松菊探偵事務所―事件ファイル2―

21章

 天下の福澤諭吉よりの依頼は、消沈していた木戸の心にわずかなりとも火をともした。
「こういう時、本当に昔から桂さんは回りくどいことはしねぇよな」
 本日は仙台平の袴に、紋付の黒羽二重の羽織を着用。サラリといささか伸びた髪をなびかせて颯爽と歩く木戸は、昔馴染みの井上の目から見ても実に様になって格好良し。 それに比較して井上は高級な背広をだらしなく着崩し、本日はネクタイを首にかけているのみ。異国で見つけたお気に入りの金のネックレスなどしているものだから、これでは異国風のどこのゴロツキと間違われても仕方ないだろう。 しかもうっすらと顔に残る傷が中々に迫力を醸し出し、この井上が一人、街を歩くものならばなぜか知らないがそこいらのゴロツキは道を開け、サッと頭を下げる。誰がどう見ても先の大蔵大輔という地位のある男には見えはしない。いつかこの東京のごろつきを支配する大親分になるやも知れず。
 井上の相棒である伊藤などは、
「聞多は馬車などに乗って行き来するよりも、単身一人で歩いている方が絶対に刺客に襲われないよ」
 と、笑いながら太鼓判を押す。それには中々に複雑な思いを抱く井上でもあるが、服装の好みと持って生まれたこのいかつい顔はどうにもならない。
 その井上と木戸は、大手町にある内務省の前に立っていた。
 宮城の東に位置し、大手門よりは歩いて五分ほどに内務省はある。横には大蔵省がほぼ隣接して建っている。

事件ファイル2― 21-1

 はっきりと言って井上には多少だがこの近辺は敷居が高い。なにせ先の大蔵大輔であった自分だ。その辞任となったいきさつにはそれはそれは多くの利権や疑惑が絡んでおり、厚顔無恥と言われし井上と言えども、さすがにおいそれとこの近辺だけは歩きたくないとも言えた。
「……聞多」
 木戸が軽く笑い、井上の袖を引っ張る。
 内務省に来た際は、その隣にある平将門の首塚に手を合わせるのが木戸にとっては日課だ。
 平将門の首塚と言えば、江戸の古くから丁重に移動しようとしても関係者に死者が出るほどの祟りを巻き起こし、そのため一度としてこの大手町より動いたことがない。かつては古墳であったかと思われる盛りあがった土に置かれた祠は、塵ひとつ見当たらないほどにきちんとした清掃がされ、萎れてはいない花や供物が供えられている。噂ではこの首塚は周辺の住民らが当番で清掃を受け持っているらしい。
 それほどに敬われ、また畏怖される怨霊というのも珍しい話だ。
「……内務省はほぼ大蔵省の機能を独立させる形で成立したから、大蔵省と近い方が便利と言えば言えるけど」
 その辺りの事情は井上の方が詳しいはず、と木戸の黒曜の瞳が言っている。
「確かに利便性はいい。だが俺なら絶対に御免だ。あの大久保が祟りなど信じるとは思えんけどよ。この平将門の首塚は、本物だぜ」
 周囲に漂うこの負の気はただ事ではない。幕末の長州において闇討ちにあい、一度は三途の川を見た井上は、

事件ファイル2― 21-2

急死に一生を得て以来、なぜか「人ならざるモノ」を視る目を宿している。人は鼻で笑うため、仲の良い昔馴染みにしかこの能力については語ってはいなかったが、今、目の前の祠はできればすぐにも引き返したいほどの威力を持っていた。
 大蔵大輔時代はできる限り、この首塚を視ないようにしていたことを思い出す。
 もし何気なく視線が祠にいったならばその場で「はらいたまえ、きよめたまえ」と三度きちんと唱える。
「じゃあきちんとお参りしないとね」
 世の中の神社仏閣を前にすれば、おそらくこの木戸は急ぎの用件がない限り、敷地に入りお参りをする。そんな男だ。
「おい桂さん」
「これから大久保さんと会うのだよ。魔よけとしてもお参りは必要だと思うのだけど」
 より一層、魔を引き寄せる気がしなくもないが、確かに木戸の言い分には一理ある。
 井上と木戸はこれから内務卿大久保利通のところに赴く。あの男の鉄面皮で無感動な顔は、そこいらの化け物よりも恐ろしい。ここは「くわばらくわばら」とお参りしておいた方がよいかもしれない。
 祠にいたる階段をゆっくりと登りつつ、ふと木戸が振り返った。
 思い出したかのように、井上に向けてこんなことを言う。
「徳川埋蔵金や武田の埋蔵金とかのお願いはしない方がいいよ」
「桂さぁん……」
 ぐたりと井上は力が抜け切った。世の中の商売繁盛の稲荷に「埋蔵金発見」の願いごとをする井上だが、

