時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

7章



 後宮と呼ばれる場所に足を踏み込んだ自分は、ことの重大さよりも傍らの美しき黒髪を美豆羅結いにまとめ、軽装を優雅に、そしてたおやかに着こなす少年が気になっていた。
 麻呂古皇子という名には、覚えがない。幼き時より古文書にて上宮ならびに記紀の系図をそらんじられるほどに繰り返し読んできた時雨なのだが、その頭にその名は一切記されていなかった。
 アマテラスなどの朝廷の神々や祭祀について詳しいと見え、自らを語り部とかたるこの皇子は、時折時雨に振り向いて、やさしく微笑む。
「私は不審な人間ではないと思うのですけど」
「いえ……ただあなたは不思議だと」
「不思議? その言葉はあなたに適していますよ、時渡り人」
 にこり笑うと少年特有の幼さがにじみ出る。厩戸が時折見せる幼さにはホッとする時雨だが、この皇子にはより親しみがわくようだ。
 身に流れる血に蘇我の血が一滴も流れておらず、そればかりかその身を覆う血は時雨に清涼さと懐かしさを思わせる。
 血が共鳴する。血が……皇子の血は、時雨の中の「血」に感傷とやさしさを。そして「正統さ」を認識させた。
「時雨」
「はい」
 声音に含むやさしさが心地よい。
「私はずっと時空の時渡り人にお会いしたかったのです。手白香皇后の傍らに控えていた遥の話を聞きしころからずっと」
 にこりと微笑まれ、それにつられるように時雨は笑んでしまった。
「……麻呂古皇子さま」
 その名を呼ぶと、皇子は少しだけ悲しげに、また懐かしさを顔に滲ませて微苦笑した。
「もうほとんどその名では呼ばれていないのです……。昔から幸玉宮にいる采女たちは、半ば癖でこの名を呼びますが、なんだか時雨が呼ぶと……その名が私の名だと久々に実感できました」
「………」
 では、この皇子は今は違う名で呼ばれているということになる。
「その名の方が私は好きなのです。生まれ育った押坂で呼ばれてきた名です。幼いころからずっと……今は亡き祖父がよく……。数年前まで名を新たに持つことになるなど夢にも思いませんでした」
 まるで風に消え入りそうな悲しげな笑み方をする。大人のような笑みを無自覚になす厩戸とは違った意味で、時雨は悲しく思えた。
 今、皇子の闇同様に深き黒い瞳に映るは、生まれ育った場所への哀愁だろうか。
 かえりたい、と声なき声が呟かれ、時雨をそっと振り返り微笑むこの皇子も年相応であることが許されない身と察した。
「……皇子さま」
 小さく呼びかけると、現実に引き戻されたかのように顔をあげた皇子が遠くを見てハッと身を硬くした。それは「お兄さま」という声とともに、少しずつ緩んでいき、一瞬の緊張は瞬く間に消え失せ、優雅でおっとりとした元の姿に戻る。
「お兄さま」
 皇子の視線を追うようにして、時雨が目を向けた先には、前方より髪を風になびかせ、手を振りつつ猛然と走ってくる少女の姿が目に入った。
逆登さかのぼり。女の子はそのように走ってはいけません、と父君が」
「よろしいの。私はおてんばですもの」
 そのま走り寄り、ギュっと皇子に抱きついた少女は、にっこりと笑った。
 健康そのものの生気に満ちた顔一面に刻まれた笑顔。
 思わずドキリと胸が鳴った理由を、あえて時の中に流した。
「幸玉宮一のおてんば皇女の私には、兄君のように物腰たおやかに優雅……は無理。きっと私とお兄さまは反対に生まれるべきでした」
「そんなことはないのだよ。逆登は数年もたてばとても美しい姫君になるのだから」
 皇子は少女の背をポンポンと叩く。
「お兄さまはお言葉がお上手。 そのお言葉が……真実でなくとも私はとても嬉しいです」
 そっと皇子より身を離した少女は、一歩下がった場所に佇む時雨をジーっと見つめてくる。
 ようやく傍らの時雨の存在に気づいたという顔だった。
「……お兄さま。この方は?」
 幸玉宮一のおてんば皇女、という発言から見ると、訳語田大王の皇女の一人となるのだろうか。くるくると変わるその表情の豊かさや、いかにも野を駆け巡っていると思われる健康に満ちた肌。年のころは十歳前後と推測でき、まだまだ遊び盛りのやんちゃさと、大人の香を一握も見せない初さが顔一面に見られた。
 生まれ育った上宮家の広大な館の一角に、幽閉の身としてあった時雨には「女性」に対する知識はさしてない。時雨が目にする女性はみな大人で、しかも能面のように感情が見受けられないものばかりだった。目の前の少女のような健康的な女の子とは初体面に等しい。
(女性とは……このように表情を幾重にも変え……楽しげに笑う……存在なのですか)
