宵ニ咲ク花の如シ

1章

 それは、ただの「偶然」では終わらなかった、ただの目の交差。


 嘉永六年、初春。
 土方歳三は、今は薬売りの行商を生業にしている。
 多摩石田村の豪農の出身で、祖先は八王子千人同心という流れを組む彼は、家に隠し姓として「土方」という苗字があった。
 いつか晴れてこの身が武士となり、立身出世とあいなれば「土方歳三」という名を堂々と名乗ることができる。
 家の庭に竹を植えたときから、彼の生涯最大の夢は「武士」とあいなることであり、同時に武士であるからには千人同心の志を忘れず、いつかは「大樹さま」の役に立てるような男でありたい、と彼は思った。
 家に竹を植えるのは、天に延びるかのように、または突き刺していく竹に、願いをのせて天まで運んでもらうことを意味する。
 この時代、農民階級の子供たちは、流行の剣術を家業の合間に習い、先祖の血を受け継ぐかのように、いつかを夢見た。
 剣術ができれば……名をこの国に剣をもって鳴り響かせれば、その夢は実現する。
 十八歳の土方は、薬を売り歩く最中、暇を見つけては後ろに担いでいる竹刀を手に取り、振った。


宵ニ咲ク花の如シ 1-1

 その日は九段の神社で小さな祭りがあり、土方は顔がきく元締めに許しを得て薬を売っていた。
「さぁ、この石田散薬はそんじょそこらの薬とはまったく違う。酒と一緒に飲めば、風邪もあっという間に消えうせ、ついでにだ。今の今は剣術が大流行。そこの稽古帰りのみなさま。どうですか、この石田散薬を飲めば毎日の稽古で受けた打撲も打ち身もあっという間に消えてしまうってやつだ」
 土方はそのわずかに女性的な秀麗さをにおわす甘き容姿と、同時に生気がみなぎるほどの力強さを宿すその目が、一種の不均衡さを持たせて女性たちを魅惑する。ここでわずかに微笑めば、女性たちは釘付けになり、薬をぼやけた顔をして購入していくというのはいつものことだ。
 そういう男は「男」からの受けは悪いのだが、運がよいのか悪いのか。土方は男たちよりも受けがいいほどに、快活明朗なしゃべり方と男がドキリとするほどの容姿の持ち主だった。それでもって腕っ節も一流。この神社を竹刀を持って通る剣術道場の門下生も、土方がわずかにみなぎらせる気にあてられ動けなくなることもあった。
 土方が話せば話すほど人が集まり、薬は売れていく。最後にもう特技になっている愛想笑いを浮かばせば、人は決して嫌な気にならず、この笑顔を強烈に焼付け、今度土方の顔を見たら無意識についつい寄ってしまうほどだ。これが土方が商売の七つ道具にしている一つといえる。
「さぁて今日はそろそろお開きにするよ」
 二時ほどで薬はほぼ完売となり、なじみの客と雑談もきりがついたので、商売道具を土方は片付け、木箱にしまった。
 それを担いで、さて今日はどうするかな、と西の空を見る。

宵ニ咲ク花の如シ 1-2

 日が沈むのは六つ時くらいとすれば、あと二時半ほどの時刻が許されていた。それでも多摩の石田村に帰る途中で暗闇となる。
 昨今は世情からして物騒であり、夜中のあの道中は夜盗たちが百鬼夜行する地として名高い。
 土方は頭を切り替え、祭りをちらりと見つめた。
 ……宗二郎や勝ちゃんに土産でも購入していくか。
 江戸に出てきたときは、たいていは市谷の天然試念流「試衛館」に顔を出すことにしている。
 そこは土方にとっては幼馴染の勝ちゃんこと近藤勇が道場主で、気遣うことなく出入りできる場所だった。
 幼いころは多摩で同じく竹刀を振り、夢を語り合った近藤……当時の宮川勝太は、その剣の筋を試衛館道場主近藤周助にかわれ養子に入ることになった、
 武士を夢見た幼馴染が剣術道場主として「武士」となれたことが、土方にさらに強く夢を描かせたことは言うまでもない。
 ……農民では終わらない。薬売りでは……終わらない。俺は勝ちゃんと同じ武士となる。
 そんなことを口に出せば、父親代わりの次兄はまた顔をしかめるだろう。父母ともにすでにない土方は、兄姉たちの手によって育てられた。
 次兄はいつもこう土方に言い聞かす。
『歳三。末っ子のお前には受け継ぐ田畑はほとんどない。賢いおまえだ。商いを覚えるのもよし。どこかに養子として入るもよし。自分の人生だ。生きていくための身の処し方を本気で考えなさい』
 夢など描かずに、農民の子は農民の子らしく、身にあった生き方を一刻も早く見つけてほしい。

