松菊探偵事務所―事件ファイル2―

10章

「蝶」
 左手の杖をトンと地に打ちつけ、動かぬ左足を引きずるようにして歩いていた男が、振り返った。
「珍しいな、外に出るなど」
 背後より駆けて来る男に、わずかに口元を緩め、軽く右手をあげる。
「葉桜を見たくなった」
「言ってくれれば一緒にいったぞ」
「……一人で歩きたかっただけだ」
 そして再び前へ杖をトンと付き、一歩、歩を進める。男「三次」は隣に並び歩調に合わせるようにして歩く。
「そろそろ客が来る時間だな」
「待たせても良い客だ。最後の仕上げ……竜の目を入れるだけだ」
「この芝では名に聞こえた刺青師だからな、おまえは」
「……三次」
「なんだ」
「公使館の様子はどうだ」
「動きはない。警備を重視するどころか……どうぞ襲ってくださいといった風情でもある」
 トン、と一際強く杖を地につき、「蝶次」は立ち止った。
「あの方は……」
「あの大久保利通が佐賀より戻り内務卿に戻った。あの人は……廟堂に姿はない、と仲間より報告を受けている」

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「……そうか」
 わずかに吐息を吐き、蝶次は新緑の若葉にその目を向ける。
 生まれたときより視力のない右目は、無造作に伸ばされた前髪に覆われ隠れていたが、風の気まぐれか。ふわりとした夏を含む風が一瞬前髪をなびかせた。
 光を映さぬその目は、ただ真っ直ぐ前を見ているように見えたが、左目は左の桜の大木を見ているという……異様。
「廟堂にはおらず……。九段の自宅にも姿はなし。どこにいるのかな、長州の首魁殿は」
「あの方は、一所に留まるのは好きではない方だった」
 わずかな吐息をこぼし、無表情なまま空を見上げる。
「……蝶」
「……一度、会ったのだろう」
「成りあがりの政府の要人を襲ったつもりが、何の因果か。桂小五郎だった」
 数ヶ月も前、廟堂より出てきた一台の高級馬車を仲間共々襲ったことがある。
 あの戊辰の戦も、攘夷狩の悲惨さも知らぬ似非「志士」を気取ったやからか、異国かぶれの成れ上がりものならば「天誅」を食らわせるつもりであったが、中にはその目に熱と憂いを宿し、志士たることより未だに脱却してはおらぬのを見せ付ける……短刀を握り締めた青年が一人。
 その黒曜の瞳の中にある熱は、どこまでも志士のものでしかなかった。
「おまえが長年会いたがっていた桂にもうすぐ会える」
 青空をわずかに含んだ左目が、三次を見て口元だけだが笑みを乗せた。

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「……会えるか」
「こんな方法でしか名乗りが上げられなかったのは残念だな」
「それでいい。攘夷の志も天誅の思いも忘れた政治家に成り下がっていたならば……斬り捨ててくれる」
「蝶」
「政府参議木戸孝允。そのような男は知らぬ。知らぬ知らぬと今まで拒否してきた……」
 この自分が知る長州の首魁桂小五郎は、あの京都の戦の火の粉の中で消え去ったと言い聞かせ、
 仲間よりもたらされる維新政府の惨状に苛立ちと憤慨を常に抱きつつも、……忘れることはできなかったただ一人の人の名。
「おまえが……あの方が志士の目をしていたというゆえ……会う気になった」
「蝶。正面から名乗らぬのがおまえらしい」
「この政府に否を叩きつける組織の長の俺が……正面からはできまい」
 ゆえにあえて組織の仲間とともに、かねてより計画していた「英国公使館襲撃計画」を投文にて予告をし、
 その宛名を「桂小五郎殿」と記したことで、蝶次は舞踏会にあの方……木戸孝允を招き寄せることにしたのだ。
「……志士桂小五郎ならば……」
 この「蝶次」という名を忘れていないというならば、
 あの京都での日日を、あの動乱の嵐と、悲しみの連鎖を今なお覚えているというならば、
 蝶次はあの方に聞きたいことがある。あの時の答えを……今だ自分は聞いてはいない。
「来るかな」

