松菊探偵事務所―事件ファイル2―

6章

 その日、事務所に泊まることにした山県は、井上の勧めるままに木戸の寝床の傍らで休むことになった。
 それには福地と青木がなにやら異議を唱え、自分が木戸の傍らで眠る、と主張もしていたが、それもおかしな話だろう? と井上が笑った。
 客間はあるのだが、いつのまにか井上と福地が寝床にしており、二階の二部屋は木戸が一室。吉富と青木が共同で一室を使用している。
「おまえら、まさかな。この山県陸軍卿に居間で眠れとか言っているんじゃないだろうな」
 井上はニヤリと笑い、山県はジロリと福地と青木を睨んだ。その眼光にさすがのこの二人もわずかにぶるりと戦慄を催した。
 一応は外務省出仕、一等書記官の青木周蔵と、数ヶ月前に大蔵省出仕兼一等書記官の職を放り捨てた福地源一郎。
 この二人にして陸軍の法王は、やはり年齢差もあり、いろいろと世話になっていることもあり、何よりも土産に「お菓子」を購入してきてくれる得がたい客人でもある。居間で寝かせたならば後々にどんな報復を受けるか知れない、と若干の恐怖と利害が心によぎったようだ。
 ましてほとんどの部屋には余剰空間がなく、唯一眠れる部屋となれば木戸の私室しかない。
「羨ましいんですが、陸軍卿」
 青木は恨みがましい目で山県を見据えた。
「このチビガキ。

事件ファイル2― 6-1

おまえはなにを考えた。木戸さん、陸軍卿ならまだしも、このチビガキを傍らで寝かせたら……眠ったが最期。何をされるか分からないぞ」
「不遜極まりない傲慢で、官吏を辞めたもののどこからもお呼びが来ない可哀相な福地源一郎君。君こそ、僕の公の傍らで眠りたかったみたいだけど、なにをしようと考えたのかな」
「黙れチビガキ。俺は邪な精神に全身包まれているおまえとは違うぞ」
「なにが邪だ。なら邪悪で傲慢の塊の福地君は、全身をまさに真っ黒な汚れた気に覆われているということさ」
「いったな、チビガキ」
「あぁいったとも。傲慢不遜……ついでに邪悪な福地源一郎君」
 まさにいつもの……これぞ松菊探偵事務所の日常。
 福地と青木の取っ組み合いの喧嘩が今、またしても始まった。
 長身の福地に胸倉を掴まれた青木は、右足を大きく振りかざして、福地の胸元に足蹴を入れる。だが福地はそんな常道な芸道などすぐに察知し、瞬く間に体を横向きにして避け、青木の胸倉を離し、その場に突き飛ばしたかと思うと、青木曰く傲慢不遜を自ら証付けるかのようなニヤリと冷たい笑いを見せた。
 そしてガシガシッと、青木の胸を足蹴にし、あまりの痛みにうつ伏せになった青木の背も足蹴にする。
「源一郎。周蔵が苦しんでいるようだから」
 見かねた木戸が止めに入ろうとも、福地の足蹴はおさまる気配はない。
「木戸さんよ。この邪な塊の青木という男をちっとは分かってるかよ。この男、これくらいじゃあなぁんも堪えていないぞ。こういうところはまさに邪な塊というか……」

