松菊探偵事務所―事件ファイル2―

4章

 大久保の黒の外套をわずかに肩越しに見送って後、
 すれ違いざまに中に入ってきた山県は、その無感情な暗闇の瞳を軽く見開き、中の人間を一回り見据えた。
 内部の緊迫した状況は、単に大久保という人間に対する警戒や緊張から来るものではないとすぐに山県は察する。
「土産です」
 木戸の傍にドサドサと大量の荷物を下ろした。
 山県はこの飯田町の事務所を訪ねる前に、飯田町とは遠ざかる形となるがたいていは馬車で和田倉門を通り、日本橋付近まで赴く。江戸の昔より賑わいを見せるこの界隈には、今が流行りの食べ物が老舗に並んでいるのだ。日本橋にいけばおおまかに木戸好みの食べ物が入手可能といえる。
 時間がある時などはさらに北東の京橋付近まで馬車を走らせることもあれば、銀座を一周し、海沿いの築地に新鮮な魚介をもとめにいくことすらあった。
 食べ物にかけては妥協せず、吟味しつくされたものを木戸に食させる。それが山県の一種の異常な木戸に対する過保護なこだわりともいえた。 荷物をつかさず調べ始めた青木は、色とりどりの京菓子などに、思わず「うわぁぁぁぃ」と歓声すらあげる。福地も大福をちらりちらりと見て、内心随分と心証がよいようだ。
「貴兄はまた食が細くなってきているゆえにいろいろと買い求めてきた」
 一番上に乗っているのは老舗店で特別に土産用に包んでもらった押し寿司で「食されるように」と飯台の上に置きつつ、

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「参られるのか、舞踏会に」
 気になっていた事柄を即座に口にのぼらせた。
 台所に茶を入れにいっていた吉富が、今日何度目かすでに数えるのも疲れた茶を入れて戻ってきた。コトリと山県の前に茶を置いたときには、部屋の隅で青木と福地は一つの包み紙を破り捨て、中に入っている饅頭をなにやら言い合いをしながら頬張り始めている。
 山県は真っ直ぐに木戸のみを見据え、その身を包む風情が普段よりも何倍も緊張感に満ちていることに僅かに怪訝さをよぎらせた。大久保が在るときならばいざしらず、今は昔馴染みの長州の人間と、木戸が特別に目にかけている福地しか周りにはいない。当然、風情も和らげていつもの柔和さが表情に出るはずなのだが、木戸は変わらずに緊迫感を漂わせているのだ。
 山県はその点を気にした。ましてや木戸の視線は押し寿司と山県を交互に見つめ一向に定まる気配がない。
「赴かねばならないようだよ。私宛に届いた挑戦状だから」
 わずかにその声が震えているのも、山県は見逃さなかったが、一先ずはそれは流した。
「挑戦状?」
 と声に怪訝さを匂わす。
「ほらよ、これが警視庁に投げ込まれたらしい」
 傍らの井上が書状を放り投げてきた。
「桂さんが、大久保とやりあって最期に負けた要因の挑戦状さ」
 渡された書状をいぶかしんだ目のままで大まかに追いながら、一言で言えば「よくあることだ」と山県は片付けた。
 一昔前の流行語に等しい「攘夷」や「天誅」は、この帝都東京に異国人が跋扈する現状をもってしても未だに使われる