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「それは疑わぬ。……挑みに逃げる男ではなかった」
「どうだか。政府の参議になって少しは気骨もなくなったかもしれないぞ」
「なくなっていたならば、あの過敏なあの方が、わざわざ刺客がいると知れる場所に馬車を走らせまい」
 三次により馬車を襲った際のことを聞き、自分は思わず笑いたくなった。
 変わっていない。
 例え目前に刺客があろうと、あの方はその刺客の目的を尋ねようと決して道を変えなかった。
 人の気配に聡く、刺客の殺気には一町先でも感じる過敏な神経な持ち主たることは……変わりはなかろう。
「好奇心の虫で、何事も自ら飛び込み、そして……人を傷つけるのを厭う」
 右手で思わず胸元を握り締めた。
 そこには小さな守り袋が首にかけられている。中には一枚の古ぼけた写真が今なおおさまっていた。
「……未だに好きなのだな、蝶」
「誰よりも憎みつつも……」
 忘れられはしない。
 自分に向けられた邪気のない微笑みを。信頼しきった穏やかな微笑を。
 そっと頬に触れ、頭をなぜ、自分の名を慈しみを込めて読んだあの方を……。
 この左足を失ったあの時から、どれほどに忘却の淵に沈めようと思ったか知れないあの方を……未だにこの心は飼い続けているのは……。

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 あの温かい手のぬくもりが、自分を苦しめる。
「……桂先生」
 あの日映した写真に並ぶ人間で、今なお生きているのは自分とあの方だけとなってしまった。


「おかえり、聞多」
 それは春風のように穏やかな声音だった。
 肩越しに振り返り、わずかに笑った木戸の姿を見て、井上は我知れず安堵の吐息を漏らす。
 昨日、あの大久保がもたらした書状を見て以来、木戸は見るからにふさいでいたことは雰囲気だけで分かった。
 どうしたものか、と一日中考えていた。
 古い付き合いのため、木戸がふさぎ、落ち込むという事態となると、奈落の底の底までさまよい、堕ちるところまで墜ちてようやく少し浮きあがるという経過はよく心得ている。
 どうにか浮上させたい。なんとか気分が晴れることを、と思うのだが、今回のことは木戸にとってはどうやら古傷のようだ。
(俺が知らない……古傷)
 傷を包み込んで癒すには、自分は何も知らなすぎる。
 万が一にも言葉の手法を間違え、古傷を突き抉ることになったならば一大事だ。
 井上はどうにもできぬ自分自身を憎んだ。
 何か方法がないか……。だが自分ができることといえば「蝶次」という名を探りに長州閥の人間をしらみつぶしに訪ねるのが関の山といえる。
 ……木戸の傍で、ふさいでいる木戸を見ていたくはなかった。

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 ならばこの足で動いて、情報を得るしかない。
 井上は、あの江藤新平に追い回され、結果大蔵大輔「辞職」にいたって以来、少しは足が遠のいた廟堂に踏み込んだ。
(ここに俺ほど不似合いな人間もいないな)
 とニヤリと笑いつつも、井上はお神酒徳利の相棒たる伊藤博文を訪ねてよく此処には顔を出すため、さしてすれ違う人間は珍しがらない。
 そればかりか、大蔵大輔を辞職をしたことも忘れられ、もとより長州閥の重鎮たる井上ゆえ……廟堂にあるのも当然という風情すらあった。
『聞多。朝が弱い聞多がどうしたの?』
 相変わらず木戸の仕事部屋に陣取り、山のような書類をちまちま片付けていっている伊藤だった。
『俺様も眠いな。でもな……あの事務所にいるよりはましだぜ』
 あの陰陰滅滅といった雰囲気は、部屋にあるのを居たたまれなくする。
『木戸さんにちゃあんとここに戻ってきてくれるよう毎日説得してくれている? 僕、けっこう困っているのだよ』
 ふぅーと吐息をもらし、少しばかり疲労が濃い顔を隠さずに見せ、伊藤は立ち上がり井上のために珈琲を入れてくれた。
『熱いのはごめんだぞ』
『大丈夫だよ。僕が聞多の猫舌忘れるはず無いじゃない』
 氷がカチカチとなる冷やの珈琲が出され、薩摩切り子のガラスの中に注がれている黒い珈琲の液体を、井上はスッと見つめつつ、
『なぁ俊輔』
『なに』

