宵ニ咲ク花の如シ

3章

 辺りはすでに宵を迎えていた。
 もう少し早くたどり着きたかったが、この宵の頃合になり、ようやく市谷の天然理心流試衛館道場にたどり着いた。
 土方はわずかに口元に笑みをつくる。
 多摩の実家や姉の嫁ぎ先の佐藤家同様に、この試衛館は土方にとっての家同様といえた。
 敷地内に一歩足を踏み入れると、
「土方さん」
 家より駆け出してくる小さな姿に、土方の口元は自然と緩み、
「宗次郎」
 飛び込んできた体を抱きあげ、思わず「重い」と口にしてしまった。
「当たり前ですよ。もう僕は十一です。軽軽と抱き上げられる年ではありませんよ」
 沖田宗次郎は土方の耳元に口を寄せ、そう囁くものの、ギュッと抱きついて離れようとはしなかった。
「十一の年頃にしてはまだまだ発育不良だな。土産を買ってきた。勝ちゃんと一緒に食べな」
「はい」
 にっこりと笑ってトンと下に下りた沖田は、そのまま土方の右側に引っ付き、ギュッと袖を握ってきた。
「甘えん坊」
「土方さんが全然顔を出さないからですよ」
「十一になったのだろう」

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「十一になろうとも、二十歳になろうとも、僕は僕ですよ」
 さらに引っ付いてくる七歳年下のこの沖田を、まるで実の弟のように土方は可愛くてならないのだが。
「あっ……ここ破れている。仕方ないですね、土方さん。また僕が繕ってあげます」
 と、土方の着物を隅から隅まで点検を始めたこの沖田を、人は土方の「世話女房」または「小姑」とも呼ぶ。 「おう歳。久々だな」
 道場主の近藤勇は、数年前に多摩の日野よりこの市谷の試衛館に養子に入った男だ。
 実家は豪農であり、始めは宮川勝五郎、続いて勝太と名乗った。土方とは幼馴染の仲でもある。幼少のころは共に毎日泥んこになって遊んだものだ。
 その頃の癖でこの二人は「歳」「勝ちゃん」と呼び合う。
 八王子千人同心を誇りとする多摩近辺の農民の子どもは、物心つくころになると皆こぞって竹刀を握った。
 強くあれば、剣術で名がとどろけば武士となることができる。
 人は誰しも夢を見る。農民の生まれの子の夢は、大概剣術の腕を磨き、いずれは江戸に出て名を馳せた剣豪を打ち負かし、藩お抱えの剣術師範となることか、大規模な道場主となることと言えた。
 近藤も土方もその例に漏れず、二人ともに幼くして竹刀を握り、いつか武士となり大樹さまを守る、という壮大な夢を描いて剣術の修行に明け暮れたものである。
「この頃、行商が忙しいのさ」
 土方が試衛館に現れると、ピッタリと寄り添って沖田は離れはしない。

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 今も、土方の袖を右手で掴んで、はむはむ饅頭を食べている。
「おまえが来ないと宗次郎は不機嫌でな」
「……そうか」
「今はこんな上機嫌だが、昨日などは……陰陰滅滅の暗さだった。夜中にムクッと起きあがり庭に出て土方さん、と叫んだときには、俺ははっきりといって怖かったよ」
 八歳にして試衛館の内弟子として預けられている沖田は、よくこの試衛館に居候する土方を誰よりも慕った。
 この年頃ならば母や姉を恋い慕うものなのだが、何かあるたびに呼ぶ名は「土方さん」で、おかしなことに家族離れは見事なまでに徹底されている。
 白河藩士の子である沖田は、父亡き後、物心つく前より武士としての心得を母により徹底され、甘やかされずに育ってきたようなのだが、試衛館に預けられたころは、沖田はにこにこと、ただ笑っていた。
 それを作り笑いだと見破るのにはいささか時間がかかる……完璧な幼い笑顔を見せていた。
 哀れだ、と近藤は思ったのだ。それは土方も同様だったのだろう。無理に感情を作ろうとしている沖田を見て、土方が可能な限り甘やかせたのが……今の原因と言える。
 沖田のわずかな機微で感情を読み取り、時に抱きしめ、夜は共に眠り、いつしか沖田は土方にベッタリとなってしまった。
「勝ちゃん。……それよりも、宗次郎のこの裁縫の腕は見事になったな」
「………?」
「前々より手は器用だと思っていたが、俺の破れた裾を見事に繕ったんだ。佐藤家に嫁いだ姉よりも上手だぞ」

