松菊探偵事務所―事件ファイル2―

14章

 英国より戻ったばかりの駐英公使付き日本人書記官が絶命していた。未だ若い男だ。この年で書記官とは未来が嘱望されていただろうに。
 罪なき若い命を「維新の攘夷」の大義名分のもと手にかけたというのか。あの蝶次が。
 真っ青になった木戸の表情が苦悶に染められる。
 予告状を自分宛に送り、攘夷や天誅を連ねながら、蝶次たち組織の真なる目的は何処にあるのか。
 異人を誅する「攘夷」を決行するのではないのか。
 国の同胞を駐英公使付書記官という理由だけで誅するなど、攘夷も天誅も当てはまらない。
 これは……殺戮が望みなのか。
「源一郎」
 二階よりランプを持って靴音を立てて下りてくる福地は、軽く頷く。
「警備厳重な英国公使館をこうも意図も簡単に、それも遊びのように潜り抜け、書記官一人を天誅と称して殺人。これは政府への貶めになる。異人の館一つまともにな警護できないと笑いものになる。木戸さん……これは……攘夷などというものじゃないよ。政府に対する挑戦だ」
「政府の威信失墜が目的……」
 福地のランプの灯りが周囲の惨状を明らかにした。
 ある者は涎を流し、ある女性はドレスの裾をひるがえし足の太ももを見せた格好で倒れていた。

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 まだ武士階級にあったものは、ほぼ身の姿勢は守る形で眠りの中にある。だが公家出身者は腹を見せて眠りに耽っていた。
「これが維新政府の現状」
「……悪いが、木戸さん。俺の全く外れない勘が言っている。明日の新聞、この事件を全て黙認させるのは無理だ」
「そうだね」
 ようやく身体の動きが正常に戻った山県が、銃刀を杖代わりにし立ち上がり、まず最初にもたれるようにした倒れている伊藤と山田を容赦なく銃刀で付いた。鞘はつけている。
「うぎゃあぁぁ」
 衝撃に山田がまず飛び起き、
「敵襲か」
 と、伊藤がビクッと半身を起こす。
「……きょうすけ……」
 木戸の表情が別の意味で青ざめた。
 これは日ごろの恨みも多分に込められている仕打ちではないか。
 二人ともが痛みで目を覚ましたが、未だポカーンとしており、夢現より覚めるのに少しばかり時間を要している中、山県は井上だけはトントンと肩を叩いて起こす。
「金……金のなる木……」
 と、うわ言をいう井上に、
「井上さん、埋蔵金が出たが」
 と、小声で耳元で告げると、井上はムクッと起き上がり、
「どこだ~~ どこにある?? 武田の埋蔵金か。それとも、あの江戸城のお蔵になかった徳川のか。あの小栗が隠した場所の手がかりを見つけたのかよ。どこだぁぁぁ埋蔵金。小判~~」

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 井上の金に対する妄執は凄まじい。眠りから目覚め、倒れている人間を踏みつけながら、暗闇の中、埋蔵金を捜し歩いている。
「狂介……」
 井上も井上だが、山県も山県である。
「井上さんを目覚めさせるには埋蔵金に限る」
「だからって……」
「現に目覚めた。これからもこれに限る」
 どうやら味をしめたようだ山県は。
「ガタぁぁ、ガタ! 僕を銃刀でついたな」
 ようやく現実を把握した山田は、怒りの時によくやる地団駄を踏んで、睨みつけてくる。
「よくぞこの僕の顔を銃刀で突いてくれたね、山県」
 伊藤がフフフフッと笑うのを見て、山県は吐息をはいた。
「目が覚めてよかったな」
「よくない」
 くわあぁぁと怒りのままに飛びつこうとする伊藤を、どうにか木戸がとめた。
「俊輔に市も今は……みんなを起こして、この現状を立てなおそう。すぐにも警視庁の応援がくると思うから。……公使夫人には別室のソファーに横になっていただかねば」
 さすがの伊藤も現状を目にすれば、すぐに為すことを理解する。
「あっ……はい。僕と聞多がなんとか。聞多……埋蔵金はないんだから、手伝ってよ」
 小判~~と駆け巡る井上を捕まえ、二人で失神している公使夫人を運び出した。首筋にわずかな傷があるが、さしたることではない。

