松菊探偵事務所―事件ファイル2―

15章

 英国公使館で行われた舞踏会の翌日。
 飯田町にある松菊探偵事務所は、来客の多い一日となった。
「貴兄はそこに座られよ」
 事務所に泊まった山県は、吉富が入れた茶を飲みつつ、木戸が起きてくるのを待っていた。
 その木戸は、人前では砕けた服装を見せはしないのだが、今日は珍しく寝巻きに軽く羽織を羽織らせただけの姿で、寝室より降りてくる。
 目があった瞬間に開口一番耳に響いたのは、先の言葉であったろう。
「……おはよう、狂介。簡一さん」
 まずは朝の挨拶を告げ、山県が指差す位置の座布団にちょこんと座る。吉富は台所に木戸の茶を入れるという名目で立ったが、多分に逃げるのが目的だ。
(さて始まりますかね)
「よろしいか。貴兄は前々からだが、人に警戒心がなさすぎる」
「………」
「公使館より居なくなったかと思えば、だれぞ知らぬ人間と屋根に上り談笑……。昔々からその手のことで何度命の危険に陥ったか覚えておられぬのか」
 竈で湯を沸かしながら、あぁ昔と変わらぬな、と吉富は懐かしさを感じていた。
 かの幕末の山口において、よくこうして山県に説教をされている木戸を見た。

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 天敵にも等しかった薩摩との同盟が持ち上がったころより、木戸の身辺は物騒になった。本人「神道無念流」の免許皆伝の腕前であり、見かけからは想像できないほどに「剣豪」なのだが、人に警戒心を持たず、また初対面の人でもほいほいとついていく幼子同様なところがあり、その性格を危ぶんで、高杉晋作が自ら創設した奇兵隊の幹部である山県を護衛につけたことがある。
 奇兵隊軍監であり、実質上の取り締まりの山県を護衛に回すとは、と驚きがあったが、高杉や井上馨の考えとしては、職務多忙のあまり衣食住の食を無視し始めた木戸を心配し、仲間内で唯一木戸に食を取らせることができる山県を選択した、というのが理由だ。
 こうして二人を見ていると、あの頃と本当は何も変わってはいないのではないか、と思う。
 よく木戸は山県の目を掻い潜り、吉富の家に好みの竹田の絵を見に来たものだ。
『一服の絵のために、この人を危うい目にあわせるおつもりか』
 と、吉富もあの冷え切った声で説教されたが、そのたびに笑って、
『桂さんの唯一の楽しみですからね。山県さんも大目に見ておやりなさいな』
 熱い茶を山県に入れ、まぁまぁ、と答えたものである。
 役目をどこまでも重視する男であったが、目を輝かせて竹田に魅入る木戸を、背後からそっと見守り、決して急かすことも邪魔することもなかった。
 この人を己が守る。
 あの暗き瞳に灯された一つの思いは、今でも何一つ揺らがずに山県の心にある。

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「狂介。おまえは私の挙動をいつも怒るけどね。昨日はとても月がきれいで……」
「………」
「ついついあの方に共にと誘われたので……」
「貴兄は!」
 バン、と卓袱台を叩く音に木戸はビクリとしたようだが、こうなっては木戸も開き直るしかない。
「何事もなかったのだから……怒らないでおくれ」
 山県と木戸は長い付き合いである。
 互いが互いのことを知り抜いているため、相手がどの手を打ってきたら、この手で返せば良い、ということを、囲碁の陣取りの如く覚えていたりするのだ。
 緊迫感漂う中、真っ直ぐその黒曜の瞳で見据えてくる木戸を、山県もジッと見据えるだけで留める。
 そのまま黙したままのにらみ合いを続け、時がゆっくりと過ぎていく。
 湯が沸き、茶を入れ、茶碗をコトンと置いたのを合図に、
「……心配をかけた。私が悪かった」
 と、木戸が頭を下げた。
 沈黙に耐えかねて、木戸が謝罪を口にするのもお決まりなのだが、いつの頃からか山県はこれでは許しはしない。
「おまえの言うとおり、私は少し人に対して警戒感がなさすぎるのだと思う。気をつけるよ」
「今と同様の言葉を何百度聞いたか知れぬ」
「……心配ばかりをかけていてすまない」
「胃に穴があくほどに貴兄の心配をしている」
「……すまない」

