松菊探偵事務所―事件ファイル2―

2章

 わずかに重苦しい雰囲気が漂いはじめたころ。
 もう辺りは灯火がなければならない時刻かと思い、ランプをつけようと立ちあがろうとすると、
「木戸さん」
 冷淡ではない声が木戸を呼ぶ。
「このような場所で探偵など、貴公はどこまでも酔狂な方だ」
 和らいだ声に安心し、ランプをつけながら、
「楽しいですよ。私はやりがいと楽しさをこの仕事に見出しています」
「おや、なにか勘違いをされていませんか。貴公の仕事はあくまでも廟堂に国家の参議として立つこと。この今の探偵は酔狂であり、私が戻った以上は速やかにやめさせます」
「どのような権限をもってやめさせるのでしょうか」
「国家の安寧を乱す犯罪者として、貴公を逮捕させればすむことです」
「言うに事欠いて、国家の安寧を乱すとはどうこうことです?」
「乱しておりましょう。今、長州の人間たちは頭を抱えて仕事どころではない有様ですよ」
「それが私とどのような関わりがありましょう」
「情けなくはありませんか、長州の首魁殿」
「はぁ?」
「部下たちに仕事もろくにできないほど心配をさせているご自身が」
「大久保さん」

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 木戸はその顔面ににこりとした小さな笑みを乗せ、
「この私一人欠けただけで、仕事もはかどらない人間ならば廟堂に必要はありません」
「保護者が随分と冷たいことをおっしゃる」
「保護者も長州の首魁も返上いたします。情けなくともいい。私を放って置いてください。私は政にも権力にもつまりは当の昔に飽いているのです」
 ランプの明かりにより鮮明に大久保の顔を捉えることができる。楽しんでいるのか、それとも何一つ歯牙にかけてはいないのか。大久保はどこまでも王者の如し有様で、そして廟堂になくとも政治家の風体を崩すことはない。廟堂を離れればうだつのあがらない一介の書生としか見られない木戸とは大違いだ。
「私の代わりなど大勢おります。大久保さん、私は……」
「この大久保には貴公に代わる人間はおりません」
 ランプをつけ終えた手を取られ、グィッとその手を引かれる。
 唐突なことに態勢を崩した木戸は、そのまま大久保の胸元に身を崩してしまった。
「私たちの生きる場所も死す場所も廟堂と決まっておりましょう。あそこが我らの棺おけ。なにを今更駄々をこね、一人だけ逃げようと足掻いておられますか。貴公もみとめておられましょう。私と貴公は同類。あの場から逃れるときはその死もってのみです」
 そして大久保の腕がおざなりに木戸の背にまわり体が密着したときに、これもこの男の懐柔策かと木戸はキッと顔を上げる。
「そうそのように覇気のある顔が見たかった」
 そそられますね、と冗談なのか本気なのか分からぬことを無表情で言ってのける男の顔を見て、

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なぜに今まで気付かなかったのか、と木戸は食い入るように大久保の顔を凝視する。数ヶ月前に比べると大久保の顔がやつれている事実に今ようやく木戸は気付かされた。
 為さねばならないことが、どれだけ心が悲鳴をあげようとも、血の涙を流そうとも為さねばならないことが時にはある。今がその時と大久保が江藤を斬ったというならば、同類の士の自分はその大久保に何を見出せばよいのか。なによりも江藤を斬ることは本当に国家のために必要だったのか、と自問よりはじめねばならないほど、大久保の思考と木戸の思考の隔たりはどこまでも遠い。
 互いに互いの顔を見る。その瞳の奥にある意志を読み解こうと凝視する目。こうして明治の世を対等者の目を覗くことで、いつも木戸は「この世」をはかろうとしている。
「大隈は良いことを言ったな。あんたら政府の夫婦だよ、まさに。そうやって見詰め合って惚れたはれたの世界か」
 一瞬の緊迫感は、間の抜けた声によって破られた。
 井上が団子の櫛をくわえながら、襖を開けて、ニヤリと笑う。
 木戸は現在の自分の状況の、ようやくささいな「異常」に思い至り、慌てて大久保より離れたが、
「うまい団子だ。青木があんたにもっていってくれとうるさいから覗いたら、いい大人がまさに抱き合って……。この長州きってのあんたについては温厚な俺様でもはっきりと言うことは言う。桂さんよ、いただけないぜ、大久保さんと二人だけの世界はよ」
 井上はからかっているように見えたが、その声は真剣だった。
「聞多」
 顔から湯気が出るとはこういうときのことをいう。そして穴を掘って入りたいとはこういう心境だ。