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 このわずかなかすり傷が外交問題にならないか、と思うと、誰もが気が重かった。
 山県は鞘を返し、川路の肩を打つ。ハッと目覚めた川路は「大久保卿」とまず大久保を気にするところが筋金入りの忠誠心だ。
 左足だけをつき、そのままの姿勢で眠りに入っている大久保を、川路が肩をゆするが、目を覚ましそうに無い。
 木戸がゆっくりと近づく。
「川路君、私が代わろう」
 大久保の前に立った木戸に、この時川路は、鬼気迫るものを感じたという。だが、あえて止めると自らに被害が来ると思い、だが大久保に対する忠誠心が強い川路は、心の中ですさまじく葛藤を繰り広げる。
 されど最後は木戸にその場を譲り、心の中でくわばらくわばらと何度か唱えた。
「大久保さん」
 続く音は「バシーン」という容赦のない平手打ちである。
「このような大事なときに眠りに誘われるとは修行が足りません」
 先ほどの山県による伊藤・山田に対する銃刀で突く起こし方と遜色はない。これもまた日ごろの恨みが多分に込められていよう。
 目をパチパチと何度か瞬きをさせる大久保と言えば、まだ夢現らしく、
「木戸公。貴公は美しい」
 と、真顔で呟くものだから、木戸の二発目は平手打ちではなく、握りこぶしとなった。

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 警備の兵は未だに眠りの中にあるため、蝶次たちは悠々と門前より外に出た。
 中より追って来る気配とてない。今ごろ書記官の天誅に気付き、騒ぎになっていようか。まぁ、中でまともに動けるのは、あの木戸くらいのものだろう。
「蝶」
 巨漢の男の肩に乗ったままの蝶次は、わずかに振り向き、下を見る。
「……三次」
 闇夜に金粉の髪は鮮やかに映える。
「おまえのあの人は変わらないのかもしれない」
 木戸の短刀を受けた右手よりは、大量の血が流れていたが、今は血は止まっている。血で足跡を追われてはたまらない。
 三次は腕を見据えながら、面白くてならなかった。寸分も違わず、狙った箇所をこの短刀は刺し貫いたに違いない。
 クックックッと咽喉を慣らし、ついに三次は口元に笑いの形を作る。
「おまえが未だに忘れられず、あの高杉晋作が敬愛した桂小五郎」
「あの方は剣士だった」
 大きく息を吸い、蝶次はどこか安堵の表情を顔に浮かばした。
「剣士でなければ意味が無い。今回のこの復讐の円舞の意味がなくなる」
 行くぞ、と先頭の男が声をあげる。
 舞踏会の異変に、そろそろ警視庁も気付くだろう。
 しばらくは足跡を見つけられぬように、全員が地下にもぐらねばならない。

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 芝の刺青師としての仮の姿もこれで終わり。仕事も全てけりをつけてある。左足が不自由で右目が見えぬ男など警視庁の情報網ならばすぐに居所を突き止められよう。
「潜りの新聞の明日の新聞の見出しはこうだ。維新の攘夷の旗があがった」
 賊ごときを恐れて次の公使館の舞踏会を、中止にしたならば、それはそれで国の威信は型落ちだ。
「木戸孝允か」
「そんな名は俺は聞きたくは無い」
 蝶次は軽く首を振り、何かを拒絶するかのように空を見た。
 ちょうど長屋の屋根に上り、なにやら月を見ている男と目があう。
 男はニタリと笑い、この集団を気にすることなく、手をヒラヒラと振った。
 おかしな男だが、妙に記憶に残る笑い方をする。何かに取り付かれた男しか持ち得ない歪んだ笑み。
 蝶次の金粉の如し髪を魅入り、その口は「おもしろい」と動いた。
 その目は「模写」すべき「モノ」を見つけた絵師の目。
 絵にしか興味を払わない筋金入りの狂人の目に等しい。
 故に蝶次は安堵し視線を外した。
 今宵の出来事など絵師には「どうでもよい」ことだろう。追うならばこの自分だけだ。
 背後では公使館には未だ煙が覆い尽くしている。中の大部分の人間は血の匂いに包まれていることも知らず、夢の中をさまよっておろう。
「許さない」

