4章
「そなたは気にすることはない」
弟来目を抱き上げて、去っていく父豊日の後姿を、厩戸はいつまでも見据える。睨むでもなく、何の感情も込められていないが、烏色の瞳はわずかに揺らいでいた。
厩戸は、振り向きもせず、時雨の袖をただ握り締め、時折手に力を込める。声音は一切動じさせない。
「そなたの身は、この皇子が守る」
「……承知しております」
「父君も母君も気にすることはない。時渡り人たることも忘れても良い。時雨は、皇子の傍におればよい」
「皇子」
「……大丈夫だ」
むしろ厩戸の方が必死に耐えているように見え、時雨は自らの両腕を厩戸の背中よりまわし、
「……皇子」
少しばかり屈んで、耳元で名を呼ぶ。
「父君も母君も厩戸のことをとても思ってくれていることは知っている」
されど、と厩戸はまっすぐ前を向いたまま綴るのだ。
「来目とは別の愛情だ、とも知っている。特に来目が生まれてから、皇子はそれをよく心得ている」
「ご両親さまは皇子をとても愛されております」
「……だが、違う」
「皇子のことをとても大切に思われています」
この小さな体の震えは、両親の愛情に対する不安なのだ、と時雨は知った。利発で神童と称されるとても六歳には見えない厩戸であろうとも、幼子であることには何の違いも無い。父母の愛情を心の中では欲し、けれどその愛情を恐れて素直な心が雲隠れしてしまっているだけなのだろう。
「……時雨があればいい」
途端に感情が隠れた声音が飛び出た。
「皇子は時雨だけでよい」
肩越しにも振り返ることなく、真っ直ぐ前を向いて言葉を放つそれは……厩戸の心意気。
頑なで意地をはり、決して誇りを忘れることなく、なによりも毅然と立つ池辺宮第一皇子。
その常に気を張った風情が哀しく思えた。
「時雨の前で意地を張ることはありません」
そこではじめて振り返った厩戸は、その烏色の目を緩め、時雨の襟元を掴み、
「……そうする」
頷きながら答えた。
今六歳の子どもの顔をしている厩戸は、実にかわいらしく、幼さを見せるとやはりその母穴穂部に似ていることも新たな発見となる。
「皇子はとても母君様に似ておられます」
驚いたという顔をする皇子の頬に手をあて、
「六歳の子どもらしい皇子のお顔が、時雨は好きでございます」
「好き?」
「利発な皇子はどことなく近寄りがたいですが、今の皇子はとても親しみやすい」
「そうか……似ている? では時雨とも似ていることになる」
無邪気な飾り気のない満面の笑みに、一瞬時雨は戸惑った。それを厩戸は悟ってしまったのか。途端に幼さは払拭され、厩戸は時雨よりも手を離す。
「それはそれで好ましい」
口元には大人びた笑みが刻まれ、洗練された優雅な仕草で身を翻した厩戸は、
「時雨は碁を打てるか」
「……少しならば」
「皇子も気晴らしにする。蘇我の嫡子が強いのだ」
わずかに表情を緩め、その嫡子の名は「毛人」ということを時雨に語った。
時折忘れたころに顔を出すゆえ、そのうち紹介する、と。
厩戸の口から始めて聞いた「他人」は、どうやら「友」に近い親しみがあるようである。
時雨は微笑みながら「楽しみにしています」とだけ答えた。
「おーい厩戸。こんな天気のよいときにグダグダと寝ているな。不健康だ」
夏の日照りが今年いちばんに地上を照りつける……そんな一日。
暑さの苦手な厩戸は、この時刻宮でいちばんに日影となる東の対で、時雨の膝を枕にして昼寝をしていた。
厩戸いわく、時雨は常に涼風をまとっているので傍にいると涼しいのだという。
『時雨以外の体温など虫唾が走る』
サラリときつい言葉を告げる幼き聖王君。