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 伊藤は紅茶にしたらしい。初夏の日差しが照りつける中で湯気が立っている熱い飲み物とするとは、この男も酔狂な男だ。
『蝶次って知っているか。人斬り蝶次』
『なになに? 僕はね。自分にかかわった人間でも三日で顔も名前も忘れるんだけど』
 それも伊藤の七不思議の中の一つに数えられる「忘却」の特技といえる。
 初見で人の「覚える・忘れる」を伊藤は決め、忘れるとした人は忘却の淵に放り込み、三日後に会おうとも一切覚えていない。
『自分のは忘れるだろうが、桂さん関係の交友関係はしっかり覚えているだろう?』
『木戸さんの関係者なの? 人斬り……だなんて、あの……京都での昔?』
『いまいち分からんが、たぶんそうだな』
 伊藤は腕を組み、記憶の反芻を始めた。
 黙って珈琲を飲みつつ、井上は四半時ほど待った。邪魔をせぬように静かに、切り子ガラスにあたる氷の音を暇つぶしに楽しんでもいた。
『ごめん、分からない。たぶん……僕は知らないよ。僕……木戸さんの交友関係はほぼ完璧なんだけどな』
 この「木戸関係」には超人なみの記憶力を誇る伊藤の頭にかすりもしないならば、ある意味決まりだ。
『俊輔が桂さんについて分からんのは、あの英国留学のときだからな。池田屋……蛤御門あたりか』
『僕たちは知らないけど、あまり長州全体が思い出したくない記憶だね』
 で、聞多、と伊藤の隙のない瞳が井上にスッと注がれた。

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『僕にあえて聞きに来るなんて。なに? その人斬り蝶次って』
『聞いてないか。警視庁に投文があり英国公使館襲撃が予告されていたんだ』
 伊藤は顔色一つ変えず、紅茶をズズッとわずかに音を立てて飲んだ。
『僕は内務省関係は手をつけていないからね。……ふーん。よくあることだけど、それで』
 その見開かれた瞳には、隙のない光が滲む。
『宛先は桂小五郎殿。宛名は人斬り蝶次。大久保さんがこの書状を持ってきてな……。桂さん、顔色を変えやがった』
 伊藤はわずかに首を傾げたが、紅茶を飲み、ふぅーと息を吐いて、
『それで木戸さんは舞踊会に出ることになったんだね』
『そうだな』
『その人斬りは……木戸さんを狙っているのかな』
『さぁて。ただな……俊輔。あの桂さんは……自分の罪とかいいやがったぞ。古傷な感じだ』
 そう、とさして興味もなげにタバコを咥えた伊藤。
『聞多』
『なんだ』
 そのタバコに火をつけてやろう、とライターを差し出したが、伊藤は軽く首を振った。
『僕は人斬りと名乗る人間は嫌いだし、今の時代にはそぐわない。近代国家樹立を宣言したこの国が、いまだに闇を抱えているなどお笑いものだよ。それに木戸さんは……あの腕だから……よほどのことがない限り人斬りの手にかかる人ではないとも分かっている』

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『桂さんは俺の百倍は強いからな』
『でもね……時折思うんだ。刀を手にし、あの京都を颯爽と歩いた木戸さんを見たいって。あのころの桂小五郎に戻ってくださるなら僕はなんでもする』
『ほぉぉぉ』
『だから聞多。今回のは……よい機会だと思わない? 明治も七年が過ぎたから、そろそろ木戸さんには……自覚をもってもらわないとならないから』
 なにの自覚とは、あえて井上は聞きはしない。
 長い付き合いだ。この片割れとも言われる「相棒」の考えなど手にとるように分かる。
 長年の伊藤の望みは、この「長州の首魁」と言われる木戸を、名実ともに政府の頂点に付けることといえた。
 そのためならば伊藤は手を血に染めようとも、悪名をその身に浴びようともかまわぬ心積もりでいる。
 矛盾だらけのこの政府の、それは伊藤の唯一つの夢でもあり、誇りともいえた。
(たんに……おまえは昔の桂さんが見たいだけだろうが)
 その夢に様々な大義名分をつけ、木戸自身が決して望まずとも、その大義名分のために伊藤は走ることができる。
 たとえ木戸に憎まれようとも、その目より涙を落とさせようとも、伊藤は本望だろう。
 政府において儚いまでに生気がない木戸ではなく、かつての風のように駆け、その身もその心も何者にも染まらず、孤高に駆けた志士を手にできるならば、
 木戸の天敵とも言える大久保利通に取り入ろうとも、伊藤の心は何一つ痛まぬだろう。

