時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

10章



 朝には晴れ渡った青を見せていた空が、今は雨雲に覆われ、周囲は薄暗闇になりつつある。
 わずかに晩夏の風が冷を含み、時雨の頬を突き刺す中、
 時雨の目は草が生い茂るだけとなった藤棚に注がれていた。
「………」
 この飛鳥の地に初めて降り立ったこの場所は、今、明確に季節のうつろいを表している。
 藤の花の紫の色合いが少しだけ懐かしく、みょうに恋しい。
 それはほとんど顔を合わせたこともなく、共に語り合ったことも無い遠い遠い存在たる母を思い出すからだろうか。
 能面の如し表情しか思い出せぬというのに、この自分を生みし母は「藤子」という夏の花と同じ名であった。
「母上……」
 逆縁の子。忌み子を産み落としたという衝撃と苦痛から、母たる人は心を封じ喜怒哀楽を失ったとも聞いていた。
 全てはこの自分が「男子」として生まれたがために。
 物心ついた頃には上宮家において「忌み子」という立場を背負っていた時雨は、なぜ?と疑問を持つことを喪失していた。
 なぜ自分が忌み子なのか、と思うならば、それは「運命」と時雨は微笑んで答えるしかなかった。
 人と触れ合わず自分が人たることも忘れるそんな日日が続き、終わりだけを願い、終わりだけを待ち望んで息を吸うことすら苦しかった自分が、「時渡り人」として在るこの飛鳥。
「………」
 忌まわしき存在であることに慣れ、無視や、どのような視線も、どのような感情を含む目を向けられようとも、
 この心は痛みすら感じなくなっていたというのに。
 今、この胸を貫く痛みはなんなのだろう。ジクリ、ジクリと痛むこの胸の思いはなんと表現してよいのか。
「……時雨」
 背後より自分を呼ぶその幼き声は、いつもの厩戸とは思えぬ不安に満ちた声であった。
「皇子」
 時雨はわずかに無理をして振り向く。
 自分は笑っているように思えた。きっといつもと変わらぬ穏やかな笑顔を厩戸に向けられているだろう、と。
 一歩一歩近寄ってくる厩戸は、さらに哀しげな顔をして、そっと時雨の手に触れる。
「皇子が守るから」
 見上げてくる厩戸のその顔は、哀しみに耐え、震えていた。
「どのようなことからも皇子が時雨を守る。時雨に二度とそのような顔をさせぬように皇子は強くなろう」
「皇子、私は……哀しくなどありません」
「ならば何ゆえに泣く」
 厩戸の顔がわずかにおぼろで、霞んで見える。
「そのように笑いながら、時雨は泣くのか」
 その時まで時雨は「泣いている」ことが分からなかった。
 この飛鳥の地に降り立ったときに、厩戸のぬくもりに、聖王君がこの自分を抱きとめてくれたことに感極まって涙したこともある。
 されど今は、その涙とは違う。
 この身に、この胸に宿ったはじめての「哀しみ」で時雨は涙したのだ。
「時雨」
 屈んで、と指で指し示す厩戸に、言われるがままに膝を折ると、ふわりと自分を包み込む優しき熱が舞い降りる。
「哀しいときは泣くものぞ。誰でも泣く。……皇子は笑いながら涙する時雨が痛い」
 抱きしめられると同時に、ジクリ、ジクリとしていた感情が、途端に水に打たれたかのように静寂を刻んだ。
 されど涙は如実に今の心情を物語る。
 それは厩戸という存在に促されたかのように、頬に伝うは幾筋もの雫。とめどなく流れ行き、厩戸の頬にもポタリと落ちた。
「皇子が必ず守るゆえに」
 いまだ幼くて、力がない、ただの皇子で済まない、と呟く厩戸が、いとしくてならないと思った。
「時雨は……皇子を御守りします」
「……うん? 聞こえない」
「必ずや時雨が皇子を御守りします」
「皇子は時雨にならば守られても良い」
 顔をあげ、いつもの厩戸の笑顔を見せてくれた。
 落ち着き払いながらも、毅然と高貴さをかもし出し、誰をも受け入れぬ微笑ではなく、無邪気に笑うあどけない六歳の笑顔。
 その笑顔が時雨にホッと安堵をもたらせる。
 今までにないほど厩戸を守りたいと時雨は思った。自分に躊躇いもなく触れ、ぬくもりを与えるかのように抱きとめてくれる厩戸がいとしくてならず、この命、全てを厩戸に捧げてもよいとすら思えた。
 忌み子として生まれ、生きる価値も意味も見出せず、ただ「終わり」を望んでいた時雨に芽生えた、それた初めての愛情なのやもしれぬ。