宵ニ咲ク花の如シ 1-3

 それが次兄喜六の土方に対する厳しい愛情であることも自覚している。
 だが土方はそれに素直に頷けるほど、この世を悟っているわけでもなく、夢を忘れるほど大人でもなかった。
 行商に行く時も必ず竹刀を持参する土方を、喜六は見てみぬ振りをしている。いつかはこの世の道理に「気付く」はずだ、といった大人の諦めに似た封建の道理に飲み込まれていくあり方が、土方にはどうしようもないほどに虚しかった。
(俺は諦めない。必ず武士となる)
 人間一人、夢を描いて、その夢を「道理」が邪魔し、真っ直ぐと進めない世の中は間違っている。
 わずかに物思いに沈んだ風で歩いていた土方だったが、竹刀の激しく打ち合う音にすぐさま我に返った。
 そうだ、神田俎橋近くの九段下には名高い斉藤弥九郎の神道無念流「練兵館」道場があるはずだ。
 少しばかり練兵館周辺は道が入り組んでいるため、道を歩けば迷子と行き当たる。この辺りに詳しくなければ、すぐに迷路の渦に身を滑らせることになったろう。だが土方には一度通った道は、決して忘れぬという特技があった。
 前に一度「江戸三大道場」に数えられる練兵館とはどのようなところか見に来たことがあった。
 数年も前のことだ。その時は、道場を覗き見て、その練習風景にただため息を落とした。
 激しく打ち合うでもなく、竹刀で型を確かめることだけで数刻。こんな道場稽古で人は強くなるものか、と苛立ったものだ。
 そしてすぐに思いなおす。所詮は道場剣法。決して実戦向きではなく、人を斬る剣でもない。

宵ニ咲ク花の如シ 1-4

 神道無念流の根本からして「人を斬る」ことではなく、「人を活かす」ことをうたっている剣法である。きれいごとだらけの、折り目正しい武士の子弟が通う剣など、土方にはとてもとても受け入れられるものではない、とあの時は思ったものだ。
 数年ぶりに練兵館を覗く気になったのは、今、あの型を何度も確認し、ただ素振りをするだけの動作を見て、自分はあの時と同じ感想を得るかどうか確認したかったからともいえる。
 だが今は六つ半時を回っている。道場へ通う門下生はすでに帰路についているだろう。残るは住み込みの塾生といったところか。練兵館は寄宿生だけでも相当の数となる。寄宿舎の広大さがそれを物語っていた。竹刀の打ち合う音が響き渡り、活気というよりは嫌な熱気が土方の背を押した。
 数年前と同じく、道場の内部を格子窓より覗く。
 十数人の人間が黙々と素振りをし、奥では師範代だろうか。数人の若い塾生の型を打ち合いでただしているのが見えた。
 左奥では一人の少年が竹刀を構え、巨漢の男と対峙する。
(鬼歓だな)
 一度、どこかの剣術試合で見たことがある顔だ。
 練兵館でいちばんに強いと言われる男。斉藤弥九郎の三男歓之助。その剣さばきは鬼の如しという異名を取り、「力の斉藤」という称号を自らが背負って立つ……男。
 この練兵館にはそぐわないほどに荒々しい武者の風格すらあるその剣にも、その形相にも、土方はむしろ親近感を覚えるほどだった。
 鬼歓の剣は道場剣法ではない。今、数人の刺客に囲まれようとも、一太刀で確実に絶命させる迫力を負う。
(鬼歓のたちあいが見れるとは……ついているな)