その小さき波動を感じると、時雨は不可思議な気分に苛まれる。忌み厭われ、傍に寄るものも希であった自分に、手を差し伸ばし抱きついてくれる。
この世で最も貴い人がこうして自分に触れて嬉しそうに笑う。
ただ、それだけなのに。
ただ、それだけのことが、時雨には不思議で、同時に妙にいとおしい。
厩戸が自然と傍におり、無意識に時雨を見て微笑んでくれ、またこの池辺宮の人間たちはみな時雨に良くしてくれるので、
この時まで、時雨はあの身を刺すかのような人の負の感情や、無視され続け……終わりだけを夢見た自らの心情から少し離れていたのだ。
「なんだ、おまえは。厩戸が見つけた新しい玩具か。それとも単なる僕か」
その十にも満たない少年の顔を見た瞬間、
時雨の血が燃え上がるかのように、熱くなった。沸騰する寸前だ。ドクリドクリとした鼓動が早くなり、そしてそれは時雨の息を乱す。
「毛並みが変わっているな。たいていの厩戸の遊びは、もっと面白げがある人間だと思うが。……厩戸、起きろ。そのような得体の知れぬ人間に触れるな。穢らわしい」
久々に聞いた……人の負の感情が棘となった「穢らわしい」
身は太陽に焼かれるかのように熱く、焦げるほどに熱く、時雨は自らの体を両腕をもって抱きとめた。勝手が知れぬ始めての感覚に混乱する。
「どうした時雨。……心が波打っている」
荒々しくなる心。心底の中に埋没していた感情の渦が、今悲鳴をあげた。
穢れている身が「穢らわしい」と蔑まれるのは当然であり、それを悲しむことも痛みと感じる心も自分は当の昔に封じたはず。
それがこの一時の池辺宮の夢のような暮らしにて、本来の自分というものを忘れてしまったのか。何も感じず、空気に埋没して息を吸うだけの自分を、忘れたか。
痛みや悲しみだけではない。
血がこの身に流れる上宮の血が、目の前の少年に反応し、内より暗闇に似た感情がふつふつと吹き上がってくるのが、時雨は怖い。
そう、どうしようもなく怖く、けれどその血の定めからこの体が逃げることはできないことを、また血が時雨に教えた。
……蘇我。我らが仇たる蘇我。
千年以上の間、上宮家に染み付いていた血の呪いが、時雨の心をも縛る。
……赦すまじ。憎め。その蘇我の血を赦してはならぬ。
「あっ……あぁ」
まるで自分の体にもう一人誰かがいるかのような、そんな錯覚。
「時雨」
起き上がった厩戸が、時雨の異常さにすぐに気付き、その両腕を時雨に向けて差し出した。
「大丈夫だ、時雨。その身もその心もこの厩戸が守る」
体にまわされる両腕。身に伝わる温度と、少しだけ冷めたぬくもり。
「大丈夫だ」
ただの一言が耳に優しく馴染み、荒ぶる心底をゆっくりと浄化していく。
厩戸のいまだ頼りない幼い両腕の中で、時雨はまるで幼子のようにぽろぽろと涙を流した。
「聖王君……皇子……皇子」
名を呼んでいなければ、心底の中のもう一人の自分に押し潰されるかのような恐怖。
「大丈夫だ。時雨には厩戸がいる」
それはなんと魅惑に満ちた甘美な音色なのだろう。
抱きとめられ、時雨はようやく落ち着きを取り戻したが、心を平常に戻すために目は閉ざした。
……今はこの目に何一つ映してはならない。
「毛人。時雨になにをした」
ことの有様を目の前で、これぞさも楽しげというかのようにニヤリと笑いながら見ていた少年蘇我毛人は、厩戸の前に進み、今は背に垂らされた烏色の髪を一房掴む。
「あいも変わらず皇子様は気まぐれだな。今度はどんな玩具だ」
大和朝廷にて大臣として「三蔵」を預かる蘇我馬子は、「八百物部」と言われるほど同族が多い「兵馬」を預かる大連物部守屋と肩を並べる「力」がある男である。
その馬子の嫡子たる毛人は、いずれ蘇我一族を率いることになると目される惣領息子で、この時八歳。
