松菊探偵事務所―事件ファイル2―

17章

 内務省に向かう大久保の馬車に同乗し桜田門が見えてきた時、
「内務卿。仮面舞踊会を本気でされるのか」
 ようやく山県は口を開いた。
「仏蘭西人はとかく仮面舞踊会がお好きなようだ。ブルボン王朝時代には頻繁に実施されている。誘いだす口実にはよい」
「賊が公使館内部に入り込んでいる可能性とてあろう」
「その点は考えられはする。だが各国の公使館は日本人を雇う際の身辺調査は厳重すぎるほどのものがある。紹介人を通さねばならないほどだ。……日本人はさして雇うまい。下男か料理人でもない限り」
 ……ついでに俺様が料理人として、公使館内に探るために潜れ込むってのはどうだ。なにせ俺様は今は無職だ。
 先ほど、唐突に切り出されたこの井上の提案に、その場の全員が凍りつき、続いて重い吐息をこぼして「却下」とした。
 まず面が割れている井上が公使館内部に入り込んでも、あまり意味を為さない。いやその前にこの井上の料理ならば、公使館に万が一にも雇われることはないだろう。およそ料理長が井上の舌と同じくする百人に一人の割合で存在する「非常人の舌」の持ち主でない限りは。
『聞多。そのような危ない橋を渡るものではないよ。それに聞多の料理はね。私たちにふるまっているのが良いと思うんだ』
 さすがは長州の首魁である。井上の料理の流布を最低限で止めようとした。
 井上は名案と思っていたのか、面白くなげに下を向く。

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その様に安堵の吐息をつく大久保の姿を見た山県は、あぁきっと大蔵省時代にこの井上料理の被害にあったのだろうな、と推測した。 大久保が大蔵卿を勤めていた折、その下の大輔として政務を取り仕切ったのが、井上である。
「確かに。……実行するならばこの計画は、あの秘密がお好きな公使夫妻を丸めこみ、徹底した機密で通すしかあるまい。それは井上さんがなんとかするだろう。あとは当日その場まで一切口外せず、公使館への出入りも取り締まる。今も張り込んでいるだろう警視庁の動きに期待するしかないが」
「陸軍卿。私は今回の襲撃、誰がいようと構わないと思っています」
「………」
「狙いはおそらく木戸孝允一人ですので、その場に木戸さんがいていただければ、それで構いません」
 やはりか、と山県の暗闇の目が大久保を突き刺す。
「おとりに使われるか」
「それは木戸さんも重々承知。襲撃犯は単に木戸さんと真正面より勝負をしたいだけとも見える。いや……付随して折よく政府の失墜を狙っているようでもあるが。
 眠り香などを巻きながら、殺害したとするなら日本人一人。攘夷も天誅もこれでは意味をなさない」
「殺害されし日本人書記には芳しくない噂もある」
「………お気づきかな」
「少し調べさせてはいる」
 大久保は組んでいた腕を解き、まっすぐ前を見ながら、
「アレは襲撃犯か。それとも愉快犯か。少しばかり考えがわかれる。派手な演出だったのも気になる。

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単なる殺し屋かそれとも裏に何かあるのか。深読みをすればきりがない。やり方としては不快極まりないが、我らの面子と威信を嘲笑っているだけにも見える。
 陸軍卿、攘夷も天誅も演出に過ぎないとするならば、それは」
「そこに木戸さんが関わっているということか」
「ゆえに囮として木戸さんは適度。もし敵の刃にかかろうとも名誉の戦死ということで、大々的に葬儀を執り行ってしんぜる」
「冗談ではない」
「国家の名誉と威信失墜を防げるならば、参議一人の命、軽いものだ」
 淡々と低くつぶやくその大久保は、冷血無比といわしめた内務卿そのものと言える。おそらくこれが自らの命でも同じ言葉を繰り出したろう。
 だがその重い口調からも、まだ余裕が感じ取れた。
 まだまだ心の底の本髄など口にしてはいないだろう。
 薩長独裁と世論より叩かれる中、今、木戸を失ったならば、大久保はこの後、世論を一人で相手にしていかねばなるまい。
 だが、木戸の命を大切にする長州の己に対して口にする言葉ではないはずだ。
 今までの神経を逆なでする発言の神髄に、ここで山県は思い至る。
「内務卿」
 馬車が止まり、山県は扉を開け、踏み台に足をかけつつ、
「それほどに私が木戸さんと踊ったこと根に持たれておいでか」
「……君をどこぞに追い払いたいほどに」
「男の嫉妬ほど見苦しいものはない。よく心得ておいた方がよいと思います」

