宵ニ咲ク花の如シ

序章2

 ……生まれてきてはいけなかった子。
 それが自分に与えられた罪の烙印たる言の葉。

 長門国萩城下呉服町江戸至横丁という通りに、一軒の中規模な館がある。眼科を生業としている藩医和田家の家だ。
 およそ近辺に臨在する上士二百石取りに相当するほどの造りで、藩医の傍ら開業医としてある和田家の裕福さを現す。 相次ぐ改革や不作などの影響もあり、およそ二百石取りと言えども実情はその半分ほどの取り分しかなかった武士社会とは一線を置いている藩医は、自らの才覚をもってどのようにも家を守り立てることが可能といえた。
 和田家は一階の半分を診療所とし、残りは居間や台所。数室ある部屋は客間や和田昌景、その妻きよと末娘ハルなどの部屋とされており、離れは昌景の跡取娘捨子とその婿文譲夫婦と三人の子どもたちが使用する。
 二階にあるのはそろそろ婿を探さねば、と昌景が思いはじめている八重子と、そして一番端の部屋にあるのは、
「小五郎さん」
 捨子がその部屋に入った時、弟は戸をあけて外を見ていた。
 晴れ渡った日には風格ある城の佇まいが見えるが、あいにく今日は曇り空だ。
 捨子は弟がその目にどんな光景を映しているかなどどうでも良かったが、そっと足音を忍ばせ弟の傍らに並び、その目を覗いてみる。

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振り返りもせず、ぼんやりと焦点の合わぬ目をして、なにひとつ見ようとしないその目が一瞬憎らしくてたまらなくなった。
「小五郎さん」
 いささか強い語調で名を呼ぶと、ようやく傍らに並ぶ姉の姿に気付いたのか。
 一瞬肩を震わせた弟のその心にある「怯え」と「好奇」を、まさに増長させるかのように、捨子は小五郎の頬に手を沿え、その耳元に唇を寄せる。
 囁く言葉はこの一言しかない。
「呪われた子」
 ビクリと肩を戦かせる弟の肩をも掴み、爪が食い込むほどに掴んで、捨子はその顔に艶然とした笑みすら称える。
「おまえすら生まれなければ、この家で誰も不幸にならなかったろうに」
 怯えが強く刻まれたその瞳が、一心に自分だけを見ていることに満足した捨子は、心の中で呟く。
(この家そのものが狂っているのですよ)
 この私も夫文譲も。我が子が痛められているというのに、自らの立場のため末娘のためジッと耐えている継母きよも。みな、狂い、狂わせた要因は、今目の前で戦く九歳の子どもでしかない。
 捨子は自らの狂気が制御できず、残された理性が警告を叫ぼうとも無視し、狂気のままにその腕に母違いの弟を抱きとめて、さらに囁いてしまう。
 なによりも、どのようなときよりも、やさしく、いうのだ。
「生まれてきてはいけなかった子」
 弟の目に恐怖が如実に表れ、肩だけではなく体全身で震えだしたときに、

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 捨子はやさしさも穏やかな微笑も消し、その場に弟を突き放した。
「呪われた子なのだから、たんと食べて、たんと動いて、立派な男子になるとよいのです。そして知るといい。おまえは誰からも愛されず、誰も愛さない。一生独りであることを知りなさい」
 もしもその黒曜石の如し瞳に縋るような色があるならば、この心はもっと満ちたりたろう。
 恐怖に満ち、体は極度に怯えているというのに、この弟は。
 どうして、どこまでもその目の真髄にあるは「静」なのか。
 腹立たしさすらある。痛めつけ、苛み、苦しめているというのに、それを嘲笑うように「静」たるこの目が憎い。
 ……この目が、私を狂わせる。
 捨子は感情をむき出しにし、その場にある弟を恨みのすべてを込めて睨みつけて後、
 一瞬、すべての気が抜け、体の力が消え失せ、まるで狂から常に戻るように体全身をもって転換が生じ、
 その心には「憎悪」よりも二十歳の年が離れた弟に対する「愛情」と「憐憫」の情が沸き起こったのだ。
「小五郎さん、この姉を許して」
 心に住み着いた狂と情が捨子を苛ませる。
 それは二面性を生み、狂に包まれると弟に対して憎悪を全面に出し、情に包まれたならば、涙を流し「ごめんなさい」と口にしながら、弟の体を強く抱きとめる。
「姉上さま」
 泣かないで、と震える体を必死に抑えようとしつつ、痛めつける姉を気遣うこの弟が、
 どれだけ愛しく、どれだけ憎いか知れぬ。