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 今のあの方の姿を……久坂や高杉が見たらどう思うか。
 攘夷の先掛けだったあの方が、今では異国の衣に身を包み、政府の首班として異国に取り入ろうとしているのを、許せるものか。
「俺の目的は、桂小五郎。ただ一人。あの人が必死に守っているこの国を、この国の体制を、そして」
 暗闇を染める月を睨み、叫ぶ。
「長州閥は許さん」
 あの人の意志を、あの人の心を、そしてあの人を変え、鎖に縛りつけた長州の人間だけは許さない。
「……高杉さん」
 月同様にきらびく黄金の髪を、風がそよそよと揺らした。


 英国公使館の後始末は、現在の政府役人に全て任せ、木戸は単身、月光の下を歩く。
「木戸さん、待てよ」
 福地源一郎が追ってくるが、あえて木戸は歩を緩めはしない。
 頬に殴られた痕が哀しくも残る大久保に「貴公は参議の一人のはずですが」などといわれ引きとめられたが、あえて木戸は無視した。
 今のこの感傷に浸る心を誰にも見せたくはなく、また自らが感情のままに何を叫ぶか知れず、それをあの大久保にだけは決して見せたくはないという意地もある。
「源一郎。周蔵を見てきてくれないかい」
 裏庭で眠り香を吸い、眠ったままでいると木戸は報告を受けている。

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「あんなチビガキなどどうでもいいさ。俺はアンタの方が気になる」
「……源一郎」
「一人になりたいだろうが……今のアンタは……少しな」
「誰に言っているのだい? 私は刺客に襲われても返り討ちにする自信はあるよ」
 言外についてくるな、というその言葉に、福地は「俺じゃダメだな」と悟り、しゃあない、と青木の様子を見に裏庭に走る。
 木戸は歩く。ひたすらに歩を動かすは、ただ歩いていなければこの身は如何するか知れないからといえた。
 ……蝶次。
 十五の少年が、若木の如し薫る凛々しき若者となった。
 昔と変わらず華奢で、されど一本の木のようにしなやかな肉体と、左目は絶えずこの国の行く末をにらみ尽くすかのように……冷たく。
「あぁぁ……」
 悲鳴が口よりわずかに漏れた。
 ガス灯のあかりが木戸の白き顔を照らす。
 今流す涙の意味を木戸は考えていた。
 英国公使館に賊が夜襲をかけるという非常事態であり、書記官の一人が抹殺された今この時において、自分は……ただ蝶次の姿が見れたことが嬉しくて。
 十年の月日の空白。十年という日日が、少年であった蝶次の心を如何に変えたかは分からない。
 あの空虚な瞳が……空虚なまでの空虚が、蝶次の哀しみを物語っていると思うと、木戸の胸は締め付けられる。
「ちょう……」