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 先ほどから人の癇に障る物言いが気になっていたが大久保という男をひも解いて軽く考えた結果、山県は今のこたえに至った。
 単に英国公使館の舞踊会で、己が木戸と踊ったことが、大久保にはそれは気に入らなかっただけらしい。
「次の舞踊会で踊っていただくことにしよう」
 背中に突き刺さった一言に、山県は何も返さずに、そのまま歩いて陸軍省の中に入る。
 賭けてもいい。
 木戸孝允は、どれほどに平身低頭にて大久保に円舞曲に誘われようとも、にっこりと笑って大久保の頬を打つだろう。
 それもそれで見物やもしれぬ。


「本気か、桂さん」
 大久保と山県が辞去した後、木戸は黙したままなにかを考えている。
 井上は煙管をうまそうに吸いながら、二階より降りてくる二人の姿が目に入り、ニタリと笑った。
「良いところに来たな、福地。確かおまえさんはフランス語はできるって聞いているが、本当か」
「なんだよ、藪から棒に。確かにそれくらいできるがよ」
 福地は面白くなさげな顔をし、大久保が手土産に持ってきた饅頭にキランと目を輝かせた。
「あぁ嫌だ嫌だ。自称天才の福地源一郎くん。饅頭を見ただけで、その顔は何かな。食い意地がはってみっともないと言ったらありゃしないよ」
「そういうチビガキ。なんだ、三個も取るなよ」

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「僕は福地くんにとられないように公の分を」
「このチビガキのきたない手にふれられた饅頭を木戸さんに食べさせるというのか」
「僕の手は汚くなんかありませんよ。どこぞの口ばっかし。ついでに手が出る自称天才とはこれが違うんだなぁ」
「よし。表に出やがれ。その厚顔無比の面の皮をはいでやる」
「暴力反対」
 相変わらず騒がしい福地と青木だ。お互いに罵りあっているのだが、息が阿吽の呼吸ともいえるほどにピッタリと合っているのが面白い。
「俺様はこれから仏蘭西公使館にちょいと交渉にいかないとならんのさ。伝手はある。内務卿にも一筆書かせたしな。ついでに桂さんが一緒ならと思ったが、それはちょいとな」
 さすがに木戸が一緒では目立つ、と井上は判断した。
 公使館内部には賊の手のものが潜んでいるかもしれぬ。
 その点、政府より離れている立場の自分と福地ならば動きやすい。
「上で話は聞いていたが、にわか仕立ての茶番劇でしかない。俺が襲撃犯の一人ならすぐにも看破し、襲撃は延期し、新聞に書きたててやる」
「襲撃がないならないでこしたこともないんだろうよ。
 かん口令を徹底して敷く。もし悟られたとならば、その糸をたどればいい。もぐりの新聞は今、警視庁が徹底して探っているだろうよ」
 井上は煙を吐きつつ、不意に木戸を見据え、
「いいのかよ。俺様は冗談でしかなかったんだがな。アンタに囮になれといったようなものだ」

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「………大丈夫だよ、聞多」
 そこでようやく目を開けた木戸は、思慮深げな顔のまま井上を見、
「偽の舞踊会であろうとなかろうと、蝶たちは来る」
 確たる意思を込めて木戸は呟いた。
「私しか止められぬというならば、私が止める。私が終わらせる」
 英国公使館を派手に襲撃し、攘夷を声高に叫びながらも、殺害せしめたのは日本人の書記官一人。
 攘夷という言葉に込められし思い。天誅に込められし哀しき時の鼓動。
 あの京都での動乱をにおわせつつも、今回の状況は、まったく別のところに手繰る糸はある。
 それに、あの無機質な瞳の奥に込められし哀しき怒りを、木戸は受け止めねばならないのだ。
「終わらせねばならない。蝶に……終わりを見せないとならない。この私が……」


