時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

8章



 厩戸は幸玉宮の庭園を少しばかり早足で歩いていた。
 時折立ち止っては周囲を見回す。その仕草はどこまでも優雅であり凛とした気品が漂う。宮に仕える采女は思わず仕事の手を休めて見入ってしまうほどであった。
 幼少時期を通り過ぎたとはいえ、少年というには幼い六歳という年齢を思わせぬ大人びた風情。その烏色の瞳には、理知と教養が色濃く滲み、同時に人としての感情はさしてよぎらぬという……子どもとしては不均衡そのものといえる。
 だがこの厩戸を言い表すときには、子どもという表現はかえって邪魔であった。
 晩夏の纏わりつくかのような風が、厩戸の瞳同様の黒を保つ髪を揺らし、
「時雨」
 前方より二人並んでゆっくりと歩いてくる青年の姿が目に入った途端、厩戸は駆け出した。
「……皇子」
 時雨はいささか疲労が滲んだ顔をしていた。
 厩戸の前で膝を折り拝礼する挙動にも、いつもと違った疲労が見える。
「いかがした、時雨? なにがあったのだ」
「私たちの宴にお呼びいたしましたので、お疲れになってしまわれたのかもしれません」
 時雨の疲労に染まった顔を心配するあまり、厩戸はその傍らにある一人の男の存在を一握とも気にかけていなかった。
 滅多にない失念といえる。
 その場で厩戸は優雅に会釈を取ると、青年というにはいささか幼さが滲む十五の年を重ねた彦人大兄皇子は柔らかく微笑んだ。
「また一回りおおきゅうなりましたね、厩戸殿」
「彦人さまにはお変わりなく」
 現訳語田大王の第一皇子にして、後継者の称号たる「大兄」の地位を得ている押坂彦人大兄皇子。
 数年前までは前大后である母広姫の実家である押坂の領地で暮らしていたが、祖父の死後、突如幸玉宮に呼び寄せられ、訳語田大王より「大兄」の称号を授かった。
 広姫は訳語田大王が大王に立つ前よりの正妃であり、大王就任後、立后されるが、幸玉宮に入ることなく、敏達三年に病で死去した。  訳語田大王が幸玉宮に居を移してからは、異母妹の額田部女王が立后されている。それも当然のことと言えた。幸玉宮は額田部の母の実家である蘇我家が設えたものだ。
 額田部には多くの子がある。が、長子竹田皇子は現在五歳に過ぎない。竹田から見ると十歳も年上の異母兄彦人の存在は、この後の皇位継承問題をめぐり、厄介極まりないのだろう。
(……ゆえに)
 額田部をはじめ蘇我一門は、竹田皇子の成長を待つ意味もあり、現訳語田大王の次の大王には、大王が異母弟であり、額田部女王の実弟豊日大兄皇子を立てようとして動いている。
 父豊日が大王に立つとなれば、その長子たる厩戸にもいずれ「皇位継承権」が生まれることを、この時厩戸以外の誰が考えていただろう。
「時には私たちの宮にもお遊びにおいでなさい。教養深き厩戸殿がおいでになりましたら、みなもさぞや喜ぶことと思います」
 他の人間が口にすればそれは嫌味に聞こえるだろう。
 されどこの穏やかで柔和な彦人が口にすると、どこまでも言葉通りにしか聞こえてこない。彦人は風情も言葉も全て穏やかで、裏が感じさせぬ素質を持っている。
 大和朝廷において他の豪族の血をいれず、純血を保持する彦人と、
 後ろ盾には蘇我家という渡来一族の大元がつく池辺宮第一皇子たる厩戸では、立つべき位置が違った。……敵とまではいかぬが、いずれ敵になる可能性が多いにある家の長子同士であることは、両者が望まぬとも政争の道具に引きずり出される運命を秘めている。
 彦人の申し出に、ただ会釈をもって返した厩戸だった。
「では、時雨。また会いましょう」
 という言葉を残し、彦人は奥殿に消えていった。
