松菊探偵事務所―事件ファイル2―

16章

 大久保にとりあえずは茶を出した吉富は、階段の上より身を乗り出して成り行きを見ている青木と福地をジロりと睨み据えた。
 二人ともに吉富が恐怖の的らしく、首を引っ込めたが、興味津津といった顔は薄らぐことがない。
「俺の公に何かしたら、あの内務卿。塩をかけてやるよ」
「塩などではなく、この手裏剣はどうだ、チビガキ」
「うわぁぁぁ物騒なものを持っているね、自称天才の福地くん」
「これであの冷血漢の眉間をピシっとやれよ」
「そんなの福地君がやればいいよ」
「なにいってんだ。これでおまえが内務卿をやる。国家の功労者を暗殺したという咎でおまえも捕まる。まさに一石二鳥とはこのことだ」
「詰めが甘いな。厚顔無恥の福地源一郎くんよ」
 チッチッと人差し指を横に振る青木に向かい、福地は「このチビガキ」とその頭にげんこつを咥えた。
「あっ暴力反対。そうやってすぐに弱い物いじめをする。力に訴えないと何もできないなんて情けないね、相変わらず」
「おまえが背筋にゾっとする舐めた真似をするからだろうが。おとといきやがれ」
「おとといなどにこれないよ。あぁぁ、これだから自信過剰のおバカさんは付き合っていられないんだよね」
 小馬鹿にするように両手を広げた青木を、コチラも眉間をピクッとひきつらせた福地が、背中をドン、と押した。
「うわぁああぁぁぁぁ」

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 悲鳴とともにドタガタと階段を転げ落ちる壮絶な音と揺れが長屋に轟き、
「何事ですか」
 と、吉富が顔を出した時には、背中を抑えながらも階段上を睨み据える青木が、
「人殺し。殺人未遂。おとなしく御縄につけ」
「いやなこった。あんな軽く押したくらいで落ちるなど、相変わらずドジだな。チビガキ」
「いったね。傲岸不遜が取り柄なだけの福地源一郎くん」
 二人ともに背後にある吉富の眉間がさらにピクピク動いていることも知らず、ギャアギャア言いあいを続けるので、
「お黙りなさい」
 それは地より轟く低き声音で、あからさまに二人ともにピクリと吉富を振り返る。
 吉富はまずは青木の襟首をつかみ、なぜか階段をドカドカと上がる。すさまじい力だ。引きずられる青木の顔面は蒼白となっており、
「二人とも今日は外で反省しなさい」
 コチラは何一つためらいと容赦もなく、二階の窓より二人を放り投げたのだった。
 さすがの二人とも茫然自失。抗う暇とてなく、今はどうにか銀杏の木に引っ掻かっているという状態だが、
「こ……こわかった」
 青木の額からは嫌な汗が流れてくる。
「吉富さんは……俺様も怖いな」
 福地は羽織の襟が木の枝に引っかかり、二人してのっぴきならぬ状態で真上の吉富を見つめ、

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「ごめんなさい」
 頭を垂れた。


「いつもながらにぎやかでけっこう」
 二階の騒動を何一つ気にせずに、大久保は吉富の入れた茶を飲んでいる。
 大久保と顔を合わせて後、木戸はきちんと着替えた。今は和装で大久保の前に坐している。
 木戸はチラリと大久保の頬を見た。ずいぶんと薄くなっていたが、昨日、木戸が平手打ちした痕はくっきりと残っている。これを隠さずに内務省にあれば、その冷血無比の内務卿でも一つや二つ艶めいた噂が駆け巡るやもしれない。
「木戸さん、昨日のことですが」
 吉富は台所で聞き耳を立て、井上はこの場より逃げ去りたい様子だったが、それを山県が取り押さえている。
 大久保は長州の三巨匠に取り囲まれる形となったが、その姿からはいつもながらの余裕と冷え切った威厳が失われることはなかった。
「ちょうどいい。山県陸軍卿にも聞いていただきたい。次の仏蘭西公使館での晩餐会のことです」
 山県はわずかに視線を落としたが、すぐに大久保に先を促すように視線を送る。
「川路の警視庁は発足間近で心もとない。陸軍より警備を出していただきたい」
「陸軍より人を出せば……物々しすぎる。その晩餐会を中止にしては」

