松菊探偵事務所―事件ファイル2―

18章

 福地と井上が仏蘭西公使館に交渉に向かった頃、此処廟堂の参議の一室では、苺を食しながら二人の男が向かい合っていた。
「ふーん。民部省札の交換利率と、英国公使館建造時のことね。分かった。調べておくよ」
 当時のことは、民部省と大蔵省の合併騒動の中心的位置にいた伊藤と言えど、記憶が曖昧なようだ。あの折は木戸や大久保を巻き込んで民部省を如何にするか。民部省の権限であった徴税を大蔵省に移行すれば、財政のすべてを担うということで、大蔵省が莫大な権限を有することになり、大蔵卿の権力が強くなるのではないか、と盛んに議論されていた。 巨大省庁に警戒を抱く大久保を、伊藤、大隈はとかく説得するのに苦労していたらしい。
「このあたりは渋沢の栄ちゃんが詳しそうだね。まぁ任せてよ。これでおまえに借りまくっているものを、かなり減らせるだろうしさ」
「……頼む」
「めずらしい。おまえが頼む……なんて、さ。まぁいいよ。木戸さんが探偵業のために政府にいないから、何もかもうまく運ばなくてさ。だから暇なんだよね。これくらいお手の物だよ」
 胸を張って引き受けた伊藤は、苺を食す山県をニタニタとした顔で見ている。
「なんだ?」
 その顔が妙に気味が悪く、軽く睨むと、
「いやねぇ、おまえってその苺、好きなんだなぁと思って」
「……それほどではない」

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「食欲がない時、おまえは無理をして何かを口にはいれるけど、果物でもそう何個も食したりしないからさ。やつれたおまえには苺はそんなに食しやすい?」
 無意識に既に五個の苺を食していた。
 この数日間、木戸にあれやこれやと食を取るよう勧めてはいたが、山県自身、食欲はまったくなく、軽いもので済ませていた。
 一年のうちに何度か「食」を受け付けない周期がめぐってくる。その際に、散々にやつれてしまい、なんとかせねば、と無理やりに食を口に入れれば、嘔吐感が強くなり、そのまま戻してしまうという繰り返しだった。
 だがこの苺は胃が受け付けている。
 しばらくぶりに口に入れようと嘔吐感がなく、すんなりと冷たさをもって体の中に入って行った。
 なによりもこの柑橘類特有の甘酸っぱさを山県は好む。
「確かに食べやすい」
「そう。ならいっぱい食べてよ。さっきからその頬のやつれはちょっと異常だと思ったりしていたんだ。物を受けつけない時は本当に受けつけないようだから……少しでも胃の中に入るなら、飽きない限りは食したら」
「あぁ」
「さっきも言ったけど、家の地下の貯蔵庫にはたんとある。腐るだけなんだよ。おまえが協力してくれると実にありがたいよ」
「…………」
 ここまでしつこく勧めるところを見ると、よほどこの「苺」の処分に苦労しているようだ。
 どうにか腐らずに日持ちする方法を考えた方がよさそうだ。露西亜で食した苺ジャムというものを思いだしたが、

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アレは「甘すぎて」山県の口にはあわなかった。
「木戸さんもだけど、おまえも気をつけなよ。ちゃんと栄養があるものを食しな」
「………あぁ」
 これに関しては素直に頷き、もう一個苺を手に取る。
 食せるときに食しておいた方がいい。
 あまりにやつれると、木戸に食を取るようにと厳しく言えなくなる。人に説教する前に自らの体調管理も大事だと山県は肝に銘じる。


 廟堂を出、とりあえず陸軍省に戻ることにした。
 おそらく小さな山を作っているだろう仕事量を思うと、ため息もので陸軍卿室に入ると、そこに小さな姿が目に入る。
「どうした」
 と、尋ねたことをいささか後悔した山県だ。
 日ごろよりこの陸軍卿室をねぐらとし、暇ができればソファーで「ゴロゴロ」を日課としている山田である。
 佐賀の乱を平定した現在、無職。居場所もないのかぶらぶらしている。
 おそらくは本日も遊びにきたと思われる。ついでに山県に「チーズと牛乳」をたかりに来たのだろう。
「………牛乳」
 ぼそりと告げられ、やはりか、と山県は手を二度叩き、隣室の副官に暗に「牛乳を持ってこい」と合図した。
 つかさず背が高くスラリとした体格の若手将官が、慣れた手つきで盆に牛乳を乗せ、山田に差し出す。