 驚きと狼狽。時雨にとっては未知ともいえる存在に対し、心拍数が徐々にあがっていく。ふと脳裏に浮かんだのは母藤子の姿で、十八年生きてきた中で幾度しか顔を見たことがない母はいつも能面のような顔をしていた。あの時だけ……時雨が上宮の祭祀のおり光に包まれたあの時に見せた喜悦に満ちた表情が、ようやく人としての熱を感じさせた。
 その歪んだ喜悦とは全く違う。女性の心からの楽しげな無邪気な笑顔というものは一度としてみたことがない時雨には、今が初経験であり、一瞬にして魅せられた。
 つぶらな瞳はきょとんとしたまま時雨を見つめ続ける。瞳には幼さを多分に含み、そこに無邪気な好奇心と驚くほど大人の思慮深さが同居していることが見え隠れし、またしても時雨はドキリとなった。
「紹介するよ、逆登。こちらは上宮時雨。この兄の……待ち人だね」
「まぁ。お兄さまの待ち人なんてとてもとても妬けますわ」
 少しだけ膨れた顔をすると、あの思慮深さはどこかに消えうせ、雰囲気がとたんに幼くなる。
 逆登の整った顔にはキリッとした気丈さが含まれている。筆で引いたかのような眉。甘く小さな唇。ほどよい高さの鼻。陽にわずかに焼けた肌は健康そのもので、運動を十分にしているからかほどよく引き締まっている体つきをしているが、まだ子供のままだ。 これから少女から大人の女性に変化していくのだろう。さなぎから蝶に移り変わるそんな狭間の時期といえる。
 決してきれいとも美しいとも形容詞はつけられないが、時雨は目が離せないほど逆登に魅力を感じた。
「こちらは私の下の妹で逆登というのだよ。この下の妹の菟道うじは伊勢の……斎宮だよ」
「……斎宮」
 古の朝廷では、伊勢神宮の祭神であり皇室が奉った最たる神アマテラスに、大王は一人純潔な皇女を選び、斎宮として伊勢に郡行させるしきたりを取っていた。
 斎宮は自らを選びし大王が崩御するまでの間、斎宮として伊勢で潔斎し大王とこの国の安寧をアマテラスに祈り生きていかねばならない。
(大和朝廷での斎宮は……伊勢郡行は疑問視されていたはず)
 この後、壬申の大乱で勝利をおさめた天武帝は、アマテラスの加護を戦のおりに受け、その恩に報いるために一の皇女大伯を斎宮として伊勢に郡行させている。大伯皇女以前の斎宮の伊勢郡行記録は見られない。そのため天武帝以前の斎宮は朝廷にあり、伊勢に赴くことはなかったというのが定説となっていた。
 一瞬、脳裏にかすめた古の斎宮の疑問点について、ついこの場で詳細を聞きたいと思う好奇心もほんのわずかあったが、伊勢の斎宮と口にしたおりの皇子の口ぶりが実に沈鬱であったことを思い出し、時雨はただ黙して逆登の瞳を見つめる。
「時雨といいましたね。お兄さまは……誰にも渡しませんことよ。私のお兄さまですもの」
 挑むような視線に有り余るほどの強さと、皇子に対する情を感じ、知らず知らず時雨は頭を下げてしまった。
「えっ」
 驚いた逆登はつい声をあげてしまい、慌てて口を塞ぐ。その行為が可愛らしく時雨には映る。
「この身は……聖王君がもの。残念ながら姫君の兄上さまのものにはなれませんし、とても兄上さまを私如しが奪えるものとは思えません」
 予想外の返答に呆然となった逆登は、続いてクスクスと笑い出した。
「ふられましたわよ、お兄さま」
 からかうような気軽げな声音に、皇子も釣られるようにして微苦笑を浮かばす。
「そのようだね。これほどの美しい人にふられるのは……心が痛むよ」
「大丈夫。逆登が慰めてさしあげます。それにしても……おもしろい人ですね時雨。お兄さまに言い寄る人は多くて、いつも私はこういって退散させてきましたのに。真面目に答えて……私の口を塞いだのははじめてです」
 くすくす。無邪気な笑いに、時雨は「かわいい」と思った。
 活き活きしているものは見ているだけで楽しく、少しだけ心に元気がもらえる。健康なものはそれだけで「美」という認識が時雨には備わっていた。
 この逆登からも一切の蘇我の血が感じられず、それ以上に皇子と同等にか。時雨には懐かしさといとおしさがこみ上げてくる。
 上宮一族に伝わる古文書には、大王家の系図が細かく記されていたが、それはほぼ男系一統のもので統一されていた。時の帝の皇后などにならねば、系統の皇女においても名が記されておらず、そのため時雨は大王家の数多の皇女についての知識はそれほどない。
 逆登皇女という名には覚えはなく、この時には訳語田大王の幾人もあった皇女の一人という認識しかなかった。
 だが、時雨には知識以上にこの身に訴えかける確かなものがあった。
 逆登のこの血はおそらく大王家の直系のものだろう。ほとんど純潔なままに、大王家の同族……古の息長一族の血が色濃く感じられた。
(なぜ……)
 そこで時雨は疑問となる。
 自分は人の血の在り処を知ることができるのだろうか?
