宵ニ咲ク花の如シ

7章

 ピッタリと引っ付いて眠っている沖田の頭を一つ撫ぜて、土方はスッと立ち上がる。
 各道場では朝の稽古は夜明けと同時に始まる。それに間に合わせ、馴染みに石田散薬を売りに行かねばならない。
 そろそろ薬の在庫も切れる。今日売り切ったならば、そのまま石田村に帰るつもりでいた。
 昨日暇乞いを近藤とその義父周斎先生に告げている。
 奉公先で諍いを起こし実家に戻った土方は、当主たる次兄喜六の妥協の末、家業の薬を売り歩くことで現在「自由」を得ているのだが、正直言って土方は実家には帰りたくない。おそらく見合い話が山のようにきているだろうし、敷居も高い。
 自らの夢を語ろうとも、その夢に理解を得られることはないのだ。人は「夢」よりも「現実」を重視し、豪農の出とは言え末っ子の土方には受け継ぐ財産がない以上は、兄弟そろって「婿入り」して早く落ち着いて欲しい、という心も分からなくはない。
(仕方ない)
 幼少の時に竹刀を握り、義兄佐藤彦五郎が設えた道場で剣術を知って以来は、どうもこの体の中の熱が燃えたぎり冷めてはくれないのだ。頭の中では世の理屈を承知している。半ば臍を曲げて斜に構えているところもあるが、土方はよく分かっていた。
 諦める理由を考えても、探せずに来た。幼馴染の近藤勇が夢を掴んだ姿を見ると、さらに引っ込みがつかなくなる。
「……あぁぁぁ!」
 腹が立つ。思いのままにはならぬこの世も、思うが侭に動かぬ

宵ニ咲ク花の如シ 7-1

この自分という人間も。
「土方さん」
 横でスヤスヤと寝息を立てていた沖田が、ポツリと声を放ってくる。
 今の叫び声で起こしてしまっただろうか。
 沖田は、起きているのか、寝言なのか分からぬ自然さで、寝息も一切途切れてはいない。
 ふと見ると、土方の着物の裾を沖田の手が掴んでいた。
「……破ってもいいから約束はしていってください。必ずここに戻ってくると」
 目を開けずにそんなことを言う沖田。
 元来勘が頗るよすぎる沖田だ。今回の実家に戻ることに何か感じることがあるのかもしれない。
「宗次郎……」
「いつも約束してくれるでしょう。次は土産をもってまた来るとか。今回もしていってください。僕は楽しみにしているから」
 そうか。そういえば今回は何も言っていない。
 それで心配になったのか、と沖田の頭をポンと叩く。
「宗次郎が寂しくなる前にまた来るよ。明日かもしれんし、そのうちかもしれんがな」
「意地悪な土方さん」
 ようやくパチリと目を開けたので、土方はコツンと沖田の額を叩く。
「もう少し寝ていろよ。まだ夜明け前には早い」
「……土方さんを見送ってあげますよ」
 と、寝巻きにわずかに上着を羽織る。初夏になったとはいえ、江戸の風はまだまだ冷える。

宵ニ咲ク花の如シ 7-2

「いってらっしゃい、といいますから、必ずただいまといって帰って来てくださいね」
「あぁ」
 こうして沖田は得てしてふわりと飛んでいきそうな土方を此処「試衛館」に留めさせる。
 初春にふらりとやってきた土方は、天然理心流の剣術を学びながら、薬を売りをし、今まで二束のわらじを履いていた。
 だが、そろそろ石田村に戻らねばねならない時期だ。家業の薬草の刈り入れを大々的にしないとならない。アレは土用の丑の日にすると決めている。
「じゃあいってくるな、宗次郎」
「いってらっしゃい」
 近藤の顔はいつも見ないでいく。どうもしばしの別れを告げると、あの涙もろい男は「うおぉぉぉ」と泣くのだ。
 別れに涙は見たくはないものである。
 振り返らずに片手一本をあげて土方は未だ明けぬ空を往く。
 試衛館を出るときは、いつも清清しい。別れではなく、またすぐに会えると心強く思うからだ。
 馴染みの道場を回ろうと思ったが、朝の静かな空間に在ると、ふと数ヶ月前に見た光景が過ぎった。
 あの鬼歓にしごきを受けていた華奢な少年の、静謐な眼差しが、どこかこの朝の空気によう似ている。
 名は和田小五郎と言ったか。
 もう一度会ってみたいと思った。
 鬼歓のあの猛追を完璧にかわすことができるようになったか。
 あの天性の反射神経と、未だ様にならぬが上段の構えを取ったときに静謐さがある。無の心境に近く静かだ。これに気迫でも