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「もう日が暮れた。大久保さんもよぅ。さっさと用件をすませて帰った方がいいぞ。ついでに桂さんを廟堂にという話なら、やめときな。探偵もなかなかに楽しい。所長をたかが廟堂という面白くないところに持っていかれるのはごめんだ」
「たかが廟堂と君が言うのかね、井上君」
「あぁちっぽけさ。そこで生きる人間も小さい小さい。けどよ、そこにいつかは戻る俺様も同様に小さいさ」
 人を食ったような喋り方をする井上だが、これほどに「敵愾心」をもってあたる人間は木戸は今まで見たことがなかった。
 聞多、とどうにか井上の背広の袖を引き、傍らに座らせたが、まだまだ大久保に対して言いたいことがあるらしく、ここで制止しなければさらに用件は遠くなりそうだ。
「どうあっても木戸さん。参議として廟堂に戻るおつもりはないのですか」
「ないぜ。説得するだけ無駄だ。桂さんは探偵兼寺子屋の先生がとてつもなぁく気に入っている」
 木戸ではなく、すでに井上が大久保を睨みすえながら答えている。
 常に敵を作らずに飄々と生きる井上が、これほどまでに敵愾心を向ける理由とは何なのか。ふとこの険悪な雰囲気の中で木戸の好奇心は擽られたが、とても今はそれを聞き出せる状況にはない。
「では木戸さん」
 大久保はわずかに姿勢をただし、スッと木戸を見据える。
「はい」
「お忘れではないでしょう。貴公の辞任は正式に認められておらず、今もって貴公は参議兼内務卿兼文部卿です」

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「私は当の昔に辞表を何度岩倉、三条両人に提出しているか。それに内務卿は大久保さんが佐賀に赴いている間の臨時であり、早々に辞任は認められてしかるべきです」
「されど今現在ではその三職兼任が事実です。……今より五日後に英国公使館にて晩餐会が催されることになりました。そこに国家の重鎮であり長州の首魁たる貴公がいないのは甚だ困る。公使夫人は貴公を実にお気に召しておられますので」
「……何をおっしゃりたいのですか」
 木戸の肩はわなわな震えだし、「桂さんよ」と井上が気を効かしてか、落ち着かせるためか背を摩り始めた。
「あくまでも誰も認めはしない辞表の正当性を主張されるならば、それはそれで一先ずよろしい」
 大久保は眉一つ動かさずに、冷めた茶をわずかに飲んだ。
「そのかわり木戸さん。しばらくの間廟堂に辞表も認められてはいない貴公が出仕しないこと。あまつさえこんな場所で探偵家業などをしていることを見逃すかわりに見返りとしてこの話は飲んでいただきます」
「私に見返りなど……貴殿はどのような権利をもってお言いになるのか。私は……人民の正当なる自由なる権利をもって辞表を出しているというのに、それを意図も簡単に結託してか握りつぶす貴殿に……」
「落ち着け桂さん。興奮は体によくない。ほら、茶でも飲んでよ」
 井上が差し出す湯飲み茶碗を木戸はとりあえず受け取り、確かに興奮していることを自覚して、ゆっくりと飲んだ。そして、木戸が冷静になるのを見計らったかのように、大久保は言葉を続けた。

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「内務省ならびに正院ならびに外務省をもって探偵事務所所長の貴公に依頼する。国家の参議として英国公使館晩餐会に出席してくださるように。否やはおっしゃることはできません」
 大久保も再び茶を飲み始め、その茶碗を飯台に置く音が周囲に響く。
「……お断りします」
 搾り出すような声で木戸は言った。
「では見逃す話は無効です。明日にでも警視庁の者が貴公を捕縛しに参ると思いますので、首を洗ってお待ちなさい」
「大久保さん」
「……始めから否やを言う権利など貴公にはないのですよ」
 これはいいや、と井上は手を打ち、声を立てて笑っている。
「まるで逃げ出そうとする妻を、法的手段を用いて雁字搦めにし連れ戻そうとしている構図だ。けっこうけっこう。桂さんよ、これはあんたの負けだ」
 木戸は拳をまたしても握り締め、恨めしげな視線を大久保に送るが、それを無視するでもなく構うこともなく。こういう態度が実に苛立つと思うと、不意に余裕たっぷりの顔を向けられ、
「これは貴公でなければならないことでしょう」
 それは勝ち鬨の声に等しい言葉だった。


「公、食べたかな。この団子、最高だよね、福地君」
 木戸が帰りにもとめてきた団子を幸せいっぱいの顔をしている青木は、もぐもぐと食べながら。
「この俺への公の愛が感じられる。公は俺のためにこの団子をわざわざ買ってきてくれたんだ」

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「阿呆か。チビガキはどこまでも馬鹿で無能だ」
「なにか言ったかね、福地君」
 菓子籠の中に入っている団子を青木は次から次へとぱくぱくと食べていく。
「こりゃあチビガキ。俺の団子を食べるな」
「これは公が俺のためにもとめてきてくれた団子だよ」
「はん? おまえのために? やはり馬鹿で無能なチビガキはどこまでいっても超馬鹿で超無能なチビガキだ。だぁれが木戸さんがおまえのためだけに団子を買ってくるかよ。それにそれ以上食べるな。一人で何個食べた」
「これは俺への公の愛の団子……」
「阿呆」
 福地はついに自分の分の団子もなくなると危惧を抱き、青木の腹を足蹴にして突き飛ばした。
「……暴力に訴えるのはよしなよ福地源一郎君。だから嫌なんだよね。学がない無能な男はこうして……」
「このチビガキ」
 二人して取っ組み合いを始めようとしたその時に、階下より「いいかげんにしてください」という声が聞こえてきた。
 二人ともにピタリと制止し、顔を見合わせること数秒。この下は今大久保と木戸が二人っきりで話している客室だ。青木は畳に耳を擦り付けて、聞き耳を立てる。
「聞こえるか」
 福地は襖を開け下より何か聞こえてこないかと耳を澄ました。
「俺は心配だったんだよ。あの大久保と二人っきりにさせると俺の公がどうなるか。きっと狼に甚振られている兎さん状態なんだ。お労しい、公~公」