 古のこの飛鳥の地に降り立って以来、無自覚に「蘇我」や「大王家」などの血を無自覚に意識している。
「お兄さまのお友達として逆登は、あなたを認めて差し上げます」
 時雨と皇子の間に陣取った逆登は、にこにこと笑って右手で皇子の手を握り、左手で時雨の手を握り締めてきた。
「お兄さまはお友達がまったくいないから、こうして時雨に会えて逆登は嬉しい」
「ひどい妹だね。まったくいないなんて……」
「中臣の皆様は友達じゃないでしょう? 物部の大連はお兄さまをただ政治の道具にしか見ておりませんし。こうして肩を並べて親しげに話す友人など……本当におりませんの。だから……逆登は少しだけ時雨に妬きました。ごめんなさい」
 素直で愛らしく、くるくる表情が変わる逆登。
 時雨が微笑むと、逆登はわずかに頬を染めて下を向いた。
「奥で……今、小さな宴をしておりますの。お兄さまが抜けていらしたので逆登も……抜けてきたのですけど。時雨を招待しますね。父君と私たちと三輪殿と、遠くからお越しになった中臣の本家一族しかいないのですが」
「逆は……父君がいらっしゃるから今日は少しは機嫌がよいね」
「父君しか見ておられませんもの。昔から三輪殿は……」
 ……三輪……逆?
 時雨はその名でよぎる人物にあえて首を振った。
 時の訳語田大王の側近にして、忠臣といわれし三輪君逆みわのきみさかうとなれば……この傍らにある皇子は……。
 時雨は皇子を見、続いて逆登を見つめる。
(あってはならない。そうであったら……私は)
 ……選択を迫られる。
 はっと時雨は息を呑む。今、自分がなにを考えたのか。なにを頭によぎらせたのか。
 時に記憶に残らない思考が時雨には幼いころからあった。
 脳裏に聞きなれぬ声が刃になって突きつけられることもある。
 逆登に手を引かれるまま時雨は宮に足を踏み入れた。わずかに聞こえる雅楽の音は、先ほど額田部女帝の周囲で奏でられていたにぎやかさとはまた違う。
 時雨は息を呑む。この調べは昔どこかで耳にしたことはなかったか。
 この神楽笛の音は……和琴の音も鉦鼓の音も……和太鼓の音も。
 ドキドキと胸が高鳴ると同時に、頭で逃れられぬところにきてしまったという思いが駆け抜けた。
 ……もう逃げられない。
「こちらよ、時雨」
 無意識に逆登の手をギュッと握り締めた。
 宴の間に足を踏み入れたとたん、その場の視線がいっせいに時雨たちに向けられた。
 警戒の視線はない。むしろ和やかで……不意の訪問者ににこやかに微笑みかけてくれる人もいる。
 ホッと時雨は呼吸を楽にした。
「お父君さま。この方は時雨。上宮時雨といわれるお兄さまのお友達です」
 宴の一番奥。御座の上の座す初老の男は、おもむろに顔をあげ、
「時雨。時の雨かね」
 低くもなく高くもないその声音は、どことなく皇子の声に似ていた。
 視力がさして良くはない時雨は、遠くを見るときにわずかに視界がかすむ。そのため御座に座す初老の男性の顔はおぼろげだが、そのやわらかさを含んでいる顔立ちだけは不思議とはっきりと認識できた。また体を包み込む穏やかにして、柔らかな風情が人に和みを与える。
 知らず……無意識に時雨はその場に座し、額が床につくほどに頭を下げた。体が自然とそうさせたのだ。
(姫君がお父君さまと呼ばれた……)
 その確証と、また時雨の体内に流れるその血が平伏することを求めている。我知らずに自覚していた。これは古の王だ、と。
「時を告げる時にたおやかで、優しげな音を奏でるときもあれば、強く一本木に自我を通して降る。……時雨。良い名だ。時を告げる雨。……この国に雨を告げに参られたのかね、時空の時渡り人」