宵ニ咲ク花の如シ 7-3

あれば、恐ろしい剣士に成長するやもしれん。
 九段にある練兵館まではいささか距離があったが、土方は歩くのは好き故に苦にはならなかった。
 途中、凧揚げをしている子供に加勢をし、また駒をまわしている子どもと遊んだりする。自分ではさして気に掛けたことはないが、土方は沖田を知って以来、妙に子どもに好かれる。
 九段にある練兵館は、至る道が迷路と称されるほどに入り組んでおり、よほど道を熟知していなければ迷子となる。
 土方は昔から勘だけは他より群を抜いており道に迷ったこともなく、勘で目的の場所につくという才能に似たものを持っていた。
 八つ時を過ぎていたが、練兵館の稽古は続いている。
 格子戸より覗き見、土方はあの「小五郎」と呼ばれていた少年を探す。
 すぐに見つかった。相変わらず場違いの風情だ。剣術家とは思えぬ静かな風情と、穏やかさに包まれている。
 激しく竹刀を打ち合う場所より一人外れて、竹刀をただ振るうだけのその姿は、一種異様だ。
「小五郎」
 竹刀を担いで現れたのは鬼歓こと斉藤歓之助である。
「少しは性根は座ったか」
 小五郎はわずかに微笑む。
「始めてここに来たときはもう少し初々しかったのにな。この頃、小五郎は生意気だぞ」
「歓之助さんにそのように言われたくはありません。毎日毎日、弥九郎先生を困らせて、たまには肩くらい叩いたらどうですか」
「うるせぇ。俺は剣で生きる。学がなんだ。尊皇攘夷がなんだ」

宵ニ咲ク花の如シ 7-4

「……歓之助さん」
「おまえは、俺に煩く何も言わんところが気に入っていたんだ。うるさく言うな。俺と遊んでいろ」
 小五郎は少しばかり困った顔をして、
「我儘な歓之助さんが、私は好きですので、ご心配なく」
 ニッコリと笑うのだ。
 あの鬼歓を手懐けている。この一見華奢なだけの少年は何者?
 つい土方はマジマジと小五郎を見つめた。
「江川のおっさんのところばっかりだな、おまえ」
 斉藤弥九郎の親友に江川太郎左衛門という男がいる。東京湾岸のお台場を造ったことで知られる。当代一の兵学者だ。
 海防や西洋流砲術の専門家で、弥九郎の紹介で小五郎も、江川のもとに学びにいっていた。
 江川は温厚で人がよく思慮深い。門下生となった小五郎を子どものように可愛がってくれている。
 この江川との縁により、後に小五郎は浦賀のペリー艦隊を直に見聞することが適う。
「江川先生の所にいくと、今までにない世界が見えてきます」
「それにしちゃあよ。江川のおっさんところには行くが、どんなに誘われても佐久間のおっちゃんのところにはいかんのな」
 瞬間、穏やかな小五郎の顔色が変わった。
「そんなに十五……それより下か……の稚児と見られたのが腹立たしいのか」
「当然です」
「おまえって変な奴だよな。大事なことには穏やかで怒ることもないのによ。へんなことにつむじを曲げてばっかり」
「私は二十歳です。稚児と言われ腹が立たない方がおかしい」

宵ニ咲ク花の如シ 7-5

「おもしれぇ奴だ」
 歓之助に肩をポンポンと叩かれ前のめりになった小五郎に、「やるか」と一声。
 小五郎の目からスッとなごみが消えた。あの静謐さが前面に出され、黒曜の美しき瞳がただの一点に注がれる。
 おそらくだが、剣を握ったときが一番に美しいだろう。
 この世俗の垢をすべて流し、静かに立つ。そこに何一つ穢れがない。
 言うならば誰も踏み荒らしていない朝の清涼な空気。
「たまには打ってこいよ」
 土方は思わずフッと笑う。
 上段の構えもわずかの間で随分と様になるようになった。
 静謐と合い重なるかのように気迫が乗り、
「では」
 上段より繰り出された一撃を歓之助は自らの竹刀で受け止め、
「まだ軽い」
 と、跳ね除ける。俊敏に繰り出される一撃を受け止め、歓之助は反撃に出ると、これも俊敏さと刀で軽く払いのける旨さで制御した。
「おもしろいぞ、小五郎」
 ニヤッと歓之助は笑う。
「えぇ」
 小五郎は静かに微笑んだが、やはり未だ体力と体格の差は歴然だ。最後に小五郎が壁に吹き飛ばされるが、すぐに立ち上がり竹刀を構える。
 格段の上達にわずかな嫉妬。それを凌ぐ剣士の血が、あぁあの男と立ち合いたいという思いがふつふつと燃え上がる。