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 さらに蹴り続けていると、ついに「ぐわっ」となった青木は「こう~」と弱々しげに木戸を呼ぶ。
「公、公~。福地君がか弱いこの独逸帰りの僕を苛めますぅ」
「なにがかよわいだ。冗談は寝ているときと死んでから言いやがれ。誰も聞いていないからな。ちっとも面白くない冗談でも人の迷惑にはならないというやつだ」
「福地君はここに生きているだけでも人さまの迷惑だからね」
「馬鹿を言うな。邪な塊のチビガキ。おまえの存在こそ生きていることが毒だ」
「毒? それは僕の聞き違いかな。徳の間違いだよね」
「にやついた顔で馬鹿なことをいうな」
 そうしてギャアギャアと二人騒乱を醸し出す最中、
 一人「我関せず」とばかりに茶を飲んでいた吉富簡一の眉間がピクピクと動き出した。
「はじまるな」
 井上はそそくさと避難。木戸は「仕方ないね」とため息をつき、山県はまさに自業自得だ、という顔をしている。
「君はいつまでたっても学習能力がないから、いつもいっつも吉富さんにポイッとされるのだよ」
「それはおまえも同様だろうが。しかもおまえは何度放り投げられようとも着地すらできない低能振りを披露するばかりだな」
「ふーん。知らないんだ。やっぱり自信過剰のうぬぼれ男だね、福地君。僕はたんに君に合わせてあげているだけなのに」
「ならそれを証明してみろ。外に放り投げてくれようか」
「よしたまえ」
 眉間に皺が刻まれたまま、壮絶な微笑をたたえ、立ち上がった吉富は、普段では考えられない低き声音を放ち、

事件ファイル2― 6-3

普段の穏健派の巨頭が信じられないことに殺気を放って二人を睨む。
「や、やばい……」
 身の危険を感じるのが幾ばくか遅かったか、と福地は思った。
「よ、吉富さん。これはもとはといえば福地君が」
「馬鹿いうな。もとのもとをただせばいつもチビガキが俺に食って掛かるんだろう」
「そうやって自分の責任を人に転嫁する。あぁいやだな。こんな大人には絶対になりたくないというか」
「立派な大人の年だろうが。いったい何歳のつもりでいるんだ、チビガキ」
「僕は永遠に二十歳だ」
「……吐きそうになる御託はやめろ」
「僕は福地君と違って決してふけては見えないし、必殺のにっこりを使えばほとんどの人間はお手の物というか……」
「黙りなさい。では青木君、まずはその必殺をお外で披露してくるといいですよ」
 総毛立った青木の襟をつかみ、まさに居間から玄関に向けてポイッと放り投げた吉富は、つかさずその目を福地に向けてきた。
 放り投げられる。
 福地はあとずさるが、現在の「鬼の如し」吉富にそのような些細な抗いが通用するはずがない。
「二人ともお外で反省してきなさい」
 放り投げられ、背中と尻を強打した青木は「いたいいたい」と背中をよしよしと摩っていたが、
 その上の福地が放り飛ばされてきたのだ。
「ぐわっ」

事件ファイル2― 6-4

 さすがに見かけによらず強靭な体格の青木もその場で意識朦朧となり、青木を座布団にして、自らは何一つとして被害を被らなかった福地はニヤニヤと笑った。
「だからおまえと俺は違うんだよ、チビガキ」
 されどそんな福地を吉富が許すことなく、続いて第二弾の制裁が振り落とされ、仲良く福地と青木は月光の下、土の上でぐたぁと打ちひしがれることになった。
 いつものこと、と慣れてしまった三人は、青木と福地をもはや哀れとは決して思わないのである。


 吉富いわく「頭を冷やすまでは外で反省しなさい」とのことで、事務所には鍵をかけられ外で過ごすことになった青木と福地である。季節はもうすぐ初夏。真夜中はわずかに肌寒く感じるだけで気温的には外で過ごすことに困難なことはなかろう。
「木戸さん」
 二階よりそんな二人の姿を見つめていた木戸に、背後から山県が声をかける。
「あの二人は自業自得だ。ここより縄を放り投げて上に引き上げてやろうなどとは考えぬことだ」
 木戸はパッと振り返り、
「どうして分かったのだい? 狂介はすごいね」
 と、まるで感心するような目を向けてくるので、山県としては重いため息をついてしまった。
「貴兄はそういう人間だ」
 臥所の戸をすべて閉ざし、山県は木戸の手を引いて蒲団に丁寧に押し倒す。

