松菊探偵事務所―事件ファイル2―

8章

 その日の午後。一陣のつむじ風が、陸軍卿室を訪れの叩音すらなく、乱暴に扉を開けて部屋に乱入した。
 いつも通り軍服が七五三の装束にしか見えない背丈五尺ほどの山田顕義である。山田は今日も不機嫌極まりない顔で、口などへの字にまげて山県をジッと見た。そしてなぜか右腕には風呂敷袋が抱えられていた。
「佐賀の乱、ご苦労だった」
「本当にご苦労だったさ。参軍のおまえが岡山でのらりくらりとしている間におさまってしまったから、わざわざ佐賀まで来ずにすんでよかったな」
「あぁ」
「……おまえだけ。楽をした」
「長引けば私が全軍を率いねばならなかった。それほどの大騒動になっては……薩摩を刺激する」
「なにいってんだか。薩摩を刺激? そんなの時間の問題じゃないかい。おまえは西郷に恩義があるとかいっているけど、結局は……なにもかも時間の問題さ」
 山田は茶を出しに現れた陸軍卿付けの副官に「温かな牛乳」とそっけなく命じた。
 その背丈を気にするあまり、いまだに牛乳を飲んでどうにか背丈を伸ばそうと苦労に苦労を重ねている山田である。
「まさか大久保まで出てくると思わなかったよ」
 佐賀の乱の始末のために自ら設立した内務省をわざわざ木戸に預けてまで佐賀に出向した大久保であった。

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「大久保ね。電光石火で江藤の処刑を決めるしさぁ。あの裁判なんか裁判といえないものさ。司法を司った江藤に、何一つ司法の倫理をもって遇さなかった汚点に等しい」
「おまえは司法に行きたがっていたな」
「今回の褒章で、たぶん司法大輔さ。これでおまえとおさらばだよ。めでたしめでたし」
 副官が差し出す牛乳をごくごくと飲み干し、「おかわり」とまたしても要求した。
「大久保といえば台湾征伐などの問題で、どうやら清国に赴くつもりだとか聞いたけど」
「そうか」
「まぁおまえが知らないとは思わないよ」
 にたりと笑ったこの山田は、この佐賀の乱勃発のおかげで「駐在清国特命公使」をどうにか免れた男である。
 この特命が下った昨年、散々に山県は当り散らされたのをせつせつと思い出した。
『なに? 僕が駐在公使? なにさ僕に清国にいけって』
 ごめんだとわめきちらされ、ついには憂さ晴らしの意味で山県に散々に嫌味などを言い放ち絶対に赴任などしないといっていたときに、山田にとっては運がよいことか。佐賀で江藤新平を首魁とした政府への反乱が勃発した。駐在公使は赴任もせず解任とされ、すぐさま佐賀の乱の平定に借り出されたという経緯がある。
 しかも今回の乱平定の褒章で念願だった「司法」の役職に就けるとあらば、佐賀の乱さまさまだろう。昨年、兵は凶器なり、という報告書を提出し、近代国家の軍隊のあり方に一石を投じた山田は、陸軍に嫌気がさしているともいえた。かの高杉晋作に後継者と指名され「小ナポレオン」ともいわれるこの戦略の天才は、

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法の道を歩くことを模索している。
「あのさ、山県」
 二杯目の牛乳を一気に飲み干し三度目のおかわりを要求したとき、副官はにこりと笑いすぐに身を翻して部屋を出て行った。
「開拓使の黒田、どうにかしろ」
 また黒田か、と山県は茶を飲み軽く喉の渇きを潤す。
「あいつ、また僕に長々とした手紙を送ってきやがったんだ」
 薩摩閥で、開拓使次官の黒田清隆は五稜郭をともに攻撃したこの山田が大のお気に入りである。ことあるごとに山田に好意の押し付けをなしているのだが、この山田はそのすべてを「嫌味」としか受け取ってはいないという現状だ。ましてや手紙が届けば届くほどに、黒田憎悪の気持がみるみる加速してしていっている。
「もう二度と手紙を送るな、といってよ」
「手紙を差し止めにする権利は私にはない。しかも黒田は私と同様に階級は陸軍中将だ」
「それがなにさ。あいつ開拓使でふんぞり返っているみたいで、軍隊は予備役同然だけどさ。おまえは陸軍卿だ。おまえの命令には従う立場にあるだろう」
「あの男は一筋縄ではいかん」
 ついでにさしてかかわりを持ちたくはない、という本音を山県は言葉にはせず胸の中だけに押し留めた。
「その黒田が、この僕にこう書いてきたんだよ。ついでに木彫りの熊を送ってきやがってさ。この間、北海道に赴いた際にヒグマの親子を見た。子供はとても小さく愛らしく、だがとてつもなく凶暴。その爪の一撃で人間を抹殺する能力があるらしい。愛らしさには牙があるということが身に染みて頷けた。まさに山田少将の如し」