宵ニ咲ク花の如シ 1-5

 土方は目を凝らして、歓之助を見た。
 そしてその歓之助の前にて竹刀を構えるのは、土方と同様の歳ほどのまだ少年ではないか。
 背は六尺には届かないがそれなりの長身である。髪は高々と結い上げられ、サラリと柔らかく落ちる。色白の肌に、その体つきとて剣士とは到底思えない。華奢で繊細さが浮き彫りとなり、チラリと見えた横顔は、土方をしてドキリとするほどにきれいだ。まさに美少年という名がピッタリと当てはまるそんな少年が、防具もつけずに軽装のままで、歓之助に向き合っている。
「無茶だ」
 少年は息を整え、竹刀を高々と掲げる。
 上段の構えは、それなりの風格あるものが構えれば相手に対する威嚇となるが、十代の少年がなそうとも隙になるだけだ。
 歓之助が電光の如し一撃に打って出る。
(これは稽古の名を借りたいじめか)
 土方をしてその少年が歓之助の一撃を逃れることは適わないと思った。ましてや竹刀で受け止めることなど、無理に等しい。だが少年はひらりと身をかわし、その一撃を紙一重で避けたのだ。
「あまい」
 だが歓之助はそれでは終わらない。すぐに竹刀を返し、少年の胴を狙って一撃が繰り出される。
 少年は身を引き必死に避けにかかった。
 その一瞬の颯爽とした身のこなしに風を土方は感じ、思わず見入ったが、歓之助の太刀筋は容赦ないほどに早い。
 力任せに歓之助の竹刀が少年の胴を叩きつけた。
 まだ体つきがなっていない少年は、宙に投げ出され、道場の壁にドサッと身を打つ。

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「……小五郎」
 歓之助が叫んだ。
「まだ、だ。もう一手打って来い」
 少年は意識が朦朧としているだろうが、竹刀を杖代わりにしてその場に立ち上がった。
「そうだ。それにしても、投げ飛ばされてもおまえには気迫がなさすぎる。殺気もない。どうしてそう……いつも静寂なんだ」
 足を引きずるようにして、少年は歓之助の前に立ち、目があうと深々と頭を下げた。
「ご指導、ありがとうございます」
「歓之助、今日はそこまでにしなさい。いったい何度小五郎を飛ばせば気がすむ」
 多くの塾生の太刀筋を見ていた師範代と思われる青年が、二人の間に入った。
「なにを言っている兄上。小五郎は立ちあわねばつよくならんのだ。どこまでいっても気迫もなく、活人剣でしかありえないこの剣ではやっていけん」
「それは言ってもな、歓之助よ」
「おまえは強くなりたくはないのか、小五郎」
 すると少年は竹刀を見つめ、それからその黒曜の瞳を目の前の二人に返す。
「私は強くなると誓って剣を持ちました」
「それでおまえは人を殺せるのか。医者の息子たるおまえに…」
「私は人を殺める剣ではなく、人を活かす剣でありたい」
「きれいごとだ」
 歓之助は相当に苛立つのか、その場で竹刀を放り投げ、身を翻した。

宵ニ咲ク花の如シ 1-7

 道場に静寂が広がり、少年はヒョコヒョコと足を引きながら、道場を出ようとして、不意に視線を土方の方に向けてきた。
(……気付いていたのか)
 気配はほとんど消していたつもりだったが、どうやら少年は勘付いたようだ。
 黒曜の瞳は、なにか不可思議な色合いを滲ませて後、まるで静謐な水面に広がる波紋のような静かな笑みを刻む。
 わずかの間だったが、その瞳に飲まれた。
 その目から、なぜか視線をそらすことができない。
 やさしく穏やかで静かな笑みの奥に、いいようの知れぬ孤独を垣間見たような気がし、少年が外に出、庭先にヒョコヒョコ歩いていくのを、つい無意識に追ってしまった。


 道場剣法はいけ好かない。剣は「殺人剣」であり、凶器であってしかるべき。
 されど「人を活かす剣」でありたい、とあの鬼歓に臆せず静かに言い放った少年に、静けさと穏やかさの中に「孤独」を滲ます少年に、土方は己の心の中の孤独を思いだし、興味を持ってしまった。
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宵ニ咲ク花の如シ 1-8

宵ニ咲ク花の如シ 1章

  • 【初出】 2007年10月8日
  • 【修正版】 2011年12月18日(火)
  • 【備考】―幕末長州登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。