松菊探偵事務所―事件ファイル2―

9章

 木戸はその日、ぼんやりと空ばかりを見ていた。
「松菊先生?」
 寺子屋の先生よろしく今日も近所の寺で子どもたちに読み書きを教えている木戸だが、普段とは明らかに様子が違って見える。
 子どもたちに微笑みながら、時には読み書きの時に筆を持つ子どもの手にそっと自らの手をそえて字を教える木戸が、今日はこれでは自習だ。子どもたちに孝行という字をただ書かせている。
 一人開け広げられた縁に座し、空ばかりを見ている。
 そこに一人の女の子が近寄った。鈴という名の六歳の女の子。
「先生、今日は元気がないから。これあげる」
 ゆっくりと振り返った木戸の目に映ったのは小さな菊だった。よくできた造花である。鈴の実家は造花作りを生業としていた。
「お母さんがいっていたの。松菊先生には菊花が似合うって。ほこりたかくけだかい花なの」
 誇り高く気高いの意味が分からぬ鈴は、舌足らずな喋り方で、にこにこと笑う。
 差し出された菊花と小さな小さな手。
 木戸は無理に笑ってその菊花を受け取った。
「ありがとう」
 菊花……木戸が愛する菊の花は、鈴が言うとおりに誇り高く気高く崇高な花だ。
 昔……同じく小さな手が、菊の生花を木戸に差し出してくれた。まだ幼さが目立つ少年。
『桂先生には、菊が似合う』

事件ファイル2― 9-1

 横で高杉晋作が「ガキのくせに生意気じゃ」と臍を曲げていたことを思い出す。
 遠き遠き昔のように思えて、まだ十年と過ぎ去っていない過去。動乱の時代の王都に、熱と悲哀をすべて木戸は置いてきてしまった。
「鈴、菊は私がいちばんに好きな花なのだよ」
 あの頃と同じく「菊」を、木戸はどの花よりも愛しく愛でる。
 この花の持つ崇高と気高さを、自分は絶えず追い続ける。
「よかった」
 鈴はにっこりと笑い、自分の席にはしゃいで戻っていった。
 空を見ていた木戸はそっと瞑目する。
 ……桂先生。
 声が聞こえたような気がして……。
 あのころの京都に「青年期」とともに置いてきた、もう一つの思い。
「蝶次」
 私は今、おまえに試されている。


 その日の寺子屋は夕暮れ間近に終わりにした。
 遊んで、とせがむ子どもたちに「また明日ね」と木戸は皆の頭を撫ぜて、別れた。
 飯田町の事務所に戻ると、今日もまた黒塗りの馬車が止まっている。今日は誰か、と木戸は小さき吐息を漏らして事務所の扉を開けた。
「木戸さぁん」
 同時に駆けてきた小さな姿に、木戸は瞬時に気を抜く。

事件ファイル2― 9-2

「市」
「うわぁい僕の木戸さんだぁ」
 山田顕義は、飛び上がるようにして木戸の首元に両腕をかけて抱きついた。
 清国駐在全権公使を赴任せず解任され、佐賀の乱を鎮圧した山田は、数日前に帰還した。
 今日は確か、山県が佐賀の乱についての報告を山田から受けるといっていたことが木戸の脳裏にかすめる。
 抱きついたままの山田をギュッと抱きしめて、その耳元に「おかえり、市」と優しく呟いた。
「ただいま。木戸さんの顔を一番最初に見に行ったのだけど、伊藤さんがなんだかおかしなことをいっていたんだよ。 ついにあの伊藤さんも仕事のしすぎでおかしくなったと思っていたけど」
「山県に聞いたのかい」
「アイツが木戸さんが生きることが楽しげだっていうから、僕見に来たんだ」
 飛び降りて山田はにっこりと笑った。
 何一つ曇りなき、真っ直ぐに向けられる好意。木戸もにこりと笑って良い子良い子と山田の頭を撫ぜる。その顔は十二分に無理をしていることを、木戸はちゃんと分かっていた。
「生きて帰って来たと思うよ、木戸さん」
「佐賀の乱は……」
「江藤の最期は見事だった。大久保内務卿は自らが冷徹で非情なことをこの一件で見せ付けたのだろうけど……僕には司法に対する理不尽さが目に余ったよ」
「市……」
「兵は使いようによっては諸刃の剣になる。