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「いつもあんがと」
 わずかに笑った山田に礼儀正しく会釈を返し、その将官は下がった。
 ゴクゴクと喉を鳴らして半分ほど飲んで後、
「仏蘭西公使館の方、どうするか決まった?」
「調整中だ」
「ふーん。おまえが廟堂にいったと聞いたから、伊藤さんとなぁんか話しあってきたと思ったんだけど」
 各省庁の大物のほとんどは、廟堂に「隠密」や「繋ぎ」をひそかに入れている。
 山田は性格的に、あけっぴろげているが、それでもあの動乱の長州で生き抜いてきた男だ。表裏をよく理解はしているが、裏に手を染めるのは好む性格ではないと思っていただけに、山県は眉ひとつ動かさずに驚いた。
「たんにあの山尾に偶然にあってさ。……山尾、工部大輔だから伊藤さんを探していたみたいなんだ。
 別に尋ねてもいないのにさ。おまえと伊藤さんが木戸さんの部屋で話しあっていると教えてくれたのさ」
「……そうか」
「僕が密偵を使うなら、それはおまえらなどではないさ」
 ふんと鼻を鳴らし、どうやら風邪気味らしい山田はズズッと鼻水を吸った。
「ちなみに聞くが、おまえが密偵を入れるとすれば、まさかとは思うが……黒田か」
「よくぞ見破った」
 思わず重い吐息を吐きそうになるのを、山県は寸前のところで押しとどめる。

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「あの黒田が! 聞け。今日の朝のことだ。僕が偶然、廟堂の廊下を歩いていると、北海道から戻ったらしい奴は僕の姿を見て、猪の如くのありさまで突進してきたんだ」
 そのさまなど想像しなくとも山県には理解できる。
 あの可愛いものが大好き人間たる黒田の「廟堂の可愛いもの」である山田は、目と目があったが最期。黒田は突進する勢いで茫然自失の山田に抱きつき、その頬に頬ずりしたに違いない。
『むぞか(かわいかぁ)山田さぁ』
 などと何度も口にして悦に入っている黒田の姿が目に浮かぶ。
「抱きつき、あろうことが僕の体を持ち上げ、高い高いをしようとした奴の股間を、思いっきり蹴り飛ばしてやった」
 そのさまを思いだしたのだろう。クックックッと喉を慣らし、一瞬だがご機嫌な顔をして牛乳を飲む。
「奴の動向を知るためには誰ぞ密偵が必要だ。ガタ! 開拓使出張所に密偵は入れていないのか」
「………落ち着け」
 例え密偵を入れていたとしても、わざわざ山田に教えてやるつもりはさらさらない。
 ましてや政争に何のかかわりもなく、山田は単に私的理由で黒田の動向を掴みたいだけなのだ。それも先手を打って顔を合わさぬために。
「黒田はいかしておいてはろくなことがないんだ」
「……始末することを考えるな」
「奴をなぜに五稜郭で事故に見せかけて始末しなかったのか。この山田顕義の一生の不覚」
 ふぎゃあ、と何やら憎しみを込めて地団駄を踏む山田をげんなりと見つめる。

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 こうなったら、ダラダラと黒田に対する恨みつらみを一刻は語り続けるだろう。
 いたしかたない。
 本日は体調的にも芳しくない山県は、とりあえず伊藤よりもらってきた苺を取り出し、山田の口に押し込んでみた。
「ふきゅ……」
 口に入ったものをはじめはふきだそうとしたので、山県は片手で口元を押さえる。
「苺だ」
 その言葉に安堵したのか、もぐもぐと咀嚼をはじめたので、手を離す。
「なに、これ」
「改良された苺だそうだ。伊藤より大量にもらってきた」
「甘酸っぱい」
「そこが、良い」
「これさ……潰して牛乳に入れたら美味しくない?」
 ニタリと笑う山田に「否や」は言わぬ方がいい。
 籠ごと渡すと、山田はしげしげと苺を五個ほどグラスの中に入れ、愛用の匙で次々と潰していく。
「山田。おまえ……井上さんに似てきたのではないか」
「なに、それ。僕をあのゲテモノ狂いと一緒にするな」
 苺を潰しに潰しそれをかき混ぜる。そして躊躇うことなく飲みきった山田は「美味い」と絶賛した。
「……そうか」
「この甘酸っぱい感じが最高だ。ガタ、伊藤さんにもらったって言ったな。よし……せしめてこよう」
「伊藤の家の貯蔵庫に山のようにあるらしい。