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 またか、と山県はうんざりした。
 この黒田の手紙は、どうにか山田に取り入ろうと黒田は苦心してしたためているようなのだが、山田に言わせれば、破り捨てたくなるほどの嫌味の文章でしかないのだ。
「愛らしいが凶暴だと。ヒグマの子供とこの僕を比較するなど許せん」
「そうか」
 激昂しているときの山田は放っておくのに限る。だがこれを無視したならば騒ぎ始めるので適度に頷かねばならない。
 それにしても、毎度黒田は言いえて妙なたとえをするものだ。
 愛らしいが凶暴。まさに拍手ものである言葉だ。
「それにな、まだ続きがあるんだよ。こうさ。そのヒグマの子供は二本足で立つと、ちょうど私の肩下ほどの背丈、まさに五尺に届くか届かぬ小さな存在とのことだ。ヒグマの愛らしい姿と山田少将が重なるばかり。親愛をこめてヒグマの木彫りを送る……だと。うぎゃああぁぁ、黒田、抹殺」
 山田は風呂敷に包んでいた木彫りの熊を取り出し、思いっきり床に叩きつけ、足でげしげしと踏んだ。
「山田、その木彫りは北海道の名産品としてなかなかのものだ。木彫りに罪はあるまい」
「すべてが黒田が悪いんだ。それにこの木彫り、見れば見るほど黒田の熊に似ているように思えてさ。けっ、ちょうどいいのさ」
 息を切らせて激昂する山田を見据え、山県は吐息をこぼす。
 相変わらずの関係だ。それにしてもこの山田が背丈のことを気にしているのは廟堂内では知らぬものがないほどの了解であるというのに、なにゆえに黒田は知らずに……このような手紙を書くのか。

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「黒田はおまえが頼んでいたチーズなどは送ってきたか」
「一応送ってきた。大量にさ。こんなに食べられんからおまえにも後でおすそわけしてやるよ」
 少しばかり落ち着いたようで、三杯目の牛乳を飲み、ふぅーと吐息をついた。
「それで、用事はなに」
 ようやく山県に本題に入る時期が到来する。


 茶を湯のみ半分ほど飲み干し、山県はただスッと山田に視線を向けた。
「だから、なにさ」
 四杯目の牛乳を副官に頼み、山田も山県の目をそらすことなく見返してくる。
「蝶次という名に記憶はないか」
「……な、なんだって」
 顔色を青ざめ、ゴクゴクと飲んでいた牛乳をぶはっと噴出してしまった山田だ。山県は寸前のところで目の前より吹き出た牛乳を避けたが、山田はよほどに衝撃だったのか少しばかり咳き込んでいる。
「覚えているようだな。私は少しばかり記憶がぼやけている。蝶坊と呼ばれていた子どもは確かにいたと思うのだが、その顔もどんな人間だったかも思い出すことができない」
「山県。なんで、急にその名がおまえから飛び出るのだよ」
 落ち着いたようなので、懐より懐紙を取り出し、山田の口に押し付けた。
「……悪い」