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「謝りつつ、貴兄は何一つ反省などしてはいないはずだ」
 さらに剣を込めた目で幼子に「めっ」とするかのように睨むので、木戸は小さく縮こまる。
 今回はどうも山県の方が意地になっているようだ。
 木戸の人間好きで、初対面の相手とも難なく会話に入ってしまう性格は天性のものである。こと細かく山県が注意しようと直るものではないのだ。分かりきっていように煩く言うのは、木戸には警戒心というものが備わっておらず、そのためにひと悶着も二悶着も起きる。場合によっては命に関わる危険な目にもあうのを見てきているからである。
「それくらいで許しておやりなさいな、山県さん」
 五歳も年下の山県に説教をされるたびに、木戸は縮こまり、シュンとうな垂れる。
 木戸ほどの地位も身分もある人間ならば、後輩の言うことなど適度にかわすか無視すればよいのに、これも性格なのだろう。誰の意見にもきちんと耳を傾ける。それが長所でもあり、短所にも数えられた。
「この人には一度、きちんと言わねばならない。よろしいか、木戸さん」
「はい」
 ピシッと背を伸ばし、木戸はジーッと山県を見る。
「あまり人を信用しないように。また痛い目にあう」
「……でもね、狂介。人を裏切るものと疑っているより、いっそ裏切られるまで信じている方が幸せではないかい。私は人を裏切る人間ではありたくないし、いっそ裏切られる方がいい」
 そしてにこりと笑って、木戸は茶をわずかに飲む。
 この一言でこの暗雲が立ち込めていた場の勝負もあり、だ。

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「……貴兄には適わぬか」
「私の方が五歳も年上なのだよ。いつもおまえに怒られてばかりだけどね……心配してくれてありがとう」
 にこにこと笑う姿は昨日までの緊迫の糸で雁字搦めにされ、今にも張り裂けそうだった木戸とは驚くほど違っている。
 風情が穏やかであり、朗らかさもみえる。それは春風のような優しさを秘めて、真っ直ぐ前を向く。
 何かを吹っ切ったのか。それとも、嵐の前の静けさなだけか。
 それは山県も感じ取ったのか、密かに吉富の顔を見て軽く頷いてきた。
「公~~僕の公。厚顔無礼な福地くんに踏みつけられた背中が痛くて痛くて」
 そんな中で、二階よりどこか間の抜けた声が響き渡ったかと思うと、
「この阿呆のチビガキが。俺様が背中に乗って飛び上がるまで、おまえ、目覚めなかっただろうが。いい気味だ」
「背骨が折れていて、僕が永遠に起き上がれなかったら、福地くんに死ぬまで高額な慰謝料を請求するよ。なにせこの将来有望。末は博士か大臣かのこの僕の背中を踏みつけるばかりか、飛び跳ねたんだからね」
「ほぉ~末は大臣か博士か。大言壮語もきわまるだな。おまえが大臣になったら……俺様は己の言葉を恥じて裸で逆立ちして東京の下町を歩いてやろうじゃないか」
「いったな。忘れないでよね、愚かな福地源一郎くん。君と違って僕の将来は言うならばばら色ってやつなんだなぁ。君は僕の立派過ぎる姿に前非を悔いて、東京を裸で歩くことになるだろう。ざまぁみろ」

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 二人は互いに睨みあいながらいつもの掛け合い程度の思いで言い合っているが、この単なる軽口は軽口ですまなくなる。
 後に現在一階で木戸を叱り付けている山県が首相に就任した際、外務大臣の座に座るのは、今、福地にあっかんべぇと舌を出している青木周蔵である。
 その際、青木は福地に「裸で逆立ち東京下町めぐり」を命じたかどうかはまた別の話にて。
「大臣や博士はどうでもいいがよ。チビガキ。もう歩けているし、背骨の心配はないぞ。なぁチビガキ。おまえ、あれだけ背中を踏まれて無傷とは、すっごく丈夫な背骨をしているぜ。よかったな」
「ふん。傲岸不遜な福地源一郎くん。君の足に力がなかったんじゃないの。あぁイヤだ。実は非力な痩せ男」
「いったな、ガキ」
「言ったよ、自称天才。それから僕の名前は青木周蔵というのだよ。チビガキじゃないからね。いつまで経っても名前一つ覚えられないなんて、福地くんって馬鹿?」
「言いやがったな、この馬鹿で無能なチビガキが!」
 二階から罵声が響き渡り、同時に長屋全体が揺らぐほどの大暴れが始まる。
「いつも通りの朝でよろしいことで」
 吉富も茶を飲み始めた。