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 藩医和田昌景の長男小五郎は、この世に生を帯びたその時より「災い」の星をその手に掴んでいたようなものだ。
 昌景が、長年連れ添った妻を亡くし、周囲の勧めもあり後妻を娶ったのは五十を過ぎたときだ。
 もともと昌景はこの和田家の入り婿であった。跡取娘だった妻との間には子どもを二人授かったが、どちらも女子で、義父の願った「跡取り息子」が得られなかったのは失態かもしれないが、長女捨子に文譲という婿を取らせ、その間にはすでに跡取り息子が誕生している。昌景は「和田家に義理は果たした」という思いから、後添いの話を承諾した。
 迎えた後添いはきよという……長女捨子とさして変わらぬ年でもあり、妻というよりは娘のような感覚を最初は抱いたが、昌景は噂通りきれいな容姿のきよに一目で惚れてしまった。
 そのきよが身ごもったと聞かされたとき、昌景としてはこれからの和田家の陰影なるものを一握たりも予感すら抱かずにひたすらに喜んだものだ。はしゃいだといっても間違いはない。
 そんな父を、捨子は不安な思いで見ていた。
(いまさら……男子が生まれるかもしれない……)
 長い間、自らが「男子」として生まれてこれなかったことを捨子は憎んで呪って生きてきた。
 母がうわ言のように「捨ちゃんが男の子だったら」と泣くのを見ていたことと、婿養子たる父が「男子」を授かることにより真の和田家の一員になれるということを……知っていたからだ。
 自分か、妹の八重子が跡取り息子だったならば、父も母も楽だったろう。和田家という家に雁字搦めにならずにすんだだろう。

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『女子に生まれてきてごめんなさい』
 長女という自覚から、そう父に何度も詫びた。
『捨子や。なにも気にやむことはないんじゃよ。おまえに婿を取らせればそれですむんじゃからな』
 父はおおらかに構え、捨子の頭を撫ぜつつ、
『三国一の婿を探すよ。じゃから、泣くでないよ』
 やさしい父が捨子は大好きで、
 父と母は普通の夫婦なみに仲もよく、八重子は大人しく淑女といった風情のたおやかな妹で、
 父が選んでくれた文譲という好青年は穏やかでやさしく、捨子としては何一つ不満もなく和田家という家で幸福に過ごしていた矢先、母を亡くし、父が後添いを迎えることにしたその時から、この家は揺らぎはじめた。
 継母となったきよと捨子は年はわずかしか違いない。跡取娘と後妻という間にある空気は微妙に揺らぎつつも、表面は姉妹のような感覚で仲良くしていた。そうきよが懐妊するまではそれなりに良好な関係を築いていたのだ。
 ……まさか五十を過ぎた父に子宝が授かろうとは思いもしなかった。
(災いの……種)
 捨子は戦慄した。
 長い間父が望んでやまなかった「男子」が生まれたとなれば、この自分や文譲、ひいては子どもたちの立場はいかがなる?
 例え和田家の血は捨子が受け継ぎ、捨子の子どもこそが和田家の正当な跡継ぎと言えども、
 和田家にようやく「長男」が誕生したならば、藩医として藩侯の覚えめでたい父は、自らの「入り婿」という立場を忘れ、

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生まれて来た男子を「跡継ぎにしたい」と考え、藩侯に願い出るのではないか。
 この数年来忘れていた思いが胸に蘇り、捨子の心を苦しめる。
(どうして私が……男子でなかったから)
 女子として生まれたから、このような理不尽な思いに苛まれなくてはならないのか。
 生まれてくるのが女子ならば、年の離れた異母妹を、我が子のようにかわいがろう。女子ならばよい。きよの子ならばさぞやかわいい娘となろう。
 されど男ならば……異母弟ならば……。
(私はその子を愛せましょうか?)
 私がようやく手にした幸福を揺らがすかもしれない異母弟を、憎まずにおられましょうや。
 神社に「なにとぞ女子を」と願い祈り……または男子を呪い続けた日日は心に痛みと動揺しかもたらさず、
 水無月の下旬。いまだ梅雨も明けぬ時期に生まれた子がひ弱な男子と告げられたその時、
 捨子の心にはビリッと皹が入り、今にも消え入りそうな産声をかき消すように、笑い声をあげた。
(男の子……私の幸福を奪う男の子)
 和田家が待ち望んだ「長男」が、ようやく生まれた。
 昌景はその子を溺愛し、名を「小五郎」と祖父の名をあえてつけた。
 まるで跡継ぎはその小五郎、と宣告したかのような名に、捨子の心はまた軋む。
「お父さまは小五郎さんを和田家の跡取にしておしまいになりますの」