事件ファイル2― 9-3

僕は……兵を縛る法が必要だと強く思って。……木戸さんに一番に聞いて欲しかった」
 木戸はそんな山田の背を押して居間に入った。
 今日は吉富はいつも通り「大店」の番頭手伝いに出ている。福地と青木は吉富の勘気が解けないために未だに家に入れてもらえず、どこかを彷徨っているらしい。井上はあれはもとより一所に居つく性格ではなく、今ごろ廟堂の伊藤のもとか、または色町に顔を出しているかもしれない。極端な男だ。
 茶をいれ、それを山田に差し出し、
「市は戦が終わるたびに、そんな顔をするね」
 空元気を必死に見せて、いつも以上に明るく振る舞い、そして木戸に抱きついたときに血が滲むほどに唇を噛む。
 満面の笑みに影が差し、山田は表情を変えた。
「木戸さんの顔を見て、僕は単なる人に戻るんだよ」
 それまでは戦において、自分は単なる一つの駒に過ぎない。どうすればこの戦を早く終えられるか。どう致せば犠牲を最低限に抑えられるか。
 対局を見、一つ一つの部局を見、そして我が身を顧みる。
 戦が嫌いだから、山田は嫌いな戦の早期決着のため、戦略を精一杯練る。それがいちばんの役割と思っている。
「でも木戸さん。僕はどんなに戦が嫌いでも、木戸さんのためならば戦に出るよ」
「市、それは違うよ」
「ううん、いいんだ。たとえそれが人の主義に反しようとも、僕の主義だから。僕は僕の主義に従うよ」
 ようやくいつもの山田の真っ直ぐな笑顔に戻っていった。
「お茶じゃなくて牛乳の方が良かったかな」

事件ファイル2― 9-4

「お茶も美味しいよ」
「このお団子もお食べ。いっぱい甘いものがあってね。山県が……いつも土産だといって購入してきてくれるのだよ」
「へぇぇぇ、あのガタは木戸さんにだけは相変わらず過保護だね」
 団子をパクッと口に放り込む。
「私への過保護の一握でも他の人に向けてくれれば」
「うわぁぁぁ。山県に一握でも好意を向けられたら僕は卒倒だよ」
「市、それは少しばかりひどくないかい」
「だってガタだもんね。アイツなど地中深く埋めて二度と地上に上がれないようにしてやりたいよ」
 重い重い錘をその穴の上に置いてやるよ、と山田はニヤリと笑った。おそらくその光景を想像しているのだろう。ニヤニヤしながらパクパクと団子を食べ、そしてフぅーと吐息を吐いた。
「山県はきっと二人だけしか特別は持たないよ。ずっとずっと木戸さんと……高杉さんだね」
 山田の言葉に木戸は軽く首を傾げる。
「市、山県の特別はいっぱいいるよ」
「違う違う。あっ友子さんも違った意味での特別かな。……山県の基準は特別とその他大勢と馴染みなだけ。あっあと一つ……あるんだよ、木戸さん」
 山田の期待を持たせる言い回しに、木戸はわずかに眦を動かす。
「うん?」
「天敵」
「あっ! 俊輔かい」

