々などではなく、政務役という地位にある中級士族のものである。
 長州藩にて高禄なものは代々の家老職など歴任するが、これは既に名ばかりになって久しい。藩において中級ほどのものが実際の政務を司る。他の藩に抜きん出て長州藩はこの制度を実用化し、藩政改革を成し遂げた。実を取る国柄で、また若者も大切にする。
 改革路線の村田清風派閥の周布と、保守系で周布よりは一歩

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先を行く椋梨藤太。この二人が互いにせめぎ合い対立を繰り返し、後に交互に政権を担当する時期を長州藩は迎える。
 来原良蔵は小五郎よりも四歳年上で、明倫館時代に親交があった人物である。現在は小五郎同様に江戸留学中の身だ。行動力のある来原は他藩のものと親交を結び、今は肥後の宮部鼎蔵という人間と親しく付き合っていると聞く。気風も良く男前で、一見怜悧的で冷たくも見えるが、むしろ情熱的。信念もある。まさに男が見て惚れる男の来原。
 その来原と行動を同じくするのが、明倫館時代小五郎も師事した吉田寅次郎である。白熱した議論や国政を論じているようだが、小五郎は何度も誘われようとも未だにそういう場に顔を出しては居なかった。
 今の自分に必要なのは、国を論じるよりも、この未熟な剣を磨くこと。
 一つのことを納得できるほどにやり遂げて後、この心に少しでも余裕ができたならば、一人の男として国を思い国を論じたいと思う。
 剣ありき。人を傷つけるのではなく、人を守る剣を貫く心。
 剣を手にする時、必ずやこの目に浮かぶは国に残してきた妹であり、近所の幼馴染の屈託のない笑顔であった。
 守りたい、と強く念じる。
 この剣をもって守れるものは少なかろうとも、国を論じ国を守ることを考える前に、小五郎は大切な人たちをこの手で守ることの方に重きを置く。
「たまには顔を見せなさい。心配しているのだぞ」
 端正な顔にわずかに心配の色をのせて、来原は小五郎の額をトンと叩いた。

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「顔を見に来れば酒に酔いつぶれて……しかも身体中は青痣ばかり。剣術道場に通うものは皆似たり寄ったりというけど、小五郎の場合は皆が心配するほど……稽古が厳しすぎるようだ。もとから身体も弱く、それに……小五郎は剣術よりも学でも生きられるのだから」
「無駄じゃ無駄、良蔵。何度わしが説得しようとこいつは頑ななまでに剣にこだわっちょる。そういうところが親父と似たんじゃろう。石頭じゃ」
 周布は豪快に酒を飲み干し、空になった徳利を名残惜しげに覗いた。
 小五郎は頭がガンガンとし、半分以上周布の声を聞き取れずにいた。酔うと周布は声が大きくなり、喚くのが癖で、今のこの時には大いに迷惑である。
「剣一筋ばかりではなくて、たまには目を違う方に向けてみないか? 寅も小五郎のことを気に掛けているよ」
 吉田寅次郎とはどことなく馬が合ったため、萩にある頃は、小五郎はよく二人で遊びに出かけたものだ。
 好奇心の虫である寅次郎の遊びと言えば探検やら、今話題の心霊場所に原因追及に赴くやらで笑えることばかりであった。
 酒を飲めずあまり食が太い方ではないため、寅次郎は暴飲暴食とは無縁で、子供のような顔で凧揚げなどを楽しむ。
 そんな人が小五郎はとても好きである。
『桂くん、桂くん。今日は蛸をあげよう。空高く風に乗る蛸を見るのが僕はとても好きです』
 よく空を眩しげに見つめて、雲の流れを追い、野原に寝転がって大自然を楽しんでいた寅次郎。
 江戸に出てきた当初はよく小五郎もお江戸見物に付き合った

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ものだが、この頃はめっきり音信普通になってしまっている。誘いを断り続け、自分からは決して会いにはいかない。他藩の藩士と付き合うようになり、また佐久間象山という偏屈だが高名な学者の門下生となっている寅次郎。もう昔のあの寅次郎ではなく、変わってしまっているのではないか。
 ……会うのが怖いのだ。
「私は適うならば剣で生きていくつもりです」
 少しばかり頭痛が引き、ようやく小五郎はその場に起き上がった。
 見れば寝巻きをきている。おそらくこの二人が着せてくれたのだろう。その時に痣を見られたに違いない。
「剣に生きるものに国政は今は無用です」
 後にこの剣を選んだことにより、長州の若き外交官とならざるを得なくなるとは知らぬ小五郎である。時の皮肉と言わざるを得ない。
「じゃが小五郎。一介の男子たるもの、広き場に出て親交を深めるのも良いことじゃ。おまえも後々は長州藩を背負う男子」
「周布さん」
「おうおう。一介の男子ではなかな。まだまだ小倅じゃったか。ならば論ずるよりも遊びが大切じゃな。遊ばん小五郎を今宵は吉原にでも」
「ご免被ります」
「逃げるな。今が青春真っ只中じゃろうが。男たるもの一度は吉原にな」
 思わず真赤になった小五郎は、頭痛もあることから、そのまま蒲団を覆い被って逃げた。
「小五郎! 男にならんといけんぞ」

