宵ニ咲ク花の如シ

6章

「桂くんは上手だね」
 寅次郎が隣で拍手を打つ音は、今だ二日酔いが抜けきらぬ小五郎の頭をガンガンとさせた。
 わずかに横を向くと、無邪気に笑う寅次郎の顔がある。
 頭は痛むが、この笑顔を見られるなら、輪投げも楽しいもの。小五郎はニコリと笑い見事に獲得したこけしを寅次郎に渡した。
「やはり桂くんは器用だね」
「そうでもありません」
「そして一生懸命で、僕は時々、君がとても可哀相でならない」
「………」
 サラリと告げられた言葉に、一瞬、小五郎は返す言葉に詰まった。
「微笑み続けるのは、自分の心を隠すためかい。……あの萩の地にいた時、君はそんな笑顔をしなかった」
 共に萩の地を「探検」と称して駆け回った寅次郎には、偽りの笑顔は通じない。自分の心を抑えるために、いつのまにか生み出していた仮面を、いつもこうして何気ない言葉が取り払う。
「私は生涯寅次郎さんには、適わないような気がします」
 照れ隠しの笑みに、寅次郎は笑顔で返し、
「桂くん、そっちのこけしも欲しいな」
「こけしばかりではなく、違うものもとりますよ。あの菓子などどうですか」
「僕は食が細いのだよ。桂くんと一緒でね。口うるさくいうものがいないと、食事は忘れてしまう」

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「……そうでしたね」
「来原さんがいっていたけど、桂くんも僕と同じみたいだね。まったく食事を取らない」
「取っていますよ。取らねば稽古についていけませんからね」
 神道無念流練兵館の稽古の厳しさは名高い。
 その塾生として住み込みのモノは、通いの塾生と比較するとさらなる厳しい稽古を強いられている。
 小五郎が投げた輪が、ヒョイと寅次郎が指差すこけしに入る。
 にこりと笑った寅次郎の無邪気さが、小五郎にはくすぐったいような、照れるような歯がゆい思いをさせたが、
「君が剣術とはね」
 わずかに下を向いた寅次郎の顔からは、笑顔が消えた。
「桂くんほど剣術が似合わぬ者もいない。君は……剣を握らずとも生きていける」
「寅次郎さんは剣術家はキライですね、昔から」
「そうだね。剣は凶器……だけど、僕は君が好きだよ」
 何一つ躊躇うことなく、素直に人に気持ちを伝えられるこの強さに、小五郎はいつも憧れる。
 自分も人には「素直」といわれるが、小五郎は寅次郎に比べると格段に不器用といえた。どう自分の感情を表現し、どう相手に伝えれば良いのかが全くつかめない。
「私も寅次郎さんのことがとても好きです」
 時に寅次郎の無邪気な一途さに畏怖を抱き、時にその無邪気さに救われる。いったいこの人はこの「無邪気」なまでの好奇心で、どこに行こうとしているのだろうか。
 いつか寅次郎の思いが、何かの形となり、長州藩ひいては国を動かすような……そんな気がこの時はした。

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 それは不安なのか、それとも警戒か。または慶びか、それとも……恐れか。
 小五郎は、友人として寅次郎の気質を愛し、一人の長州藩士として危機感を抱き続ける。
「桂くん。君は政治家に向くのではないかと思っていたよ」
「ご冗談を。私は一介の練兵館の住み込み塾生。その私がどう政治家に?」
「いずれ……そうなると思っている。君は……自分では自分の気質を分かっていないのだね。天性というものが君にはあるよ」
「私はつまらぬ男ですよ。大切な人を守り、一生平々凡々と穏やかに堅実に生きていきたいだけです。そして剣の道で生きていければもう何もいりません」
「……桂くん」
「そんなつまらぬ男にお気遣い下さいますな。蝦夷地や長崎に異国の船が接近していることよりも、私は……剣の奥義の方に心が向きます」
 また輪がこけしの中に入り、店主より小五郎に小さなこけしが渡された。それを寅次郎に渡し、小五郎はにこりと笑う。
「正直こけしを愛でる寅次郎さんに、私はホッとしています」
 寅次郎はわずかに茫然とし、すぐにクスクスと笑い出した。
「次はお菓子だね。そうだ……近くにおでんが出ていたよ。一緒に食べようか」
「少しばかり……胃に物が入りそうもないですが」
「大丈夫。僕もほとんど食べれないから、少しだけね」
 また寅次郎に手を引っぱられ、今度は屋台に連れて行かれた。
 ちょうど周布と来原も追いつき、周布は「酒が飲めるところだ」と一つの屋台に強引に引き込む。