事件ファイル2― 9-5

「ご名答。ある意味山県にとって伊藤さんは大切かなって。それと……ただの馴染みな僕だけど、付き合いが長いだけ少しは融通してくれるよ。例えば牛乳を飲ませてくれたり、チーズをくれたり。それから……いつも陸軍卿室には甘いお菓子が置いてある」
 山田は陸軍卿室のソファーがとってもお気に入りで、寝転がって甘いお菓子を食べ牛乳を飲むのを日課にしている。
「山県の基準はそれだけ。もう特別なのは木戸さんしかいないから。山県のためにも長く生きてやってくださいよ」
 二日に一度顔を出し、多くの土産を持参してくれる山県。それは食が細い木戸に少しでも食をさせようとする山県の配慮だ。
『食されぬと言うならば、口移しでも食べさせるが』
 その脅しにも似た言葉にたいていは木戸は屈服する。
 イヤイヤながらも食する食べ物は、いつも木戸好みだった。
「市」
「木戸さん、僕とっても疲れたんだ。イヤイヤながらも戦をしたのだからご褒美が欲しいな」
 木戸の膝に山田はゴロリとなって自らの頭をおいた。
「こんなご褒美でいいのかい」
「一番、落ち着く」
 ネコのようにゴロゴロ甘える山田に、
 木戸はまたその頭を撫ぜながら、耳掃除でもしようか、とのほほんといった。
「耳掃除はいいや」
「滝子さんにしてもらうのかい」
「うっ……うん。耳掃除はやっぱり……木戸さんにしてもらったら、僕みんなに痛い目にあうし」
「昔はしていたのに?」

事件ファイル2― 9-6

「袋叩きにあった記憶があったりするよ」
「そうだったのかい」
「……怖いんだよね。梧楼に小弥太。軍太郎はただ見ているだけで、弥二は少し面白くなげ。けどこいつらはまだいいよ。一番は伊藤さんと山県かな」
 あの二人はきっと木戸に耳掃除をして欲しいが、とてもとてもその風体からして既に「可愛い」とはとても思えない二人は、膝枕の要望すら口にも出せないはずだ。
 この時ばかりは日ごろは憎らしくてならない己が童顔と五尺ちょいの背丈を山田は天に感謝したくなる。
「市……」
 木戸に頭を撫ぜられるととても心地よくなる。ほかの人間ならば背丈を馬鹿にされていると反撃に出るが、木戸だと全くその意図がないと分かっているだけに安心もする。
 そっと眦を閉ざし、木戸の手に全神経を集中させ、山田は顔を綻ばせた。
 小さく囁かれる……空気に溶け込むような声が注がれた。
「山県から聞いているのだね」
「………」
 あえて何を、とは言わない。
「……市にも思い出させてしまったかな」
「そんなことはないよ木戸さん。それに僕は、誰にも言わない」
「市」
「山県にも井上の義父にも言わない。……これはもう終わったことだから。ねぇ木戸さん。木戸さんが悲しむことはないよ。あれは……」
「仕方なかったことだと私を慰めるのだね」

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「木戸さん!」
「あのころ誰もがいったね。池田屋に私がいなかったことは天の采配。生きていてくれてよかった。桂さんがあの場にいなくてよかった。栄太や杉山、宮部さんがあんなことになったのも仕方ないって」
「………」
「藩邸の門を決して何者が訪れようとも夕刻よりは開けてはならない。厳重に警備せよと命じたのも留守居の私。栄太が駆け込んできたときも、門を開けさせなかったのは……この私の命令がため。そして……」
「もういいから」
 山田は起き上がり、木戸の肩をゆすった。
「もういいんだ、木戸さん。だからお願いだから自分を責めないで……」
「池田屋に残した蝶次が知らせをもって対馬藩邸を訪れた際、藩邸の人間は私を庇うために蝶次を追い返した」
 木戸の目は遠く遠くを向いている。
 あの日……元治元年六月五日。王都で名高い騒動がぼっ発した。池田屋に「御用改めである」と乗り込んできた局長近藤勇が率いる新選組隊士と、その日会合をもった攘夷志士が斬り合いになったあの時。
 日ごろより半時前行動をする木戸は池田屋に赴くも誰一人として集合しておらず、連れの蝶次を残して近くの対馬藩邸に向かった。
 事件がぼっ発したあの時刻も、木戸は対馬藩邸で雑事にあたっていた。
「どれだけ蝶次は絶望しただろう。無数の刀傷を負った蝶次を。