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時代錯誤の用語に等しい。
 現に数日前にも陸軍省を囲む塀に「天誅」と高々と落書きしていった不埒なものがいるほどだ。
 「攘夷」が未だに頭に刻まれている尊攘派たるものか、単に子どもの悪戯か。警視庁や陸軍省などに投げ文で「天誅」と記されることなどよくあることで、この手のことは既に廟堂の人間すらため息ひとつで片付けるようになった昨今でもある。
 それゆえにこの書状の何が参議辞任を切望する木戸に「舞踏会参加」を決めさせたのか、山県は最期の件を読むまでは掴めずにいた。
 ……宛名に「桂小五郎殿」とある。
 これか、とようやく確信した。
 明治七年一月に発足した警視庁は内務省の管轄である。この書状が警視庁に放り込まれたというならば、宛名は統括者の大警視川路利良が妥当であろうが、現内務卿の木戸に宛てたとしてもさして怪訝に思うことでもなかろう。だが木戸の内務卿就任は大久保が佐賀の乱の処置に赴く一時のことであり代理の要素が強い。 大久保が戻った以上は、速やかに内務卿を返上し、ついでに何度も辞表を出そうとも岩倉、三条により徹底して握りつぶされている参議辞任も木戸の頭の中にはある。
 問題は内務卿木戸孝允宛ではなく、あえて「桂小五郎殿」と記されている所に作為的なものが感じられることだ。 ましてや木戸が大久保の求めるままに舞踏会出席に応じた要因は、この宛名と最期に記された「人斬り蝶次」という言葉に尽きるだろう。
(蝶次……どこかで)
 聞いた名だと、山県は記憶を反芻し始めたときだ。それを撃ち破るかのように木戸は立ち上がった。

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「桂さんよ。顔色があまりよくないな」
 井上の言葉に軽く頭を振り「大丈夫だよ」と弱弱しく答えた木戸は、
「狂介、ゆっくりとしていきなさい。私は少し考えることがあるから申し訳ないが失礼するよ」
 そのまま二階にあがろうと身を翻した木戸の袖を、山県は掴んだ。
「何も食されていないように見受けられるが」
 木戸の食生活については顔を見ればおおまかに判ずるができる山県である。
「すまない……今は……そのような気分ではない」
「木戸さん」
「あとで……あとで食すから。今は……一人にさせて欲しい」
 木戸は山県の手を振り払い、それは逃げるような体で二階に慌しくあがっていった。
「公、俺の公。いったいなにが……」
 つかさず和菓子を口元に加えたまま、追いかけようとした青木の腕を、寸前のところで福地が引っ張った。
「チビガキは邪魔さ。一人になりたいというのだから、今はそっとしておいてやりな」
「あんな顔色をした公を一人になど……できるものか」
「おまえがいればさらに気分を害するだろうよ。騒々しいだけがとりえのチビガキだからな」
 普段の福地と青木の堂々巡りが始まろうとしている。
「いったね、福地源一郎君。騒々しい? 俺はいたって騒々しくしたつもりはないよ。福地君の耳におかしな幻聴でも聞こえたんじゃないのかね」

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 福地のいつもの嫌味に、青木はつかさず乗った。
「幻聴? まるで烏がガーガー鳴くような不快な声のこれが幻聴?」
「烏? じゃあ福地君はダチョウがギ~ギ~鳴くような声で、本当に騒音だと思うね」
「いったなチビガキ」
「真実を述べたまでさ。不遜極まりない自称天才の福地源一郎君」
「おまえらいい加減にしろ」
 この頃止め役になっている井上が、二人の間に入り、今にも殴りあいをはじめようとする二人を両手で押さえると、
「二人とも、これ以上騒音を振りまくとこの茶を上からかけますよ」
 急須を二人に向け、にこにこと吉富は笑んだ。
 瞬間、ピシッと青木と福地はまさに石のようにかたまり、二人ともが喧嘩突入のため振り上げていた手をおろす。そしておずおずと吉富より離れるようにして、離れた部屋の隅に移動し大人しくなった。
「すごいな、簡一さんよ。この二人を一声で黙らせるとはよ」
 思わずパチパチと手を打ち出した井上に対し、
「井上さん、あなたも騒々しかったり、ただ飯食らいの居候になりましたら同じ憂き目にあうことをお忘れなく」
 探偵事務所を取り仕切る吉富簡一は、にこにこと笑っている時が一番に恐ろしい男だ。怒れば怒るほどにその平凡な顔に壮絶な笑みを刻み、眉間に皺を寄せつつ、その目は一切笑ってはいない。
 福地や青木は昨今、この吉富を真に恐れ始めていたりする。