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「国家の威信がかかる」
「では……公使館を貸し切る」
「……貸し切るとな」
「国家の威信と政府の名誉に関わるならば、仏蘭西公使館を一日貸し切ってはいかがか」
「これは陸軍卿とは思えぬ突飛に飛んだ発想だ。公使館は治外法権が鉄則。貸し切ることは無謀に等しいですな」
「では内務卿が国家の威信をかけどうにでもなされよ。……治外法権たる異国の公使館に国家の陸軍を置くことなど不可能」
「……遠回しを。初めより陸軍は出せぬと言われればよかろう」
 大久保はまた茶を飲み、ふと木戸を見て、わずかに瞳を細めた。
「木戸さん。貴公はいかがですか」
 わずかに視線を落としていた木戸は、
「……国家の威信がそれほどに大切ですか」
 ゆっくりとつぶやいた。
「貴公がそれをおっしゃるのですか」
「あのものたちが何を考えているか分かりません。けれど天誅と攘夷を口にするならば、仏蘭西公使館で何が起きるか知れません。晩餐会は中止にしていただきましょう」
「それでは国家の面目がありません。お分かりのはず。襲撃があるゆえに中止となれば、未だこの国は野蛮国家としか見られはしない」
「大久保さん。……襲撃をされ、人を失ったら、それもまた国家の恥辱ではございませんか」
 木戸の黒曜の目は有無を言わさぬ力をもって、大久保を見据える。

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「貴公には責任がございましょう。襲撃犯の」
「……確かに」
 ゆっくりとその瞳を閉ざしつつも、木戸はその下げられた顔に何一つ迷いを刻んではいない。
 弱さを包み込んであまりあるほどに、今の木戸はしなやかな強さがその顔に滲み出る。
「私に責任はございます」
「……実にきれいな顔です。私の木戸さん」
 つい大久保は木戸に向けて手を差しのばしたが、頬に触れる前に、井上の手にペシッと跳ねのけられた。
 それも容赦のない……多分に何かしらの感情が込められており、大久保はわずかに顔をあげた。
 今、タバコを火をつけずに咥えるどこぞの陸軍卿ならば納得するが、井上が跳ねのけようとは大久保とて論外であったのだろう。
「桂さんがきれいなのはいつものことだ。いまさら……しかもアンタのものじゃねぇよ」
 ふん、と鼻を鳴らし、懐より愛用の煙管を取り出し、雁首の火皿にタバコを詰めるその行為は、実に手慣れていて、はたから見てもさまになっていた。
 こういう洒落た動作に、ふとした艶を感じさせる男だが、
「って俺様じゃなく、そこの山県が目でいってやがるぞ」
 そのケラケラとした笑いが、一瞬の艶をすべて台無しにしてしまう。
「おい、桂さんよ。この木偶の棒のどこぞのカッカさんよ。なんだか固まっているぞ」
 ゆっくりと瞳をあげ、木戸はにこりと笑った。

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「では目を覚まさせてあげましょうか」
 と、こちらはあでやかに笑ったのだが、漲る暗い気迫が悪寒を催させたらしく、大久保は我にかえた。
「これ以上、平手の痕をつけないでいただきたいのですが」
「大久保さんが身の毛もよだつことをおっしゃるからではありませんか」
「人が意識を失っておる際のおこし方としては……いささか貴公としては乱暴な。もしや、これが愛というものでしょうか」
 思わず握りしめた拳を、あえて木戸は理性で止めようとはしなかったのだが、山県が片手で制した。
「仏蘭西公使館の晩餐会の件をいかがするか決めて後に、殴られた方がいい。ここで気絶されたならば、決定が遅れる」
 タバコを咥えたままの姿が妙に板についている山県が、いちばんに冷静に事を進める。その闇そのものの瞳をわずかに細め、さっさと決めろ、と迫っている。
「先のことに話を戻すが、公使館は一日のみ引っ越していただいてはいかがか。内務卿ならばどのような理由もつくであろう。
 もぬけの空になりし公使館に引き込む」
 慎重と冷静を旨とする山県にしては、先ほどより大胆な提案ばかりを表に出す。木戸は少しばかり気にかかり、山県の背広をクイッと引っ張った。
「たかが数人の襲撃犯のためにかね」
 大久保は話しにならん、といった顔で山県を見据えるばかり。
「……たかが、だ。だが公使館の警備を増やそうとも、中止にしようとも国家の威信にかかわるならば、余興で公使館を説得し、襲撃犯を出し抜いてはいかがだ。今回のことはどう転ぼうが結果は国家の威信に結び付くようになっている」