「よっ桂さん。朝からこってり山県にしぼられているか」
 昨夜は自宅に戻った井上馨が、朝も早くからヒョイと顔を覗かした。

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「……今、やり込められたところだ」
 井上の予想とは反して不機嫌なのは山県の方で、説教を受けシュンとなっているだろうと予想された木戸はにこにこと笑っている。
「珍しいな。いつもはうな垂れて、はいはい聞いている桂さんがよ」
「おはよう、聞多」
 何か憑き物がとれたかのような晴れた顔をしている木戸に、井上は一瞬だけホッとした。
「おはようさん。今日は桂さんは顔色がいいな」
「……そうかな」
「おうよ」
 だがその安堵はすぐに消え失せる。
 木戸は「ニコニコ」としている方が危ういのだ。それは山県も吉富も承知しているようで、目配りを寄こす。
 昨日までの緊迫の糸がぷつりと切れたのか、それとも意識して「穏やかな」風情を醸し出しているのか。
 昨日の一件同様、木戸の精神は今、揺れていると察せられた。
「桂さん」
 井上は木戸の前に座し、左手を伸ばす。
「なんだい」
「アンタ……また無理しているだろう? 見ていて危ういんだよ。自分は完璧に演じているつもりだろうが、分からん俺様でも山県でもないぞ」
「何を言っているのだい」
 木戸はどこまでも穏やかにとぼけたことをいう。
 井上はひとつの吐息をこぼした。

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 こうなったら、無理やりにでも、その心の中に埋まった思いを聞きだしてやらねばならない。
 二階からは井上の思考を邪魔するかのようにドタバタと騒々しい音が聞こえる。しかもあまりの暴れようにギシギシと床がきしみ、埃までが降って来るという有様だ。
「私が行ってきますよ」
 吉富が立ち、二階にゆっくりと歩いていった。
 ……お鎮まりなさい。放り投げますよ。
 という穏やかな声が聞こえると同時に、二階の物音がピキッと一瞬にして止まった。
「相変わらず簡一さんには弱いね、あの二人は」
 クスクスと小さな笑い声を立てて笑い、機嫌のよさを彷彿させるその顔。井上には嫌な予感までしてきた。
「俺様は回りくどいことは嫌いだから、単刀直入に聞くぜ。もう逃がさん。桂さん、あの蝶次とは何者だ」
 逃がしもしない。曖昧も許さない。
 井上は木戸の視線を捕らえ、逃れるのを許さぬというかのように睨みすえる。
「市が珍しく言いよどむ。俊輔も知らない。だからアンタに聞く。昔、アンタとあの蝶次の間に何があった?」
「………」
 そこで木戸は逃げるように視線を落とし、両手を組んだかと思うと、何を思ってか片手を宙に彷徨わす。
「あの蝶次という男も、もう一人の男も、尋常ではない執念をアンタに向ける。あれはなんだ。……アンタに対する復讐なのか」
 視線は上を向き、続いて何かに耐えるかのように唇を噛んだ。
「桂さん」

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「私が……追い詰めた。私が……見捨てた」
「桂さん!」
「私の……罪」
 その両手で顔を覆った瞬間、あちゃあと井上は手を広げた。
 どうもダメだ。自分も親友の伊藤博文も、どうしてか木戸の良き聞き役相手にはなれない。
 山県に目配せすると、昔昔から木戸の扱いに長けている山県は、そっと木戸の傍により、顔を覆う手に自らに手を添える。
 唐突なことに驚いたのだろう。わずかに揺れる木戸の肩をそっと腕で抱いて、慰めるかのように肩を叩くのだ。
 立場が見事に逆転してしまった。
 これではどう見ても山県は保護者だ。木戸の方が五歳年上など誰が信じようか。
「……狂介……」
 ましてや昔からなぜか山県は木戸の扱い方を心得すぎている。
 こういうまるで幼子を宥めるようなやり方は、山県は幼き姪の扱いにより身につけた所作なのかもしれないが、幼子と同様の扱いで宥められる木戸も木戸だ。
「蝶次は……」
 弱りきりながらも、木戸はきちんと言葉を繋ごうとしている。
「蝶は晋作が連れてきたのだよ」
 木戸はゆっくりとだが姿勢を整え、山県と井上を見据えた。
「京都で……私の傍にいた。短い時間だったけど……けれどあの池田屋のときに……」
 木戸は息を乱しながら「池田屋に取り残された」と息とともに吐き出した。それが精一杯だったのだろう。息の速度がまばらになり、冷や汗がポタリと頬より落ちる。