事件ファイル2― 21-3

日本三大怨霊とも言われる平将門の首塚の前でそんな不埒な願いごとをしたりはしない。それこそ「天罰」というものが降りかかりそうだ。
「冗談だよ」
 にこっと笑った木戸の横顔を見て、少しばかり元気になったことに安心して、釣られたかのようにニッと井上も笑う。
 二人はそれから四半時ばかり手を合わせ「大明神」とも呼ばれし平将門にしっかりとお参りをした。祠の周囲には愛嬌あるカエルの置物が多く置かれており、これは「無事にカエル」ことに由来している。
 木戸はその置物にも小さく手を合わせた。


 将門の首塚で長くお参りをした二人は、本日の目的である内務省の前にようやく立った。
「桂さんよ」
 木戸は門前に佇んだまま、中に入ろうとはしない。井上が促すと、少し困った顔で井上の顔を見た。
「どうしたんじゃ」
「聞多にとって大蔵省が敷居が高いのと同じだよ」
「なんじゃい。桂さんは辞任に追い込まれたり、司法のうるさい官吏に追いかけられる疑惑があったわけじゃあないじゃろう」
 これは大蔵大輔の際に井上が実際に受けたことである。佐賀の乱の首謀者として鳩首に処せられた江藤新平が司法卿の折、その追及はすさまじく、ついには逮捕寸前に至った経緯まであった。あの時は逃げるのに大変だったと井上は苦笑いする。
「聞多は自業自得のところが多いよ」

事件ファイル2― 21-4

「しゃあねぇじゃないか。それに今でも俺様はなにが追及される要素になったのかさっぱり分からん」
「………聞多」
 木戸の生温かい視線を感じて、井上はぽりぽりと頭をかく。
「桂さんが敷居が高く感じるのは、なぜなんじゃい」
 あえて話を変えた。
「私は大久保さんが佐賀に赴いている際に内務省を預かっていたのだよ」
「そういやアンタ………参議兼文部卿兼内務卿だったりしたな」
「そう………預かっている最中に辞表を叩きつけて、私は探偵事務所をはじめたから………」
「まさかと思うが、アンタ。まだ内務卿の辞表を受理されてねぇとか言うんじゃないだろうな」
「それは大丈夫だよ。内務卿の辞表だけは受理されたみたいだから、あとは参議と文部卿の辞表を何とか通さないとならないけど」
 佐賀を平定して戻った大久保に、先日内務卿の辞令が下ったと聞き、木戸はほっとした。英国公使館の舞踊会に出席するように直に乗り込んできた際に「内務卿は今でも貴公だ」と突きつけられていたので、まさかとは思いつつも、内務卿の辞表が受理されないのではないかと木戸は心配だったのだ。
「内務省に関しては、かなり俊輔に放り投げたから………ここは敷居が高いよ」
 しかも顔を合わせるのは、あの大久保だ。木戸としては最も顔を合わせたくはない男でもあった。
 一息つき、木戸はキッと睨むように前を向く。
「いこうか、聞多」

事件ファイル2― 21-5

 おうよ、と井上は笑った。
 内務省に入ると木戸の存在に気づいた官吏がいっせいに頭を下げた。どこからか「内務卿」という声もかかる。
「大久保内務卿にお会いしたいのですが」
 と一人の官吏を呼び止めて告げた木戸に、
「内務卿は引き継ぎが済んでいないとのことで、今なお内務省には出仕されてはおりません」
 この言葉に木戸の顔色が変わった。理由を尋ねると、あの大久保らしからぬ言いがかりがつらつらと並べられる。つまりは内務卿の辞令は一応は受諾したが、その理由としては前任者が辞表を置いて雲隠れしたためである。事実、前任者の辞表は未だ正式には受諾されてはいない。このような事態において、内務省の混乱をさけるがために内務卿を受諾はしたが、今もって小生は内務卿の職にあるのは前任者と考え、引き継ぎをもって小生が新任されるべきと考える。よって前任者との引き継ぎが完了するまでは内務省に登頂は差し控える、とのことだ。
「何という言いがかりだ。私の辞表は受諾されているはず」
 木戸が叫びたくなるのも無理からんこと。これは確かに言いがかりだが、そこに大久保という男の思惑が滲んでいるような気がした。
「仕事を廟堂から差配しながら登頂だけしねぇとは。こりゃあ裏があるな。それともアンタを引っ張りだそうとしているだけなのか」
 あの仕事を快楽としている大久保とは思えない言いがかりとも言える。
「廟堂に赴いて引き継ぎなりなんなりしてこようと思う。ついでに条公に参議と文部卿の辞表を再度突きつけて………」

