松菊探偵事務所―事件ファイル2―

序章

 それは桜の花も散り、葉桜が美しく映える季節。
 この旧お江戸の下町たる長屋町は、今日も今日とて平穏そのものの時を送っている。
「饅頭食べたいなぁ。ねぇ福地君、銭はないのかい」
「ない。あったとしてもチビガキにくれてやるつもりはない」
「福地君の銭を欲しいなんて一言もこの俺は言ってはいない。ただその銭で饅頭を購入するとならば、相伴に預かりたいだけさ」
「誰がチビガキに相伴させてやるものか」
「けちだね、福地源一郎君。そんな性格をしていたら嫌われるよ」
「見かけ童顔で理知的書生に見えるが、腹の中は真っ黒なチビガキに言われようとも痛くも痒くもないってやつだ」
 穏やかな春も終わりの一日。卯月も幾日か過ぎたころ。ここ東京飯田町にも、僅かに夏を告げる風が時折吹く。
 二階長屋の一隅にて細々と、まだこの国には馴染みのない探偵なるものを生業にしている松菊探偵事務所は、今日も今日とて「居候」が欠伸を出すほどに暇だった。
「俺、伏見屋の桜饅頭が食べたいのだけど、福地君」
 探偵とは名ばかりの居候青木周蔵は、横で寝転がっている福地の背を足で蹴る。
「この馬鹿で無能なチビガキ。俺様の背を蹴るとは何事だ」
「なに? じゃあ身体をまたいてやろうか。古今東西、昔から言うじゃないか。またがれれば出世しない」
「阿呆。それは女子供にまたがれたら、という意味だ」

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「そうだったっけ」
「確かにそうだ」
 その青木同様に居候兼探偵であるこの青年の名は福地源一郎。
 数ヶ月前までは新政府の高給取りの官僚であったものを、一身上の理由で見事にその地位を投げ出し、今はゴロゴロと着流し姿で横になる。岩倉使節団の一等書記官にまでなった男である。
 その見ようによっては「良き男」である顔には絶えず飽きを滲ませ、この男の「俺様」的性格を物語るかのようにその目には不遜な色合いをも見せる。それは人を見下ろすに慣れた目つきだ。一度目にしたならば忘れはしないだろう歪みと、自信過剰なまでの「自惚れ」が同居している。それが福地という男といえよう。
「陸軍卿でもこないかな」
 青木は視線を玄関元に向けた。
 この探偵事務所は、実は新政府の参議という国家の頂点に位置する政治家の木戸孝允が経営している。本人は「参議の辞表」を提出しており、参議を辞任したつもりでいるらしいが、その辞表は全く受理されておらず、木戸の身分は現在も参議のまま……なのだが、本人は全くその事実を認めようとはしない。
 という理由がある探偵事務所所長の木戸を新政府に戻すために、日にちを置かずにありとあらゆる要人がこの探偵事務所を訪ねてくるのだが、中でも陸軍卿山県有朋は二日を置かず必ず顔を出す。
 山県は、木戸と同じく長州出身ということもあり、付き合いも長く、また木戸の探偵家業に理解を示している。
『食事をして下さるならば、此処にあろうが廟堂だろうが構いはしない』
 と、木戸に過保護な山県らしい言い分を口にしている。

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 その山県、必ず手土産というものを持参してくるので、福地、青木には大好評と言えた。
 だが所長の木戸は、山県の訪問を全くといって歓迎はしない。
 そう先日のことである。
 珍しく木戸が近所ではじめた「寺子屋もどき」を一日休業し、事務所の机に向かって何かしたためものをしていたときだ。
 背筋がまっすぐに伸びた背中を、青木はうっとりとして見つめていたのだが、突如その背がピクリと浮き、途端に立ち上がったかと思うと、
『どこか隠れる場所はないかい。山県が……山県がくる』
 と怯え半分であたふたとし始めたのである。
 そしてとりあえずは逃げようと外に出たときに、山県を乗せた馬車が到着した。
『どこにおいでになる。貴兄に食べさせるために寿司を購入してきた』
『や……山県……。私はこれからいろいろと回らねばならないところがあるから……せっかくだけど御寿司は周蔵たちと』
 木戸の姿を凝視し、山県はおもむろに吐息を漏らした。
『貴兄という人間の傍に長年いるものとして言わせていただこう。貴兄が着流しのまま何も羽織らずに、しかも懐に短刀もなく外に出られることはたんと記憶にない』
『えっ……それはね。たまには』
『草履が貴兄のものではない』
『………』
『中に入っていただこうか』
 木戸は気配には敏な人間である。十町ほどの離れた距離にある人間の気を難なく読んでしまうほどだ。

