松菊探偵事務所―事件ファイル2―

1章

 その日、松菊探偵事務所所長の木戸孝允は、近所の小さな寺に子どもたちを集め寺子屋の先生よろしく読み書きを教えていた。
「そう、力強い字だね」
 必ず子どもたちの長所を褒め、よしよしと頭を撫ぜる木戸に子どもは懐いた。木戸自身故郷萩に戻り「塾の先生」になることを望んでいたこともあり、面倒見が良く穏やかでやさしい気質はまさに「教師」に向いているともいえる。
 今日も夕暮れまで子どもたちに読み書きを教え、その後は青木と福地に「団子」でも購入して長屋に戻ろうと思っていたのだが、
「公……公」
 開け広げられた庭先より聞き馴染んだ声が耳に届き、ふと顔をあげ庭を見つめると、そこには青木と福地が手招きしている姿があった。
 この二人は滅多なことがない限り寺には顔を出さない。福地は「子どもは好かない」らしく、青木はその童顔から「遊んで」と子どもにまとわりつかれるのに辟易しているのが理由だ。
 ちょうど筆を持つ子どもの手に自らの手を重ね、「いろはに」の「伊」を教えていたところだった。わずかの間、二人は待たせて子どもの筆を動かし「同じように五枚書いてご覧」と言い残して、木戸は庭先に出る。
(なにか……あった)
 それも事あるごとに口げんかばかりの二人が、二人揃って顔を出すなど尋常ではない。

事件ファイル2 1-1

「周蔵に源一郎。何事だい」
「公……大変です。今、事務所に内務卿が」
 青木が事務所を指しながら、早口でまずは要点を伝えてきた。
「そうなんだ。木戸さん、アンタに用事があるみたいだ」
 大久保利通。正式には未だに内務卿は木戸であるが、大久保はすぐにも内務卿に戻るだろう。その名を脳裏に刻み、木戸はドクリと鼓動が早まったのを感じた。無自覚だが緊張が体を包む。あの佐賀の乱を処置した大久保が、首謀者として前司法卿江藤新平をあえて処刑したという報告を受けたときは、木戸は意識が朦朧とし身はガタガタと震えが止まらなかったほどだ。政府の要人として在るときより、江藤と大久保は仲が宜しくなかった。むしろ江藤を邪魔とするところがあり、それがあの明治六年の政変で全面的に表に浮き彫りになった。
 政変で敗れ下野した江藤を、あえて佐賀で起きた乱に組み入れようとしたのも大久保であったと知った。いつも自分の耳に入るのは「事の終わり」であり、それが木戸に無力さを痛感させるのだ。何のための参議か。何が長州の首魁か。
 権力という力の脆さと強さを十二分に知っていたつもりだったが、木戸の精神はこの国家の初期段階の政治家に求められる「強硬」なまでの強靭な力を持つには脆く理想主義過ぎた。そして「力」に飽いている。
「源一郎。申し訳ないけど、戻って大久保さんには夕暮れ時まで待ってくださるように伝えておくれ。私にも仕事があるからね」
「……木戸さん、アンタなぁ。よぉく考えてみろよ。その理屈はあの内務卿には通じんぜ。あの鉄面皮の顔でこういうぞ。仕事? あの方は何を勘違いされておられるのか。木戸さんのお仕事は国家の参議以外はないはず、とか必ず言う」

事件ファイル2 1-2

 福地は声色まで大久保の真似をし、言い終えて後に頭を抱えた。
「言わせておきなさい。待てないと仰るならお帰り下さるように言うといいよ」
「あの大久保にか」
「そうあの大久保さんにです」
 木戸は江藤新平という男が好きだった。法が全てという考え方にはついていけないところはあったが、国家の司法の枠組みも、法の精神も、果ては国家の形成もあの柔軟な頭の中にはすでに構想ができており、木戸はその構想を聞くのがとかく楽しかった。
 その江藤と二度と会うことはできない現実。あぁ江藤君は死んだのだ、と心で何度も呟いてもまるで現実味がなく虚しく声は突き抜けていくばかり。そんな自分の心情を知っているために、木戸は今大久保と顔を合わせたくはないと思うのだ。いっそ現実味がない方がいい。永遠にあの声は聞けなくとも、それでも心のどこかに「希望」という救いを抱ける。
「おい、チビガキ。おまえ戻って大久保にそう伝えな。俺はちょいと行く所がある」
「傲慢不遜な福地君。その手は僕には通じないよ」
 青木は福地の腕を握り締め、その目はギラギラと逃がすものか、と突きつけている。
「このチビガキ。なにをする。生意気な」
「自分が嫌なことを人に押し付けることはしてはならないことだと小さいときに両親に習わなかったのかな、自称天才の福地君」
「嫌なものほど人に押し付けるべきだと、我が尊父はのたまう」
「……だからこんな最悪な性格な男ができたんだ」
 ぼそぼそとした青木の声を耳ざとく福地は捕らえ、