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「だから周布さん。あなたは酒の飲みすぎです。少しは……人の迷惑というものも知ったらどうですか」
「煩い良蔵。おまえは人を見れば小言ばかりで疲れる」
「あなたのような人が長州人だと思うと、もう私は情けなくて情けなくて」
「うるさい」
 その屋台の暖簾を潜れば、五、六人が座るのが精々のこじんまりとした広さしかなかった。客は一人の青年のみで、酒を飲んでいる。
 背後で人様関係なく喚いている二人のおかげで、小五郎は少しばかり肩身が狭い思いをしたが、
「おぅ、いいね。賑やかな人。一人で酒を飲むとどうもわびしくて、一緒にどうだい」
 その快活な物言いに、周布がすぐに食いついた。
「酒は賑やかに飲むのがいちばんだ。そこの御仁、よう分かる」
「もちろんだ。酒はしんみり飲むのがよいというものもいるがね。こちとら楽しく飲むのが酒というもの」
 一瞬にして何かあい通じるものを感じたのか、周布はその男の隣に座り、すぐに熱燗を共に飲み始めている。
 年のころもおそらく同年齢だろう。
 その男をジッと見つつ、寅次郎がわずかに首をかしげる。
「どうしました? 寅次郎さん」
 小五郎も座り、とりあえず軽く食せる小料理を頼んだのだが。
「あの御仁、どこかでチラリと見たことが……」
 記憶力の申し子たる寅次郎が、すぐにも思い出さないところから見ると、本当にチラリと見たくらいなのだろう。もし名乗りをあげていれば、その男の名を忘れるものはほぼおるまい。

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 掘りの濃いまさに端正で男前の姿と、剣術か何かで鍛えているしなやかな体つき。小五郎から見ればうらやしい体格だ。
 どれだけ剣術に励もうと、小五郎の体格はさして変貌を遂げない。わずかに薄い筋肉はついているが、生まれつきひ弱な性質だったためか、「華奢」な体格のまま変わらなかった。
 誰が見ても剣術をしているとは思われず、誰からも「学者がよくあう」とまで言われる。
 昔はそれが悔しくて、どうにか体格を変えねばと思った時期はあったが、人間努力ではどうにも補えないものがあることを小五郎は知らされた。
「そうだ」
 寅次郎は立ち上がり、
「佐久間象山先生のところで、あなた様の顔を見たことがあると思うのですが」
「象山……だと」
 青年はいかにも嫌な名前を聞いたとばかりに立ち上がり、寅次郎を睨み据えてきた。
 佐久間象山。通称修理。蘭学・兵学者として、また発明家としても名が知れ渡っている松山藩士の名である。現在、当代一の洋学の権威でもあり、多くの人間が彼に師事しているが、性格の方は本人曰く自らを「国家の財産」と称するほどに自信家であり、自信過剰で傲慢といわれている。
 昨今、寅次郎が弟子入りしたとは聞くが、小五郎も佐久間とは数ヶ月前に会ったことがある。
 というのも練兵館の師範斉藤弥九郎と佐久間象山は、なぜか旧知の仲で、よく佐久間は練兵館に酒を飲みに来るのだ。
 給仕に出た小五郎を見て、佐久間は、