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本人は困りきっているゆえ、たんと押しつけられよう」
「それ、いい。……もらってきたということは、おまえも好むんだな」
「あぁ」
「良かったじゃない。この頃、目に見えてやつれてきているから。また食を受け付けない時期なんじゃない」
 山県は思わず吐息をこぼしてしまった。
 山田といい、伊藤といい。古くからの仲間はどれほど平然を装っていようとも、山県の体調の変化を自然と嗅ぎつける。一言も二言以上も憎まれ口を叩きはするものの心配してくれているのが、この頃はよく分かるようになった。維新前ならば幾ばくか反発するか無視しただろう。余計な御世話だ、と睨みつけたかもしれない。わずかに受け入れる心が生まれたのは、やはり己が年を取ったのか。または心が広くなったのか。あるいは……少なくなった仲間に気遣われることが嬉しいのか。
「この苺は喉を通るのだ」
「へぇぇ。確かに美味しいけどさ。僕はこの牛乳との相性が気にいった。よし、明日から僕が来たらこの苺牛乳にしてよ」
「……苺を伊藤からもらってくるのだな」
「そうする」
 山県が再び手を打つと、また若い将官が牛乳を持ってきた。
「ありがとう、乃木くん」
 にこっと山田は笑う。
 将来有望な山県の副官は、長州藩の支藩長府藩出身で、村塾主催の吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進の縁者にあたる。
 いくばくか神経質そうなその目じりは、乃木にとっては従兄にあたる大田市之進によく似ていた。

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 品良く頭を下げて去りゆくその背中に、今は亡き仲間の面影がよぎる。山田も山県も大田とは浅はかならぬ付き合いがあった。
「よし! 苺牛乳再び」
 房を大雑把に取り、また苺をグラスの中に入れ、匙で押しつぶしている。
 よほど「苺牛乳」が気にいったのか。それとも毎日毎日「牛乳の原液」を飲み続けて飽きたのか。
 にんまりと楽しげな顔をしてグラスの中をかき混ぜ、不意にジーっと視線を向けてくる。
「なんだ」
「砂糖」
「……前にもいったが、砂糖は背丈を伸ばすには逆効果と言う」
「くうぅぅ。けどさ。これに砂糖を入れたら絶対に美味しい。僕が請け負う。砂糖!」
「そのようなもの、置いてあると思うのか」
 極度に甘いものが苦手な山県である。砂糖どころが甘い菓子類すら来客用にわずかしか用意されていない状況といえた。
「これから用意しておけ」
「断る。意味のないものに経費を使えるか」
「意味はある。この僕が飲みたいって言っているんだ」
「ならばおまえのところの経費で購入しろ」
 すると面白くないのか左足でダンダンと床を踏みつける。こういう子どもっぽいところは昔から何一つ変わらない。それでも必殺の蹴りや歯ぎしりをしないだけ、山田も成長したというところだろうか。
「……あのさ」
「砂糖は買わぬぞ」