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 そんな騒々しい中でも、山県は自らの境界をつくっているのか、全く動じることは無い。まるで青木と福地の問答など耳から耳へぬけていっている風で、腕を組みながら、ひたすらに記憶を反芻している。
 それほど昔のことではないような気がした。おそらく十年ほど前の幕末の動乱時のことであろうか。
 「蝶次」という名をどこかで耳にした記憶があるのだ。
 それがどこでどのようなときだったか。誰を通してなのか。記憶が鮮明に浮かばないところから見ると、己が直接に関った人物ではないことだけは知れた。現に顔などは一切記憶にない。
 そんな考えに没頭している山県の脇を井上が肘で突く。
「……山県、おまえさん、この蝶次という人間に心当たりでも在るのか」
「貴殿は如何か」
「俺はまったくだ。だがよ、桂さん、この書状を見て顔色を青ざめさせ蒼白になった。この蝶次に何かしらいわくがあるのだろうよ」
 井上が耳にしたことがないと言うならば、幕末のおり長州きっての情報通だった井上から、かけ離れたところにいた人物なのか。
 いや……それとも井上や伊藤が英国に密留学していたときに関ったという線もあり得る。かの八月十八日の政変から池田屋、蛤御門の変のあたりは井上は英国だった。
「人斬り……蝶次。蝶……蝶坊」
「おい」
「記憶があやふやなのだが、確かそんな風に呼ばれていたものがいたような気がするのだが」

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 まさに記憶にもやがかかったようで、鮮明なことは何一つ見受けられない。思い出そうと必死になればなるほど迷宮に彷徨う感覚だ。
 記憶力には自信がある山県にしては珍しいことである。同郷の山田顕義に「いちいち細かいことばかりを覚えている嫌な奴」といわれるほどの山県が、全くつかめない「蝶次」という記憶。
「やはり昔の関係者といったところか。これはよ、長州の人間たちに聞き込まないとならないな。おまえさんがうっすらと記憶にあるということは、誰かしら覚えている可能性もあるだろう? しかもあえて桂さん宛てに挑戦状を叩きつけてきたんだ。これは相手がどういう人間か探らねばならないことだ」
 それによ、あの桂さんの青ざめた顔。そして自らを責めるような目をした。ただ事ではあるまいよ。
「確かに昔、木戸さんの傍にいた人間ならばあるいは……」
「山県。俺はな。舞踏会などどうでもいいのさ。なかなかに大久保と桂さんとのせめぎあいは楽しかったけどよ。最終的にはどうでもいい。興味があるのは桂さんが大久保の思惑に乗ってまであえて出席することにした理由さ」
 背広のポケットより愛用の煙草を取り出し、口にくわえ、井上は僅かに目を細め、
「思わないか。こんな挑戦状。どんなに無粋やら近代化がなされていないと英国人に罵られようと、舞踏会の警備を蟻がはいでる隙間もないほどに厳重にすればすむことさ。そんなこと大久保が川路に命ずればすぐにでも整う」
 警視庁を預かる川路ならば、無表情で警備の徹底化をはかるだろう。公使などに「この厳戒態勢は何事か」と問われれば、「貴人の警護に厳重はつきもの」などと泰然と返す男でもある。

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「なのによ。大久保はあえて桂さんに出席するようにこんな挑戦状をもって此処まで来た。なんでだろうな。公使夫人が桂さんを気に入っているやら、参議が出席しないと国家間の交流になんたらなどこじつけに等しい。なんかあるんだろうよ、この舞踏会」
「貴殿の言われるとおり、あえてあの大久保が動いたことは多いに曰くがありそうだ」
「単に桂さんを参議に留めておく手段か、それとも裏に何かあるのか。しかも蝶次という名について大久保はこういって桂さんに釘をさした」
 ……人斬り蝶次。それがいかなる意味があるか、あえてお尋ねいたしません。それでよろしいですね、木戸参議。
「おかしいよな。まるで大久保はこの名に思い当たることでもあるのじゃないかっていうような態度だ」
 煙草に火をつけ井上はふぅーとまさにおいしそうに吸うと、
「木戸さんには煙草の煙はよくないのですから。煙草をすうならば外にいってください」
 会話に入らず一人茶を飲んでいた吉富が低くいった。
「桂さんの前じゃ吸わないさ」
「当然です。それから部屋に煙の匂いが染み付くのはよくないので、外で吸ってください」
 昔馴染みの吉富には井上も随分弱いらしく、仕方ない、と吉富が差し出した灰皿に煙草を押し付けた。
 部屋の隅では山県が持ち込んだ大福や餅、饅頭などを青木が勝手にもぐもぐ食べており、いつしか福地もそれを奪って不機嫌丸出しの顔で声を出さずに黙々と食べていたりする。
 騒々しくすると吉富に何か言われると思ってか、実に不気味なほどに静かだ。