 仏蘭西公使館での舞踊会は、半月後と聞く。
 陸軍省に戻った山県は、その足で廟堂を訪ね、今は主のない参議木戸孝允の部屋の扉を開けた。
「せめてノックくらいしなよ」
 そこには、ふてくされた顔で、ソファーにゴロゴロとしながら煎餅をバリバリ食べる伊藤の姿がある。
 探す手間が省けた。最初の考え通り、やはり此処にいたか。
 挨拶もなく、伊藤の正面にあるもう一方のソファーに

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山県は座した。
「美味いよ。煎餅食べる?」
「いらん」
「醤油のあましょっぱい感じ。この香ばしい匂い。食べたくならない?」
「必要ない」
「おまえって本当に庭以外さして興味ないよね。風流人を気取るなら美食家にもなった方がいいよ」
「身にあった美味なものを食せれば良い」
「そうですか。そうですか。人のせっかくの好意を……別にいいけどさ。
 それにしても暑いなぁ。まだ五月なのに。
 そういえばおまえって暑くなると食欲落ちてガリガリに痩せるけどさ。まだ大丈夫なの」
「……痩せたか」
「見た目はね」
「この頃、食欲は落ちている」
「そういう時って、なにを食べるのさ。まさか食事を取らずにあの激務の仕事は無謀なおまえでもしないはずだからさ」
「………夏は冷やし素麺に限る」
「滅茶苦茶栄養がないもの……だよ、それ」
「もずくを飲んでいれば良い」
「果実系はどう?」
「蜜柑もブドウも秋ゆえな」
「へぇぇ。長州人として蜜柑は好きなのは分かるけどブドウも好きなんだぁ。ならさ。西瓜なんてどう?」
「アレは薩摩人が好む」

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「ありゃ……おまえでも薩摩人についてこだわるんだ。意外。別にさ薩摩人の好物だからって僕たちが食せないってことはないよね」
「そうだが……あまりあの甘みは好まぬ。桃の方が良い」
「それも八月くらいだよ、食せるのって。八月なら随分涼しくなっているから、食欲も回復するんじゃない」
「西瓜よりは桃の甘さの方が好むだけだ」
「ちなみに桃の花も好きだしね、おまえ」
「あぁ良く知っているな」
「長い付き合いだよ。いつのまにか僕とおまえも」
 そこで伊藤は立ち上がり、山県に茶を入れる。本日の暑さを気にしてか、冷茶を差し出す気遣いを伊藤はした。氷を入れる音も聞こえる。
 貯蔵庫の一つ氷室をあけ、切り出してきたようだ。
「さっき作ったから、あまり冷たくないけど。飲むといいよ。どうせ簡単に終わる話ではないと思うし」
「……あぁ」
 伊藤の世間話さえなければ簡単に終わるのだが、この男はどうも「雑談」に付き合わねば、本題を惚ける傾向があるので、付き合う。
「この角度で見るとよくわかる。おまえ……やつれたよ。ちゃんと食べた方がいい」
「食してはいる」
「もずく飲んでいるだけじゃ栄養にならないんだからね。この僕を見習いなよ。どんなに暑くても食欲と女性を求める気持ちは衰えることはないから」
「………」

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「これぞ夏を乗り切る極意。どう? 今日あたり新橋で芸妓をあげて遊ばない。おまえのその食欲不振も治るかもしれないよ」
「遠慮しておく」
「相変わらずの甲斐性なし」
「それでけっこうだ」
「そんなおまえでも倒れられたら木戸さんが心配するし、なによりも陸軍省が立ち行かなくなる。
 いっそ聞多に気合が入る料理を作ってもらおうか」
「私に三途の川を歩け、と言うか」
「あのね。聞多だって……気合を入れたら美味しい料理が仕上がることも……ないとは言えないよ」
「ならば貴様が食せ。貴様が無事ならば私も食す」
「人を毒見にしないでよ」
「世にも恐ろしいことを言うからだ」
 普段は陸軍省の寡黙な卿で通っている山県だが、どうも昔馴染みたちの前になると寡黙で通せず、口数が多くなる。
 それは己という人間を心得ている連中たちの、どう話せば己が話に乗るか知っているための会話術であることを、この頃知った。
 山県としても、相手をよく知っているために無自覚だが気を許して話しているところもあるのだが。
「そうだ、苺なんてどう? それほど甘くないものだけど、おまえの口にはあうと思うよ」
「野苺ではなく、阿蘭陀より輸入された赤い果実のことか」
「そう。今、実験的に栽培されているものがあってさ。阿蘭陀から輸入された当時の味はかなり渋めだったけど、この頃改良が進んでる。