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 と、土方は少しばかり上ずった声でいい、沖田は大好きな土方に褒められたと思ってにこにこと笑った。
「宗次郎。義母上の……あの投げ出している繕い物……」
「全部、僕が母や姉の見よう見まねで繕いました」
 近藤は思わず額に右手をあてた。
 前試衛館道場主たる近藤の義父近藤周斎の妻お栄は、家事一切から裁縫まで大の苦手で、この頃は諦めの境地に到ったのか放り出している。
「……義母上は確かに裁縫がことのほか苦手ではあるが……おまえが全部か」
「はい」
「宗次郎は素直で可愛くてよい子だ」
 と、土方がよしよしと沖田の頭を撫ぜる。
 沖田はさらに嬉しくなったのか、頬をわずかに染めて、土方の顔を見ては、にっこりとするのだ。
(甘やかしすぎだ……)
 近藤ですら思う。
 この土方の沖田への可愛がりぶりは時折「過ぎる」と思うのだが、それでも「過ぎる」と近藤はあえて口にしない。
 数年前までは表情を隠し、無理に笑いたくもないのに笑っていた沖田より、この「にっこり」を引き出した土方の存在に感謝しているからでもある。 ましてや土方が顔を出さない日が続くと、沖田は昔のように無理に表情を作る。真の笑みを見せようとはしない。沖田にとって、この七歳年上の土方は特別なのだろう。ただ一人の生涯の執着となるかもしれない。
「されど、だ。歳、宗次郎。武士の子が繕いものなど、褒められたことではないぞ」

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「勝ちゃん。そう小さなことを言うな。宗次郎が繕わないとアンタの着物もほとんど破れたままになるぞ。そんなものを着て出稽古にいくなら、試衛館の恥になる」
「そ……そうだが」
「繕いものの腕は磨けば磨くほど役に立つ。俺の上の姉など……よく古くなった着物を崩して人形など作っていたものだ」
「歳、それは女のすることであって男がな」
「土方さん。僕……余った布を繕って巾着とかいろいろ作ったんです」
「宗次郎は偉い」
 もっと褒めて、とばかりににこにこと笑う沖田と、また頭を撫ぜ撫ぜし始めた土方の二人に近藤はドッと疲れた。
 だが、なんとも微笑ましい光景ではないか。まるで仲のよい兄と弟が戯れている光景に見える。
「僕、繕い物もできるし、料理もお手の物です。僕より掃除が上手な女の人もほとんどいないし、繕い物の腕ももっともっと頑張るから、土方さん」
「なんだ」
「僕が大人になったら女房としてもらってくださいね」
 土産の団子を食べつつ茶を飲んでいた近藤は、ぶはっとその場に茶を噴出した。
「勝ちゃん。なにをしているんだ」
「なにをそう落ち着いている。にょ……にょ……女房だと」
「確かに宗次郎以上に家事も繕い物もできる女はいないかもしれない。ましてや性格も素直で一途で俺は好きだな」
「歳!」
「だが悪いな、宗次郎。男の子は女のお嫁さんをもらわないと

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ならないんだ。女房にはなれないぞ。なれたとしても世話女房どまりだ」
「世話女房?」
「……そうだ」
「それで土方さんはお嫁さんをもらうの? 僕より裁縫ができて家事もでき、器量よしの人じゃないと僕は認めないからね」
「そうかそうか」
 これを子どもの戯言と土方は思っているようだが、近藤は胃がキリッと痛んだ。
(このままでは歳が……宗次郎に寵愛のあまり溺れる)
 もとより風体そのままに豪快な性格な近藤はさして小さなことを気にせず、おおらかを最大の美徳としている男だった。
 一年ほど前まではこの土方の沖田への可愛がりに頭を痛ませることなく、兄弟のようで微笑ましてと心から思っていた。
 それが一転したのは数ヶ月前。
 昔から、その女性的にも見える秀麗な美貌が、女に騒がれる男だったが、この頃は、土方を女は放っておかなくなっている。
 それこそ実家にも姉の嫁ぎ先にも山のような縁談が舞い込んでいるのを近藤は承知している。
 いずれはこの幼馴染も一家を構え、型どおりの幸せというものを得て欲しい。父母に愛された記憶がなく、大勢の兄弟に囲まれていても、いつも土方はどこか……孤独だった。
 女が放っておかず、また男にもその気風の良い性格や喋り口調で好かれる土方の明るさは、寂しさの裏返しかもしれない。
(されど、だ)
 近藤が頭を抱えているのは、土方に近づく女を竹刀をもって片っ端らから沖田が遠ざけていくところである。

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『僕より裁縫ができて、家事ができる女じゃないと土方さんに近寄ることは許さない』
 人はこの沖田を「小姑」と呼ぶ。
「歳。あまり……宗次郎を可愛がりすぎるとな。その……嫁がこなくなるぞ」
 軽く振り向いた土方は「何を馬鹿げた」という目をした。これぞモテる男の余裕に満ちた目といえるのだが、さらに近藤は深いため息を落とす。
 この沖田以上にできた女などそうは居ないことを、この幼馴染は失念していないだろうか。
「……世話女房でいいや。でも土方さんの女房は僕が厳選に審査しますからね」
「そうか」
 この時近藤は、この幼馴染が一生独り者のような予感がした。
 なにせ傍らには子悪魔が一人、円らな瞳に色白でにこにこ笑うと菩薩のような少年が、ピタリと寄り添っている。