事件ファイル2 1-3

むぎゅうと青木の足を踏みつける。
 青木は「ふんぎゃあ」と痛々しいまでの悲鳴をあげたが、その目は眼光鋭く福地を睨み、
「こうして学のない男は最期には暴力に訴える。あぁ嫌だ嫌だ。最低だね、福地君」
 顔を引きつらせながらも笑った青木と福地のかみ合った視線は火花がまい散る。
「とにかく頼んだからね、二人とも」
 木戸は二人をとりあえずは無視して、読み書きを教える「先生」の顔に戻った。庭先ではしばらく青木と福地が堂々巡りでしかない言い合いを繰り広げていたが、それもあの二人の性格からいけば飽きたのだろう。小半時も経たずにぶつくさ言いながらも二人一緒に去っていった。
 子どもたちの手習いを見、その手を取って文字を書いて教えながら、木戸の意識は遠くに飛んでいる。今はこの手習いを教えている自分の方が遠い。いつもこうだ。意識も精神も遠くに遠くに飛んでいようとも、ただ大久保利通というただ一人の対等者という存在が、木戸の意識を「廟堂」に引き寄せる。それがたまらないほどに今は不快だ。
「先生」
 わずかの間、意識を飛ばしすぎていた木戸の袖を子どもが引っ張った。
「こわい顔」
 子どもの他愛もない一言に気付かされる。今の木戸はいつもの「先生」ではなく、心は完全に「政治家」となっていたのだろう。政について考えはじめたときは、普段の温厚さも穏やかも消え失せ、一際「怖い顔」をするといわれていた。

事件ファイル2 1-4

ごめんね、と子どもの頭を撫ぜて、表面に穏やかさを滲ませる。これも不快なことだ。こう表情を作ることに慣れすぎている自分は、感情も心も偽るのに慣れどの顔が真実かもわからない。
 いったい自分とはどういう人間なのか。
 木戸の胸はドクリと跳ね、ズキリと鈍い痛みがよぎり、それを耐えるように、襦袢の下に首より下げている一つの守り袋を衣越しに握り締める。それだけでわずかだが落ち着く。そう、なにかあるたびにこの守り袋に縋って木戸は生きてきたのだ。この明治という暗雲たる世を。
 夕暮れ間近まで普段どおりに手習いを教え「また明日」と手を振って帰っていく子どもに手を振り返し、夕焼けの赤を見据える。
 何度も見つめてきた夕焼けが、今日はいたって苦しく見えるのは何故だろう。自分はどうして拳を握り締める? あぁきっとこれは緊張と恐怖ゆえか。江藤をその手で死罪に処した男と会うのが、自分は怖いのだということを木戸は知る。


 探偵事務所に戻ると、ここ数日自宅に戻っていたはずの井上馨の顔もあった。「よっ桂さん」と井上がにたりとしたので、木戸は「ただいま」と答える。
「武子がな。家でゴロゴロしているくらいならば探偵事務所に行きあんたの手伝いをしろとよ。俺様には会社設立という大事業があるっていうのによ。男はゴロリと寝ていてもその頭は大いなる思考に耽っているという奴だ。それを女はなぁんも理解せん。それで戻ったらよ。つい塩をまきたくなる人間もいていやになった」