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 その改良版が僕のところに大量に贈られてきたんだ。処理が困ってさ。いや美味しいんだ。けど、まだ市場に出回っていないものを、方々に配るのもなんだし、腐らせるのも可哀そうだし」
「食したことはない」
「そうなの。ちょうどいいや。家の貯蔵庫には入りきらないということで、大量に持たされて、ここの地下貯蔵庫に入れてあるんだ。おまえ……今日なんにも食べてないよね。苺、食べなよ。持ってきてあげる」
「そのようなこと後でいい。私はおまえに用事というものが」
「そんな時間かからないから、ちょっと行ってくるね」
 よほど送られてきた苺の処理に苦戦しているのか、それは素早い動きで部屋を出ていってしまった。
 どうやら己の夏の食欲不振を見抜いたのか思い出したのか。強引に苺に話を持っていったように思える。
 始めから「苺」をおすそ分けしようと言うと、必ず山県が「いらん」というのを百も承知。
 だが、やつれたやら痩せたなど振りかざされては断るに断りきれないことを、伊藤はよくよく承知しているらしい。
(これで百十二ある貸しを少しでも返すつもりか)
 付き合いきれん、と思った山県は、伊藤が入れた冷茶で口の渇きを潤す。
 伊藤への本来の要件は、旧民部省と大蔵省に関わるものであった。当時の関係者は大隈と伊藤と井上だ。大久保内務卿も承知しているかもしれないが、主な雑務はこの三人が受け持ったと記憶している。 各国の公使館建築などによる業者との癒着があるやもしれない。
 山県は今回の書記官殺害を「天誅」や「攘夷」の

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いったんではなく、おそらく利権がからんでいるのではないか、と推測している。
 事実、英国公使館で殺害された書記官は、もとは民部省の下級官吏で、民部省と大蔵省が合併したことにより大蔵省官吏となっている。
 民部省時代に担当していたのが、民部官札と公使館建設による業者の選択。土地の選別。それが、鞍替えし、一足飛びで英国公使館付日本人書記官となった。何かが匂う。
 井上に話を聞こうとも考えたが、あの男は過ぎ去ったことで自分に関係ないものはきれいさっぱり忘れる特技を有している。
 また大隈重信に対しては、一切借り貸しは作りたくはないと思っているため、成り行き上、重箱の隅を突くほどの記憶力を有する伊藤より証言を得ることにした。
「お待たせ」
 戻ってきた伊藤が手に抱えているザルいっぱいの苺の山に、さすがの山県も茫然となった。
「省内に配ればいいだろうが」
「そんなこと当の昔にしているんだよ」
「好む人間に好きなだけ持たせるのはどうだ」
「これはね。僕が懇意にしている人が、僕のために送ってくれたの。ばらまいて、おかしな評価が立ったらどうするのさ」
「………だが大量だな」
「これってものすごく一部なんだけどね。食べてみなよ。五稜郭より切り出した氷を貯蔵庫に入れておいたから、冷えていると思うよ」
 ちゃんと水洗いもしてあるし、どうぞ、とにんまりと笑って差し出され、山県としてはうすら寒いものをまざまざと受けた。

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「……食せるのか、本当に」
「疑い深いとさ、女にはモテないよ、山県」
「モテるつもりはない」
「あぁ、そう。仕方ないなぁ。本当におまえって手間がかかる男だよね」
 苺の房を掴み、そのまま伊藤は口に入れた。
「美味しいよ。けど大量過ぎると……宝の持ち腐れ。異国用のジャムとか作れる技術を早急に仕入れないとね」
「………」
 ようやく山県も苺を一つ摘む。
「野苺とはずいぶんと違うな」
「酸っぱいからね、アレは。それと比較すると随分と甘いよ」
 子どもの時に、中間の出身であった山県は、食料がないあまり、裏庭で山菜やら群生している木の実などよく食したものである。
 母を亡くし、継母となったその人とは折り合いが良くはなかった。
 喜怒哀楽を表現するのが苦手な己を「何を考えているか分からぬ子」と毛嫌いしていた節がある。
 上の姉も同様の扱いを受け、父と継母との間に子どもが生まれると、無視されるがままになった幼い姉弟は、自然と自分たちで生きていく道を歩き始めた。
 それでもまだ恵まれている方である。血はつながってはいない祖母が、二人を可愛がってくれた。食事も祖母の目があるということもあり、継母はわずかなものでも二人に与えざるを得なかったのである。
 野苺は、あの時代を思い出させるので、山県は好みはしない。