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「甲斐性なし」
「おまえに甲斐性をもっていかがするのだ」
「……木戸さん、どう?」
 ようやく本論を語る気になったらしい。
 ズズ―とお手製の「苺牛乳」を飲みつつ、視線を落としたまま尋ねてきた。
「……決着をつけるようだ」
「蝶次は……」
「………」
「ほんとうに木戸さんが好きだった。誰よりも好きで……誰よりも信じて。僕がうらやむほど木戸さんも可愛がっていたから」
「それで」
「だから……できるなら助けてやりたいんだ。英国公使館を襲撃したのは見逃せないし……あの天誅も裏があるんだろうけど……だから」
「私は過去の感傷に付き合うつもりはない」
「木戸さんのことなら付き合うだろうが」
 間髪いれずに図星を突く山田を、今度はジロリと山県が見据えた。
「その場で始末はせん。調べたいことがある」
「捕まえる気なのか」
「………」
「おまえお手製の陸軍の精鋭部隊を使って」
 嫌味を乗せたその口に今度は苺を二個ほど突っ込んでおいた。
「はぎゃはぎゃにゅ」
「私のやり方が気にいらぬならば、いつでも挑め。おまえに……その気があるならば」

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「はぎゃにゅあ」
「私は逃げも隠れもせん」
 ようやく苺を飲みこんだ山田は、気が抜けたかのように茫然とした目つきで、山県と視線を重ねてきた。
「……周りから雁字搦めにしてやるさ。今に、ね。それまではお手並み拝見と行くけど」
「おまえ特有の理論でか」
「そうでもしないと、陸軍を私物化するだろうおまえに勝てないからさ」
「……そうか」
 ふん、とそっぽを向き、山田は今度は苺をむしゃむしゃと食べ、房をペッと吐き捨てる。それを避けると、面白くなさげな顔で睨みつけてきた。
「今回の天誅騒動の裏のからくり。見つかった?」
「……未だだ」
「早く見つけなよ。そうすれば、司法の力ですべて一網打尽にしてくれる」
「……山田」
「木戸さんを表に出さなくても済む。僕は……蝶と木戸さんが刃を交えるのだけは……見たくない。木戸さんは……優しいから」
「………」
「だからおまえや内務卿が裏で動いて、舞踊会前に事を治めるならばそれでいいとさえ思っている。蝶は……」
「あの男はおそらく木戸さんには手を出しはしない」
「なにそれ」
「単なる勘だ」
 表向きは「天誅」と華々しく宣伝しているが、

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内実はもっときな臭いものがありそうだ。この手のことは木戸や山田などとは縁遠い。各省庁に渦巻く沈殿した腐敗の匂い。
 むしろ山県にはしっくりと来る匂いと言えた。
 政府が表で「清潔」さを世論に向かって訴えるなら、その裏は悪臭に満ちた泥沼が広がっている。足を踏み入れたならば、最期。そこから浮かびあがることは適わず、埋もれて行くしかないのだ。
「おまえはどうするのだ。井上さん発案の仮面舞踊会」
「行くよ」
「そうか」
「木戸さんは僕が守るよ。例え蝶が相手でも…僕は揺るがない」
 次の「天誅」を隠れ蓑にした犯罪は何なのか。
 山県とて読めはしないが、瓦解した民部省にその答えが確実に眠っている。
 どこまで伊藤が動けるかは分からぬが、旧民部省の当時の状況は民部小輔であった伊藤に詳細を調べさせるのがいちばんに妥当であり、あやしまれずに済むだろう。
「ところで、さ。山県。その公使館に黒田を放り込んで、囮にして惨殺されるとか……いいと思わないか」
「……黒田がやすやすと囮になどなるまい」
「あぁあ。二股に放り込んで熊の餌にでもすれば良かった」
「……山田」
「黒田、抹殺。こうなったら闇の始末屋にでも頼もうかな」
「なんだ、それは」
 またおかしな話が飛び出てきた。
「よく知らないよ、僕も。でもこういうのは昔昔からいるらしい。誰かが言っていたのさ。

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世の中、警察でも司法でも手を下せない犯罪中の犯罪を金次第で片付けてくれる始末屋がいるんだと」
「随分と都合がよいものだな」
「本当にね。そんなのがいたら……きっとおまえや井上さんなど今頃生きていないだろうに」
「………」
「よし。暇だから伊藤さんに苺をたんともらってこよう」
 思い立ったら即行動。牛乳と残りの苺を頬張り、山田は陸軍卿室を後にする。
 途端に静寂に包まれた部屋にて、山県は何度もため息を落とす。
 妙に静かで、当然としている静けさなのだが、この頃は騒々しさに慣れ切ったためか、居心地が悪く感じるのを、気のせいだ、と言い聞かした。
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