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『わしは人の美しさなどにさして興味はないが、君は可愛い。ざっと十二、三……いや幅を読んでも十五くらいの年か』
 などと言われ、思わず絶句した小五郎に、
『失礼したわい。もっと下だったか』
 と、しゃあしゃあと言われ、珍しく怒り心頭に発した小五郎は、思わず酒を佐久間の顔にぶっかけた。
『私は二十歳を超えております』
 これには当の佐久間の方が絶句したらしく、その後弥九郎とともに腹を抱えて笑い出したのだ。
『この佐久間象山に酒をぶっかけたのは、君が二人目じゃ。一人目は妻順の兄でな。既成事実と同棲を引き下げて結婚を申し込みにいったら酒をぶっかけるは、その場で刀を振り回し、殺される寸前じゃ。二度と顔を出すなやら。自分からして女たらしじゃろうに』
 その話を聞いて、熱燗をぶっ掛ければよかったと小五郎は思ったほどである。
 結婚に対してサラサラ道徳観を振りかざすつもりもないが、同棲やら既成事実をしゃあしゃあと言ってのける男に、妹を下さいと言われた時の兄の気持ちは如何なるものか。
 このような男に妹の治子を下さいなどと言われたら、自分とて刀を抜くと本気で思ったことを思い返している間に、
 酒の徳利を持ったまま、その青年の目つきはさらに鋭くなり、
「こんなところであの偏屈な男の名を聞こうとは思わんかった。わしを見かけたなら、アレのところに乗り込んだときだろう」
 青年は明らかに佐久間象山によい感情を持ってはいない。
「アレのところの塾生か。アレを師匠などと崇めるなよ。アレはまだ年端もゆかぬ妹を手篭めにしやがり、その口で嫁にくれなど

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と言いやがった。妾には既に子どももいる状態でだ。年の差二十。許せん」
 小五郎はハッとした。
 佐久間が話していたことと、言葉の符号が一致したのだ。
「あなたがあの佐久間象山に酒をぶっ掛けた…義兄さんですか」
 すると、
「その話を知っているということは、アンタがアレに酒をぶっ掛けた稚児かい」
 そこで小五郎は一瞬ズルッと身が崩れそうになった。
「アレの話によると、十二、三のまさに初々しい稚児としか見えんとのことだったが、その通りじゃな。年はざっと幅を利かせても十五か」
 そこで小五郎はついつい怒りのまま周布より酒を奪い、それをグィッと飲んで後に、残りをパシャっと青年にかけた。
「こ……小五郎」
 来原が顔色を変え小五郎をガシッと背後より押さえ込んだが、
「おいおい坊や。酒は大人が飲むものだよ。ちょいとお子様はおよしな」
「私は二十歳だ」
 物言いは丁寧だが、あの不遜傲慢な佐久間象山と変わらない。義理とは言え兄弟なだけはある。
 青年はニッと笑い、手を左右に振り、
「あと五年もすれば二十歳になるのだから、今、そういわずともいいだろうよ」
「小五郎……しっかりしろ。この人には悪気は何一つない」
「悪気はなくとも、罪ありです」
 だが刀に手は伸びることなく、小五郎は徳利を手に酒をまた

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パシャリとかけた。
 髪より水が滴る姿は、古人いわく「水も滴るよい男」と言えなくもないが、小五郎に言わせればこの男は「憎らしい」だけである。
「これは傑作じゃ。この穏やかな小五郎をここまで怒らせるとは、愉快愉快。そこの御仁、小五郎は正真正銘二十歳じゃよ」
 すると青年は茫然となり、続いてケラケラと笑い出した。
「そうか二十歳だったか。アレが妙に驚いていたのも分かる。だが童顔もよいよ。いつまでたっても若い」
「何がよいですか。あの佐久間象山同様、人を十五ほどの年の坊やなど……許すまじ」
 思わず、鞘のまま青年に向け刀を振り下ろせば、男はヒラリと避け、飄々と笑いながら、
「君みたいな坊やはわしは大好きだな。桂か……桂小五郎。覚えておこう」
「覚えておかなくてけっこうです。二度とは会いませんから」
「そうかな」
 青年は今度はにたりとする。
「これもまた縁の一つ。暇があれば訪ねてくるといいよ。わしは勝、勝麟太郎。田町で塾を開いている」
「知りません」
「来るといいさ。きっと……面白いことが色々と見れる」
 手をヒラヒラと振り、青年……勝麟太郎は去っていった。
「良蔵さん、塩はどこです? 塩です」
「小五郎……」
 来原は神妙な顔をして後、わずかだか寂しげに笑った。
「良蔵さん?」