事件ファイル2― 6-5

「狂介?」
「優しいゆえに、いつまでもその瞳には過ぎ去った過去ばかりを捉える」
 組み敷いた木戸を見下ろせば、その黒曜の瞳は静かに山県を見上げるばかりだ。
「……木戸さん」
「駄目だよ、狂介」
 ゆっくりと頭が振られた。
「おまえは……私がどうしても言いたくはないことは聞かない男のはずだから」
 これ以上、心の中に踏み込むのは許さない。
 暗黙の内に突きつけてくる瞳は、今は弱さも悲しみもなく、昔の志士時代を思わせるかのように毅然とあり、確たる「拒絶」という意志を含んでいた。
 見破られたか、と山県は心底でわずかに舌打ちする。
 その場を退くと、木戸はフッと穏やかな微笑を刻んで上半身を起こし、
「狂介」
 と、袖を柔らかく引っ張るのだ。
「狂介……」  意味もなく名を呼び、訳もなく袖を引っ張るときは「甘えたい」合図だ。
(この人は……仕方がない人だ)
 国家の参議という政治家としては最たる地位に昇り、長州閥の首魁と称される一角の男が、時に子どものようにそのきれいな顔に幼さを込めて山県に甘えたがる。
 山県はスッと視線を木戸の目に移し、視線を重ねたことで許可が出たと思ったか。木戸は山県の肩にコトリと身を預けてきた。

事件ファイル2― 6-6

 昔より長州の人間たちは、異国風に言えばスキンシップが激しすぎた。ことあるごとに「好き」という思いを体当たりで相手に叩きつける習慣がある。その特質すべき例えは、あの長州の魔王高杉晋作だろうか。
 高杉の場合は、スキンシップを求めたのはほとんどが幼馴染の木戸であった。顔を見、時間が許す限り木戸にベタッと引っ付いて、そのぬくもりを肌で感じていたものだ。「自分の桂さんじゃ」が口癖で、木戸はいつも仕方ないね、という顔をして目一杯高杉を甘やかし続けた。
 そんな高杉を見ていたために、周りにいる人間も木戸に甘えるようになり、山田顕義などは木戸の顔を見るたびに「僕の木戸さん」などといい抱きつく始末である。
「貴兄は総じて甘えたがりだった」
 後輩たちを「これでもか」と思わせるほどに甘やかす木戸だが、本人としても甘えたがりの方だ。後輩たちを甘やかしながらも、自分自身もそっと甘えていた節が見受けられる。
「……おまえだからだよ、狂介」
 黙って肩を貸しておいておくれ、と木戸の目は言っている。
 これも幕末の昔からだ。時折こうして二人だけになると、木戸はもたれるように山県の肩に身を預けて目を閉ざす。
 山県の肩はもたれるには適度らしい。あの高杉もまたニタリと笑い、山県の肩にもたれてよく眠ったものだ。
(長州の人間は……私的交流が行き過ぎだ)
『自分は人肌がないと熟睡できん』
 と公言して憚らなかった高杉は横に置くとして、伊藤、山田、三浦の三人も寝相が悪いのか、それとも確信的な様相があるのか。宴の後、酔いつぶれて雑魚寝する中、