 その場に佇んでいるというに、ふと気を抜けば倒れそうな風体の時雨を、厩戸は見上げる。
「時雨」
 名を呼ぶと、時雨の透き通るほどに美しい黒瞳が、確かに厩戸を捕らえた。
「いかがしたのだ、時雨」
「皇子」
 時雨の両腕が恐る恐る厩戸の体にまわされ、
「我が皇子」
 それはまるで自分自身にに言い聞かせるように囁いているように聞こえた。
「彦人さまになんぞ言われたか」
「……いいえ。いいえ。あの方は……」
「時雨……彦人さまは息長一族の血を引いているのだ。ゆえに」
「息長……。皇子……息長とはどのような?」
 大王家の一族でもある息長系は、いつのころからか朝廷の皇族内でも力が弱くなり、存在を忘れかけられていた。
 歴代の大后を何人か出した名家であるのは変わらないが、その「血筋」も顧みられなくなり、中央から離れた領地に根付き……皇家豪族としてひっそりと暮らし始めたのも随分昔である
 息長氏は家に伝わる伝承……つまりは天孫降臨など、後々記紀に繋がる大王家の先祖のことを代々子孫に伝え続け、一族で最も記憶力を有するものに 「阿礼」という称号を与え、一言一句違えずに伝承を伝え続けたのは、自らが皇族たる誇りゆえである。
 そんな平穏な息長一族において、一大騒動が勃発する。
 息長真手王が娘広姫が、この地を訪れた志帰嶋大王が二男他田皇子に見初められたのである。
 当時志帰嶋大王には皇后石姫との間に「大兄」の称号を与えた嫡子箭田珠勝大兄皇子があり、その次子たる他田には皇位が巡るとは考えられてはいなかった。
 他田もこの中央から少しばかり離れた閑静な押坂の地に根付いても良いとでも考えたのだろう。広姫を妃として迎え、すぐに嫡子彦人皇子も誕生し、静かに平穏に暮らしていた。
 彦人は祖父真手王に可愛がられた。母譲りの利発さと息長系の血ゆえか。幼くして大王家の伝承に興味を持ち、木簡にしたためられている伝承や口頭で伝えられている話を瞬く間に覚え、父も祖父も未来の語り部になると、その成長が楽しみでならなかったという。
 だが押坂の平穏な日々は、広姫が三人目の子を身ごもった時に、兄箭田珠勝大兄皇子が急死したことにより崩れた。
 父志帰嶋大王(欽明帝)には、有力な皇位継承者となる弟の存在もなく、大后石姫の次子たる他田が、急遽次期大王になるべく中央に呼び戻される事態となった。
 広姫は御産もありそのまま押坂に残され、彦人とその妹である逆登も馴染み深き土地に留まることになった。せめて嫡子たる彦人だけは共に連れて戻りたいという他田の申し出を、真手王が跳ね除けた結果でもある。嫡孫たる彦人を、真手王は渡したくはなかったのだ。
 中央に戻された他田は、父の命令により直ちに異母妹である額田部皇女を妃として迎え、その他にも夫人など四人の女性を宮に迎えることとなる。
 ほどなくして志帰嶋大王が死去。三十四歳の他田皇子が皇位を継承し訳語田大王として即位した(敏達帝)。
 即位と同時に、大王が大后に立后したのは、大方の予想に反し押坂の地に残してきた広姫だった。  当時の立后の条件は皇族の姫であることだが、皇族より離れて何世代も立つ姫を大后に任じるのは稀な例である。
 ましてや異母妹の皇女額田部を押しのけて、長年連れ添った広姫を立后した。
 そこに訳語田大王の意思が明確に読み取れる。
 額田部皇女の母堅塩姫は蘇我馬子の姉である。現在沸き起こる「神仏論争」にて仏教を崇める一族で、額田部は表面立って仏教を信心していないが、母と叔父の影響を色濃く受け継いでいる。
 訳語田大王は「仏教」を忌み嫌っていた。
 仏教への憎しみは、それを信心する蘇我一族にも向けられ、父志帰嶋が蘇我家を重用したのとは正反対に蘇我家を疎い、代々古来の神を崇める物部一族に親しみを覚えたともいわれる。