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「君がこんなに幼げな顔をして、本気で喧嘩を吹っかけるとはね。私は見たことがないよ。いつも自分を抑える君が……あの人には初対面でね」
「単にどうにも許せないほどに憎らしかったのです」
「小五郎。私にもそんな顔を見せて欲しいな」
 来原に背後よりギュッと力を込めて抱きしめられたので、小五郎はビクリと肩を揺らす。
「出会った頃から大人であったから。君はもう少し子どもの一面を見せてもいい」
 小五郎は四歳違いの来原に、いつも理想の兄像を見出す。
 この人が兄ならば、自分はきっともう少し上手に甘えられるようになっただろう。
 寛大で包容力があり、一本芯が通っている。そして来原は心に入れた人間にとかく甘くやさしい。
 照れ隠しの意味で下を向き、だがその手はそっと来原の羽織の袖を握り締めてしまった。
「良蔵さんが私の兄でしたら、きっと私は……幸せでした」
「……そうだね。私は小五郎の家族になりたいものだよ」
 頭にポンと置かれるその手に、心がほんのりと温かくなる。
「どうじゃ、小五郎。わしも家族になってやろうか」
「なにをいっているのですか、貴方は。酒好きの酒乱で小五郎の迷惑にしかならない存在です」
「良蔵。そちはこの頃、一言も二言も余計じゃ」
「私にとにかく言われたくないならば、酒はほどほどにしなさい」
「無理じゃ」
「努力もせずに即答とは。情けない」

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「黙れや、良蔵。この口うるさい……小姑のような奴め」
「小姑けっこう」
 その場でにらみ合いを展開する二人は、まさに火花が散る形相である。
 こうなると仲が良いのか悪いのか少しばかり頭をかしげるが、よく二人一緒にいるところを見ると、つかず離れず。腐れ縁といったところだろうか。
「あの二人がそろうとにぎやかで、僕は実に楽しいですよ」
 寅次郎は二人をにこにこと見つめている。
「えぇ、それは確かに」
 育った環境が賑やかさとは無縁であり、殺伐とした風情といつも気兼ねがついて回った。
 声をあげて笑ったことなどない。
 義兄や異母姉の顔を伺い、父母の言葉に意識を研ぎ澄ませた。
「桂くん。君はもう少し人の中にはいった方がいい。昔から無意識に人を避ける傾向があるから」
「………」
「元来人好きだというのに、人見知り。困ったものだと思っていたよ。あの勝さんという人のところに顔を出したらどうだい」
「あの私を……子どもと見下ろした人のところにですか」
 小五郎にしては珍しく、心底より「イヤだ」という思いがある。
「珍しく君が素の顔をしていたから。それだけでもあの人は稀有な人だよ」
「………」
「剣術だけではない広く目を外に向けるといい。君はこれから……行く先を決めるのだから」

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 言われれば練兵館や藩邸のごく一部の人としか小五郎の付き合いはない。誰に誘われようとも、国事を論ずる集会には足を踏み入れはしなかった。政治に興味がないとは言いきれないが、現在は自らの剣のみに集中したく、それが精一杯で。
 それをいけないとは誰も言わなかった。剣に集中する自分を嗜めるものなどない。
 だが寅次郎は、それではいけない、と始めて忠告した。
 なんだか冷水を浴びた感覚になり、ぽかーんと寅次郎を見るしかない自分が情けない。
「広く世を見た人間に適うものはない。桂くん、広く人を見、国を見なさい。考え方が変わる。生き方が変わるよ」
 肩をポンと叩かれ、寅次郎はにらみ合いを続ける二人の中に入っていった。
 小五郎は三人の押し問答をなんとなく聞きつつ、
 何かを踏み出さねばならない気持ちに苛まれる。
「小五郎、これから飲みなおしじゃ。大人の酒の飲み方を教えちゃる」
「小五郎は二日酔いになっているのですから、だめだといっているではありませんか」
「煩い。小五郎の小姑が」
「ですから小姑でけっこうです」
 その実によく速度があった言いあいが楽しく、小五郎は進んで中に入っていった。
 自分を見つめる寅次郎の視線。わずかに胸が痛いが、今は祭り。この一時は様々なものを忘れて楽しもう。


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 これより半月後、斉藤弥九郎の使いで佐久間象山のもとに出向き、そこからなぜか勝麟太郎の元に連れて行かれることになる小五郎である。
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宵ニ咲ク花の如シ 6章

  • 【初出】 2009年6月13日
  • 【修正版】 2011年12月20日(木)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。