時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

9章



「へえぇぇ。神がかった厩戸でも、二日酔いにはなるんだな。そういえば神さんやヤマタノオロチも酒には弱かったっけ」
 昨日の幸玉宮での酒宴にて、酒を「水に等しい」と黙々と飲み続けた厩戸は、翌日は頭痛に苛まれ起き上がることもできずにいた。
 晩夏の風が、真夏を思わせる熱を含んで人に覆い被る本日。
 二日酔いと夏ばても多少あるのだろう。水分を多めに取り、館で一番に涼しい東の対の一室で厩戸は横になったまま動かない。傍らでは時雨が団扇を手に持ち、少しでも涼やかに、と思ってか厩戸に風を送っていた。
「……毛人。頭が……ガンガンする」
「弱味を見せる厩戸は珍しいから、これは嫌がらせだ」
 いつも以上に声を高々と響かせ、蘇我毛人はにたりと笑った。
「帰れ」
「なんだ? せっかく来てやったのに。それに今日はいろいろと親父殿から用事を頼まれた」
 と言いながら、毛人は勝手に長持ちより碁盤を取り出し、そこに石を並べていく。
「途中だった勝負も早くケリをつけたいと思っていたし。……こんな状態の厩戸なら簡単に負かせそうだ」
「碁は……せぬ」
 だがチラリと碁盤を見て、厩戸はそこの石は違う、と指を差した。
「けったいな記憶力だな」
「その石の位置で勝負が変わる。卑怯な手はよせ」
 はいはい、と石を元の位置に戻していく毛人を見ながら、時雨がわずかに微笑んだ。
 日ごろより老成している厩戸は、大人の中にあろうとも対等に立てる風情と威厳を備えているが、いまだ六歳の子どもであることには違いない。まさに神童に呼ぶに相応しき知識も教養も備え、才色兼備という言葉も頷ける風情凛として洗練された物腰を現し、真実大人としてあろう。子どもではない、とするその心が、時に時雨には哀しく映る。
 六歳ならば六歳の時にしかできぬことを。子どもが無条件に子どもであることを許されるときは、限りある。厩戸には子供であることを楽しんで欲しい。大人でありたいとする厩戸に、そう願うのは偽善なのだろうか。
 常日頃より子どもであることをもどかしく思っている厩戸を見るたびに、時雨はその心意気が何ゆえかと思う。  頑なまでに子どもではいられぬと片意地をはる理由が気になってはいた。
「……皇子」
 褥より身を起こさせ、厩戸は不承不承といった感で碁石を手に取る。
「いつもなら酔わんのに、何で酔ったんだ」
 毛人は黒石を厩戸に渡した。
「知らん。勧められるままに飲んだのがいけなかったのか」
「それは大の大人でも目を回すな」
「……そうか」
「あぁ。うちの親父殿は酒は好きだが少しばかり弱い。三杯で目を回し、四杯でグチグチグチグチしょうもないことを言い出す」
 例えば物部守屋殿のことをあしざまにな。
 ニッと笑った毛人だが、ふと時雨を見据え、
「俺にも仰いでくれ」
 と、さも当然とした口ぶりで言葉を放ったが、それは命令口調ではなく、時雨はほんのわずか驚いた。が、すぐに団扇で毛人の方にも軽く風を送る。
「駄目だ。時雨は皇子のためだけに仰いでいればいい」
「少しくらいいいだろう」
「駄目だ」
 へえぇ、と多少からかう感じで毛人は口元をゆがめ、
「たいした執着だな。そんなにこの玩具が気に入っているのか」
「前にも言ったが毛人。時雨は玩具ではない」
「親父殿も言っていたが、厩戸が気に入るのはすべて玩具でしかないとさ。仏典も玩具。仏舎利も玩具。この囲碁も玩具」
 それは仏を崇めるものが聞けば、血相を変えて飛び込んできそうな発言であり、仏と同様扱いをされた時雨としてはどう反応をしたらよいものか多いに悩むものといえた。
「……時雨は違う」
 あえて厩戸は仏の「玩具」発言を否定はしなかったことに、また時雨は複雑さが胸によぎった。
「違う、と否定するところが少しばかり厩戸としては珍しいな。ふーん。親父殿などは男にしておくのがもったいない美人と言っていたが……確かにきれいなことは認めるさ。でもな、どんなにきれいなものでもそこに特別な意志もなく風に流れる柳の葉のような人間に、真の美はないんだな」
「時雨はきれいで美しい」
「そうだ。それは否定しない。だけど、なんか違うんだよな。どういったらいいんだろう。人として何か……大切なものがない」
 茶褐色の瞳が容赦なく時雨の瞳の中を値踏みするかのように食い入ってきたその時、
 時雨の中の血が逆流するかのように熱く、わきたった。
 ……警告。
 気を許してはならぬ。心を見せてはならぬ。
 ドクリドクリと血が時雨自身に知らしめ、服従を求める。
 ……蘇我宗家の血とまみえるな。
「……時雨?」
 厩戸の心配げに揺れる烏色の瞳に、ピタリと止めていた大団扇の動きを再開させる。
(蘇我の血……それほどまでに上宮は蘇我の血と相容れないのですか)
 長年、親族婚を続け、ひたすらに「聖王君」の血を守り続けてきた上宮一族。
 他家の血を入れれば受け継いでいく血と力が薄れる、と恐怖に等しい思いを抱き、ひたすらに「聖王君」その人の血にこだわり続けてきた。
 その妄執に似た思いの果てはいったい何に繋がっていたのだろう。
 時雨は団扇で風を送り、厩戸と毛人は碁を打つ。
 ふと本日の毛人は初めて顔を合わせたあの日よりも、自分に向ける視線の中にある嫌悪感が和らいでいることに気付いた。
 気のせいだろうか。
 ……穢らわしい、と容赦なく突きつけたあの日より、どことなく優しさを思える。
 時折、毛人は振り向き、時雨の顔を見て、戸惑いを多少含んでいるが、ニタリと笑うのだ。
 従わぬものは絡みとりいずれは服従させる蘇我宗家の血を如実に物語るその目に絡み取られぬように、
 見据えて、適度にはぐらかし、そして時雨は穏やかな微笑を作り出す。


