12章
時雨は心ここにあらずで、庭を茫然と見ていることが多くなった。
紅葉色の秋の風景を、その目は見ているようで、見ていない。
時折口ずさむ歌は哀愁を誘い、その透き通る歌声に惹かれてか小鳥が時雨の周りに集まる。
鳥や狐、猫などは近寄れても、決して人が近寄ってはならぬ幻想的な風情がそこにはあった。
厩戸はずっと見ているしかない。
傍に寄りたくて、声がききたくて、触れたくて。
だが今の時雨の心は遠い。傍にあろうとも、決して紡がれることはない。
初秋といえども夕暮れ時になるとわずかに肌寒く思われる暦。
手に衣を持ち、それを時雨に掛けたいのだが、厩戸の足は動かない。
見かねた母穴穂部が時雨の傍に寄り、ふわりと衣を時雨の身体にかけた。
前々からだが人が踏み込めぬ聖域にも、穴穂部だけは難なく溶け込める風情を醸しだす。
ようやく現実にかえるように振り返った時雨は驚きの顔を見せたが、続いて一瞬だがにこりと笑ったのだ。
それはせつない、としかいえないズキリと来る微笑。
「穴穂部さま。貴方様は私の母に面差しが似通っております」
そう寂しげに告げた。
此処は夢の中であることを、厩戸は知っている。
幼いときより何度も味わった感覚だ。物心つく前より「夢」の中で厩戸はさまざまな経験をしてきた。
空に浮く感覚も味わったことがある。魂がこの身より抜け、時に引きずりこまれたことすらあった。ある時はこの身に悪しき霊が乗り移り、その不可思議な感覚は苦しくおぞましく、目覚めたときには全身汗だくで、厩戸もさすがに叫び声をあげたものだ。
そのためか人の言う不可思議にさして驚かぬ体質となった。
今もさして驚かぬ。
『幼き上宮王』
先日、かの鏡に映っていた男が、在る。
厩戸は無性に腹が立ってきた。
孫と名乗った男が、夢の中にまで土足に踏み入ってくるとは何事だ。
「皇子の夢に踏み入るそちは何ものぞ。まずは名を名乗れ」
姿は時雨に瓜二つであるというのに、その風情はあの優しいはかなさとは似ても似つかぬ。むしろ冴え渡った月のように切れる。
『中臣鎌足と申します』
青年は躊躇わずに名を名乗った。
「中臣……あの中臣か。いや……そちの持つ血は三島の本家の方だな」
『仰るとおり』
「ならばその力も頷ける。かの家は神と人の仲介者。時に人ならざる傑出した人間が生まれるというが……」
中臣家は大王家と臣従の礼を尽くしているが、氏姓制度の中では「連」の身分であり、皇家と婚姻を結ぶ間柄にはない。葛城・蘇我といった中央豪族以外は、大王家と婚姻で間を結ぼうという考えはないのだ。
その点、蘇我は「つながり」で大王家をも縛ろうとしている。目の付けどころがよい。
現在の大妃額田部皇女も、厩戸の父豊日大兄皇子、母穴穂部間人皇女。ともに蘇我馬子の姉を母とする。
『私が御身さまの孫というのは、後の時代の話。それに踏み込まれることは避けられた方がよろしかろうと』
「自ら皇子の夢に干渉してきたそなたがそれを言うか」
青年はその黒曜石の瞳をスッと細める。
憎らしいまでに時雨に瓜二つだというのに、なぜにこれほどに苛立つのだろう。
身に突きつけてくるその血は、確かに厩戸に近似している。「孫」と名乗るならば、その血の近さも頷ける。
『先日も言ったと思うが、幼子は幼子らしくがよい』
「なにを言うか」
『私のような人間になってほしくありませんので』
厩戸の烏色の瞳と、青年中臣鎌足の黒曜石の瞳が重なり合う。
瞳の意志に引きずられる。
感情を喪失した無の瞳をしているというのに、視線があった瞬間、引き寄せるその力は凄まじい。
「そなた……」
厩戸が昔話でしか聞いたことはない曾祖母手白香皇后の瞳は、おそらくこの色と同じであったのではないか。
大王家生粋の血の流れを組む彦人大兄皇子も、その妹の逆登皇女も闇同様の黒を瞳に刻んでいるが、この男ほどに濃くはない。
『上宮王。御身さまの成人とともに、この国は大転換を迎える。私はその流れを組み生き、そして流れのままに身をゆだねた』
血が共鳴し、血が青年の暗く淀んだ感情を突きつけてくる。
「寄せ」
そのよどみに耐えられず、厩戸は叫んだ。
今の今まで厩戸は先祖帰りをした血がために、人の思いや時が無造作に身に流れこみ、それに苦しめられてきた。
五歳という年齢を迎えてからは、人の思いが伝わらぬように防御する方法も身につけた。