 だが新設していた幸玉宮の完成を待たずに広姫は死去し、
 新たに立后を求められた訳語田は、幸玉宮建造に当たった蘇我家の意向を無視する力はなく、求めのままに額田部を立后した。
 彦人皇子が幸玉宮に呼ばれたのは、それから数年も後のこと。後見人の祖父真手王が死去し、彦人は幼い妹二人を連れて新宮に入ると同時に、「大兄」の称号を訳語田大王より与えられた。
 これもまた訳語田大王の意思と言える。
 いずれはこの彦人に皇位を譲り、仏教の浸透を防ぎたいという思いもあったろう。
 一番の側近たる三輪逆を彦人の後見人につけ、次期大王とすべく体勢を整え始めたのである。
「皇子」
 大王家についてそれなりの知識を持つ時雨が、息長氏が大王家の伝承を代々伝えてきたという点に大いなる驚きをもったようだ。
 掻い摘んで説明したため、重大な部分は厩戸はあえて時雨には語らずに居た。
(息長氏は代々時渡り人についての伝承も伝えてきていた)
 その伝承をおそらく彦人は受け継いだのだろう。「阿礼」の称号を受け継ぐ語り部に、わずか八歳で就任したとも聞いている。
 でき得るならば彦人にだけは合せたくはなかった。
 あの方は……伝承以外にも恐ろしさを身に備えている。
 おそらく時期に皇位継承の一番手に名前があがるあの人は、何よりも逆登皇女の実兄なのだ。
「時雨。彦人さまは……そなたのことを悟って……いるのか」
 時雨の両手が震えながら、厩戸の体をギュッと抱きしめたそのことが、何よりもの答えと言えた。
(知れていた。幸玉宮に……時雨のことが)
 空を睨む厩戸の黒目には、拭い去れぬ不安が滲んだ。
(幸玉宮には……逆登がいる。……アレは、この皇子と同様の力を有すもの)
 この大和朝廷にて一本の血脈に受け継がれてきた「家刀自」の力。
 手白香皇后以来、その力を正当に受け継ぐものはなく、血は今では二家に分散された。
 大王家生粋の血を持つ幸玉宮第一皇女「逆登皇女」と、渡来系の蘇我の力が混ざったこの厩戸に。
 本来ならば大王家が「至宝」といわれる家刀自の力は、生粋の生脈に受け継がれるべきであろうに、息長一族の皇家の血はいささか薄かったのかも知れぬ。また皇家に渡来系の蘇我の力が混ざり突然変異でも起きたか。
 両親ともが蘇我の血を引く厩戸の血に、家刀自の力の半分が落ちた。
 これは何かの因縁か。それとも宿命か。同時期に家刀自が二人たち、正当な家刀自は手白香皇后の遺言によれば、時渡り人自ら選ぶという。
「時雨は皇子だけのものぞ」
 時雨のその胸元に顔を埋めて厩戸は叫んだ。
「この皇子だけのものだ」
 それを独占欲とでも執着とでも、どのような名をつけて呼ぼうが構いはしない。
 あの藤棚の下で雨に濡れた時雨を見つけたあの時に、厩戸は悟ってしまっていたのだ。
(生涯を共にする我が唯一の伴侶)
「私は……この時雨は聖王君のものにございます」
 お側におります、とかほそく呟く時雨の声に、何一つ強さがないのを厩戸は気づいている。
 時渡り人と家刀自は、誰がどれほどに引き離そうとも自然と惹かれあう。その運命は誰にも止めることは適わない。
「逆登皇女に会ったのか」
 厩戸の声音もわずかに震えた。
「………」
「……時雨」
「皇子。この時雨は……」
 その黒き瞳が哀しく揺れるさまで、厩戸は我知れず時雨が「家刀自」二人の事実を知ったことに気付いた。
「この皇子だけを見よ、時雨」
 時雨の顔に両手を当て、厩戸は強い語調で言ってのける。
「そなたの宿世はこの皇子だ。他の誰でもない」
 誰にも渡さない。誰にも譲らない。誰にもふれさせはしない。
 透き通るほどに美しく、はかなく。消え入りそうに生気のないこの聖人は、この厩戸がただ一人欲した「時空の恵し子」だ。


「皇子」