色素が薄い茶褐色の瞳は、まさに渡来系一族の証たる色が刻まれ、同時に絶えず油断なくひそめられる。八歳という年齢にしては明らかに世慣れし、処世術を身につけていることからして、
「食わせ物」の蘇我家の惣領息子としては適任といえるかもしれない。
瞳同様に日の光を浴びれば、誰の目にも茶色に映る髪はきちんとみづらに結われ、体には一部の隙もなく袍がまとわれている。
大人が徹底して小憎らしくなるほどに子どもらしさを微塵たりとも匂わさず、飄々とありながらも、時に冷たいまでの冷酷な風情をまとう少年。
この世を冷めた目で眺め、ニタリと笑うその姿は、すでにいっぱしの大人だ。
「時雨は玩具などではない。厩戸の聖人だ」
毛人を睨みつけながら、厩戸は叫んだ。
ふーん、と軽く流して後、毛人は未だ目を閉ざしている時雨の顔をジッと見つめた。
「変わらんさ。大王家の人間にとっては人など玩具であり僕。単なる一時の気まぐれ」
「時雨は違う」
「近いうちに分かる。特に厩戸は決して自分と同列に人を置かない。あくまでも人など一歩下がった下等な生き物にしか過ぎないだろう」
厩戸の髪を僅かに引っ張り、毛人は続ける。
「俺も同じ。一時の気まぐれ。いらなくなったらいつものようにポイッと捨てる。この頃はまったく俺を気にかけなくなったしな。そろそろ飽きたか」
「………」
「新しい玩具は精神的に脆く、だがなんと見かけだけはかぐわしいものか」
「毛人」
厩戸の烏色の瞳から一切の感情が消え去っていく。そこから情というものが徹底してなくなったとき、
毛人は鼻を鳴らし、口元に笑いを刻んで、厩戸の頭をポンと叩いた。
「子どもであることが赦せない皇子さま。そんな目をするから、母君にまで不安がられるんだよ」
じゃあな、と訪れたときと同様にまるで嵐の如し忙しなさで毛人は去っていった。振り返りもせず、迷いもない足取りは前だけを進む。
後に残ったのは、この毛人が起こしたわずかな「痛み」と「不安」
「蘇我毛人……大臣蘇我蝦夷」
目をゆっくりと開き、思わず呟いた一言は、時雨の耳の中だけにおさまった。
時雨を抱きとめていたはずの厩戸の両腕は、今はガタガタと震え、今では時雨にしがみつく様相を見せている。
「皇子」
時雨の体内の血は、毛人が消えたことにより普段の静寂に戻っているが、
厩戸の方が限界な顔をしていた。
「毛人は、大叔父の嫡子。蘇我の惣領息子」
囲碁がとても強く、皇子相手でも一切手を抜かず、いつも本気になって挑んでくるただ一人の人。
「……皇子」
時雨にしがみついたまま微動だにしない厩戸は、小さく「なぜ」と呟く。
「普段はあんなことをいう男ではない。ぶっきらぼうだがやさしい男……なのに」
我知れず時雨は悟った。
厩戸の傍にある時雨という存在に、おそらく毛人は不快感を抱いたのではないか。「時渡り人」と公言されてはいない時雨の存在は、厩戸の遊び相手だった毛人にとっては、突然現れた「邪魔者」に等しかろう。厩戸の傍にある権利を奪った憎むべき存在に見えたのかもしれない。
思いも心も違えど、時雨も毛人に「血」ゆえに好感は抱けないでいた。
身に流れる血は明らかにあの蘇我毛人に最大限の警戒を突きつけていた。
血ゆえに……上宮の血が流れていることを知らしめるように、時雨は血に支配される。ましてや人を憎むという感情など、今の今までおそらく意識して身に宿したことのない自分には、今の血からふつふつと舞い上がる「憎悪」に等しいこの感情は、どうやって受け入れるべきか戸惑うばかりだ。
「気まぐれではない、時雨」
「はい」
「皇子は……厩戸は……時雨があればそれだけでいい」