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 名を呼んでも、あのはにかんだ少年の笑顔は二度と戻るまい。
 今の自分は、この木戸孝允は、蝶次という若者のあの空虚さを、どう償えばよいのか。
 流れる涙を覆うように両手で顔を塞ぐ。
 立ち止った木戸は、空を見上げた。今の今まで雲に隠れていた月が顔を出し、光を放つ。その光がこの目には痛い。
「あぁ……良い月なことだ」
 その声は真上より降ってきた。
 先ほど蝶次と目があったあの男である。
 ハッと木戸は身構え、無自覚に懐に手をかける。
 自らの癖に笑いが出た。しかも剣士としては大失策だ。賊の男に短刀を投げつけ、今ここに刀はない。
「そこの御仁もよぉく見るといい。月は実にかわいい」
 その言葉に、ドキリと木戸の心が騒いだ。
 月を可愛い……という表現が、新たな過去を誘う。
 感傷に浸っていたとはいえ、人の気配に敏と言わしめた自分が、声をかけられるまでこの男の気配に気付かなかった。
 もしや……気配を殺すことが出来るのか……。
 どちらにしろ只者では在るまい。
 長屋の屋根に乗り、月を見つつ、なにやら紙に絵をしたためている。
「御身さまもここに上ってきなっしゃい。ここは良い。今宵の月は一人で見るのがもったいない」
 月光が照らすその顔は、実に楽しげで、和やか。警戒感が微塵もなく、ましてや妙に人好きがする笑顔をする。されど木戸は察した。この男の裏に潜む底知れぬ狂気の熱を。
 警戒を全て解くことは出来ず、木戸はその男を見据える。

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年のころは自分より三、四歳年上くらいだろうか。
 月を模写しているらしく、筆を持つその姿は、月をも我が物にしようというかのように、一瞬だけ貪欲になる。
 木戸が興味を引かれたのは、その男がどこまでも「絵師」の目をしていたことだった。
 持ち前の身の軽さで塀に飛び上がり、そのままヒョイと屋根に飛び移ると、男はフッと笑う。
「忍者もさることながらの身のこなしですな」
 今もさして人としての気配が感じられない。好奇心と、または何かを確認せねば、という思いが、木戸を動かした。
「……私も一人で月を見るのは、少々哀しいと思っていたところでした。横にお邪魔してもよろしいですか」
 どうぞどうぞ、と男は横をトントンと叩く。
 この自分を知らぬ人間とならば、この月夜を共にしてもよい。
「見ず知らずの人間と月を見ようとは、御身さまも酔狂ですな」
 誘った当人がこのいい様である。
「このような夜に月を描いているあなたに、少し興味を引かれたもので」
「ほぉ。単に心寂しかった故に誘いに乗ったのではありませんかな。……哀しげな顔をしていましたよ」
「……月を可愛いと。昔、そういっていた仲間がいました」
 ……今宵の月は可愛いな、小五郎。まるでおまえのようだよ。
 懐かしいなつかしい声が、この男の声と重なって降って来たのかと思ったほどだ。
「もうこの世にはいない人ですが、懐かしくなりましてね」
「ではここで月を見ながら、私の百鬼夜行でも見ていきなされ」
 木戸は男の描く絵を見つめた。

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 即興で月に向かいおぞおぞと進む行列を描いていく。息を飲む。まさに百鬼夜行。鬼が月を喰らうかのように、進んでいく。
 おぞましいまでの確かな画法。そして何よりも勢いと正確な線は、見事な彩りを生み出す。
「……絵が動いている」
「そう思ってくださるならけっこうなこと。見なされ。百鬼夜行の先頭を走るのは……」
 男は先頭に人の姿を記しつつ、
「金の髪美しき鬼」
 ゾクリと悪寒が走った。
「闇夜をも染める金粉の如し髪。その横顔は白き……まるで幽霊……」
 男はそう言い、不気味に笑う。
「次の絵の題にちょうどいい光景でありました」
 英国公使館を襲撃した賊の姿を見たのだろうか。
 木戸はその絵を見つつ、先頭を翔ける鬼の哀しみに満ちた顔を見据えた。
「御身さまはこの鬼を追っておいでか」
「…………」
「この私は、もう一度会いたいものですな。金色の鬼に……ここを真っ直ぐ進み、不意に消えたところなどまさに百鬼夜行」
 このお江戸にはまだまだ異形なるものが住んでいる。実に楽しい。
 男は絵に色をつけていく。即興絵が見事な色取りと恐怖を作り上げ、それは今にも動き出しそうな迫力をもっていた。
「また見たい。描きたいものです。あの鬼を」
「私もぜひとも会いたいものです、あの鬼に」