 男は御座より立ち上がると同時に、その体がわずかに揺らいだ。そつなく側に駆け寄り、その体を支える青年が一人。
「大王」
 心から心配、という感情を見せる青年に、男は口元に穏やかさを見せる。
「逆は昔から朕のことになるとそんな顔をする。心配をすることはないというに」
 青年三輪君逆に支えられつつ、時雨の前に立った男……時の帝訳語田大王は、ゆっくりと座し、平伏す時雨の手に触れてきた。
「よく参られた。……誰一人として身内もないこの知らぬ地で心細くはなかったかい」
 思わず顔をあげてしまった時雨に、大王は優しく包み込むようにして微笑まれた。
「……池辺の人間たちはみなそちに良くしてくれているようだね。この地で何一つ心配をすることはない。そちの身は……ここの皇子が必ず守り通そうゆえ」
 大王は傍らに膝を追って控える皇子を見つめ、
「宮廷の語り部として知識を身につけたも、皇子は時渡り人の力になりたいゆえであった。現れるか現れぬか知れぬ時渡り人をひたすらに待っていた。まるで……家刀自のように」
 思わずドキリと鳴ったその胸を見越してか、さらに穏やかに大王は続ける。
「手白香皇后以来、この朝廷にアマテラスが御力を秘めた皇女は誕生してはいない。池辺の厩戸にその片鱗は見られると博士たちも言われるが、その力とて確たるものではない。時雨、時渡り人のそちは確たる家刀自を言い当てられようか」
「……それは」
 上宮一族の者として崇め敬いし「聖王君」ため厩戸皇子がために尽くすは当然のことであり、この飛鳥の地に飛ばされるおり祖母が「聖王をお頼みします」と確かに口にした。
 ましてや家刀自に等しい御力は宿し、その力が未知数なほどに強いことも時雨は感じ取っている。
(私は……)
 厩戸の側にありながら「家刀自」の確証を得られず、そのため不安を常に心に抱いてはいなかったか。
「家刀自の伝承に詳しい博士はこういっておられる。家刀自の力はおそらく手白香皇后より後は……分散され一つに纏まらなくなった。 そして孫子の世代の今、分散されたものが二つに結集したように見られる。……この時において時渡り人の渡りを告げるように力が表に出始めた。一つは池辺に……もう一つは……」
 大王はそっと逆登を腕に抱き、髭でくすぐったいと笑う娘の頭を優しく撫でる。
「渡来たる蘇我の血を持ちし池辺の厩戸と同様に、古よりの大王一族の血のみを伝えるこの幸玉の奥殿の一の姫逆登。古来よりの正統な一姫として、この姫には家刀自の力が備わっている」
 よろしいか時渡り人。時の雨を告げる子よ。
「祖母たる手白香皇后が言い残した言葉をお伝えする。……家刀自の力も血も薄れたことにより、確たる家刀自はもはや生まれなくなろう。家刀自の力も分散された。だが脈々と個個の血統を通して繋がれている。……いずれ時に呼ばれた恵し子が、自ら「家刀自」を血に引かれるままに選ぶようになろう」
 鼓動が脈打った。
 ドクリと早まる鼓動を、自分は遠くで聞いている感覚がある。
「どうされたの、時雨」
 大王の腕の中にあった逆登が心配そうに、手を時雨の頬にあててきた。
「具合でも悪いの? 駄目よ。すぐに薬師に見てもらわなくては。具合の悪さは万病のもとなの」
 つぶらな瞳を彩るは、夜の深き闇の色。皇子同様に一切黒は揺るがない。
 初対面で訳もなく惹かれた。その仕草が、その初々しさが。健康そのものの笑顔を「きれい」と時雨は思った。
(私は……私は!)
