松菊探偵事務所―事件ファイル2―

19章

 井上と福地は仏蘭西公使を言葉巧みに説得し、舞踊会は迎賓館で実施することになった。その際、座興を好む公使夫妻は井上の言う「悪戯」に二つ返事で乗った。
 ひとつ、迎賓館に場所が変更となったことを、当日まで全ての人間に隠すこと。当日の朝に全招待客に変更状を送り、日本の民俗衣装着用の仮面舞踊会たることを報せる。衣装調達に必死となろう。あっと驚いた顔が見ものだ、と公使夫人と井上は人の悪い顔をして笑いあった。こうなれば悪乗りといっていい。当日までは使用人にも一切極秘とし、
『俺たちだけの秘密じゃな』
 井上のニヤニヤとした顔に、夫人などは指を絡めて「ユビキリゲンマン」と満面の笑顔を見せたという。悪戯好きは万国共通、どこにでも万といるようだ。
 舞踊会の用意もそのまま仏蘭西公使館で勧めることにし、当日に迎賓館に料理などは運び入れることになった。三田の済海寺にある公使館と各国の公使を招くために設えられている仮迎賓館(旧八須賀邸)はそれほど離れていないのも幸いした。
 ちなみに仮迎賓館は、旧蜂須賀邸や浜離宮を借用していた。廟堂においては各国の公使を迎える接待の場が必要であると論じられている。だが本格的な迎賓館は、明治十六年に設置される鹿鳴館を待たねばならない。
「仏蘭西公使夫妻がいたずら好きでよかったぜ。蜂須賀邸と仏蘭西公使館は近くて……万事うまく言った。良かった、良かった」
 井上は扇子で仰ぎながらニカニカと上機嫌だった。

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「何が良かった……だ。この井上さんは、仮面舞踊会の話などそっちのけで料理の話ばっかりだ。ついには舞踊会の料理の一部は自分が作る、と言いだす始末だ」
 どっと疲れが出たのか福地は居間にぱたりと座り、木戸が入れた茶をガパッと飲み干した。
「ろくに英語も仏蘭西語も出来ないのに喋ってばかりだ。俺は通訳で喉はからから」
「情けないね、福地源一郎くん。元一等書記官も落ちればここまで落ちるって見本じゃないか」
「なんだとこのチビガキ」
「あくまでも元、元だしね。これから元一頭書記官は名乗らない方がいいと僕は提案するね。福地くんが一等書記官なんて、今の毎日お仕事に勤めている一等書記官にはなはだ失礼だと僕は思うしね」
「い……言ったな、このチビガキ」
 畳をバンと叩いた福地は、その勢いのまま青木の頬をびよーんと引っ張った。
「なにをしゅるか……い……いたい。公……ぼくのこう……ふくちくんがいじめる……ぼうりょくはんたい」
「苛めているのではない。これは減らず口に、しかも生意気な口を聞く青木周蔵への、教育というものだ」
「にゃあにが……教育だ」
「見てみろよ、木戸さん。このチビガキの頬はよく伸びるぞ」
 ついには両頬をびよーんと伸ばし始めたので、青木は「いたい」と目から涙をポロポロと流す。見かねた木戸はため息をつきつつも、止めに入った。
「源一郎、そのあたりにしておきなさいね」

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「……よく伸びるほっぺたなんだがな。びよーーんって」
「福地源一郎くん。よわいものいじめは……男子たるもの、いっいちばんのむしけらの行為と僕はおもうよ。こう脳のない自称天才は、頭を使えないから……ぼ、暴力に訴えて」
「やるか、チビガキ」
 さらに力を込めて頬を引っ張ったため、青木は「ふぎゃあ」と叫び、「いたいいたい」と泣きだす始末だ。
「おうおう。それにしても良く伸びるほっぺたじゃな。まるで餅が伸びているようじゃ」
 餅、と一瞬だが井上の目がキラリと輝いたため、青木は全力で福地より逃げにかかり、柱の影に隠れてしまった。
「今日はな、山県が来んな。うまい餅や大福を持ってきてくれんかな」
「井上さんは花より団子ですよね」
「という青木。おまえも山県のお土産を楽しみにしているじゃろうが」
 探偵事務所には「茶菓子」を常備するゆとりがない。用意しなくとも三日と置かず現れる山県陸軍卿が、食が細い木戸を気にして大量に購入してくるのを、切実に待っている。
 昨日顔を出しているため、本日は寄って行かないかもしれないが、すでに井上からして「食べ物……」と山県の到来を心待ちにしているという始末である。それだけ事務所には金がない。
「山県陸軍卿は実によろしい。訪ねてくるのに必ず土産を持参する。それこそ心得。または気遣い」
「単に餌付けされているだけだろうが、このチビガキが」
「という福地くんが、心からいちご大福の到来を待っていることを、僕は知っているんだけどなぁ」