だが今は、圧倒的な力の差により、その防御が意図も簡単に破られる。
『覚えておかれよ。御身さまの血は得てして災いを、得てして苦しみを。幸を結ぶことはない』
突きつけられたのは男の記憶だ。
幼き時より未来を視る力を備え、三歳の時に、一族が全て滅び、従兄弟の少年に手を引かれ、浮浪児のように彷徨う姿。
何よりも火の印象が強い。火に焼き尽くされる。火が憎しみをさらに増長させる。
「………」
厩戸の身にも火が襲い掛かった。幻想と承知の上でも、その勢いに覆い尽くされぬように身体が逃げを打つ。
祖神とする天児屋命に一心に祝詞を捧げ、火に焼かれていく中臣一族の顔が、目より離れない。
……これは中臣宗家の血を恐れた蘇我軍の暴挙。
声が耳に伝わる。
幼き子どもの身に火のように宿った「蘇我」に対する憎悪と恐怖。それは一つの歴史の行き先を照らし、火が夥しい血を流させる。
「そなた……」
憎いのか。大王家も蘇我家も……そして自らの血をも。
「何をこの皇子に言いたいのだ」
青年の無の瞳からは哀しみも苦しみも何一つ伝わらない。
「家刀自の力を要するそなたが……これでは大王家を潰しかねん」
『……それは御身さまの死後の話』
「ならばなにゆえに見せるのか。なにゆえに……」
『知っておいていただきたい。御身さまの子は、みな、御身さまの業を抱いて生き、死す』
「……」
苛立ちと腹立たしさが頭に血を上らせた。
夢にまで後の世より干渉して来たこの男は、その憎悪の果てに何を自分に叩き付けたいのか。その意図が知れず、その血がズキズキと身に意志の刃を突きつける。
『その業の所以を知らしめるのが私の役目。されど知らせようとも、御身さまはまた同じことを繰り返すだろう』
「……中臣鎌足とやら。では問う。業とはなにぞ」
『聖を穢した業』
鎌足は淡々と告げた。
『御身さまは自らが為、聖を穢し、墜とす』
黒曜石の瞳が、わずかに宿した感情は「傷み」だ。
この世に「聖」と呼ばれるものは多い。厩戸が今、夢中になっている仏典も「聖」であろう。
だが今、厩戸に「聖」をより強く思わせるのは「皇子の聖人」と呼びし時雨だけだった。
「どういうことだ」
『御身が考えし通り』
「時雨を……皇子は時雨は穢しはしない。時雨は……」
『先に申しましたが大切にされよ。時空の恵し子を慈しまれよ。十年後の時雨殿は、哀しみに満ちた目しかしておらぬ』
「何ゆえにそれを」
そこで厩戸はハッと鎌足を見据えた。
夢といえども、「厩戸の孫」と名乗る鎌足が、この時に干渉してくるこの力は何か。
聖鏡を通してならば分かる。思い人の力が強ければ、鏡と鏡が時に時代をも超えて結び合うこともある。
だがこの夢に圧倒的な存在感と力をもって干渉してくる力は何処から発している?
厩戸と言えども未来を視る力はあろうと、その未来に何一つ干渉をすることはできない。また過去も同様だ。
「そなた……」
導き出された答えは一つしかない。
この男が家刀自であり、その力を満遍なく有するというならば、可能性がある。
「……そなたは……時を渡れるのか。それを知るそなたは……」
肯定も否定もせず鎌足は目を閉ざした瞬間、空気に溶け込むように……消え往く。
「答えよ。時の家刀自よ。そなたには……大王家を滅ぼす凶の星が視える」
それは禍々しいほどに大きく、大王家の生粋の血でも適わぬほどに強い。
あの者が本気になれば、この国の成り立ちも歴史すら変貌を遂げるのではないか。
憎悪が国を換えるのか。
あの男の憎悪の炎が国を覆い尽くすのか。
もう一つ気になることもある。憎悪を胸に宿しているというに、通常のあの冷めた瞳は何か。
「中臣鎌足」
名を呼ぶだけで血が共鳴するあの男は、厩戸に確かな「不安」を抱かせた。
今日もまた時雨は庭の紅葉を心ここにあらず、と見つめる。
その手にはあの「聖鏡」が抱えられていた。
敷物に座りその場に溶け込んでいる時雨は、全ての人間の介入を無言で拒否している。
哀しいまでに哀しく、苦しいまでにはかないその風情が、今、どこまでも透き通り、人を受け入れない。
「うさぎおいし……かの山……小鮒つりし……かの川」
夢は今もめぐりて、わすれがたきふるさと。
遠く遠くには天香具山が霞がかって見える。
おそらく遠き未来の時雨のふるさとでも、天香具山は悠然とそびえているだろう。