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 木戸は男を見つめ、にこりと笑う。
「そしてあなたの絵も見たいものです」
 この絵の中に蝶次は確かに居た。絵の中でも哀しげに映り、失望と苦しみが描かれている。この男の目は確かといえる。一瞬の交差でモノの本質を捉える天性の才能が見えた。
 それは今この緊迫したこの時において、木戸の目を一瞬にして釘付けにした……天才。
「……私はこの長屋にしばらく居候していますので、絵が見たくなりましたらいらっしゃってください。私の絵は、本物の鬼を生み出すといわれていたりしますがね」
 記念に、と渡された絵に、男は自らの名をきちんとしたためた。
「月も隠れましたし、そろそろお帰りなさい。向こうから御身さまを追ってか人がおいでですよ」
 ではまた、とヒョイと男は身を翻し、長屋の二階に身を滑り込ませる。ちょこんと顔を出し、ニコニコと笑いながら手を振ってくる。
 妙な愛嬌と不気味さを同居させる絵師は、この月夜の白昼夢を思わせるほどに、存在感が稀薄で……現実感がなかった。
 夢ではない確かなものがこの手に残ろうと、あの絵師に現の熱は……あの狂人の如し目にしか感じ取れはしない。
「お~い桂さん」
 少し駆け足で走ってくるのは、井上馨の姿。
 その後ろから青木と福地、それに陸軍卿山県有朋の姿まである。
「なにやってんだ。こんなところで月見かよ」
 井上が呆れ声でオイオイといった顔をし、

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「公~」
 青木は未だ夢現な顔で見上げ、
「ひどいんですよ、この自称天才の福地君。この僕の背中を足で踏みつけて起こしたんです。思いっきりグハッとなりましたよ」
 少しばかり甘える声を出す青木の腹に肘を食い込ませ、
「頬を五回平手打ちされようと起きん寝ぼすけのガキには、足蹴で十分さ」
 饅頭を頬張りつつ、ふふんと笑う福地には、全く先ほどの緊迫感を感じられない。
「桂さんよ。そろそろ下りてこいよ。そんな人様の長屋の屋根の上で……アンタは何をしているんだよ」
 ごもっともな仰せである。
 木戸はフッと笑い、飛び降りようとしたが、なぜか後ろ髪をひかれるかのように月を見据える。
 今、この手にある絵の通りに、あの蝶次は月に向けて翔けて行ったのではないか。そして月より、今のこの不条理なる国を見下ろして、天誅を下す鬼になったのではないか。そして鬼を生み出したのは、間違いなくこの国の政府であり、その役人たる自分だろう。
(私は……)
 この国を生み出した一人の人間として、今、この胸に去来した思いは、決してあってはならないもの。自分は……例え下野しようともこの木戸孝允という名だけは捨てられぬ。
(されどこの国は今……荒んでいる)
「木戸さん」
 名を呼ばれ、我にかえるように、山県を見る。
 両腕を差し出されたので、木戸は微笑んで、

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その足で屋根を蹴った。
「おいおいおい」
 井上の声。ぎゃあぁぁと叫んだのは青木。そして福地は目を見開いたまま、狼狽している。
「……貴兄は」
 木戸は、そのまま山県の腕の中に飛び込んだ。
 受け止めた山県だが、やはり真上より飛び込んできた衝撃には絶えられず、そのまま地に身を倒す。
「陸軍卿のおまえがこんなところに居てよいのかい」
「襲撃の後始末は警視庁がする、と追い出された。陸軍の元締めがいては迷惑至極なのだろう」
 公使館も落ち着きを取り戻しはじめている。
 館内は狐にでも化かされたといった見方が広がり、警視庁の巡査も外交上の問題がのしかかって来るため、英国を刺激せぬように……穏便にという意図から仰々しい捜査には出ないとのことだ。
 殺害されたのが日本人ということで、英国公使館の態度も幾分は和らぐのではないかと見ている。外交面においては不幸中の幸いといえる。
 だが各国の公使館はそれぞれ独立しており、如何なる時においても自国の法律で裁かれる。公使館ばかりではない。現在の治外法権の鉄則からして、日本国内で外国人が犯罪が犯した場合、その犯罪者は日本の法律で裁かれることはない。ここに不平等条約の壁がのしかかる。
 本日は公使夫人が親しい関係者を呼んでの舞踏会であった。各国の来賓はさしておらず、緊迫な外交問題に発生することはまずはないだろう。