事件ファイル2 1-5

 井上はチラリと奥にいる大久保を見、同時に重いため息を漏らした。
「ずっとだんまりだ。青木と福地は二階に逃げた」
 大久保と井上はどうやら馬が合わないらしい。公然と宣言はしないが、二人ともに互いを「面白くない」と思っていることは事実のようだ。かの井上が起こした「尾去沢銅山事件」により大久保の井上に対する見方がさらに悪化したこともさらなる事実ではある。あの時、江藤新平により逮捕寸前にまでいった井上が今にやりと笑い、大蔵大輔辞任だけで済んでいるというのに、追い詰めていた江藤はこの世にない。
 木戸は思いを引き締めるために小さく深呼吸し、井上に土産の団子を渡して、奥の間の客室に顔を出す。
「ただいま戻りました」
 吉富に会釈をして挨拶をすると、こちらも相当大久保の相手が疲労だったのか力ない微苦笑が返って来た。
「お待たせいたしました、大久保さん。佐賀よりお戻りになっているとは聞いておりましたが」
「木戸参議」
 開口一番、振り向いた大久保が口にしたのはこの言葉である。木戸はいっそう臨戦対戦を明確に体に刻んだ。
 吉富の傍らに座すと、「お茶を入れますね」とそそくさと吉富は出て行ってしまった。おそらく逃げ出す好機と見たのだろう。
「いつになりましたら廟堂にお戻りになられるのでしょうか。佐賀より戻れば貴公がおらず何事かと驚きましてね」
 前置きなく切り出してくる大久保は、数ヶ月前に顔を合わせたときとかわらない。鉄面皮という言葉がこれほど合う男も珍しいというほどに冷淡な表情だけが顔を覆い彩りを一切加えない。

事件ファイル2 1-6

「私は参議の辞表を提出してあります」
「そのような辞表、岩倉公が破り捨てておりますが」
「そのようなこと、私は何一つ知りません」
「お話になりませんな」
 大久保は数ヶ月ぶりに顔を合わせた同僚を探るような目で全身をゆっくりと見つめる。この視線がいつも木戸は不快で、瞳が重なると無意識にふいっと背けてしまう。
「一頃から見ると随分と顔色も宜しく、体調も万全のように拝見し、胸なでおろす思いです」
「………」
「その体調ならば十分に廟堂で国家の参議の任が勤まりましょう。木戸さん、辞表の理由に体調不良とあるそうですが、なにかの間違いのようなので明日より朝参なさい」
 逃さぬとばかりに追ってくる視線に捕らわれ、木戸の胸はまたしてもドクリと鳴る。
 この男はこの冷淡な顔で江藤の処刑を決めたのか。司法を司った江藤を急設の大久保の意のままの佐賀裁判所で裁き、梟首にして見せしめとした。
「朝参されたならば、面白き写真をお見せしましょう。そう……各県庁に江藤の梟首したおりの写真を配ることにしましたよ。内務省には早速飾らせました」
「大久保さん」
 ドクリドクリと胸の鼓動が荒れていく。
「見せしめには格好でしょう、木戸さん」
 その目元にあえて穏やかさを滲ませたこの男は、今自分に憎ませたいのか。感情をむき出しにすればこの男の思う壺であろう。だが、この感情を、この虚しさを、この悲しみを木戸は

事件ファイル2 1-7

押さえることなど到底できそうにない。
 されどそんな激情の中でも、冷めたもう一人の自分というものが木戸にはあった。冷静にことの成り行きを観察し、そう見せしめを大久保が突きつけたかったのはほかでもない。この自分なのではないか、とハッと気付いたときには、冷静だった自分に激情家の自分は吸収されたかのように、または高波が引いていったかのように激情は消え去り、逆に訪れたのは目の前の男はいったい何者か、という疑問ばかりである。
 平然と木戸の動向を監察しているこの大久保という男はいったい何なのか。答えるならば「薩摩の長」であり、長州の首魁と呼ばれし自分と唯一対等の地位に立つ男。時に反目しあい、時に手を携え、この明治政府というものを生み出した「並び立つ」男。
 それだけではないだろう。それ以上でもないだろう。そして自分はこの大久保という男の心は真の闇を彷徨うように一生知ることは適わない。
「おや、顔色がよろしくなくなりましたね、木戸さん」
「大久保さん。卿は私になにを仰りたいのですか」
「廟堂にお戻りなさい」
「それ以外です」
 すると大久保は微かに笑みを口元に刻み、楽しくもないだろうに、さも楽しげな口ぶりでこういった。
「お責めになられませんか」
「なにを」
「今回の一件を」
 この男は何を言いたいのだ。木戸は怒りを通り越して呆れ、全身から力が抜けていく虚脱感に覆われた。今の今まで人を試し、人の感情を逆なでする言葉を吐いた男が、