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 動揺は言葉になり、その言葉が声となってさらに捨子の心を苦しめるという悪循環。
(私が女だから……男として生まれてこれなかったから)
 不覚にも涙がこぼれ、心の中で「ごめんなさい」と誰ともなしに謝るしかない。そんな捨子の頭を、父は昔したのと同じように、やさしく撫でて、
「小五郎はわしにとって孫も同様じゃ。しかも極度にひ弱で、無事に育つかどうかすら知れはしない。この家を継ぐのはおまえであり、文譲であるのだよ。小五郎は……」
「お父さま?」
「……いずれ外に出す」
 溺愛してやまぬ年老いてようやく授かった子を外に出す覚悟。
 それは父にとってどれほどに辛い決断だったか知れない。
 それから数年後、約束通り父は小五郎を外に出した。いまだ数え八歳でしかない小五郎を隣家の桂家に末期養子となった。
 桂家は馬廻り百五十石の家柄。列記とした士族であり、藩医として名の知れた和田家との養子縁組はそれほど筋違いではない。
 桂九郎兵衛は、死を間近にして小五郎と親子の縁を結んだ。
 捨子はその様子を見ながら、不幸続きの桂家には小五郎のような厄介な星を持った子は似合いだ、と心底で思ったものだ。
 桂家は不幸続きである。先年に期待を一心に集めた長男が死去。二男はとうに養子に出しているということから、家を継ぐものを早急に定めねば、というときに、ついには当主九郎兵衛が倒れ、明日をも知れぬ状態となった。家を存続するためには速やかに養子を迎えねばならない。そこで隣家の長男という立場ながら跡取にはなれないと噂される、八歳の小五郎を養子に迎える運びとなったという経緯である。

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 九郎兵衛は養子縁組の数日後に死去。
 小五郎は八歳という幼い年で桂家という名跡を背負わされ、名を桂小五郎。この時、諱を孝允と名づけられた。
 代々の藩医の家柄の長男が、武士という身分を背負ったことが後にどれほどの影響をもたらしたかなど捨子が知る所ではない。
 翌年には養家の義母も亡くし、小五郎は「桂家」の名を背負ったまま、実家の和田家で過ごすことが定められた。
 思えば小五郎が養子に入ったころから、よく捨子は咳き込んだ。時に熱を出し、子どもたちや文譲が心配な目を向けてくる。
「大丈夫ですよ」
 痰に血が混ざるようになっても、それを誰にも告げずに家事をこなす捨子は、自らの最期の「命」の灯火を、この八年という期間で歪んだ……自らの心を軋ませた存在に一心に向けた。
 狂気と愛憎と。愛しさと憎しみの狭間で、さらに心を痛めながらも、
「姉上さま」
 自分が微笑めば嬉しそうな顔をするこの異母弟が、
 自分が狂い折檻すれば、怯えながらも、その黒曜石の目はどこまでも「静」で在り続ける年はなれた弟を、その目に魅入られながら、その目をなによりも嫌悪する。
 ……呪われた子。
「おまえすら生まれなければ、この家で誰も不幸にならなかったろうに」
 叫びながら、心は泣いていた。同時に脳裏はなによりも悦とした気分となり、
 すでに捨子は自らで自らの心を支えることができずにいる。
 吐血という事態からして、すでに「命」の刻限を我が身だけで

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受け止めながら、最期の命を、決して自分が得られなかった和田家の「長男」に投げつけるしかない。
「生まれてきてはいけなかった子」
 この言葉の刃が、小五郎の心を痛ませ、傷をつくり、皹すら作ればいい。
 それはなんと甘美な復讐か。何一つ罪ないものに罪を抱かせ、悩み苦しませ、泣きながら悶えるといい。
 いっそ憎しみだけなら楽であったのに、
 憎むという感情だけならば、この心は狂わずにすんだろうに。
 どけだけ折檻を受けてなお、捨子の微笑みを喜ぶ小五郎を、最期の最期で憎みきれずに、
 捨子は狂いの涙を流した。
「憎くて憎くて愛しい小五郎さん」
 この子が女の子だったら、最たる愛しさをもって接することができたろうに。
 この子が、私の子供ならば、どれだけの愛情を与えることができたかは知れない。
 自嘲の笑みが浮かぶ。
 そう……まるで反対。
 私は男の子に生まれればよかった。あなたは女の子に生まれればよかった。
 これが宿縁というならば、この世というものはなんと奇妙で残酷なものなのだろうか。
 病は徐々に浸透していき、文譲が気付いたときには手遅れになっていた捨子は、
 最期はその心をほとんど狂わせ、日にわずかしか正常な意識に戻ることができず、

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 狂いと愛憎という感情を、夫でもなく、子どもでもなく、二十歳も年が離れた弟に叩きつけて、死んでいった。


 姉が血を吐く姿を何度も見た小五郎は、
 庭に咲く椿の色と同じだった血を、椿を見るたびに思い、
「姉上さま」
 椿を摘んで、椿を見つめながら、まるで花が散るようにして死した姉を思い出した。

 労咳、この病は和田家にくすぶり続け、この後六年後に猛威をふるう。
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宵ニ咲ク花の如シ 02-10

宵ニ咲ク花の如シ 序章2

  • 【初出】 2007年7月25日
  • 【修正版】 2011年12月18日(火)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。