今はその言葉に何一つ覇気がなく、むしろ毛人の突然の豹変に戸惑い、混乱の一途を辿っていることを如実に物語っている。
「ご心配におよびません。おそらく毛人さまはすぐに顔を出してくださいます」
本当か、と顔を上げた厩戸の顔は、六歳の幼子そのままだった。
時雨はコクリと頷くと、厩戸はホッとしたのか再び時雨の膝を枕にする。
「騒々しい男だ。うるさい男だ。今度現れたら、時雨の前で土下座させて謝らせる」
「お気になさらずに」
「時雨を傷つけるものは許さない。時雨の痛みも苦しみも、傍にあると皇子に少しずつ流れてくるのだ」
寝転がり、そっと手を伸ばして、時雨の袖を掴んだ厩戸。
ただ触れ合うだけで、どうしてこんなに落ち着くのだろう。波打った心までも静めてしまう……これが聖王の力なのか。
袖を掴んでいた手が、時雨の手に添えられ、結び合った手はどちらも軽くだけ握る。
「今はまだ幼いが、必ず皇子が守る。どんなことよりも守るゆえ安心していい」
人の心というものをできるだけ感じぬように、心に蓋をしてきた時雨だった。
蓋をする術を知らぬときは、人一倍人の心に敏感で、人の感情の痛みを言葉ではなく雰囲気で感じてしまうほどだった。
今、わずかに蓋を開け、目の前にある厩戸の感情を受け止めながら、その純粋で偽りなく、心から時雨を思う熱が、逆に時雨の心をわずかに痛ませ、同時に癒すという矛盾をほどこす。
(私の存在は聖王君の毒でしかない)
穢らわしき存在。逆縁の子。
例え今「時渡り人」と分かり、池辺宮の人々に優しく接されようとも、
魂に刻まれた「穢れ」が簡単に消え失せることはないのだ。
聖人たる厩戸の傍に自分が在れば、厩戸を痛める。
蘇我毛人は正しい。
……穢らわしい。
その通りだ。そしてこれほどまでに穢れた自分が貴い聖王君の傍にあること事態罪といえないか。
厩戸に抱きとめられると身の穢れも、逆縁の子という厭いも全て浄化されていくかのような気がする。
喜びと穏やかな空気が時雨を包み込み、生きていることを時雨は感じることができるのだ。
それすらも全て錯覚だろうか。
(聖王君にきよめられるのももったいないほど……この身は穢れているのではないか)
どこまでいっても上宮の巫女の予言通り、男ならば災いでしかない逆縁の子。
穢れを一心に受け、ただ生かされているだけの……祝福など一切ない。父母にすら厭われた呪われた子でしかないのだ自分は。
「守るから……時雨……」
だからずっと傍にいて……ほしい。
その言葉は眠りに入った厩戸には、声とすることができなかった。
幼き聖王君の寝顔を見つめながら、時雨の透き通るかのような美しき黒瞳より、涙が一滴だけこぼれ落ちる。
されど時雨の表情は何一つ移りかわることなく、清涼の風情を身にまとい、心はどこまでも無に帰っていた。
「せっかく碁の続きをしようと思ったのにな」
池辺宮よりの帰路中。気に食わない、と石を蹴る毛人は、なにか自分だけ仲間はずれにされている心情になってしまい、ついつい時雨にも厩戸にも憎まれ口を叩いてしまった。
「……しまったなぁ」
まさに後悔先に立たずの状況である。
それでも言わずにいられなかった。
まるで厩戸の傍らに在るのが自然な形のように、そこに時雨がいたから、悔しかった。
「厩戸が気に入って傍に置くのは俺だけだったのに」
気に食わない、面白くない、と石を蹴っては叫ぶ。
だが同時にあの儚いまでの麗人の透き通るかのようなきれいな瞳を思い出すと、すべてが「どうでもいい」という心情になってしまう。
「時雨……か」
なぜか嫌いにはなれない第一印象だった。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 4章