 おおよそ体勢が定まり、残りの陣を間違わずに石を打っていけば厩戸の勝利が見え始めたころ。
「厩戸。最初の妃は蘇我の一姫にして欲しいって親父殿が言っている」
 ようやく本日先触れもなく訪問した理由を毛人は話し始めた。
「……皇子は女子に興味はない」
 碁石のパチリとして音同様に、ピシャリと言ってのける。
「そうだろうよ。六歳で女に興味があれば将来は色狂いかもな」
 はははは、と小さく笑った毛人だが、その目は油断なくひそめられた。
「蘇我家と皇族の結びつきを強くしておきたいんだ」
「……次の大王になられるだろう彦人さまに一姫を渡したらどうだ、毛人」
 厩戸の烏色の瞳と、毛人の茶褐色の瞳が互いを絡めとり、見据える。
 瞬きする間もないほんのわずか、両者の瞳に剣が込められた。
「……たいした皇子さまだな。我が蘇我宗家を試すのかよ」
「正論を述べただけだ」
 パチリとした碁石の音が響かねば、この二人が漂わす緊迫感は息苦しさをもたらしただろう。
「大王は崇仏派には兎角否定的だ。うちに対する面当ても……厳しい。正当な幸玉宮の第一皇子たる彦人殿には……大王の目が黒いうちは、おそらく蘇我に連なる女を妃にはさせない」
「打倒な判断だ」
 時雨はあの優雅でおっとりとしている彦人大兄皇子を思い浮かべていた。大王家直系の血しか感じられず、時雨は彦人のそばにあると清清しさと安らぎを覚える。存在が穏やかで優しい。
「彦人殿には三輪がついている。取り込むのは無理だ」
「然様か」
 パチリと毛人が打った白石の音が響いた。
 果たして、これが八歳と六歳の会話だろうか。
 かたや池辺宮第一皇子にして、将来の摂政皇太子。一方は嶋蘇我宗家の惣領息子で、こちらも将来の大臣蘇我蝦夷。
 時雨には複雑な色合いが胸によぎる。
 斑鳩上宮家の最期は、この厩戸の死後、蘇我蝦夷、入鹿親子によってもたらされた。歴史は如実に物語る。
「それに厩戸。おまえ、昔、こういったよ」
「………?」
「幸玉宮は女によっと保たれるが、男王は二度と出ない。わずか四歳。……俺は意味不明だったけど、親父殿は目を丸くして、神のお告げだといっていたさ」
 毛人の父馬子は、幼い厩戸をその膝に乗せ、経典などを読み解きながら、「我が皇子」と陶酔した目で見ていたという。
 仏より授かった皇子と口にし、舌足らずな厩戸が語る未来のことを、馬子は有無を言わさずに信じた。それは今なお語らない。
「……幼子の言っていることを真に受けるか。大臣殿は」
「その幼子が人ならざる者ならば当然のこと。アマテラスの再来か。それとも仏が生き仏を遣わしたか」
「馬鹿馬鹿しい」
 厩戸の碁を打つ音がわずかに乱れた。
「皇子は神でも仏でもない。ただの人だ」
 石の置き順を間違えたことに気付かぬ狼狽を、この時厩戸は毛人に見抜かれている。
「そうだろうよ。神でもない仏でもない。俺に言わせれば背伸びを目一杯している子どもさ。まぁ俺も似たり寄ったりだから何ともいえんけど」
 容赦なく毛人は厩戸の陣に攻め、わずか一手で形成は逆転した。
「親父殿は厩戸の言葉を神託としているから、池辺を味方として固めておきたいと思っている。敵は多いしな。それで今回の一姫刀自古の話となった」
「蘇我は幸玉宮に取り入るつもりはないという意思表明をしにきたか」
「取り入っても無駄、無駄。三輪に物部に中臣。神道一派で固めている」
「賢明だ。……彦人さまは決して大王にはならぬ」
 厩戸の目がちらりと時雨へと向けられ、
「決してさせぬ」
 その言葉だけが一際大きくこだました。
「あの人は語り部だからな。息長の本文たる歴史語りをしている方が似合っているさ」
「………稗田阿礼の称号を得ている人だ」
「親父殿が彦人殿に取り入る気は皆無。それは蘇我の意志になるだろうさ。厩戸には良いことだろうが……俺ならば……違うぞ」
「取り入るのか」