事件ファイル2― 21-6

「待てや桂さん。あの大久保があんな言いがかりをつけて内務省に登頂しないのはよほどの訳があるかもしれんぞ。俺様の滅多に外れん勘が、こりゃあ何かあると言っている」
「………聞多」
「単なるアンタを呼び寄せる罠か。それとも内務省に出仕できんいわくがあるのか。平将門が怖いなんて言う男でもないしよ」
 井上は興味が惹かれたらしくその口元に笑みを刻んだ。
「こりゃあとりあえずは廟堂にいってな」
「それもあるけど福澤先生の依頼の方も早々に突き止めないとならないからね」
 江戸幕府の折より続く、闇の始末屋が七不思議なのかどうか。それを探りにこの内務省を訪ねた木戸と井上だった。
「そんな福澤先生の依頼よりも群を抜いたとびっきりのことがこの先、待ち受けているような気がするんじゃよ」
 今の井上は家宝の小判を磨いているときのような楽しげな顔をする。こういう時の井上は危険だ。楽しみが裏切られた折、その場で爆発的な癇癪を起こし、世の騒音としか言いようがない歌を歌いだす傾向があるのだ。
「とにかく廟堂には行かないとならないね。あの場所も私には敷居が高いのだけど………」
 この内務省とは違い、まだ参議の辞表が認められていないのだ。一度中に入れば木戸がどれほど辞表を提出していると喚こうとも、現時点では参議の地位にある。
「なんだかどっと疲れてしまったよ、聞多」
 国家の廟堂は、内務省からは徒歩で十分ほど歩いたところにある馬場先門の内にあった。本来は宮城の西の丸に創設されていたのだが、先年宮城が火事にあった際に廟堂も焼け落ち、

事件ファイル2― 21-7

そのため急遽馬場先門内にあった旧教務省を廟堂として割り当てるという事態となった。ここは手狭であり使い勝手が悪い。すでに新庁舎の建築案が議場にあがっている。
 内務省より徒歩で廟堂に入った二人は、大久保への取次を頼み、しばらくの間は伊藤の個室で待つことにした。
「自分の部屋は素通りか、桂さん」
 木戸は自らの部屋に入ることは躊躇した。
「木戸さん」
 伊藤が鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をして出迎えた。
「どうしたのですか。自らここにお越しになるなんて」
「桂さんは、自分の参議の部屋には入りたくないんだってよ」
 頭をぽりぽりかきながら、井上が答えた。木戸はソファに座ると、つかさず部屋にはお茶が運ばれてきた。
「すまないね、俊輔。大久保さんには連絡をとってもらっているから」
「大久保さんですか? ここ数日、ここでは見ませんよ」
 伊藤が木戸の前のソファーに座った。その横に井上が座る。
「おいおい。色々と筋の通らん言い分を並べて内務省にも登頂していないというぜ。それで廟堂にもいないと言うならいったいどこでなにをしていると言うんだあの内務卿」
「………まさか」
 小さくつぶやいた伊藤がそのまま顔色を変える。
「極秘裏に征台の話を進めているという噂があるんです。僕たち大反対をしているので廟堂には顔を出さないんじゃないかって」
「………」
 木戸には不愉快な話と言えた。そうこの木戸が参議の辞表を突きつけたひとつの理由がこの征台の問題にある。

事件ファイル2― 21-8

 去る明治六年、政府が二派に分かれて相争った理由として朝鮮使節団派遣問題があった。西郷隆盛がまず特使として朝鮮に開国を促すために乗り込み、もしこの折に朝鮮が承知せず西郷が斬られることになった場合、これを大義名分として兵を派遣するというこの議題に、岩倉使節団として西欧をその目で見てきた人間はこぞって反対した。今は外征よりも内治優先。西欧の侵略を防ぐ意味でも国の最優先事項とすべきは「富国」であると叫んだのは大久保や木戸だったのだ。
 策略をもって使節団派遣を阻み、使節推進派の西郷や江藤を下野させるに至った。その江藤は先月、半年も経たぬうちに佐賀の乱の首謀者として鳩首に処せられている。
 あれほど朝鮮使節団派遣を強行に反対した大久保がまるで手のひらを返すように征台にうなずいたことは木戸にとっては寝耳に水の話でもあった。
「きっと今ごろどこかで征台の打ち合わせでもしているんでょう。これは薩摩だけでやるつもりです」
「………愚かなことを」
 木戸は吐息をつき、茶を口に含む。
「今回の征台はおそらく何も意味なく終わるよ」
 遠征の費用だけがかさむに違いない、と木戸は読んでいる。長州勢は首魁に同調するかのようにこぞって反対を唱え、軍政を預かる山県が動かないこともあって、どうやら陸軍大輔の西郷従道を使い、大久保は世論を押さえ込んででもこの征台を実行する気でいるらしい。
「まあやっこさんもそれだけ追い込まれているんだろうよ」
 井上は懐よりたばこを取り出して、一服を始めようとしたが、
「聞多。たばこは木戸さんの前ではだめ」