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 その懐紙で口を拭き、噴出した牛乳をちゃんと自分で拭き取る謙虚さは山田にはある。
「私も耳にせねば一生思い出さなかったかも知れぬ名だ。……木戸さん宛て、いや警視庁に投文があった」
「木戸さん? 僕さぁ。さっき伊藤さんにおかしなことを聞いたんだよ」
 話を横道にそらす天才の山田は、本人自覚のないままに山県の本題からまた脱線する話をはじめた。
「ちゃんと真っ先に帰国の挨拶に内務省を訪ねたんだ。大久保に内務卿を押し付けられたって聞いたからさ。それにいろいろと佐賀名物も購入してきたさ。あっ、ちゃんとおまえにも買ってきてやったからな。同郷のよしみで」
 あえて山県は話を制止することはしない。喋りだした山田は止めぬ方がよい。途中で制止したならば途端に機嫌が悪くなり、そのまま視線すらあわさずに部屋を後にすることもしばしばなのだ。
「そしたら木戸さんはいなくて、伊藤さんがすっかりこけてため息ばかりで目は宙を泳ぐばかりだよ。僕、さすがに驚いてしまってさぁ。どうしたの伊藤さん? もしかして木戸さんに嫌われたの? いい気味、なんていってしまったのさ」
 木戸が道楽ともいえる探偵業をはじめたときには、確か山田は出征していた。山県とて参軍として岡山で待機させられ、佐賀まで出陣することはないという命令が届き、帝都に戻ったのだが、帰陣して間もなく、伊藤が飛び込んできたのだ。
『山県、木戸さんが探偵なんかを始めちゃったよ。この廟堂を出ていっちゃったんだ。どうしよう。どうしたら……戻ってくれるのだろう』

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 伊藤に泣きつかれ、ついでに伊藤も混乱しているのか。とても正論ともいえない理由で、山県を木戸「連れ戻し」に派遣したのだった。
 実に木戸が活き活きと楽しげに、しなやかに生きている姿を見て、「連れ戻さなくとも良い」という結論に今では至っているが。
「その伊藤さん、僕の胸倉を掴んで喚くんだよ。あのさ、あの欧米で見た探偵というものだっけ。それを木戸さんが道楽同様にはじめたって。なにそれ? そんなまさか。木戸さんが廟堂を離れるはずがないと笑ったけど、あまりにもあの伊藤さんが真剣な目をするから回りを聞き込みしたらさ。やはり木戸さんは二月ごろからほとんど姿を見せていないって」
 それでさぁ、と山田は牛乳をゴクリと飲み、山県を睨んだ。
「なんで木戸さんを連れ戻さないの。探偵など黙認しているのさ」
「山田、ならば一度木戸さんを訪ねるといい。実に活き活きとしている木戸さんを見ることができよう」
「なに? 活き活きとしている? 儚げではないの」
「生きることが楽しげだ」
「本当に? 木戸さんが楽しげにすごしているの? それならいいな。おまえが黙認しているのも分かる。伊藤さんが無理にも連れ戻さない理由も分かるし。僕はきっと木戸さんを怒らせたと思ったんだ」
 安心した、とまたしても牛乳を飲む山田。毎日十杯以上飲んでいるようだが、よく飽きないものだ。ましてや背が伸びる効能は、何年も牛乳を飲み続けようとも山田には全く現れていない。
「山田」

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「なんだよ」
「蝶次とは何者だ」
 山田と話しをする時は、どこでどう話が脱線しようとも、山県は粘り強くその話しに付き合い、付き合いきって話しを必ず戻す。
 ゴクリと咽喉を鳴らして牛乳を飲みほし、待機している副官に五杯目は山田は要求しなかった。
「僕、その木戸さんに会いにいってくるよ。どこで探偵なんかやっているのさ」
「……私の問いに答えてから教えよう」
「いいよ、伊藤さんか井上さんに聞くからさ」
「山田」
「僕は何も知らない」
 プイッと横を向いたその顔が、なぜか泣きそうな顔をしていたのを山県は見逃さなかった。
 山田という男は、時として苛立つほどに頑固で、例え頑固にならねばならない理由が人にはお笑いな理由でも、頑固を解くことはない。
(……木戸さんのためか)
 木戸のためにあえて山田は「知らない」とそっぽを向いたのならば、その名は木戸にとって苦痛を伴うものでしかないからだ、と山県は検討をつけた。
「その書状が届いて後、木戸さんが……妙にうつむく」
「………」
「楽しげに小さな塾の先生や、何でも屋に等しい探偵などというものにいそしんでいたあの人が、その書状を見てから表情が変わった」

