時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

序章2



 上宮家では毎年「祭事」がいくつも執り行われるのだが、中でも三十六年に一度、または五十六年に一度の「聖王祭」は特別な祀りといわれている。
 聖王祭がために、およそ三年前の弥生二十二日の「花鎮め祭」より準備をとり行われ、季節季節で準備祭があるほどだ。
 聖王祭の日取りは四月八日である。これは聖徳太子こと厩戸皇子が死去した日にあたるそうだ。昔は二月二十二日に行われていたというが、明治となり新暦が用いられるようになってからは、旧暦を新暦になおして四月八日にとり行われるようになった。
 聖徳太子こと「上宮王」の言い伝えが実に多く語り継がれてきている村といえる。
 上宮村という地名は、上宮家宗家の古文書に記されたことを信じるならば「上宮王かみつみやおう」と呼ばれし厩戸皇子に由来しているという。また村の名前を姓として持ち、代々柿本神社の筆頭氏子たる上宮家宗家には厩戸皇子の血が脈々と受け継がれているというが、どこまでが真実かは知れない。
「時雨叔父、またあとで」
 宗家の跡取り息子である真人は、手を大きく振って父のもとに走っていた。時雨はその後姿を見ながら、ふと自分を見つめている視線に気付く。
(お婆さま……)
 時雨の祖母にして、一子相伝の巫女職に就く上宮斎子いつきこが、その顔に皺に覆われながらも巫女としての静謐と威厳を失わずにいる表情を浮かばせ、孫の時雨に無感動の視線を向けていた。
 感情を込めずとも祖母が言いたいことは分かっている。
(黙って座っております。この身のあり方も分も承知しております)
 時雨は静かに頭を下げて、一族の下座の席に座した。
 もとより時雨という人間は、生まれ育った環境が影響してか存在が希薄であって、今、下座に就こうとも誰も意識を向けてくることは無い。
 また上宮一族が時雨という存在に対し「在って無きもの」という意識があり、それは言いようによっては「空気」であり、また悪しき表現を使うならば「あえて目に入れない」ということでもある。
 一人清涼な風情に身を包まれながら、意識せずに気配をほとんど消し、時雨はこの上宮という一族が「何者なのか」この「聖王祭」はなんなのか。そんなことを考え始めていた。
 聖王祭への出席は、数々の掟の中でも一番に重い「掟」の一つといえる。村全体で祀りの用意を行い、村人すべてが必ず儀式に参加せねばならない祀りというよりも儀式に近いだろうか。それも上宮村で生まれ育ったものは、よほどの重大事がなければ村外に出ていようとも聖王祭には村に戻ってこなければならないのであり、今までこの掟に違反したものは一人としていないともいう。千年近く絶えず続けられてきたという伝統を誇る祀りの「掟」は絶対の効力を要していた。
 されど、と時雨は時々不思議でならない。
 それほどまでになぜ「上宮王」を祀るのだろう。
 なにゆえ千年近くも、この上宮村が「上宮王」を奉っているのだろう。
 古文書ではこの上宮家が「上宮王」の血を受け継いでおり、その血を決して薄めず絶やさぬために血族通しの婚姻を続けてきているという。確かに時雨の父母は従兄妹同士であり、祖父母も伯父姪の関係であった。古文書にある「血を絶やさぬこと」を掟とし、「血を薄めぬこと」を義務とするならば、この血族婚はまさに掟通りともいえる。
 だが、偉大なる上宮王の血を守るためだけではない「血族婚」の理由を時雨は知っている。
 祖母の斎子は、忌み子として幽閉され、ほぼ一族に関ることを禁じられた時雨に、何かしらの「生きる」価値を与えようとした。離れの幽閉部屋に、黙々と先祖伝来の一部の古文書を運ばせ、上宮の一族の歴史をまとめさせようとしたのだ。
 その古文書には「恵し子」という記述がある。非現実という思う心はあるが、それを現実とするならば、その記述のために血族婚を繰り返すというならば納得する。
 ……その子は上宮の血を一番濃く受け継ぎ、上宮の過去を救う時をめぐる子なり。
 上宮家には、身に流れる血が「先祖帰り」をし、時に強力な「聖力」を宿した子が生まれるという。その子は聖なる「恵し子」と呼ばれ、長じては「時渡り」という力を得、時を廻り、時を渡り、上宮の先祖を救うがためだけに時を駆ける。
 過去数人の「恵し子」が現れ、現に時を渡ったと記述もあるが、その渡った後の記述は当然のように皆無に等しい以上、この「時渡り」の力の正否を判ずる史料は無い。