事件ファイル2 1-8

同じ口で「お責めになられませんか」とは何事だ。
「ただ皇天后土のわが心を知るのみ、と辞世を残した男を貴公は実に気に入っておられた」
「えぇ、とても好きです。今もそのことに変わりはありません」
「好きですといいましたか。では、好きでした、といい改めていただきましょう」
「大久保さん」
 スッと視線を上げ、木戸はその顔面に心を偽った穏やかさを出した。
「私を試しても無駄です。……結局は私の行き着く先は、どんなに否定したくても貴殿が立つ場所でしかない」
 江藤新平の一件を制止する力がなかった自分。この手は佐賀の乱ぼっ発の知らせを受けたとき、廟堂でペンを握っていた。何の力もない手で雑務の処理をこの大久保に変わり「内務卿」として為していた自分に、大久保を責める権利も資格もない。
 つまりは同類なのだ。この手と大久保の手は同じく血に染まり、罪に覆われ、行き着く先は「国家のため」という枕詞の奇麗事。無性に笑いたくなった。
「違いますね、木戸さん。この大久保は貴公を試すことなどは致しません。試す必要もない。貴公は私の同類の士ですからね」
 どこまでも泰然と常に余裕すら匂わす男は、そこで茶を持って入ってきた吉富の顔をちらりと見て、冷たく笑った。
「吉富君、それは何杯目のお茶かね」
「おそらく七杯目だと思いますよ」
 それだけ長く此処で待っていたのだと暗に言われたような気がした。
 吉富は盆より二人分の湯飲み茶碗を飯台に置いた。

事件ファイル2 1-9

そしてやはりこの場に同席するつもりはないのだろう。遠慮ではない感情が顔に見え隠れし、そそくさと部屋を出て行った。
 大久保は湯気が立つ茶を僅かにすすり、それをコトリと飯台に置いたかと思うと、
「貴公のみ私を責めることが許されます。詰ることも、非難することも。それが対等者の貴公の特権であり、そして……」
 無機質な瞳にわずかな感情を乗せ、大久保は食い入るように木戸の瞳を捕らえる。
「このような私の在り方がお気に召さないならば、さっさと廟堂にお戻りになり、私のやり方を打破すべくお動きなさい」
 そのゆるぎない信念の前に、いつも自分は胸を焦燥とさせ、同時に不思議さすら抱く。
 これほどの思いを自分は抱くことなど今の世にできそうもない。そこが指摘されるとおり「現に立つ者」と「過去に立つ者」の違いなのかもしれない。そして独裁著しく強硬なまでにこの現実を変換させようと進む大久保利通を、羨望とともに好意を持ってみている。
 木戸は大久保と立つべき場所は一緒であり、行きつく先も共にあろうとも、見ている視点が全くといって異なることをよく心得ていた。
「なにか面白いことを私は言いましたか」
 いつしか声を立てずに木戸は笑っていた。
「大久保さんも辛い立場ですね。責める相手が誰もいないので、私に責められにここにお出でになった。残念です。私は貴殿の思いのままになって差し上げられるほど人はよくありません」
 図星でしょう、と逆にからかうように視線を向ければ、それを無視するでもなく構うでもなく茶を飲みだした大久保は、

事件ファイル2 1-10

それ以上は佐賀のことについて口に出さず、木戸もあえて聞かなかった。
 わずかな沈黙も不快ではない。
 まだ湯気が立つ茶で咽喉を潤す。吉富はよく木戸の好みを承知しているようだ。咽喉越しさわやかな緑茶の味と、その香を楽しみながら、夕焼けは終わり周囲は闇の時間が始まろうとしていることに気付いた。
 烏の鳴き声も聞こえない。
 あの静寂な闇がこの地上を包み込もうとしているこの時に、自分はこの男と向かい合っている。そのことに何か意味があるのだろうか。
 薄暗闇の中でも重なり合う視線の中に、木戸はなにか思惑をもって大久保が自分を訪ねてきたことを察した。
▼ 松菊探偵事務所―事件ファイル2― 二章へ

事件ファイル2 1-11

松菊探偵事務所―事件ファイル2― 1