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 赤の明るい色合いや大きさなどまるで野苺とは違う。
「………あまい」
 記憶を断ち切るように苺を食し、ほどよい酸味と甘味が口の中に広がり、驚くほどすんなりと喉を通った。
「なに? これもおまえの口には合わない」
「いや……これならば食せそうだ」
 野苺の強烈な渋みもない。果実と言うにふさわしいほんのりとした甘みと酸味。両者とも主張しあうこともなく、程よい調和。上品な味わいは、まさに山県が好む味といえた。
「そう。じゃあこれ、全部持って帰るといいよ。まだ欲しかったら、僕の家の貯蔵庫をあけるといいよ。腐らすのも惜しいしさ」
「伊藤。井上さんにはわけたか」
「す、するはずないじゃない。これでおかしな料理を作られて、それがで回ったら……僕はこの美味なる苺を作ってくれた人に申し訳が立たない」
「そうか。ちょうどいい。木戸さんのところに持って行こう」
「そうだね。僕もそれは考えたけど、昨日の今日だったから……控えていたんだよ。木戸さんもこれなら食してくれると思うから。でもさ」
「おまえの危惧はよく承知している。この苺で井上さんが良からぬことを考えねば、と思っているのだろう」
「そうなんだ」
 井上馨の手作り料理。人呼んで「井上料理」は最高級の食材をふんだんに使われた贅沢な料理であるが、食材を見事なまでに台無しにする味付けで有名だ。
 つまりはかみ合わない食材を使っての強烈な味付けをした「ゲテモノ料理」を生み出す。

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 だがこのゲテモノ。井上馨の舌にはまさに絶妙の味で、本人は自分の料理が世界でいちばん美味しいと信じて疑わず。
 ましてや時折、この井上と舌を同じくするものが現れ、絶賛していくため、さらに井上は自信をつけてしまった。
 あの井上が無邪気な顔をして差し出してくる料理は、すべて善意の塊、しかも仲間たちには「究極なる美味しいものを食べてほしい」という井上の心からきている。
 そのため山県も伊藤も「不味い」とは決して言えず、まさに失神する覚悟で井上料理を食しているといういきさつがあった。
「井上さんはあまり果実系などは料理に使用していないと思うが」
「いつひらめきが起きた、とかいって使いだすか知れないよ」
 さもありなん、である。現に何度もその手のひらめきが勃発し、伊藤も山県も犠牲になってきた。
「でもいいよ。できれば聞多には苺は生で食すのが最高といって料理に使わないようにして。アッ、これくらいなら福地に青蛇がいるからあっという間になくなるね。くれぐれも僕からというのは内緒でお願いするよ」
「分かった」
 と、山県は二個目を食す。口の中に広がる味が何一つ不快感を与えず、そのまま喉を通って行く。食欲がない現在の状況ではありがたい産物だった。
「珍しいね。おまえが進んで食するなんて。もっと食べなよ。そのやつれは見られたものじゃないから」
 三個を食し、冷茶で口の中より苺の味をなくした山県に、
「それじゃあそろそろ本題ね。その苺で、おまえに借りているものは少しはなくなるよね」

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「ふたつほど減らしておこう。きっちり百十。返せ」
「ちまちま細かく覚えいるねぇ。そういう記憶力って女性に嫌われるんだから」
「それでけっこうだ」
 相も変わらず全く相容れぬ二人は、そこでいささか睨みあったが、「はあぁ」と伸びをして伊藤はソファーの背もたれに自らの体を預けた。
「苺を食べながら話そうか。あんまり僕にとってはおもしろくない話だと思うし」
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