(聖力を失わぬために血族同士の婚姻を続け……それで血は保たれるのでしょうや)
 ぼんやりと中央の祭壇に祖母の祝詞とともに捧げられた「聖鏡」二対を見つめながら、ふと、心に「なにゆえ」という疑問が浮かび、されど風に乗ってすぐにその疑問も消えていく。
 目元にかかるほどに伸びた前髪を、風が戯れのように浮かした。
 時雨は四半時ほど、上宮宗家の人間としては一番末座にあたる席に所在なげに座していた。誰一人として時雨と言葉を交わすものもいなければ、視線を向けるものとていない。
 ふと視線が合おうとも、その視線はすぐに何事も「視なかった」かのようにそれていく。意識して時雨を見つめるものもなければ、父母や兄弟すら視線を合わすことなく、まるで空気のように存在がないものとして扱われる。
 物心つく前からそうだった。
 実母を母と呼んだことは一度もない。実父たる上宮七十代当主柾人を「父」と呼んだこともない。此処にいる人間は自分には「親族」という名の、血が繋がっただけの遠い遠い他人でしかなかった。
 祭りは夜も深まり、月の光が煌々と輝く時刻に、月を読む巫女の「拍手」にて幕を開ける。
 自然の奏でる音しかない静寂の中、拍手を打つその時は巫女の「勘」により決まる。
 その後朗々とした祝詞が読み上げられ、上宮当主柾人の「先祖伝来の伝え文」の朗読となる。
 その中で時雨は中央にある二対の聖鏡をただ見ていた。
 月の姿を映し、月の光によりその鏡は光に包まれている。幻想的で高貴な二対の鏡。時を忘れさせるかのような、その二対が奏でるうつくしさに時雨は「意識」を奪われていく。
 ……恵し子よ。
 当主柾人の声しかないはずの静寂な間に、どこからか声が聞こえ、ひたすらに聖鏡を見ていた時雨は、その声により現実へと呼び戻されてしまった。
(恵し子? 今、確かにそう聞こえたような)
 一族も村人たちも、ジッと当主を見つめる中で、声など聞こえるはずがない。この場で口を開いてよいのは、巫女と上宮当主だけで、それ以外は儀式の間に言葉を発することは忌むこととされていた。
 気のせいとして片付けるには、どこまでも周囲を包むのは静謐なまでの「沈黙」でしかない。
 当主の朗読を終え、これからは「上宮」の御神体でもあり、古の飛鳥の世より伝わる「聖鏡」への忠誠の儀式が始まる。
 これは毎年行われる祀りと変わりはない。
 上宮村にて定められる家の「順次」より、村人全員が聖鏡のもとに跪き、三度平伏し、その後におずおずと聖鏡に手を差し伸べ鏡に触れ、「聖王」への永遠の忠誠を示すために鏡に触れるだけの口付けを刻む。
 上宮家「巫女」より始まり、次に上宮宗家当主と続き、時期当主時任、そしておずおずと緊張した足取りで続く跡取り真人。
 思えば真人は七歳の年を数えたはず。宗家の跡取りの男子は、よほどのことがない限り七歳で許婚が定められる慣わしだ。
 おそらく年頃もあい従妹にもなる時雨の上の兄の娘初音が、許婚となるだろう。初音は巫女として類希なる力を宿す、と予言を受けており、祖母斎子は次の巫女の位に初音を指名すると耳にしている。巫女たるものが上宮当主の妻となることは暗黙の了解とされてきていた。
(私で……少しばかり狂いましたね)
 時雨は「幸をもたらす聖なる力を宿す巫女」と生まれる前に予言を受け、「稀代の聖なる巫女」と誕生前より一族の期待を一身に受けていた。祖母斎子も「次代の巫女」の誕生に胸躍る期待を抱いていたという。
 誰一人として女子として疑いもしなかった子が、
 産声をあげれば男子たることに、上宮宗家は愕然とした。
 女子としての「聖なる力」は「幸をもたらす」が、男子がその力を宿せば「不浄」でしかないというのだ。
 望まれぬ存在。性を間違え生まれて来た逆縁の子は「忌み子」といわれる。およそ百数十年ぶりに生まれた忌み子の扱いに、一族は相当混乱したようだ。命失わせればさらに「忌む」という話があり、忌まわしきながらも生かさねばならない。いや生きながら殺している状況を作らねばならなかったのだ。
 自らの席順が近づいていることに気付き、スッと時雨は立ち上がる。上宮宗家では一番最後。時雨の番が終われば、分家の斎木家となる。
 時雨を包み込む孤独も寂寥さも、誰も見よとはしない。御神体に歩み進めようとも、その姿を見るものはない。時雨はどこまでも「在って無きもの」で、それはこの生続く限り続くのだ。
(いつになれば終われますか)