宵ニ咲ク花の如シ 7-6

「打ち身も傷もあとで俺さまが手当てしてやる」
「イヤですよ。歓之助さんの手当ては荒治療ですから」
 それから何度も立ち合い、ついには小五郎は起き上がれなくなったときに、歓之助はポイッと竹刀を捨てた。
「もう少し体力をつけろよ」
 歓之助はそれなりに満足という顔で、踵を返したが、
「歓之助さん。先生の肩くらい叩いてあげてください」
「おまえが俺さまから一本取れたらな」
 小五郎と歓之助の立ち合いに魅入っていた門下生が、ハッと我に帰るように稽古を再開する。打ち合う竹刀の音が場にこだました。
 息を吐き、小五郎は竹刀を杖代わりにして外に出てくる。
 迷うことなく土方に視線を向け、にこりと笑うのだ。
「また会えると思っていました」
 男と知りながらも、ついつい引きこまれてしまう……ドキリとする笑みだ。


「薬売りの歳殿」
 小五郎はあの別れ際に名乗った名を覚えていた。
 井戸の水を汲みながら、わずかに頬を赤らめて言う。
「あの打ち身の薬は優れものでした。酒と一緒に飲んだのでしばらく二日酔いで苦労しましたが」
「あんな酒で酔うのか。あんた初だな」
「これでも今年二十歳なのですが」
「……そうか。俺と同じくらいと思っていたが、年上か。俺は十八さ」

宵ニ咲ク花の如シ 7-7

 するとこれには少し小五郎の方が驚いたらしい。
「俺は年上に見え、あんたは年下に見える。それだけのことだ」
「……そうですね」
 クスクスと笑うとその顔はさらに童顔が際立ち、とても年相応には見えない。
「それにしてもアンタ、腕をあげたな」
「……そうですか?」
「鬼歓を簡単に避けるし、攻撃もできるようになっている」
「まだ一本も取れませんから」
「取れたら取れたで……大変だろう」
 練兵館一強いと言われる鬼歓より一本が取れるなら、師範代か塾頭に立てるのではないか。
「……かわすのがうまくなったのだろう。打ち身もひどくないが、これを飲みな。すぐによくなる」
「今日はそれほどひどくないですが、酒でなくても良いですか」
「酒で飲むのが一番なんだ。明日になれば痛みが完全に引いて痛くない」
「打ち身はすっかりよくなるのですが、二日酔いが凄まじくて」
「だから初な坊やなんだよ。よし、ちょうどいい。俺が酒の飲み方を教えてやる」
「……えっ」
「教えてやるよ」
 思えば同年代では近藤を抜かせば気軽に付き合う仲間と言うものがいない。石田村に幼馴染はいるが、ガキ大将だった土方を敬遠しており、気心知れて遊びまわれる人間もいなかった。
 こんな二度しか顔を見たことしかない相手を誘うなど今までの自分にはありえないことだ。

宵ニ咲ク花の如シ 7-8

 不思議に思うと同時に、土方はそうだな、と思う。
 始めてあったときから、あの静謐さに惹かれていた。
 手を引くと、小五郎は少し心配げな顔をしたが、すぐに何かを割り切ったかのように。
「少し出てくると師範代にいってきます。待っていてください」
 体を拭いていた手を止めた。
 その体はうっすらと筋肉はついているが、やはり華奢で肌は女性と見紛うほどに白い。
 土方も体は細い方だが、小五郎と比較すれば十二分に頑健に見えるだろう。昔よりは肌も随分と焼けて健康そのものだ。
 道場の方に翔けて行く小五郎の足取りは軽い。
 剣士とは思えぬほどに華奢で、肌が透き通るほどに白く、全く強くは見えない美剣士。
 だがそれもそれであの小五郎には似合いだな、と思うのだ。
「お待たせしました」
 何よりも氏素性も分からぬ薬売りに誘われ、元医者の家系だろうが武士が、簡単に誘いに乗るところが面白い。
 馬鹿か、と言ってやりたいくらいだ。
「薬のお礼に私におごらせてくださいね」
 この後、長く続く付き合いはこんなことから始まった。
▼ 宵ニ咲ク花の如シ 八章へ

宵ニ咲ク花の如シ 7-9

宵ニ咲ク花の如シ 7章

  • 【初出】 2009年10月13日
  • 【修正版】 2011年12月20日(木)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。