「大王の死後に娘の一人くらい妃に出しておいて両繋ぎをしておけばいいのさ。一姫の刀自古は厩戸に渡すとして、二姫、三姫と娘はいっぱいいるんだからな。使いようを考えるべきだ」
 この二人の、後に時代を背負っていく二人は、いったいどのような業を背負って生まれてきたのだろう。
 幼くしてこの二人は子どもであるつもりはない。大人の目をして、それぞれの家を背負うものとして駆け引きをしている。
 思わず震えが起きるほど怖さを時雨は感じた。幼さなどこの二人は必要とはしていない。むしろ邪魔だ。早く大人になりたい。なぜ今、自分は子どもでしかないのか。そんな心意気が目が眩むほどに強く、その思いがこの二人を回りも子どもとして見ぬようにしているのかもしれない。
 環境が人の心意気を造る。
 家が有無を言わさず人の道を示す。
「次の大王は豊日大兄さまになってもらいたい。そうすれば厩戸。池辺第一皇子のお前に大王になる資格が生まれる」
「蘇我の思いとしては、額田部伯母上の長子竹田皇子にあると思うが」
「親父殿は親父殿。俺は俺だ。……今までにない大王におまえならばなれるだろうよ」
「……蘇我が邪魔に思う大王にか」
「おまえ一人で操れるほど蘇我は甘くはない」
 囲碁を打ちながら今この二人は政治家としてある。
「それで、だ。厩戸。今のうちに蘇我と手を組んでおくのは悪くないだろう。刀自古とそうだな……婚約しておけ」
「断る」
「おまえとて蘇我を敵にするつもりなどないだろう」
「皇子は女が嫌いだ」
 こんなときだけ子どもっぽく厩戸はぷいっとそっぽを向く。
「なにか。女は好きではない。そこにいる時雨が気に入っている? いっそ時雨を妃にでもするのか。ばかばかしい」
「何が馬鹿馬鹿しい。皇子は時雨しかいらぬ」
「厩戸。おまえがどんなに力を持っていようとな。男を女にするとこはできぬだろうが。せいぜいできるのは昔のように先を予見することだけさ」
「……皇子は時雨が良い」
「男が男を愛でるのを何というか知っているか。こういうんだ。……穢らわしい」
 瞬間、誰よりも「穢れ」という言葉に過剰な反応を示したのは時雨だった。
 呼吸を乱し、瞬きを数度繰り返す短い間で、全身に冷や汗が流れ、苦しげに顔を歪ます。
「……失礼します」
 その場を立ち上がり、二人に一礼をして後、逃げるように部屋を出た。途中にその存在を忘れたのか。大団扇だけがぱたりと床に落ちる。
「時雨」
 後を追おうとした厩戸の手を毛人がつかむ。
「どれだけ大切に思おうとな。おまえの存在がすでに政治の一つなんだ。醜聞はご免被るぞ」
「黙れ。皇子は決めている」
 その手を払いのけ、厩戸は時雨の後を追っていった。
「神がかった……厩戸でもな。こればかりはどうにもならない。時雨はあんなに綺麗だろうと男だからな」
 それに蘇我としては、幸玉宮の竹田と池辺宮の厩戸。将来どちらが大王になろうとも繋ぎを取るために妃を娶わせておく必要がある。
 蘇我の惣領息子としての毛人には、いずれ必ずや厩戸が時代の中心になるのが見えていた。
 蘇我が担ぐ大王家の守り神。家刀自の片鱗の力を有する「蘇我の皇子」
 誰よりも先が見え、行く道がはっきりと見えているだろうに、情に置いては厩戸はまだまだ政治家てして脆く、隙だらけ。そこに六歳だから、といういいわけは蘇我は許さない。
「小さなときに、いったんだぞ。厩戸」
 ……とじこは、このおうじが妻とする。それがさだめ。
 宿世ならば宿世にしたがってもらわねばならぬものだろうが。


 碁盤では、勝負は半目差で、毛人の勝ちとなっていた。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 9章

古の家刀自編一ノ章 9章

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【改訂版】 2013年1月22日(火)
  • 【備考】 横書きパージョン
  • 登場人物紹介