事件ファイル2― 21-9

 伊藤がそれを取り上げた。
「なんだよ。一本くらい吸わせろよ」
「英国で聞いたのだけど、たばこの煙って非常に体によろしくないんだって。だからダメ」
「だってよ、桂さん。アンタもたまにゃあキセルをふかすだろうが、体によろしくないってことで」
「これからは木戸さんも控えてください」
 木戸は苦笑を浮かばした。ここ最近は調子が良いが、木戸の体調は明治に入って悪化の一途をたどっている。たかがたばこの一本や二本でこの体がどうこうなるはずもないが、ここは伊藤の剣幕に押されて、何も口にしないことにした。
「ここで大久保が捕まらんとなると、さてどうするかな、桂さん」
「内務卿に何かご用事なのですか」
 首を傾げた伊藤に、ニタリと笑って見せた井上が「秘密」と片目をつぶって見せた。
「なにそれ。この相棒の僕にも内緒ってどういうこと」
 思わず伊藤は傍らに座っている井上のネクタイを引っ張った。
「秘密は秘密じゃ。俊輔は探偵事務所の構成員じゃねぇからな」
 依頼内容は親兄弟であろうと機密ということが探偵事務所の鉄則になっている。
「………僕だけ仲間はずれ? あっ、じゃあ山県も構成員じゃないから」
 チッチッチッと井上は人差し指つわ振りつつ、
「山県は構成員じゃ。食事係というれっきとしたな」
「木戸さん。じゃあ僕も構成員の一人にしてください。何かお役にたてることがあると思いますので」

事件ファイル2― 21-10

「俊輔は国家の参議だから」
「山県だって陸軍卿じゃないですか」
 そこを突かれば如何ともしがたい。木戸は曖昧に笑ってこの件は流すことにした。
「それに僕は山県から色々と厄介な調べごとを頼まれているのですよ」
「なんじゃあそれ」
「たぶんそちら側の件だと思うんですけどね。そちらの件を教えてくださるなら内容を言いますよ」
 伊藤が茶目っ気たっぷりの笑いを見せるのだが、あえて木戸は首を横に振った。
「私は狂介が何を探っているかは今のところは興味はないよ。それに必要になったら必ず狂介から話してくれると思うしね」
「………木戸さん」
「俊輔はあまりこの件に関わらない方がいいよ。おまえは国家の参議としてこれからは長州の代表として動かないとならないのだから」
「お言葉を返しますが、長州の代表はいつまでも木戸さんです。周囲は僕など伝言役としか思っていませんし」
「………俊輔」
「早くこの廟堂にお戻りください。あの大久保を止め得るのは木戸さんしかおりませんよ」
「私がなんのために辞表を出したと思っているのだい」
「………それは」
「征台を強行的に押し進める大久保さんへの脅しでもあるのだよ。私の反対を押し切り封じてまで行う覚悟なら、そのような独裁的な政府には私という存在は必要ない」

事件ファイル2― 21-11

 この明治政府より長州の長である自分を失ってなお征台を実行する意味があるのか。一度は木戸の辞表の叩きつけにより派兵は取りやめとなったのだが、佐賀より戻った大久保があえて征台を「是」とした。
「私は二度と戻るつもりはない。だから俊輔。これからおまえがどういう過程でのし上がっていくかは、それはおまえの才覚ということになる。いつまでも私の連絡係としておまえも終わるつもりはないはずだよ」
 伊藤の胸の中にある野望をわずかなりとも木戸は理解しているつもりであったが、ここで伊藤は悲しげに笑って首を振るのだ。
「木戸さんがいないと僕は………なんのために参議であるのか分からなくなりますよ」
 小さく呟いて情けない顔となった伊藤を勇気づけるように、井上は伊藤の肩をばんばんと叩いた。
「痛いよ、聞多」
「そんな顔をするなって。それによ桂さんがこのまま埋もれることは絶対ないんだからよ。そのときのために下ごしらえするのが俊輔の役目さ」
「聞多………私は」
「あの大久保はそんなに甘くないってことさ。………良い意味でも悪い意味でもアンタは長州の首魁。退く場所などないということをこれから思い知らされることになるだろうよ」
「そんな予言は聞きたくはないよ。それに私は今の自分がとても気に入っているのだから」
 探偵事務所をはじめて、木戸は肉体的にも精神的にも満ち足りるようになった。廟堂にある時のような張りつめた息苦しさもない。この肩にのしかかる「国家」という重荷もない。