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顔面が紙の色に移り変わっていくのが見え、これ以上は無理と判じた。山県がとりあえずは落ち着かせようと肩をポンポンと叩いたが、
「私を呼びに対馬藩邸に傷を負いながら来てくれたというのに、私は何もできなかった。……栄太たちが藩邸に駆け込もうとした際も、私が城門の警備を厳重にしたために。私が……」
「落ち着かれよ」
 木戸の手を山県はギュッと握り締め、
「貴兄があの場に居なかったために救われたものがある」
「けれど私は蝶次を救えなかった。約束をしたのに……。騒ぎの中で探すことも出来なかった。どれだけ憎んでいるだろう。どれほどに私を……」
「貴兄が気に病むことではないはずだ」
「私は……そう今の私は……。狂介……」
 一度言いよどみ、また口を閉ざし、そっと山県を見つめる木戸。頼りなげに揺れるその黒曜の瞳が、保護欲を擽るほどにきれいで哀しい。
 二人ともに木戸の言葉を待ち沈黙を続ける中、覚悟を決めたのか木戸は重い口を開き、心情を語った。
「この私は蝶に憎まれる資格があるのだろうか」
 かつての攘夷志士であった自分が明治政府の参議という地位につき、異国人と交流のため舞踏会で円舞も踊る。かつての「自分」では考えられないことであろう。
「木戸さん」
 やはり重傷だった、と井上はやれやれと髪をかく。
 罪と言い切り、胸の中でずっと抱えてきた木戸のひとつの「傷」

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 木戸の性格ならば、痛みは決して忘れない。ずっと宝物のように抱え、同時に身を疲弊させていくのだ。もっと早くに聞き出さねばならなかった。木戸が限界になるまで待っていてはならなかったのだ。
「資格ならあるんじゃないか」
 懐より煙管を取り出し、井上はただそれを口にくわえる。
「あるだろう、桂さん」
 いかにも自然に、いつもどおり「たいしたことではない」といった感じで言ってやればいい。
「昨夜、あの連中はアンタしか目で追っていなかった。アンタだけを見て、アンタだけに思いを放っていたよ」
 攘夷を掲げるなら、あの英国公使館にいる異人を天誅のもとで斬り捨てればいい。
 それをせずに、こういったというじゃないか。
『志士桂小五郎に対し、我々は卑怯な手は用いはしない。これはおまえとの勝負』
 井上はにんまりと笑い、
「アンタだけがあいつらの思いを受け止められるということだろう。憎まれているのもアンタさ。なぁ桂さんよ」
 本当は、な。アイツらはこう言ったんじゃないのか。
 ……今の木戸孝允も桂小五郎も何一つ変わりはない。とね。
 井上もおそらく山県も感じているはずだ。
 あの短刀を握り締めて賊の前に立った木戸の姿は、昔と何一つ変わっていない。長州の志士桂小五郎姿そのものであった。
「私は……」
「アンタは変わってはいないよ」
「………」

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「資格など小さいことに構うな。いいか。アンタはアンタだ。あの連中はアンタでしか救えんよ」
 軽く言い放った井上の言葉を受けて、
 木戸は笑い声を放った。それは嘲笑にも聞こえ、または泣き声にも聞こえる。それを知らぬ振りをして、ふん、と井上は煙管に火をつけ、丸い煙が天に昇るのに目をやり、
 山県は、笑い続ける木戸の肩を抱いてやる。こういうところが甘いのだ、この男は。
「桂さんはな、脆いが弱くはないんだよ、昔からな」
 最後には必ず自らの手で立ち上がり、翔けていく。
 故に人は呼んだ。風のように颯爽と翔ける長州の貴公子、と。


 元は名はなく「弐」という番号で呼ばれていた子どもに、高杉晋作が、その髪にちなんで「蝶次」という名をつけたこと。
 出生は長崎の遊女とオランダ商人の子で、物心ついたころには母はなく、髪と自らの顔立ちでしか面影を見出さぬ父を憎悪していること。
 かの池田屋より行方不明になっていること。
 そして「約束」を守ることはできなかったことを木戸は語り、守り袋に入っている写真を井上と山県に見せた。
「アンタだから……思いつめたんだな」
 まったくといって木戸に落ち度があるとは思えないが、優しい男だからな、と井上は思う。
 人のぬくもりを知らず人を信じることを知らない幼子が、おそらく始めて心を許しただろう木戸と高杉。その子とのはじめての約束を守れなかった自責の念が木戸の心には重く、責めて。