事件ファイル2― 6-7

よく木戸に引っ付いて眠っていた。
 いつしか目を閉ざした木戸は微動だにしない。このまま眠ってしまうよりも、蒲団の中できちんと眠った方がよいだろう。
「木戸さん」
 声をかけると、長い睫がわずかに揺れた。
「蒲団に入られよ。今、眠りかけたと思うが」
「う……ん。そうだね……。でも、もう少しこのままが良いよ」
 山県が肩を貸すとき、甘えたがりの木戸はできうる限りこうしてもたれていることを望む。
 無防備な顔をし、山県の袖をしっかりと握り締めているさまを青木や福地が見たらどういった反応をするのだろうか。
 あの「木戸病」の二人の反応など山県にはさして興味の対象にもならないが、吉富により外にポイッとされた二人は、そのまま外で打ちひしがれるような人間ではない。方々に今宵の宿を求めてさまよっているのではないか。
 まるで波長があっているかのように小気味がいい二人の言い合いは、時にグッタリと疲れるが、時に聞いていて「波長が合いすぎていて」楽しくもある。
 本人たちは本気で堂々巡りの言い合いを真剣な思いで繰り広げているのだろうが、はたから見れば得てして漫才でもしているのではないか、と思うときもあるのだ。
 木戸は昔からあの手の常人よりは「非凡」たる人間たちに、懐かれる。
 もたれていた肩より身を崩し、そのまま山県の胸元に倒れこむ木戸はどうやら眠ってしまったようだ。疲れきった顔もしている。……言わぬことではない。これから蒲団の中に寝かせる苦労を少しばかりは考慮して欲しいものだ。

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 数十回はついているだろうため息を吐き、このままでは山県の膝を枕代わりにして寝かねない木戸の体を両腕でわずかに抱き上げ、蒲団の中に押し込むときに、
「蝶次……ごめんね、蝶次」
 小さく漏れた一つの名前とともに、流された一滴の結晶。
 木戸の疲労と悲哀を一心に込められた「蝶次」という名を、徹底して山県は調べねばならないと思った。
 あの当時の京都にあり木戸の側近くに居続けたのは、政府の人間たちの中で可能性があるのはただの二人。後の人間はほとんどがあの動乱の中で死去したか、または政府に入らず萩に身を置く人間たちばかりだ。
 一人は品川弥二郎。だが彼は今は遠い露西亜の地にある。
(明日、呼び出すとするか)
 今、現在で、すぐにも呼び出しが適うのはただ一人。
 佐賀の乱の平定よりすでに戻っているはずだ。陸軍少将にて清国特命全権公使となるはずだった山田顕義の顔が浮かんだ。
「………」
 そっと木戸の頭に手を置き、時に瞼にかかる前髪を手で払いながら、
(貴兄の心を煩わすものを一つずつ片付けねばならない)
 そうせねば……前に一向に進めないのだ、貴兄は。
 木戸を見ているとなぜか放っておけないのは、山県の癖の一つともいえる。それを過保護と称されるのももはや致し方ない。こうして眠りの心配から毎日の食事のことを気にかけている時点で、その心境はまるで保護者のものと等しくなっている。
 その体に蒲団をしっかりとかけ、いまだ目が冴え眠れそうにない山県は臥所を開け外の空気を吸おうとする。

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 おもむろに臥所に手をかけた瞬間、
「福地君。そうやって自信満々で木登りをしているけど、君は高所恐怖症じゃないのかい。下をみなよ、下を」
「うるさいチビガキ。それはおまえだろう。頂上に上れば、なんとか木伝いに中に入れそうだ」
「誰かにあけてもらわねば入れないけどね」
「やさしい木戸さんが起きていて、ばんばんと戸を叩けば入れてくれるぞ」
「公は君のことなんか気にかけて起きているはずがないよ。ああ可哀相だね、福地君。家を追い出されてもとめてくれる女も友もいないなんてさ」
「煩い。馬鹿か、おまえは。それはいくあてもないチビガキだろう。俺は泊めてくれる場所はたんとあるんだ。だが、もう夜中。相手の迷惑というものを考えてな」
「それは俺も一緒だよ」
 外から聞こえてくる一切間のない言い合いに、臥所にかけていた手を外し、山県は蒲団に入って寝ようと思った。
 あの二人に関れば、きっとそう簡単には抜け出せない。
 灯篭の灯りを消し、蒲団に横たわった瞬間、
「うわぁぁぁ」
 外から大音声と、瞬く間の後に聞こえてきたドスンという音。
「なっなに」
 慌てて目を覚ました木戸を見て、山県は心底で外の二人に「馬鹿が」と思った。
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事件ファイル2― 6-10

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