事件ファイル2― 21-12

素の自分のままで毎日を歩んでいく。その幸福さとその充実さを味わうたびに木戸は思い知らされるのだ。そうだ、この自分は国家を担うといったたいそれた男ではない。明治維新を迎えるにあたり大人物が次々と倒れた結果、自分がやらねばならない立場に追い込まれたにすぎないのだ。
「………忘れないでくださいね。木戸さんあっての僕たちだということを。木戸さんが見捨てたとき、僕たち長州系の人間は孤児になってさまようことになりますから」
 答えず、木戸は視線を遠いところにやった。やはりここは廟堂だ。話す内容からして息苦しい。
「さてよ]
 木戸の顔色を察した井上がまず立ち上がった。
「大久保が捕まらないならほかを当たるしかないぜ、桂さん」
 これには木戸もきょとんと首を傾げる。
「なに、この件はあの大久保だけが情報源になるってわけじゃねえよ。むしろ大久保よりさらに情報を持っていそうな人間がいるじゃねぇか」
「………内務省を握る大久保さん以上にかい」
「発想の転換さ。なにもいまの権力者に話を聞くことはねぇんだ。昔の暗躍の部分を担っていた男で十分さ」
「誰のことを言っているのだい」
 井上はふっと笑う。
「アンタが大の苦手としている勝さんさ」
 あからさまに木戸は落胆なため息を落としてしまった。
 あえて頭よりはずしていたその名は耳にするだけで穴を掘って埋めてしまいたい記憶が数々と脳裏に浮かんでくる。苦手どころではない。

事件ファイル2― 21-13

木戸は勝と顔をあわせると決まって冷静を保てないほどに狼狽する。大久保とは違う意味で、顔をあわせたくない人間の一人なのだ。
「いったいどんな用件なんでしょうね。大久保さんがいないなら勝先生だなんて」
 伊藤のあきれた声がその場にひときわ大きく響いた。


「なんで俺がこのチビガキと一緒に義塾で聞き込みなどしねぇとならないんだ」
 木戸が廟堂で重いため息をついているころ、福地と青木は三田の慶応義塾の敷地内にいた。
「あぁ嫌だ嫌だ。自称天才と一緒に行動しないとならないなんて、今日は絶対に厄日だ」
 青木は見るからに顔に嫌悪感を乗せている。この男は木戸が側にいないとその表情も言葉遣いも一変する。
「チビガキ。俺の邪魔だけはするな」
「それ俺の台詞だよ、福地源一郎くん」
 ふんと鼻をならした青木の腹に一発蹴りを入れて、福地は先を進む。
「………っ! あぁいやだいやだ。学のない男はどうしてこう手が早いんだろう。あぁ俺の公。今頃あの冷血漢大久保の手管にかかってお困りではないか。この俺が一緒なら大久保など一撃で倒してみせましょうに。なんでこんな場所にしかも福地くんなんかと一緒に」
「独り言は静かにやれ」
「天才というのは独語も人に聞こえるようにするものだよ。

事件ファイル2― 21-14

自称天才はそんなことも知らないだろうけど」
「そんな理屈は露とも知らんな。言っとくがな。それは天才の理屈じゃなくて、阿呆の屁理屈だ」
 くっくっくっと喉を鳴らして笑った福地だが、いざ義塾の講堂に入るとその顔を引き締めた。
 これから一癖も二癖もあるといわれる義塾の生徒に聞き込みを行わねばならない。それは慎重にと扉をあけたのだが、
「もしかして緊張とかしていたりする? うわっらしくない」
「黙っていろよ、チビガキ」
 どうも青木が一緒だと予定通りことが運ばなくなることが多い。福地にとって青木の存在こそが疫病神に見えた。
▼ 松菊探偵事務所―事件ファイル2― 二ニ章へ

事件ファイル2― 21-11

松菊探偵事務所―事件ファイル2― 21