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 ましてやあの場にいた多くの者が、事件のことを「覚えていない」のである。狐につままれた、と本気で言っているものさえいる。
 福地の話によれば、睡眠香に記憶を混乱させる作用が含まれており、始めて嗅ぐ人間の大半は前後のことを一切記憶しないとのことだ。現に井上は「山県と木戸が円舞を踊った」後から全く覚えていないのである。
 木戸が身を起こし、山県は軍服の砂埃を払いつつ起き上がり、身を包んでいた黒マントを木戸の肩にかけた。
「随分と顔色が冴えている。館を出て行ったときは……心配したが」
「面白い人に会ったのだよ」
 ほら、と木戸は山県に一枚の絵を差し出す。
 山県はそれを見てげんなりとし、井上と青木は「なんじゃこりゃあ」と興味を示さず。だがこの後東京日日新聞の主筆となる福地だけは、その絵の作者の名に目を見開いた。
「惺々暁斎」
 ポツリと呟き、重い吐息を漏らす。
「その描く百鬼夜行の妖怪は、絵から飛び出し人に憑くとまで言わしめたあの画鬼の描いた絵かよ、これ」
 木戸は凄まじい迫力と繊細さを併せ持つ絵とは思ったが、あの男がその名が示すほどの絵師とは思わなかった。ましてや竹田に傾倒している木戸には、竹田以外の絵にさして興味はない。
 ポカーンとしている木戸に向け、山県が小さく呟く。
「また貴兄はおかしな人間に魅入られたな」
 惺々暁斎こと河鍋暁斎は、即興画や風刺画を得意とする絵師である。

事件ファイル2― 14-15

 これより数年前に政府の政策を強烈に風刺する作品を次々と出版し、ついには牢獄され、鞭五十の刑に処された反骨心ある男だ。
 昨今では、明治七年三月に湯島神社に額絵を奉納し名を知らしめた。
 歌川国芳を師事し、そこで培われた奔放な浮世絵独特な表現と、厳粛で知られる狩野派で培った正確で勢いのある画風。
 鬼を描けばその迫力で子どもは泣き出し、幽霊を描かせれば、その薄気味悪さの中にある美しさに人は魅入る。
 わずか三歳にして蛙を描写したその天賦の才能を伸ばすため、父により歌川国芳に弟子入りさせられ、そこで人の生首を描写するという薄気味悪い素行を遺したが、その描写の見事さにまた感嘆せしめた。
 後の話となるが、明治十四年、第二回内国勧業博覧会に出品した枯木寒鴉図が、最高賞の妙技二等を受賞している。コレはただの烏にあらず。多年苦学の値なりと言わしめ、金百円がついた。
 その河鍋狂(暁)斎が、こんなところで、しかも長屋の屋根に上り、月を描写しているのである。
「いいんじゃないか。どこの誰か知らんが、桂さんが少しすっきりした顔をしているんだ。感謝感謝だ」
 よし帰ろう。後のことは帰ってから考えるぞ、と井上が言い、
 木戸は山県がかけてくれたマントに包まれながら、ふと背後を振り向くと、
 その河鍋暁斎が手をヒラヒラと振っていた。
 そのうち会いに行くよ、とその顔はいっている。


事件ファイル2― 14-16

 翌日、新聞各社は「英国公使館襲撃」については一切触れず。
 ただ、認可を受けてはいない瓦版が、ひっそりと「明治の攘夷」として伝えた。
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事件ファイル2― 14-17

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