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『俊輔、一つだけ覚えておくんだな。俺は……桂さんのことに限ってはおまえの味方にはならん』
『いいよ、そんなこと。聞多は聞多で木戸さんにたいして思いがあるからね』
『……俊輔ほどではないぞ』
『好きなくせに』
『おいぃぃ』
『いいじゃない。僕だって木戸さんは大好き。聞多も市も……あの嫌味な弥二や山県だって木戸さんは好きだよ』
 おそらくあの山県が、人前で木戸を「好き」と呟くのは、あの世にいっても聞けないような気はするものの、
 長州勢は誰もが木戸孝允という「首魁」を好いている事実は確かといえた。
 そうこの自分も一度として木戸を嫌いとは考えたことも無い。どちらかというと「困った人だな」という思いが先に出るが。
『聞多。味方してくれなくてもいいけど、敵にはならないでよ』
『俺様が可愛い俊輔の敵になると思うか』
『思わない』
 にっこりと笑った伊藤の全幅の信頼は、井上にとってはそれなりに心地よい。
 伊藤は「人斬り蝶次」の正体など興味すら持たなかった。
 今回のこの木戸に対する挑戦状が、木戸が変わるよいきっかけになると思い、にんまりと笑う。
 この「相棒」も、政府の色に随分と染まったものだな、とふと思った。
 人それぞれの思惑も矛盾も抱えているこの維新政府において、この自分が今いちばんに自由な存在なのかもしれない。

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 ただ純粋な興味と、木戸が愛しげに見つめていた写真の由来を知るためだけに、好奇心で動いていられる今の自分の『自由』
 それを今しばし横臥しているのもまた悪くは無かろう。


「どうしたのだい、聞多」
 玄関先に立ったままの井上を怪訝に思ったのか、木戸がわずかに首をかしげて声をかけてきた。
「あっお義父さん。僕、ちゃあんと戦争から帰還したよ」
 山田の声に、ようやく井上は我に戻りニタリと笑う。
「おまえさんが死ぬなぁんて思っていなかったが、ここで会うとは思わなかったからな。おかえりな、市」
 駆け寄り山田の体を右腕に抱え、ぐりぐりと頭に肘をつきつけてみる。
「いたいって。いたい……なにをするんだよ」
「かわいい義理の息子の帰りを喜んでいるんじゃないか」
「どこがだ! まだ山県の方がいい。牛乳とお菓子をくれた」
「そうやっておまえは山県に餌付けされていっているんたな」
「馬鹿をいわないでよ、井上さん。誰が餌付け……だから痛い。痛いって」
「聞多、そのくらいにしようね」
 わずかに苦く笑いつつも、その瞳には昨日の「憂い」と「悲哀」はなかった。
 改めてホッとする。この戦場より帰還した後輩の存在が、木戸にこの笑顔を取り戻させたのか。
「……市」
 ふと頭にかすったのは、この山田が自分たちが英国留学の際、

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木戸の傍にいたこと。
 奇兵隊の軍監の山県は下関に在ることが多かったが、山田はあのおり、京都で木戸の手助けもしていたのではないか。
 ……人斬り蝶次。
 あのおりの京都でのできごとを知っているものは、ほとんど死んだ。
 最も詳しいだろう高杉も久坂ももういない。吉田栄太郎も、入江九一もいない。
 残された可能性は、木戸と同様に京都留守居役であった乃美織江なのだが……彼はかの蛤御門より、隠遁を決め込んでいる。
(……山県が今日、聞くといっていたな……)
 そして山県に会った後に、ここに駆けてきたとするならば。
 山田が知っているということだろうか。
「市ぃ」
 木戸の目を盗み、山田の耳元に唇をあてて、ささやくように小さく井上は言った。
「俺には教えろ。否やは駄目だ」
 瞬間、山田の体が金縛りのように固まったのを井上は無視した。
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