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「早く話せよ。あんたは心の中で思いつめれば際限ないし、話せば楽になれるんだぞ」
 まだ心の靄は取れてはいまい。
 片手は震え、無意識のうちに山県の袖を握り締めていることを、木戸は知っているのだろうか。
「まだまだ話せないことはいっぱいあるだろうが。とりあえずは分かった。異人の子か……それは憎いだろうよ」
 そして難しい問題だ。
 だが思ったほど木戸より情報は引き出せはしなかった。木戸自身、高杉が連れてきた子どもについて知っていることはほとんどなく、あの池田屋より顔を合わせてはいない。池田屋より十年の月日が過ぎている。
 十年か……と井上は不意に思った。
 思えばまだ十年なのだ。この十年にのうちに急激に時代も自分の身辺も変化しすぎて、半世紀ほどが過ぎた気にもなっていたが、池田屋も蛤御門の悲劇もまだ十年前。
「木戸さん」
 山県が茶を差し出すと、木戸は大きく息を吸ってそれを取る。
「……大丈夫だ、貴兄は」
「……うん」
 忘れられない記憶。忘れられない、約束。
 そのお守りの中にある写真を見ては自らを責め、責め続けて、生きてきたのだろう木戸の心は、哀しくもありやはり脆い。
 されど時間が過ぎようとも風化しないものが人には、ある。
「とりあえずは、今ごろ攘夷などいっているあの賊らをひっとらえないとらちがあかんな。次の仏蘭西公使館での舞踏会。厳重に警備しろよな、陸軍の元締め」

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「そのことなのだが」
 木戸より湯のみ茶碗を受け取り、それをコトリと置き、
「維新の攘夷という賊らの話だが、あれはおかしいと思う」
「おかしいことだらけだろうが」
 今さらあの「攘夷」と「天誅」を持ち出すなど、あの伊藤に言わせれば「時代はずれ」も甚だしいことだ。
「……私にもなにがおかしいかは判然としないのだが、何かが違う」
「……狂介……?」
「私の勘が告げている。おかしい。あの蝶次らの狙いは真実攘夷か」
「攘夷を掲げて内務省に桂さんに挑戦状を送ってきたんじゃないのか」
「そうなのだが……」
「おいおい、山県よ」
「何かが引っかかる。陸軍を使って調べるゆえ……判然とするまで……」
 胸に秘めておいて欲しい、という言葉は、急停車した馬車の車輪の音が遮った。
 三人が同時に表を見ると、そこには黒塗りのいかにも「お偉い人」が乗る馬車が一台。
 嫌な予感が三人ともに浮かび上がる。
「うわぁぁぁ……内務卿だぞ、木戸さん」
 二階より雄たけびの如し福地の叫び声が響く。
「あぁぁイヤだ。福地くん、何を動揺しているんだい。自称天才でも苦手な人物がいるんだ、ざまぁみろ」
「ざけんな、チビガキ」

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「唾を飛ばさないでほしいよ、唾を。……塩を放り投げようか」
「おう、チビガキでもたまにはいいことを言うな」
「二人ともお黙りなされ。大久保さんに聞こえたらどうするのですか」
 という三人の掛け合いが聞こえてきた。
 木戸はというと息をスーッと吐き、整え、今までの弱りきった顔を引き締める。それは臨戦態勢の顔。……大久保と聞くだけで、一瞬にして「長州の首魁」に戻ることができるのはさすがだ。
 井上はというと、ついてない、とばかりに煙管を吹き続け、
 山県は、木戸の肩をポンと叩く。にこりと木戸は笑った。
「人を鬼か蛇のように言うのはやめていただきたいですね」
 玄関口で黒マントを外し、二階より覗いているだろう青木と福地を睨んだ一人の男。
 大久保利通。現内務卿は、スッとその無感動の瞳を木戸にのみ向け、
「昨日はいろいろとお手間をおかけいたしました」
 昨日木戸より頬に受けた平手打ちの腫れが取れぬままの大久保は、木戸に挑むかのように、厳しい表情で、事務所の敷居を跨いだ。
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事件ファイル2― 15-13

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