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「ならよ。いっそ招待客はぜんぶ替え玉。公使館の職員もぜんぶ警視庁のものにして、公使館の人は、なんか面白い余興をつくってよ。ぜんぶ迎賓館に移すって案はどうだ」
 井上は冗談半分で口にしたようだが、不意に大久保と山県の目は、井上を凝視する。
「……冗談だってよ」
「井上くんにしては面白いことをいう」
 大久保が腕を組み熟考の態勢に入り、
「だがこういう替え玉作は必ずどこからか知れる」
「だが、万に一つ当たれば一網打尽ではないかね、陸軍卿」
「私には敵はそれほど甘くないように思える。ましてや……今回の天誅騒動。裏を探った方が良い」
「木戸さんはいかが思われますか」
 大久保の問いに、木戸は軽く首をひねり、そして、
「面白いと思います」
 にこりと笑った。
「聞多らしく奇想天外で」
「おいよ、桂さん。だからよ、俺様は半ば冗談でな」
「迎賓館で仮面舞踊会を実施していただきましょう。公使館の方々はそちらに。使用人の方は、一つの部屋に薬でも使って眠っていていただくとして」
「か、……桂さんよ。アンタ、物騒なことを平然というな」
「これならば国家の威信も対面もそれほど傷つかずに済む。
 仏蘭西公使館での晩餐会は、仮面舞踊会に変更につき、より広き場所を望んで迎賓館で実施ということで。こういうことは聞多が得意のはず。うまく公使館を説得しておくれね。
 仏蘭西側としても一国の迎賓館を拝借できるとなれば、

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それほど悪い話ではないはず。招待客には内密に招待状ではなく伝令を走らせることにしましょう」
 木戸の目は楽しげに、だがひとつの思惑と覚悟を込めてわずかに揺らぐ。目ざとく、井上と山県が止めにかかろうとするが、
「よろしい。それでいきましょう」
 大久保が制するように、賛同を打った。
「ただし、仏蘭西公使館の方に貴公は正装で来ていただけますでしょうな」
「もちろんです、大久保さん」
 そうでなければ意味がない、と木戸はその瞳に込めた。
「当日、仏蘭西公使館の方に下手な騒ぎがないよう警視庁のものも陸軍もいれません。貸し切るとはいえ治外法権の原則は国家の法。守らなくてはなりません」
「当然のことです」
「……当日は館内には、少人数で」
「ご随意のままに」
「貴兄は」
 山県がわずかに顔色を変え、木戸を見る。
「なにを考えておられる。これでは……」
「よいのだよ、狂介。こうせねばならない。襲撃犯は……きっときます。もぬけの公使館の方に」
「私も然様に存じます」
「えぇ。めずらしく意見があいましたね、大久保さん」
「いつもこうありたいものです」
 単なるその場の軽い乗りで、この薩長の巨頭は頷いたとしか思えず、煙管を片手に井上は茫然自失。その目は「おいおい」と救いを求めるように山県を見たが、

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こちらの陸軍卿も何やら物思いにふけっている。
 その後、一切口を開かない山県をとりあえずは無視し、三人で段取りに入った。
 井上にはとてもとても成功するとは思えない。
 早々に襲撃犯に感づかれ、政府の威信をもぐりの新聞にでも突かれるだけのような気がする。
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事件ファイル2― 16-9

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