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 そのため馬車で事務所に向かってくる山県の気配を敏感に読み取り、木戸らしくなく慌てて逃げにかかったのだろう。
 なにせ山県が顔を出せば、食が細く、誰がなにを言おうとも「食べたくはない」と食を拒否し続ける木戸が、嫌でも何かしら食べねばならない事態となってしまう。そう『食されぬと言うならば、口移しでも食べさせる』という陸軍卿らしく冗談なしの脅し台詞に、木戸はめっぽう弱いのだ。
 そのため山県は木戸には全く歓迎されず、むしろできるならば顔をあわせたくはない人間の一人となっている。だが木戸は、食のことを抜かせば寡黙な山県と楽しげに会話を楽しみ、二人でどこぞに出かけていったりする。話では骨董市を回るというから、この二人はそれなりに気が合うのだろう。
 その山県、必ず手土産は木戸に食させるために、といろいろな流行の菓子から食べ物まで用意してくる。
 それは風呂敷包みいっぱいであり当然木戸は食べきれるはずがなく、青木や福地は分け前をいただけるという算段だ。
 山県はこの二人に食べさせるつもりで大量に土産を求めてきている気などさらさらない。たんに木戸がこの中からどれか一つでも気に入り、食べたいと思って欲しいためだけの「大量購入」であった。
「陸軍卿など二日前に来ただろう。今はいろいろと多忙な時期ゆえそう簡単に顔を出せないさ」
「福地君、それは俺らには大変なことではないのか」
「食い意地が張っているチビガキには大変至極なことだろうよ」
「食事が減る~~。育ち盛りなんだからね、俺は。福地君と違って質より量が欲しい成長時期」
「阿呆。そんな成長時期などとうの昔に過ぎ去っただろう」

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「饅頭が食べたい」
「うるさい」
「食べたい」
「黙れ、チビガキ。俺は馬鹿と無能が傍にいるだけで虫唾が走るんだ」
「なにをいうのかね、福地源一郎君。その不遜で自信過剰な性格には呆れるばかりだけど、その能力だって自惚れじゃないのかね。はっきりといって、大言壮語をはく人間ほど馬鹿で無能なのさ」
 福地の眉がピクリとつりあがった。
「いったな、超馬鹿と無能のチビガキ」
 青木の背を思いっきり容赦なく足蹴にし、それでも気が収まらない福地はさらに青木の背を何度も踏みつけた。
「そうそう。自信過剰な自惚れやさんはそうやって最後は力で抑えよううとする。嫌だ嫌だ」
 わざとらしく手をヒラヒラとさせる青木に、プチッと切れた福地は「チビガキめ!」とドタドタとさらに足蹴の力を強くした。
「騒々しいですね」
 奥の部屋より顔を出した吉富簡一の眉間はピクピクと動いている。
 しまった、と福地は青木を足蹴にしていた足を一歩、二歩と後ずらせる。青木はというと、まるで自分はなにも悪くありません、という顔で福地を指差し愛想笑いを浮かべたが、
「よくそんな大声を出せますね。稼ぎもないただ飯食いの居候諸君」
 普段は温厚な吉富の顔に、壮烈な笑みがにじむ。吉富は怒れば怒るほど笑む男だ。眉間に皺を刻みながら。

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 自他ともに認められる傲慢不遜で人を見下ろすことに慣れた福地をして、背に悪寒を感じた。
「そんなに元気ならば、お外にいって稼いでいらっしゃい。そうすればごくつぶしのただ飯ぐらい。役にも立たぬ居候とは言わないで差し上げましょう。さぁ稼いでいらっしゃい」
「吉富さん。俺はなにも悪くありませんよ。福地君が俺を苛めるから」
「人に責任転嫁するな、チビガキ」
「傲慢不遜な福地源一郎君。その傲慢のままに弱いものいじめをするのはやめていただきたいね」
「なにが弱いものだ。この無能で馬鹿な……」
「お黙りなさい」
 さらにさらに吉富の笑みが深くなってくる。
 二人はまさにその場から今すぐにでも逃げだしたい気分となったが、まるで吉富の目に釘付けになり金縛りにあったように動かなくなってしまっていた。
「無駄口叩く暇がありましたら、さっさと働きにいった」
 吉富はまずなんとかこの場から逃れることを考える青木の襟首を掴み、そのまま玄関先にポイッと放り出し、
 次に青木よりは体格のよい福地の胸倉を掴んだ。
「吉富さん。怒りすぎると眉間の皺が取れなくなるって言うか」
「福地君」
 にっこりと吉富は有無を言わせない笑顔を刻み、軽々と福地をポイッと玄関先に放り投げた。
(なんと言う腕力だ)
 長州山口の庄屋出身の細長い体躯をした吉富簡一は、幕末の長州において志士たちを背後から支援し続けたという男だ。