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「あの大久保だ。確かに喰われるかもしれない」
「喰われる? あぁぁぁぁ公」
「騒ぐな、チビガキ。声が聞こえないだろう? こんな時のために井上さんに団子を持たせて様子を見させにいったんじゃないか」
「そうだけど、福地君。あの大久保だよ」
「あぁあの大久保だ」
 これをできうる限り声を潜めて二人は言い合っている。視線はそらさずにあわせ、
「俺はね。使節団の副使として独逸に来た大久保を見たときから、とてつもなく気に食わんと思ったんだ。そう伊藤の次くらいにね」
「チビガキと意見が合うとはとてつもなく気に入らんが、俺もあの男は気に食わん」
 伊藤博文はまぁそれなりに気に入ってはいるが、あえてそれを福地は言わなかった。
「あぁ公。俺の公。あの大久保にどんなに辛い目にあわされているか」
「本当だ。新政府の夫婦やら言われている二人だからな」
「なっなんだって福地君」
「だぁからあの肥前の参議の大隈だっけ? 大久保と木戸さんを新政府の夫婦とか称したんだよ」
「夫婦って。大久保許すまじ。夫婦って……夫婦だって」
「冷めた仲の悪すぎる夫婦だろうよ。というと今日の訪問は、夫が留守の間に家出をした妻を連れ戻しにきたという構図か」
「福地君」
 その青木の叫び声はおそらくこの家中に響き渡っただろう。

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「このチビガキ。声は落せって」
 という福地の声も怒涛のように家中にこだました。
「なにが夫婦だ。許せない」
 ムクッと起き上がり、青木は菓子籠の中に入っている団子をくわえ、串を口の中から出したまま猛然と階段を下った。
「おいおい」
 福地も最期の団子一本をくわえ、その青木の後を追う。
 そして客室にこれぞ赤穂浪士の討ち入りか、といった凄まじい形相でなだれ込み、
「大久保」
 青木は人差し指を大久保に向け、
「公を僕の公に指一本でも触れてみろ。この僕が許さん。なにが夫婦だ。なにが」
 かわらぬ鉄面皮のまま、大久保はズズッと茶を飲んだ。
「な、なんだその平然とした顔は。僕は」
「はいはい。青木、まぁ落ち着け。団子を口に入れたまま喋るなよ」
 井上が唐突に現れた青木をどうどう、と抑え始める。
「井上さん。僕はこの大久保が公を僕の公をどうにかするつもりじゃないかって心配で心配で」
「そう。留守の間に逃げ出した妻を連れ戻しに来たんじゃないのかってよ。大久保さん」
 青木とは違い、はなから凄まじい眼光を大久保に向け、その癖のある顔には不遜めいたものを福地は乗せた。
「木戸さん」
 飲み終えた湯飲みをコトンと置き、大久保の目は青木も福地も見ることなく、ただ木戸だけを見据える。

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「はい」
「このような騒々しい連中との酔狂はおよしなさい」
「騒々しい連中って誰のことさ」
 青木は大久保に食いかかろうとするので、何とか井上が両腕で抱き込むようにして押さえつけている。
「冷血というものしか流れていない大久保さんには、騒々しいという言葉は無縁だろう。その冷血を敬うあまり、傍には騒々しいことをする連中など誰一人としていないだろうからな」
 妙に息があっている福地と青木に、井上をして「珍しいことだな」とため息がもれ、
「あぁ煩い。この長屋、けっこうボロイからな。あまりドタバタ暴れて壊すなよ、二人とも」
「井上さん。自分だけは騒々しい人間の中に含まれていないかのような物言いですけど、たぶん入っていますよ」
「なんだと、青木。俺のどこが騒々しい」
「見るからに」
「なにぃ」
「周蔵に源一郎。それに聞多も静まりなさい」
 木戸の一言で、全員がピクリと動作を止めた。
「けれど大久保さん。私はこういう騒々しさがとても好きです」
 そしてにっこりと笑うので、青木は思わず見惚れているらしく「公」と叫んで木戸の腕元に飛びついた。
「僕の公。絶対に大久保さんなどに渡すものか。僕は……僕は新政府の夫婦など絶対に認めない」
 まるで宣戦布告するかのように、またしてもビシッと人差し指を差す青木を、大久保はまるで眼中にないかのように見ようともせず、

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「吉富君」と一人避難するかのように居間にある吉富に、茶のお代わりを求めた。
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