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「気になるな、この舞踏会。……しゃあない。気に食わんが俺様も出ることにする。まぁ招待状は俊輔にも用意させるさ。そこらには顔が利くからな。山県は当然出るんだろう。簡一さんはどうする?」
「私はそういう場所は苦手ですからね」
 気にはなりますがご遠慮します、と吉富はまた茶を飲みだした。
「俺、俺がいく。井上さん、俺にも。やっぱり公を守るのにこの俺がいないといけないと思いませんかぁ」
 今まで吉富を恐れてか隅で静かにしていた青木が、よほどの量の菓子を頬張ったのが伺えるほどに口元に餡子をつけて手を挙げた。
「チビガキは邪魔だ。井上さん、俺には招待状は取ってくれよな」
 体を乗り出した青木の背中を容赦なく足蹴にし、福地がその不遜な色合いが濃い瞳を井上に向けた。
「……俺が邪魔? これは幻聴だよね福地君。俺が邪魔なら君などもっと邪魔だと思うけど」
 痛い痛いと恨めしげな顔を福地に向け、青木は背中を右手で撫ぜながら叫んだ。
「英語が喋れる俺が邪魔なはずがないだろう」
「たかが英語が喋れるだけで偉そうに」
「なんの職も地位もなく木戸さんのところで書生をしているチビガキがよくいうぞ」
「外務省出仕の身分なんだよね、俺は。そのうち一等書記官さ。君こそ今では無職じゃないか、福地君」
「俺様はおまえと違って引く手数多で困りものさ」

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「俺の方も引く手数多で困っている。なにせ独逸留学生さ、俺は」
「その存在が邪魔で不快ということで、伊藤さんたちにでも公使という地位をえさにどこかに遠くの異国に飛ばされないといいけどな」
「その不遜さと傲慢さを厭われて、どこも雇い手がなく路頭に迷わないといいけどね」
「チビガキ」
 わなわなと僅かに震えた福地が、手に持っていた大福を青木の顔に向けて投げた。
「はぎゃ」
 見事に鼻にあたり、大福はポトリと下に落ちて行く。
「やったな、福地君。そうやって最期には暴力にうってでるところが学が無い自称天才の悲しいところというか」
「黙れ、チビガキの分際で」
「分際……ならば福地君の分際でよくも公の寵愛著しい俺に向かって大福を……」
「二人ともこれ以上私の心証を害すればどうなるか分かっていますよね」
 茶をのんでいる吉富は、にこにこにこにこ柔和に笑いながら、その目に凄味を加え始めた。
 またしても喧嘩寸前でピシッと固まった二人は、
「い、井上さん。最初に手を出した福地君が悪いと思いませんかぁ」
「自分に力がないからかそうやって告げ口まがいのことをするのは小物の証拠だぞ、チビガキ」
「はじめに暴力に打って出た福地君にその台詞をいう権利は」

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「お黙りなさい」
 一弾と低くなった吉富の声に、青木はあからさまに顔色を変えていそいそと居間の方に退散を始める。
 福地も外に襟首をつかまれポイッとされるのはごめんなので、コチラはすでに月が美しい時間なのだが、外に散歩に出ることにした。
 騒々しい二人がいなくなると、途端にこの部屋は互いの息遣いが聞こえるほどに静寂を刻む。
 吉富はズズッと茶を飲み、
「静かですね」
 と、のほほんといった。
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