 部屋に戻ると、そこには蘇我毛人の姿はなかった。
 木簡が一つ置いてあり、「俺の勝ちだ。厩戸の腕も落ちたな。ざまぁみろ」といったようなことが書かれている。
「我が本調子ならば毛人に負けはせぬ」
 珍しく悔しさを全面に出し、木簡をバン、と床に叩きつけた厩戸を見て、思わず時雨は吹きだした。
「如何した? 時雨」
「皇子もそのような態度をなされるのか、と思いまして」
 すると厩戸はわずかに不機嫌な顔をし、プイッと横を向く。
「人は皇子を生き神のように見るが、我は単なる六歳の子供だ。もどかしい限りだが」
「六歳ではなぜいけません」
「六歳ゆえに人は我を子供と侮る」
 時雨は優しく微笑む。六歳のこどもでしかない、と言い切りながらも、こどもと侮る、と口にするこの厩戸の矛盾。
 こどもであるといい。だがこどもであることを誰よりも許してはいないのは、厩戸自身ではないのか。
「……皇子」
 頬に触れると、驚いたかのように目をぱちくりする厩戸に、
「皇子は六歳。六歳ならば六歳にしかできぬこともあります」
「……もどかしいが、確かに時雨の言うとおりだ。子供と侮られているゆえにできることもある」
「そういうことではありません。皇子は大人びています」
「……我にそのようなことを言うのは時雨だけぞ」
 ニコッと嬉しげに笑うその無邪気さが、時雨にはいちばんに可愛く映る。
 そのような言葉を口にすれば、この誇り高く誰よりも気丈とある厩戸はきっと不機嫌になるに違いないが。
「だが……毛人め。次は圧勝してくれる」
「皇子は毛人さまがお好きなのですね」
「皇子が毛人が好きだと」
 ことさらに驚いた素振りを見せたが、そのまま腕を組み、なにやら考え込む姿勢となってしまった。
 時雨は厩戸が叩きつけた木簡を手に取り、それを文机の上に置くと、
「我は気に食わぬだけだ」
 脈絡もない言葉を口にする厩戸だったが、その感情がよく読み取れるため時雨はただ「はい」と答えるに留まる。
 厩戸にとってはきっと数少ない同年代の友人の一人となろう。
 ただ少しばかり心配なのは、厩戸も毛人もとても年相応には思えぬほど大人びていることにある。
 二人で会話しているときの大人顔負けの話は、政治面や立場に由来するところが多い。厩戸の友人としては毛人は立場の重荷を知りすぎている。
「どうした時雨?」
 だがこの厩戸の友人はただ人では務まるまい。
 友人というのも難しいものだ、と悩む時雨は、ふと自分が厩戸の保護者にでもなった気分となり、なんと恐れ多いことと恐縮する。
「百面相」
 からかうかのように厩戸が笑った。
「はじめのころはさして感情の起伏がなかったというに、この頃の時雨はよく表情が移り変わる」
「そうでしょうか」
「今の時雨の方が厩戸は好きだ」
「……皇子……」
「時雨が一番に好きぞ。忘れるな。いついかなる時も時雨は皇子が守る。永遠に、常しえに皇子が守る」
 烏色の瞳は一瞬にして真摯に染まり、一心に時雨を凝視して告げる言葉は、ひとつの真実。
「考えもせぬだろうが、口説いているのだぞ」
「皇子!」
 ポッと赤くなった時雨を見て、厩戸はさらに声をあげて笑った。



 自らの部屋に戻り、鏡台にかけてある鏡を目にする。
 それは時雨がかの昭和の御世の上宮に居た一つだけの証である聖鏡。
 初めて顔を合わせた時、彦人がこの鏡を見て、面白いことを言っていた。八咫鏡にこの聖鏡が似ている、と。
 ……鏡については、かの岩戸隠れの際に、天照に鏡を差し出した天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖とする中臣一族が詳しいですよ。
 中臣という家については少しばかり知っている。 「神と人の仲介者」たるかの家。天岩戸伝説においても鏡を天照に差し出した天児屋命を祖とする。
 だがこの一族には謎がどこまでも付きまとう。
 中臣の姓において唯一無比と言えるほどに世に出るは、中臣鎌足。かの藤原氏の祖となる大化の改新の英雄ではあるが、彼とて中臣家の直系の系図に名があるのみで、実は父とされる御食子の実子ではないのではないか、という説すらあった。
 蘇我惣領家の側近でもあった御食子。その子の鎌足は蘇我による引き立てを拒み、神道の一家にしては名誉たる神祇伯すら拒否している。
「内臣中臣鎌足」
 この厩戸皇子の世代からは離れた次の時代の申し子。厩戸が死す七年前に生を受けたと記憶している。
 妙にドクドクと胸の鼓動が早まる。
 鎌足という名にこの上宮の血が異常なまでに反応しているのが、知れた。
「なにゆえ……」
 それは蘇我毛人に感じた相容れぬものではない。むしろ柔らかく優しく浸透し、なによりも違和感がない。
 不思議と感情が高揚し制御できず、わけも分からぬ涙が一滴また一滴と流れていく。
 時雨の今の表情を聖鏡が捕らえ、映し出す。
 自分が流す涙はこのようなものか、と始めて目にした時雨は次の瞬間、眩しいまでに光を放つ鏡に吸い込まれ、
「時雨……」
 その声を確かに耳は捕らえた。
「ようやくわらわの声を聞こえるようになったか、時雨よ」
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 10章

古の家刀自編一ノ章 10章

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【改訂版】 2013年1月22日(火)
  • 【備考】 横書きパージョン
  • 登場人物紹介