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刀などほとんど握ったことはない。その武器は頭の切れとそろばんの腕ともいえよう。
 吉富は平凡で、一度見たくらいでは印象に残らない顔をしているが、これが笑顔を浮かべれば浮かべるほどに「恐怖」とともになんとも印象に残る表情を刻むことを、そろそろ福地も青木も認識し始めたのだが。
「わぁ……馬車だ。陸軍卿かな」
 玄関先に一台の馬車が停車するのが見えた。
 まるで子どもが「お菓子」を持ってきてくれる大人を歓迎するような顔つきで、青木が飛び出していく。
「これだからチビガキはしょうがないよな」
 と、ぶつくさ言いながらも青木の後に続いていく福地も、大福持ってきたかな、と思っていることから青木と思考回路はさして変わらない。
 だが福地が玄関より出る前に、及び腰になりつつ玄関先に駆け込んだ青木は慌てた声で「大変です、吉富さん」と叫んだ。
 何事か、と奥の間に戻り日々の帳簿をつけようとした吉富が振り返る。
 青木と福地の背後に一人の黒ずくめの男が姿を現した。
「ここは松菊探偵事務所です。ご依頼でごさいましょうか」
 その男は頭に乗せていたシルクハットを手に取り、その感情を全てそぎ取った目を吉富にむけ、
「探偵事務所所長に直に依頼があります。木戸参議はいずこにおられますかな、吉富君」
 吉富は少しばかり視力の悪い目で男の顔を見てげんなりとし、そして何度聞いても耳につくなんとも忘れられない声だとふと思った。

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 まさか直に此処を訪ねてくるとは、さすがに思いもよらなかった。
「内務卿自らご依頼とは、いかなることでございましょうか」
 目の前に立つ参議兼内務卿大久保利通の顔を見つつ、「大変なことになりましたね、木戸さん」と心の中で吉富は告げた。
 佐賀より大久保が戻ったことにより内務卿代理から解放され、参議兼文部卿の辞表も明日明後日中には岩倉、三条両公に叩きつけにいくつもりだと笑っていた木戸の姿が脳裏によぎる。
「吉富君。間違いをなきように。内務卿の任にあるのは未だに木戸さんです」
 その一言から大久保が木戸の辞任を一切認めるつもりがないことが覗える。
(連れ戻しに参られたのですかな)
 ならば吉富にとって目の前の大久保は敵となる。
 松菊探偵事務所という事業をはじめて後、木戸はあの憂いが滲んだ瞳に活力が刻み、今にも消え入りそうな儚さの風情が生きるという強さと逞しさを宿し始めている。
 長州の人間にとって、それがどれだけ大切であり喜びか知っていようか。幕末のおり颯爽と流麗に駆けたあの貴公子桂小五郎が戻ってきたかのような錯覚すら生じる。
 廟堂にいる木戸は心が半分死んでいた。
 今此処にある木戸は、失ったものをゆっくりと取り返すかのように……穏やかにたおやかに微笑む。
 今この場にあるときが、木戸には大切であるようだ。吉富をしてあの憂いを滲ませ鬱に心を支配される己を持て余す廟堂の木戸は見たくはないのだ。
「木戸参議はご在宅ではないようで」

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「連れ戻しにいらっしゃいましたか、大久保さん」
「連れ戻す? 吉富君、言葉を間違えてはいけませんよ。あの方は参議です。廟堂はあの方の真におられる場所。連れ戻すつもりはありません。帰ってきていただくだけです」
 大久保は怜悧な表情のまま淡々と言葉を紡ぎ始める。
 てこでも動かない信念と主義を見たような気がし、自分ではこの大久保を追い払えないのは承知した。大久保にとって広きこの国の中でも、自らと並び立つものはただの二人しかおらず、その中の一人が木戸孝允その人なのである。
「青木君。寺より木戸さんを呼んできてもらえますか」
 玄関先に茫然と立つ福地と青木に、吉富は視線を向けた。
「ここに呼んでいいのかよ、吉富さん」
 答えたのは福地の方である。
「私にはどうもできません。この方のお相手は木戸さんでなくては分不相応というものでしょう」
 塩でもまいて追い返したい気分ではあるが、一応は薩長閥の長たる男でもある。ましてや木戸のただ一人ともいえる「並び立つもの」に、そう長州の人間として無作法はできない。
「……いってきます」
 いかにも面白くなさげな顔をして青木は玄関より出ていった。
「待てよ、俺もいってやる」
 珍しく福地も犬猿の仲の青木の後を追っていった。おそらくこの場で大久保という男と顔を合わせているのが居たたまれないのだろう。
 できるのならば吉富とてこの場から逃れたいほどだ。よりにもよってこの大久保が直に訪ねてくるなど夢にも思わなかったのである。

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「とりあえずは中にどうぞ」
 招かれざる客を中に招きいれ、とりあえずはお得意になっている茶を入れることにした。
 大久保はコートを脱ぎ捨て、探偵事務所の内部をサッと目で確認し、
「酔狂な方だ」
 一言、何一つ抑揚のない冷徹そのままの声を落す。
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事件ファイル2 0-10

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