 このわずかなときに、御神体に何度語りかけたか知れない。
 その輝きは天地を照らし、その光は「真」を映し出す、といわれる上宮の御神体「聖鏡」よ。
 その輝きにて、どうかこの世に何一つ生の証を持たない上宮時雨の「終わり」を知らしめたまえ。
 大勢の人の周りは息苦しい。人の熱気も、人の気配も、人の呼吸も、すべてが苦しい。
 忠誠の口付けの儀式を終え、離れとは名ばかりの牢獄に早く帰りたいとすら思った。
 例えあの場が「牢獄」であり、あの場が「地獄」であろうとも、あの場が唯一自分が身を置ける場所なのだと外に出るたびにしらしめられる。
 伝来の「掟書」通りに、聖鏡に跪き、三度平伏し、そして恐る恐る聖鏡に手を差し出す。
 毎年の祭事への出席は求められない時雨にとって、聖鏡の前に身を晒すのも、鏡に身を映すのも、そして鏡に触れ、これから口付けする儀式もすべてが初めてのことだ。
 すべてが無機質でしかない。何の感慨もない。儀式の静謐さとて時雨には他人事のように見えた。
 差し出した手が鏡の縁に触れる。
 時雨は感情のよぎらない眼差しで、鏡に映る自分の顔をジッと見据えた。
(教えてくださいませんか)
 ただ終わりにだけ執着して生きる自分を、救ってはくださいませんか。
 聖鏡はただ静寂を刻むだけである。
 身を起こし、鏡のもとに僅かに屈んで、口付けによる「忠誠」を知らしめれば終わりとなる。
 自分の姿が映る面に、無機質な口付けを落す。忠誠心などない。上宮に対する思い入れなどない。何の心の欠片もないこの口付けは何を意味しようか。
 ただ触れるだけで……人は忠誠など抱けるのだろうか。
 ……とく来たれ。上宮の血を救えし恵し子よ。
 今度は確かにこの耳でその声を捕らえた。
 聖鏡より視線をそらし、時雨は声の主を探す。めずらしく視線を彷徨わせ、その視線はぴたりと祖母斎子と重なった。
 幼い時から自分を見つめる祖母の目は何も変わらない。無感動で静謐すらも漂わすその目は、その一瞬の交差の時に色合いをかえたのだ。
「時雨」
 微笑んで、祖母は時雨を見つめ続ける。
 それはこの十八年という月日で、一二といえるほどの衝撃であり動揺であった。何事かおきたのか知れぬ衝撃。この十八年、培われてきた祖母と時雨との間にあった関係が音もなく崩れていくかのようなこの焦燥。
「時雨叔父」
 動揺の深さが混乱に変わり、混乱が胸に熱をよぎらせる。
 時雨は周囲の光に気付いてはいなかった。耳元に突きつけられるように鳴り響く「恵し子よ」という声も無意識に拒絶している。ただその目は、ひたすらに祖母だけをみていた。
 ……なぜ微笑むのですか。
 なぜそのように嬉しげに私を見るのですか。
 この忌み子でしかない自分に、どうしてそんな感情を見せるのです。
 上宮の中で自分を「空気」にせずにいた祖母は、自分と触れ合わずにいつも遠くより見ていた。祖母ゆえに、その恍惚な微笑みは、時雨の心を激しく狼狽させた。
「時雨叔父、時雨叔父」
 悲痛な叫び声に意識がそれた。
 兄の腕の中に抱きかかえられ、その中でも必死に時雨に対して手を差し伸ばす真人の目の真剣さに何事か起きたことを知る。
 ……恵し子よ。
 その時にしてようやく時雨は自らの身を包み込む光線に気付き、それが左の聖鏡より放たれていることにも気付いた。
 意識した時にはすでに遅い。光線が放つ光に目を開いていることができず、ギュッと閉じると同時に、脳裏によぎるのは一人の少年。
 長き黒髪は古文書に記された古の「上宮王」の絵のようにみづら結いにされ、古の袍を優雅に着こなす。その顔は一瞬にしてほとんどの人の心を奪い取る可憐さと、その形よくつりあがった目に宿すぬぐいきれない孤独が時雨の心を縛った。
 ……心静かにして、心尊く、心虚しく、心悲しき皇子。
 守りたまえ、上宮の正当なる血統を。
 脳裏より消えぬ少年に心はしめられ、脳裏に響き渡る声に現実味はなく、そして、
「時雨叔父」
 幼い甥の叫び声はどこまでも遠い。それは何か耳に膜がかかったかのように、ぼやけてしか聞こえない。
 時雨は目を開けた。
 脳裏によぎる面差しから遠のく意味もあり、光に焼き尽くされるならばこの目など焼き尽くされてもいいと思ったからだ。この十八年、この目は意味あるものを映してきただろうか。この目が見えなければいい。この耳も聞こえなくともいい。見ず聞かずにいればこの世に対して、もっと違う見方ができるのではないか、と思った。
 ただ息を吸っているだけのこの自分には何の価値もない。