 訳語田大王に拝謁した後、時雨は身体より力が抜けたような感覚を味わっていた。
 大王が身にまとう清涼な空気はどこまでも穏やかであり、その子である彦人からも逆登からも……時雨を安心させる血の香りがするというに。脳裏によぎる厩戸の顔が、いつか選択をせねばならぬこの身の定めが……時雨の身の均衡を狂わせた。
 居たたまれない心境とでもいうのだろうか。身は居心地によさを味わっているというに、この心は一刻も早くこの場を立ち去り、あの孤高な厩戸の顔を見たいと思った。
 その手に触れ、「時雨」と呼ぶ声を聞きたい。
(そうしなければ……私は……)
 今、目の前でにっこりと彦人に向けて笑うこの逆登の魅力に捕まる恐れが身をすくませた。
 奥殿を出、おそらく自分を探していたのだろう厩戸の姿を目にした時、訳もなく涙が一筋流れた。
 この腕に厩戸の体を抱きしめ、「時雨」と呼ぶその声を、烏色の無の瞳を見つめ、この身の血が唐突に鎮まるのを感じた。
「我が皇子」
 傍にあると誓った。心哀しき厩戸の、わずかでもいい。心を温める存在であることを、心から時雨は願っている。
 生きることに何一つ望みもなく、何のために生きているかも分からず「忌み子」として蔑まされてきた自分が、ようやく見つけたまばゆいばかりの光。
 この身が傍にあれば穢してしまうのではないか、と恐れ恐縮し、されど躊躇うことなくこの身に触れてくる厩戸に、時雨は救われたのだ。
 あの藤棚の下で、雨にぬれて倒れていたあの時。この目に映した光り輝く皇子が、どれほどに時雨の心を温めたか知れない。
(なにゆえにございますか……)
 この命すらも惜しまない。この命よりも大切な聖王君の傍にあれるというのに、
 この身は、なにゆえに今日はじめて出逢った少女に、厩戸同様の惹かれ方をしたのか。
 時渡り人と家刀自の血がなせる事象といえば、それで終わりとなる。
 だが時雨にはその血の宿世では終わらぬ魅力を、あの健康そのものの少女に抱いてしまった。
「……時雨」
 こうして強く厩戸を抱いていなければ、またこの心はあの少女の面影を脳裏に宿しそうで。
 時雨はこの心を厩戸に留めるためにも、ギュッと厩戸を抱きしめる。
「……時雨、皇子の目には周囲がゆれて見える」
 胸元に抱きしめられていた厩戸が、不意にそんなことを言い出した。
「皇子?」
「時雨が揺らいでいる。おかしい。空も……木も……」
「皇子!」
 時雨の腕の中にぐったりと身を倒した厩戸の目は、焦点が合っていない。
 時雨は立ち上がり、両腕で厩戸の体を抱き上げたその時になって初めて気付いた。
 厩戸より漂うは強烈な酒のにおいに。
「御酒を過ごされましたか」
「……あのようなもの水に等しい」
「……どれほどに飲まれたのです」
「十杯は飲んではいない」
 六歳の子どもに酒を飲ませること事態異常なことであり、それも十杯ほど杯を重ねたとなれば……これは確実に酔いである。
「時雨の腕の中……心地よい」
「あまり過ごされては身体によろしくありません」
「良いのだ。飲めば……子どもと侮られなくなる」
 フッと笑い、酔いに意識を奪われるかのように厩戸の目は閉じられた。
 六歳の子どもがこれでは明日は二日酔いだ。あまり飲ませぬように自分が見ていなければ、と時雨は腕の中の厩戸の健やかな顔を見つめながら強く思った。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 8章

古の家刀自編一ノ章 8章

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【改訂版】 2013年1月22日(火)
  • 【備考】 横書きパージョン
  • 登場人物紹介