泣いているのか、と思った。遠くどこかを見ながら、自らを培った故郷を思い出して泣いているのか、と。
「あに……あに」
傍らで厩戸の袖を掴んでいた来目が、袖を引っ張る。
この弟はこの頃は、いつも厩戸に引っ付いているようになった。袖を引っ張り時雨を指差す。おそらく時雨のもとにいこう、と言っているのだが、厩戸は首を左右に振った。
朝方に見た夢にて、あの中臣鎌足という男が告げた言葉も気になる。
……御身さまは自らが為、聖を穢し、墜とす。
あの言葉が胸に突き刺さって離れはしない。
パッと来目が手を離し、トコトコと時雨に向かって歩いていく。
「しぐれ」
舌足らずの声で来目は、呼んだ。
忘れがたきふるさと……と繰り返していた時雨は、来目の存在に我に返ったように瞬きを繰り返す。
「しぐれ、さみしい?」
両腕を広げて来目は時雨にギュッと抱きついた。
「……来目さま」
時雨はやさしく微笑んで、来目を抱きとめる。
「時雨は寂しくはございません」
「かなしい、くるしい?」
「いいえ。時雨は……」
来目の手が時雨の頬にあてられる。
「いたいかおをしているの」
来目には母の穴穂部の人の心を察する力が受け継がれている。
厩戸が沈んでいるときも、何も言わずにただ横にいて、袖を握っていてくれることがある。
昔のように父母に甘えられず、されど人恋しい時に、誰にも甘えられない厩戸だ。その兄の心が分かってか、来目は傍にいてくれる。
「そうですね。少し……私は寂しいと思っていたのかもしれません」
無理をして時雨は笑う。泣いているかのようにか細く、どこまでも透き通るように哀しい。
「しぐれ」
「はい」
「……しぐれがかなしいかおをしたら、あにもかなしい」
時雨の目が、そこでゆっくりと厩戸のいる場所に視線を向けてきた。
……皇子、と。
微笑を刻もうとして、それができず、時雨は泣きそうな顔をする。
たまらなくなったのは厩戸の方だった。
今まで「人」に対してこれほどに切なく、哀しくなったことはない。考えれば人に対して対等に喜怒哀楽を感じたことは厩戸にはなかった。
皇族として、神童として、いつも人が厩戸を見る目は好奇と畏怖がこめられ、そこに神秘性を求めるものが多く、人として見るものはほとんどなかった。
囲碁を打ちに来る蘇我の惣領息子とて、時たま畏怖が見られるのが、いつも厩戸は悲しかった。
その厩戸が、今、時雨の哀しみが気になって哀しくて、自分の感情に戸惑って、
「時雨」
自分の身よりも、他者が気になって胸を騒がすのは始めてだ。
無意識に足が動く。時雨が悲しむ時にはどうしてか放っておけず、いつものように両腕で時雨の身体を抱きしめる。
「時雨を悲しませる全てのものから、皇子が守る」
……御身さまは自らが為、聖を穢し、墜とす。
中臣鎌足の言葉が同時に頭に警鐘として打ち鳴る。
それに逆らうかのように厩戸は腕に力を込めた。
「時雨」
時雨はそっと厩戸の体を抱きとめて、大きく息を吸った。
「家の縁から遠くに見えた天香具山を思い出していたのです。変わりません。変わらずに……美しい」
香具山を見つめる時雨は、なつかしげに、恋しげな……せつない顔をする。
「帰りたいか、時雨」
時雨は瞬き二度ほどの時を置き、いいえ、と首を振る。
「それほど時が経っておりませんが、懐かしいだけです。……帰りたいとは思いません」
ふるさとには、私の居場所はありませんでしたから。
かほそく呟き、それでも時雨は先ほどよりはやさしい微笑みを見せた。
「帰れるとしても、帰さない」
時雨がいないこの飛鳥の地など、今の厩戸には考えられない。
この手から時雨が飛び立つ瞬間を考えると、ゾッと寒気が走る。何があろうとも手放したくはない。例え時雨が苦しもうと悲しませようとも……厩戸は時雨の手を離しはしない。
そう憎まれようとも、悲しませようとも。
「!」
よぎった意志に厩戸自身が動揺した。
生まれてはじめて欲した時雨という「生きた人」に、厩戸は夢中になっている。欲しいと思ったものはない。手に入らぬものはなく、人に興味すらなかった厩戸に生まれた激情が、後に時雨を苦しめ抜くことになる。
……御身さまは自らが為、聖を穢し、墜とす。
警鐘が今、厩戸の胸に現実を伴って鳴り響いた。
「時雨は皇子のもとにこうしていられれば嬉しいのです。我が聖王君」
一時も早く大人になりたい。
時雨を守れる腕を、力をこの身は欲する。