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「この俺がいちご大福など好んでなどいるものか」
「じゃあ陸軍卿が持ってきたいちご大福は、この僕が福地くんの分もいただこう、と」
「………」
 実は福地、大福は好物のひとつなのである。それを横から、特にこの青木に奪われるという想像をするだけでむかっ腹が立つ。腹いせに、もう一度青木の頬をびよーんと引っ張った。あぁやはり餅の感触がするような気がする。
「ぼ……ぼうりょく……はんちゃい」
「それしか言えんのか、チビガキ。実に情けないな。いっそこの柔らかくよく伸びる頬を切り取って、餅代わりに食してやろうか」
「……それは嫌だ。僕は……ふくちくんの食糧になど絶対にごめんだ」
 相も変わらずのいつも通りの賑やかさである。
 やれやれ、と井上はニタニタし、吉富はキラリと目を光らせる。これ以上の騒ぎとなればお外に放り投げます、と言外にその目は言っていた。その中で、一人。木戸だけはどこか心ここにあらずである。
 今回の一件、蟻を通さぬほどに緻密に井上が動いてはいるが、蟻はどこからでも入る。仏蘭西公使館舞踊会まで計画は悟られずに済むか。
 木戸はスッと目を伏せた。仏蘭西公使館で自らを囮とし、いっそ一人で相対したいと木戸は考えていた。誰一人として余波をおよばさず、我が身ひとつであの蝶次の剣を受け止めたい。心のどこかでそうせねばならない、という思いがこみ上げてきており、だがそれを適えるのは難しいことも承知している。

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 朝野という言葉がはやる中、木戸の立場はいたって微妙と言えた。朝は太政官を意味し、野は議会が開かれていない時代だが、在野政党を多分に意味している。
 現在辞表を叩きつけているが、その受理をのらりくらりとかわしている三条、岩倉の二人に木戸は苛立ってもいるが、その気持ちも分からなくもなかった。長州の首魁たる木戸が、下野し政府を離れ、もし長州の戻るとなれば、在野の不平士族の旗頭として担がれかねない。鹿児島に戻っている西郷が関わっている私学校と手を結ぶこととなれば、新政府の喉元に刃が突きけるのと同様となる。
 当の木戸に反乱の意思がなくとも担がれる時は問答無用だ。それを佐賀の乱で木戸は知った。あの江藤新平は端から反乱を企んではいなかっただろう。担がれ巧みに罠にはまったに過ぎない。
 新政府は……特に大久保は、木戸がこの東京より離れることをいちばんに危惧している。
 朝に残るか、野に下るか。我が身の判断が一国の動きを確実に左右する。嫌なモノだ、と木戸はため息を漏らした。
「お黙りなさい」
 ドタバタ喧嘩の福地と青木を制止するため、ついに吉富の怒号が一声として探偵事務所に降臨した。
 ピクリと動きを止め、二人とも吉富の前に正座をし「申し訳ありません」とうなだれる。おそらくこの探偵事務所で最強なのは吉富簡一だろう。何せ吉富を怒らせたならば、福地に青木に井上でさえ夕飯は抜きとなる。翌朝までぐーぐー腹を鳴らして過ごす羽目になるのだ。
「喧嘩をする体力があるなら仕事をしなさい。今からでも仕事をしなさい」

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「というがよ、簡一さん。今の仕事は政府よりの木戸さんへの協力要請しかないだろう」
 すると、おたまを持っていた吉富はにっこりと笑うのだ。実に調理用具が似合う男でもある。
「今まではそうでしたが、たった今、お仕事が入り込みましたよ。たぶんですけどね。きっと福地くんと周蔵くんに向いているお仕事ですよ」
 ニコニコニコニコ。そのまさに善人面で笑う時の吉富は凄味があり、一種圧迫される。天下の弁論家にして、口から生まれたのではないかと思われる福地や青木をして、黙らせる凄味だ。
「おあがりください。ここにいるものは、木戸さんを抜かせばたいしたものではありませんが」
 客が来ていたらしい。今の今まで熟考していた木戸も井上も青木、福地も全く気付かなかったが、吉富のみ気付いていた。
「お邪魔するよ」
 玄関先に現れた男は、黒羽二重の羽織をつけ、馬乗袴を見に付けている。帽子を取り、軽く頭を下げた。
「なんだ、客というのはゆーさんか」
 福地が呆けた声をあげた。
「ゆーさんと言うな、福地」
「そう大鳥圭介がいつも言っているだろう」
「アレは同門だ。しかも阿呆トリゆえに許してやっているにすぎん」
「福沢先生と肩っ苦しい言い方よりは、ゆーさんの方が間が抜けていてちょうどいいと俺は思うがよ。そこをあの大鳥は狙っているんじゃないか。ってあのトリ。倫敦で会ったが、今はどこにいるんだ」

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「数日前に北海道に石炭の調査にいくといって出て行った。今頃石炭の煤で真っ黒になっているに違いない。クックッ……ついでに工部省四等出仕になったらしい。いつまで朝などに仕えるつもりか」
「それでゆーさんも愚痴やら毒舌をたんと吐く相手がいなく、ここに遊びに来たということかよ」
「……ゆーさんと言うな、福地」
「ならゆーたんにするかよ、福沢さん」
 相変わらずの福地の言動だが、その言葉端には青木に向けるものとは違い、わずかだが敬意と気軽さが見受けられた。
 その男の名は福沢諭吉。三田にある慶応義塾の主催者にして「学問のすゝめ」が大ベストセラーとなっている旧幕臣において著名すぎる男が探偵事務所を訪ねてきた。
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