「練兵館で鬼歓みてきたのか」
 土方の膝を枕にしてスヤスヤ寝ている沖田の頭を、優しく撫でている土方は、一つ吐息を落とした。
 眠っていると無邪気で愛らしい。
「らしくないというか……あの鬼歓が苛立っていた。俺と同じくらいか年下かな……のほそっこい奴相手に容赦のない一撃さ。始めは苛めかな、と思ったぞ」
「その……相手、とんでもない怖いもの知らずだな」
「あの雷鳴の如し一撃をスレスレであいつはかわしていたんだ。

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俊敏な動きを持っていたし、打ち負かされても……その目にも風情にも一切殺気がなく静寂」
「それはまた怖い。剣術を試みる人間が殺気がないだと」
「あぁ。けどな……体は打ち身ばかりだったから、石田散薬を飲ませてやったら……初な子どもか。目をくらくらさせやがった」
 その時の様子を思い出し、土方は口元に笑みを刻んだ。
「珍しいな」
「なにが」
「……歳が人に興味を持つのが珍しいと思ったんだ」
「そうでもないさ」
 スヤスヤと眠る沖田の右手は、今も土方の袖を握り締めている。
 いつも元気良く明るい沖田だが、本当は寂しいのだ。
 この試衛館に内弟子として訪れたときから、誰にも甘えず、心を内に隠し、涙をどこで流せば良いか分からないといった小さな子ども。
 土方にベッタリと甘えるのは、親や姉、また近藤や老先生周斎に甘えられぬ裏返しに過ぎぬのだ。
「おまえもそろそろ本気でやらないか。道場破りばかりでは面白くないだろう」
「……家のごくつぶしだからな。少しは家業を手伝わないと、家の敷居も高くなるばかりだ」
 行商に出るたびに石田散薬はほぼ完売となる。兄たちは土方に商売の才能がある、と思っているようだが、商いをする気など毛頭土方にはない。
「なぁ、勝ちゃん」
「なんだ、歳」

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「生まれながらの天才と、努力に努力を重ねた天才はどちらが強いだろう」
「何の例えだ。それは」
 土方の手が沖田の頬に触れる。
「天性の剣士という天分を宗次郎は持っている。どんな努力も一瞬にして超えていく……天才だな。それと……俺が今日見たあの剣士は」
 その体に刻み込まれた痣が、努力という言葉を無言に語っていた。
「俺はな、歳。努力や天才という言葉より苦労したものが一番に強いと思っているぞ」
「勝ちゃんらしいや」
「だから俺もおまえも強い。もちろんこの宗次郎も強い」
 ニカッと笑ったこの近藤には、到底自分は適いはしないと自覚する男の魅力が十二分に備わっている。
「勝ちゃんには適わん」
 つい漏れた苦笑いと、その後に続く笑いは快活なものとなった。
「それと……あまり裁縫のことを宗次郎にはいわないで欲しい。これは……この貧乏な道場の少しでも手助けをしたいだけさ。それというのも……勝ちゃんが稽古代を取らないからだろうが」
「みな、剣術にかける意気込みは凄いんだぞ。稽古代など二の次だ」
「だから宗次郎が気をもんでいるんだろう。少しは考えろよ。……幼いながらにも必死だったこともよ」
 うぅぅぅ……とこの手の話になると途端に頼りなくこの近藤だ。

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 この人の良い男は、すぐに世相や剣術のことで意気投合すると、人をこの道場に食客として住まわすという癖がある。
 みな、近藤の男気に惚れてのことなのだが、道場は火の車で、時折一日何も食をとらずにいる沖田を土方は何度も目にしている。こういう点にかけては近藤は何も気付いては居ない。
「……そうだな」
 近藤の手も沖田の頭をなで、その顔に苦いものを浮かばせた。
 この三人は共に末っ子という共通点がある。そのためか、近藤も土方も幼い沖田が弟のように感じられ、こうして些細な甘えを許してしまい、同時に甘えてくれるのが嬉しいとも言えた。
「もう少し宗次郎に苦労をかけないようにするよ」
 だがこの近藤の言葉は全く実行されず、この後、凄まじい試衛館の窮状を見かねた沖田は得意の裁縫をもって内職を始めることとなる。
「俺は二三日厄介になるよ」
「好きなだけ居ていいぞ」
「……そうする」
 もう一度あの練兵館に出向いてあの「小五郎」という名の人間と会って見たい。
 不思議と好感が持てたのはあの謙虚さと、黒曜の瞳に込められていた深い孤独の影ゆえだろうか。
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宵ニ咲ク花の如シ 3-10

宵ニ咲ク花の如シ 3章

  • 【初出】 2008年4月29日
  • 【修正版】 2011年12月19日(水)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。