大きくなり、この腕でギュッと時雨を抱きしめ、哀しみも苦しみも解き放てる男でありたい。
「幼いこの身が口惜しい」
「皇子は皇子のままで。私には年のままの皇子でいてくださいませ。大人の皇子はつろうございます」
だが年相応ではこの飛鳥の地では生きられない。大人にならねばならない。
老獪な大人であればあるほど、この地でうまく立ち回り生きられる。父豊日大兄皇子が次の大王と目される中、池辺宮の嫡子たる厩戸は自分の将来を目して動かねばならなくなっている。
人に使われる前に、人を動かす地位にありたい。
「時雨」
「はい」
どれほどに自分が穢れ汚れようとも、この手は決して時雨を離さないだろう。
この清らかな聖人を、やはり自分はいつか穢すやもしれない。
あの時雨に似た中臣鎌足の冴え渡った顔が浮かぶ。
「ひとつ尋ねたきことがある」
「なんでございましょうか」
厩戸は時雨にまわしていた腕を解き、向かい合ってその透き通る瞳を見据えた。
なにひとつ時雨の感情を逃すまい、とその目を見る。
「時雨は時に戻る力があるのか」
時渡り人については数多くの伝承がある。それは厩戸よりも幸玉宮の彦人大兄皇子が詳しかろう。今の今まで、時に戻ったという時渡り人の話を厩戸は耳にしたことはない。
「……私にはございませんが……」
「時に戻す方法は……あるのか」
「家刀自の力を有するものに、時にその力が現れると言われています」
初耳である。厩戸は目を何度も瞬きさせた。
「皇子。時渡り人の力は微々たるもの。ほとんどの者は一度だけの時を渡るだけの力しか有しません。この私もおそらく同様のことと思います。時を自由に行き来することもできなければ、自らの生まれ故郷に戻りし時渡り人の話も私も聞いたことはありません。ただ家刀自の最たる力を有するものは、時渡り人を帰す力もあるとのことですが、それほどの力を抱くものは」
「だがあの中臣鎌足は……」
しまった、と厩戸は悔いた。
先ほどからこの名前が頭から離れず、ぐるぐる回り続けているので、ぽろりと口よりこぼれ落ちたのだ。
「中臣鎌足……何ゆえに皇子。その名を」
時雨の表情がサーッと青白くなる。
「……時雨」
「鎌足とは……。かの改新の功労者たる中臣鎌足は……いったい何者なのですか? 皇子」
「皇子こそ聞きたい。皇子の夢にまで介入してくるあの男は何者だ。アレは……」
時雨によく似ているが、風情は何一つ似通わず、好感を抱くことは出来ない。だが、あの冴え渡った男の力は「家刀自」のものであった。
直感で中臣鎌足には時渡りの力を有していることが知れる。それも歴代最強たる「家刀自」よりも強い。おそらく自らが時を自由自在に渡れるのではないか。
また夢に干渉してくる力と、時を渡る力には共通点が多いのだ。
「中臣鎌足」
時雨がその名を呟くと、吸い取られたかのように力が抜けていく。
「時雨」
「中臣一族。皇子、私はかの一族と一度お話をしてみたいのです。天屋児命を祖神とするかの一族と」
またしても警鐘が鳴り響くが、
「……時雨」
「皇子。私は……知りたいのです。自分が何者なのか。お願いでございます」
この飛鳥の地に一人降り立った時雨には、与えられた使命もなく、何を為せばよいのかも知れない。
目的も目標もなく、ただ時に流されるままに生きる。
たゆたうように、いつもはかなく優しげに。
時雨の興味が持てることならばどのようなことでも適えてやりたい。
だがそこに厩戸には条件がある。「時雨が離れていかぬ」ものならばなんなりと、だ。
中臣一族は危うい。
……中臣鎌足。
この厩戸の孫と名乗ったあの青年は「中臣」の姓を有する。
中臣一族と関わることは、あの青年に繋ぐことになるのではないか。
(皇子より……時雨を奪うものは許さない)
何もかも排除しようとする激情が厩戸にはある。
「……時雨の望むがままに」
いつもはかなげに哀しげに故郷の歌を歌って暮らす時雨は見ていたくはなかった。
矛盾がせめぎ合い、厩戸が出した答えは「時雨が笑ってくれるなら」だ。
笑ってくれるなら、多少の危険は背負う。
最終的には時雨の手を離さなければ、よい。
「皇子」
ようやく嬉しげに微笑んでくれた時雨に、厩戸はホッとして安堵の笑みを見せる。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 12章