 家刀自の力を有するものとは、自然と惹かれあうが時渡り人の宿命。
 厩戸に抱くは上宮家のものとして崇拝を抱く「聖王君」に対する思慕と、孤独を彩る気高き王に対する寂しさ。分不相応と思いながらも、あの大人でなくてはならないと思っている厩戸を、ほんのわずかでも温める存在でありたいと思う情。
 飛鳥の地に渡り、藤棚の下で雨に濡れる自分を、最初に見つけてくれた相手たる厩戸に、無自覚に強く引き寄せられたこの心。
 あの時と同じなのだ。形は違えど、人に思いいれなどを抱かなかった自分に一瞬で感情というものを抱かせたは……厩戸と、目の前にある逆登だけではないか。
「大王。訳語田大王さま。私が……この時雨が家刀自を……」
「そうだ。時雨よ。そちがこの国の礎となすものを選ぶ。逆登を選べば、この子は時の大王の皇后に立ちこの国の安寧がためだけに身を捧げよう。厩戸を選ぶならば……あれはこの国の基盤となり中心となる。大王と立つやもしれぬ」
 この身に触れる逆登の手はほんのりと温かく、
 厩戸の冷めた手とはどこまでも対局であった。
 父親や兄に慈しまれ自由奔放に育ってきたに違いない逆登。その表情は愛情多きものであり、健康的な体に、情愛が多く含まれる理知的な瞳。厩戸は対照的だ。どこまでも大人びており、六歳の年齢とは思えない知識や教養を身に宿しているが、一方で落ち着き払い無表情で時に冷笑まで浮かばす表情と、子どもらしさなど微塵も伺わせない洗練され優雅な物腰が……時雨には哀しく映る。
 この腕で抱きとめていなければ。腕で包み込まなければ、あの孤独な厩戸の心はどこか人として壊れてしまうのではないか。
「今すぐ選択をすることはない。時か、身に流れる血が自然と定めるだろう。それが運命と呼ぶものだよ」
 大王は時雨の手を優しく握り締め、落ち着かせるためにか柔らかく笑まれた。
「始めての選択をなさねばならない時雨は実に重荷を背負ったと思える。……ここにある皇子が、宮の語り部の称号に相応しい知識でそちを助けてくれるだろう。なにかあればこの皇子を頼るといい。……必ずや期待にこたえよう」
 のう、彦人や。
 父大王の呼びかけに皇子は会釈をし、確たる声音をもって誓約を口にする。
「この彦人大兄皇子が、朝廷の安からなることを祈願し、時渡り人に助力致します。できうれば友としてありたい」
 それはまるで始めより仕組まれていた歴史の歯車のように、
 ひとつひとつがかみ合い、重なり、ただの一つの歴史の動き手でしかない時雨の身を縛るかのように……容赦がない。
(皇子……聖王君。私は……)
 あなたの側にあると誓った。あなたの側にあり続ける、と。自分がここにあればいい、というあの心哀しき厩戸のために生きるものだ、と心に必死に言い聞かせて。
 無自覚ながらも知っていたのだ。こうなる定めを。
 意識せねば呼吸もままならない中で、必死に脳裏に描く厩戸の顔はどこか悲しげで、思わずはっとして呼吸を止める中、
 いまだ自分を心配げに見つめる逆登の顔に、時雨の心は温かなもので満たされる。


 彦人大兄皇子。
 訳語田大王こと敏達帝が長子。その母は息長系の皇族真手王が娘広姫であり、敏達帝の最初の大后に立后された人である。
 早くより「大兄」という時期皇位継承者の称号を授けられ、父大王とともに「廃仏派」の中心たる皇族として、後々に大連物部守屋に 「大王に」と担がれていく人物。
 その生涯は確たることは知れておらず、この後の蘇我の血を引く皇族の台頭とともに存在自体が薄れていったとされる。
 だが彦人の血統は脈々とこの後も朝廷にて重きをなし、女帝額田部(推古帝)が死去の際、後継者にと指名されたのは厩戸皇子が嫡子山背大兄王と、彦人の嫡子田村皇子であった。
 後継者の地位をめぐり、この二皇子を有力豪族が担ぎ朝廷は一触即発の大事となる。争いの末に王位を継承したのは田村皇子……諡号舒明帝であり、その子どもが名高き天智・天武両帝となる。

 その彦人が朝廷の「語り部」として、時渡り人たる時雨にそっと手を差し伸べた。
 その血は安らかで、どこまでも清流といえるように清らか。
 彦人・逆登の兄妹の側にあると、とても懐かしくやさしい心地に時雨を誘う。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 7章

古の家刀自編一ノ章 7章

  • 【初出】 2008年1月14日
  • 【改訂版】 2013年1月22日(火)
  • 【備考】 横書きパージョン
  • 登場人物紹介