 されどこの一瞬だけ、この目が刻んだ「色合い」は時雨には意味があった。
 開かれた瞳にはすでに鋭い光線はなく、柔らかく淡い光が時雨の体を包み込む。そして気付かぬうちに聖鏡の一体が、時雨の腕の中におさまっていた。
 時雨の目は一族の姿をとらえる。
 微笑む祖母も、泣き叫ぶ甥っ子も、そして今この時だけ視線を交えることを許された両親。
「時空の彼方から彼方まで、廻り廻りて参られよ。時に愛され、時に誘われし、稀代の恵し子。時雨、聖王をお頼みします」
 祖母の淡々とした声音が耳につき「聖王?」という単語が頭より離れはしない。
「時雨が……あぁ……時雨が恵し子」
 それは母の叫び声と思われた。
 その人の声に潜むのが「喜悦」以外の何ものでもなく、今涙を流しながら時雨を見つめるその目には「苦しみ」の色濃さがよぎっている。
 時雨は「よかった」と心底でわずかに思ったものだ。
 これで「忌み子」を産み落とした奈落より、母は救われよう。
(恵し子……上宮家代々の先祖帰りの子)
 母という名の血縁でありながらも、どこまでも遠い遠い存在に対する感情としてはそれが唯一ともいえる。
 その手に触れた記憶もない。その腕に抱かれたこともない。その声を聞いたのも、今が初めてだ。
 一番近い血縁であり、書物で言う無償の愛情をもらえるはずの母という存在に対する時雨の心は、いつも他人事に近いものといえた。どうして欲しい、と思ったこともない。母という遠い存在に不満すらない。心を抱くには、時雨はあまりにも人より遠ざけられて育ちすぎた。
 世紀のうちに一人出るか出ぬか知れぬ……上宮の血を純潔なまま一身に受け、過去よりの導きに呼ばれし恵し子。
 この上宮が何よりも大切に守らねばならない一族の「宝」
 ならば自分は「忌み子」ではなかったということになろう。
 当主たる父も、母も、兄たちもこれで全ての人が救われ、自分はこの「牢獄」より解き放たれる不安と苦しみに息を乱す。
 上宮の離れしか知らない自分が、外に出される恐怖に身がはじめて竦み始めた。
 この心が喪失している自分が、過去に呼ばれ、過去に捕らわれ、その過去はいったい何を求めようか。
 もとより現世に執着するものも、悔いるものもない。この身ひとつしか何一つもたぬ身。すべてを「宿命」と割り切ることができるこの思考。
 此処から自分が消えようとも悲しむ人はいなければ、ほぼ喜んでくれるものたちばかりであろう。
「時雨叔父」
 叫び声が聞こえた。
「いっちゃいやだ、時雨叔父。叔父上」
 真人……甥っ子のあの子供だけが、
 自分を「時雨」としてみてくれたただ一人の人間だった。
 最期に自分は微笑んでいただろうか。ただ真人だけを見つめて、「真人殿」と唇は声を刻んだと思ったが、はたして自分はどんな顔をして甥を見つめたのだろう。


 気づいたときには、雨に濡れていた。
 ぼんやりと目の前には水滴滴る藤の花が見える。
 時雨はただ藤の花を見ていた。思考はとまったかのように動かない。
 唯一この花を「藤」と認識して止まっている。
 時雨を産み落とした母の名は「藤子」という名なのだと、それが母のことで唯一知っていることだと思った。
 その子供が自分の目の前に現れたのも意識していた。
 その姿は先ほど脳裏によぎった面差しそのもので、古文書で見た……古代大和王朝の絵巻をみるかのような衣服を身につけた幼子が一人。その子供が両腕を広げ、この自分の身体を抱きしめたときに、何かがはじけた。
(…………)
 今まで誰一人として抱きしめたことがないこの身体を、
 ためらいもなくこの幼子が抱きしめる。
 人の息吹が聞こえる。人の鼓動も……人のぬくもりも。
 自分の体内の温度すらどうでもいいとしか思わなかった時雨にとってその温度は、
 とてつもなく心地よく、
 そして今、はじめて眼が覚めた思いがした。
「皇子の……この厩戸の聖人」
 心地よく響くその声が、時雨の意識を奪い取る。
 藤の花を片目で見ながら、
 今、はじめて時雨は欲していたものがあったことを明確に悟った。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 序章2

古の家刀自編一ノ章 序章2

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【改訂版】 2013年1月21日(月)
  • 【備考】 横書きパージョン
  • 登場人物紹介