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「……山県」
「言いたくないのならばそれでよい。だが、その名が今後どのように木戸さんを苦しめるか。木戸さんの身に害が及ぶことになったならば、私はおまえを許しはしないぞ」
「めずらしい。ガタが脅し? 別にいいよ。それに僕にこんな脅しをかけるということは木戸さんが言わないんだね。それとも、誰も聞けないってこと。当たり前だよ。いえるはずがない。聞けるはずもない。蝶次という名はあの時、京都で僕たちは封印した。決して口にしないと誓った。そんな人間はいなかった。だから僕は何も知らない」
「そのおまえが知らない蝶次は、木戸さんに刃を向けるか」
 ふふん、と山田はらしく笑った。
「僕が知らない蝶次は、どんなに木戸さんを憎んでも憎みぬいても、最期の最期で決して木戸さんを刃で突き刺すことはないよ」
「ほう」
「例え憎んでいても、恨んでいても、それでも蝶次は……」
 ギュッと堅く手を握り締め、山田はキッと山県の顔を見据える。
「時が人を変えようとも、時が時代を変えようとも、人の一番大切な思いというものは僕は変わらないと思っている」
 話しはここまで、と自ら告げるように山田は立ち上がった。
 床に落ちている木彫りの熊の置き物を一瞬だけ憎憎しげに睨み据えたが、手に取りその頭をなでなでする。
「黒田は憎いけど、この木彫りに罪はやっぱりないしさ」
 物を大切にしなさい、という親の教えでもふと頭に浮かんだか、またはその木彫りに愛着でも少しは生まれたか。山田は声に出して「踏みつけてごめんよ」と心から詫びていた。

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「木戸さんは飯田町にいる。吉富さんになぜか井上さん。青木や福地が居候だ」
「ゲッ、福地。ついでに青蛇。しかも井上さん。なんでそんな面々がいるんだよ」
「私が知るか」
「まぁいいや。じゃあな、山県。木戸さんのご機嫌伺いをしてくるよ」
「山田」
「おまえも一緒するか」
「……その蝶次は、英国公使館舞踏会殺人予告状というものをおくってきた」
「……ふーん……」
「宛名は桂小五郎殿、だ」
 山田は何かに絶えるように拳を握り締め、小さく「攘夷」とだけ言った。
「……山田」
「異国人は打たねばならない。攘夷は正しい。天誅は政道」
「山田!」
「十年前はそれが当然で……そして蝶次は……その言葉を黙々と唱えた蝶次を僕らは止めもしなかった。天誅も異国人を討とうとする気狂いにも似た攘夷も」
 でも、本当はとめねばならなかった。
 蝶次にだけは異国人を討たせてはならなかった。強くなるために刀を握り、当時の桂……木戸自身が教えたその腕を、人を斬るために使わしてはならなかった。
 山田は扉前でガタガタと震え、力なくぶつぶつと何かを言いながらその場に腰を沈ませた。

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「蝶……一つだけ教えてやるよ、ガタ。それは高杉さんが名づけたんだ。あるとき、ひょんなことから見つけた子どもは髪の一部がキラキラと金色に光っていてさ。それを見た高杉さんが、まるで蝶の羽のようだ、と。名のない子どもに蝶次と名づけた」
 高杉のもとで長らく奇兵隊軍監としてあった山県にも、始めて聞く話だ。
「その子は、長崎より物乞い同然の姿で京都に来た。理由は……異人を斬るため。あえて長崎ではなく志士が集まる京都で、自らが正義として攘夷の一貫として異人を斬るために。そうしなければ、生きている意味がないとまで……いう。異人はこの神国に必要はない、異人はこの国を滅ぼす。異人はこの国で罪を犯す。と大人びた目であの子は感情など一つもない声で言ったんだ」
 山県が続きを促そうと山田の肩を揺さぶろうとしたが、ビクリと大きく反応し、山田はそのまま立ち上がって扉を乱暴に開けた。
「これ以上は僕は知らない」
 過去の感傷はもう終わり。それから逃れるように廊下を駆け抜けていく音が響く。
 一人残された山県は、扉を見据え、戦でも震えぬあの山田が恐怖に似た怯えを見せた要因を思った。
「……人斬り蝶次」
 己が思うよりも、この名は、この存在は、とてつもなく大きく、同時に哀しいほどに、人の心を傷つける害ともなる。
 山県が知らぬ京都で、「蝶次」という人間はいったいなにをなしたのか。
 頭に木戸の今にも泣きそうな顔と、今の山田の顔が交差し、重い吐息を山県は落とす。

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 ……英国公使館舞踏会。
 闇に覆われる予感が、あった。
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