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「そんなことで男になりたくはありません」
「恋の一つや二つはせんとな」
 恋、という言葉にドキリと胸が鳴り目に浮かぶは、元気なころの長姉捨子の凛とした姿である。
 ……小五郎さん。
 今でも耳より離れぬその声は、淡い感情と痛みと苦しみを常に小五郎の心に滲ませた。
 ……あなたが生まれてこなければ……。
(……姉上……)
 時に笑いながら「呪われた子」といい、時に泣き叫んで憎しみをぶつけるように「呪われた子」と突きつけた姉。
 あの凛として優しげな面立ちの人の心を壊したのは、二十歳も年下の異母弟たる自分であることを小五郎は知っている。
 婿を取り跡取り娘として幸福に夫や子供たちと過ごしていた姉のその平穏をやぶったのは、父が後妻として迎えた清子との間に儲けた自分という存在だった。
 和田家の跡取りを巡り、平穏だった生活を脅かす存在として姉は小五郎を憎み、
 されど半分血の繋がった年の離れた弟としての愛情を捨てきれず、曖昧さと愛憎の葛藤の中、苦しみもがいた。
 後に小五郎が桂家に養子に入り、和田家の跡取り問題は幕引きとなったのだが、その時には姉は心労のあまり病んでおり、心は狂気に捕らわれ、感情を制御することができずにいた。
 養父母が死去し、実家で養育されるようになった小五郎に、狂気から手を上げ、そして苦しみの言葉を吐き続けた。
『呪われた子』
 おまえは誰にも愛されはしない。誰を愛することも許さない。

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 姉の言葉は胸に棘となって刺さり、それは今なお抜けず、ことあるごとに小五郎の心をチクリと傷める。
「こりゃあ小五郎。大の男が蒲団に逃げるな」
 周布はバサッと蒲団をめくり、小五郎の体に手を添える。
 姉の呪縛が撃ち破られ、小五郎はぼんやりと周布の目を見た。
 息を呑んだのは周布の方である。一挙に酔いが覚めたという顔をし、食い入るように小五郎の顔を見て、
「やはり弟じゃな。捨子さんの目によう似ている」
 ため息を一つ落とした。
「……周布さん?」
「和田の跡取り娘の捨子さん。凛として気丈で、時折見せる儚さは……わしは昔憧れとったんじゃ」
 周布は昔和田家に患者として通っていたおり、庭先で時折見かける捨子に少年の淡い思いを抱いていたことを白状をした。
「すごくきれいな人だったんじゃて。十歳年上で、色気もあり、時に少女の幼さもありで……憧れじゃった」
「そうでしょうね。小五郎の姉君となるとさぞや……ですし」
「母違いだからさして似ておらんとおもっちょったが、やはり目はようにちょる。その黒曜の瞳は……姉君に瓜二つじゃな」
 初めてのことといえた。姉に似ているなど他人に言われたことなど今までに一度もない。
 小五郎ですら八歳の時に亡くなった姉の面差しは、霞がかったようにおぼろげで、鮮明なのは声だけだというのに。
 今、似ている、といわれ、驚きとともに胸に沸いたのは慶びでもある。
 この片方の血しか姉と繋がるものはないと思っていた。姉との縁を探すものは皆無に思えた。何一つ形見の品もない。

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 この目が……そう思うと鏡を見るたびにこの目に姉の面差しを探せようか、と心が浮く。
「よし決めた。思い出話に花を咲かせるのじゃ。飲むぞ。飲みに行くぞ。……近くの神社の境内で祭りをやっちょるという。宵店にくりだそう。せっかく二日酔いになっているんじゃ。今日は酔いつぶれろ」
「待ってください、周布さん。私は寄宿生で、門限が」
「それは大丈夫だよ、小五郎。今日は君を誘ってくり出すつもりだったから、弥九郎先生にはすでにお許しをもらっている」
 来原が最初に様子を見に来たというのは口実、といった訳がようやく分かった。さらに頭がガンガンと痛くなり、小五郎はまた蒲団を覆い被ろうとする。
「良い若者が、夜を一人でなにをしちょるんじゃ。たまには酔いつぶれるのも男の経験のうちじゃ。今日は吉原は勘弁しちゃる、参るぞ」
 立ち上がった周布が、小五郎の腕を掴んだ。
 さぁさぁ行くよ、と来原が穏やかに笑いながら、ポイポイと長持ちから衣を放り投げてくる。
 観念しつつも、まだ二日酔いがおさまっていないため、小五郎は重いため息を吐くしかなかった。

 まだ人の賑わいがある宵のうち。
 祭りの屋台の灯りは、三人が飛び込むまでは、消えずに灯っていてくれるだろう。
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宵ニ咲ク花の如シ 4-

宵ニ咲ク花の如シ 4章

  • 【初出】 2008年7月22日
  • 【修正版】 2011年12月19日(水)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。