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揉め事を抱えており幕府との仲を荒立てたくない対馬藩邸は……私を庇うだけで精一杯だったのは分かる。市、私は忘れることはできない。仕方がなかったとは思えない。私は……知らなかったことで勘付かなかったことで……多くの仲間をこの手から失った」
 特に蝶次は……自分を「桂先生」と呼んで慕ってくれたあの少年は、
 いったいどんな思いを抱えて対馬藩邸を後にしたか。それ以来、一切の消息を絶ち生死すらも分からぬ蝶次の今になっての投文。
 罪を忘れることは許されない。埋没することは許せない。
 そして、
「あの予告状は私にはこう読めたよ。ここに生きている。自分は生きている」
 貴方の罪の形は消えることなく、いまなおあり続けている、と。
「ねぇ市。私は今、蝶次に憎まれる資格はあろうか。憎まれる価値は木戸孝允にはあろうか」
「木戸さんはなにも悪くない。蝶次のことを知って探しに出ようとする木戸さんを止めたのは僕たちだよ。ずっと気にかけて、でも……気にかけていることすら許されない事態になったから」
 山田は少し泣きそうな顔をして木戸の肩を揺さぶる。
「だからもう自分を責めないで。だから……」
「あの子の憎むべき相手はどこまでも桂小五郎でしかない」
 投文には「桂小五郎殿」と確かに刻まれてあった。
「木戸さん」
「蝶次が生きていてくれて嬉しい。

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どれだけ嬉しいか知れないのに……私は同じくらいの思いで思うのだよ。私はあの子より向けられる思いは何であろうともあまんじて受けねばならない」
 ……なにかあれば私を呼びなさい。必ず助けに駆けて行くから。
 約束しよう、と小指をからませて、滅多に笑うことはない少年と「指きり」をしたのは自分。
 蝶次は少しだけ笑って「約束ははじめてデス」と頬を朱に染めた。
「……約束を破ったのは私なのだから」
 木戸は衣越しに首より下げている守り袋を握り締める。
 中には一枚の写真が折りたたまれ、茶色く色ぼけしながらも確かにおさまっていた。
 楽しかった京都での思い出が刻まれたその写真に写るものは、今では自分と蝶次しかいない。
「刃を向けられたら……どうするの?」
「その刃に貫かれても致し方ない身だけど……私はまだ死ねないからね」
 これでも「長州の首魁」である。この身は国家のため人民のために死すものであり、そこに私情はあってはならぬと木戸は戒めている。
「大丈夫」
「うん、大丈夫だよ、市。私は……まだ大丈夫だから」
 一息ついて瞑目した木戸の耳にまたしても飛び込んでくる「桂先生」と呼ぶ声。
 慕ってくれた少年は、その目に確たる意志と主義を刻んで翔けるどこまでも真っ直ぐで、

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 己が胸に秘めた思いの成就のためだけに、その身に剣を握った。「攘夷」という志は無感動な目に灯火を刻み、同時によぎらす哀しき思い。
(蝶次……)
 君の思いを私は忘れてはいない。
 君の望む国家の形を、私は一度として忘れたことはないのだよ。
 ……桂先生……。
 おまえはまだ私を呼んでいるのかい。
 あの日届かなかった呼ぶ声は、時を移して今、私はきちんと受け止める。
「英国公使館の舞踏会、僕も出るよ」
 山田はいささか冷めた茶をズズッと飲んだ。
「じゃあ市もダンスを踊らないとね」
 ウッと言葉に詰まった山田に微苦笑して、木戸も湯飲み茶碗に手を添える。
「桂さんよ」
 玄関先より聞こえてくる井上の声に、木戸は振り返り「おかえり、聞多」といつもと変わらぬ声でいった。
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