松菊探偵事務所―事件ファイル2―

20章

「ご無沙汰しております」
 福沢を客間に招き入れた木戸は、頭を下げつつ挨拶をする。
「木戸さんもお元気そうでよろしいことだ」
 木戸と福沢は旧知の仲である。
 明治に入り、思想家の一面が強い福沢諭吉の未来構造をよく耳を傾けて聞くのは、この木戸が最も多かった。よく三田にある福沢邸を訪ね、福沢の意見をじっくりと聞いたものである。木戸は福沢に共鳴し、そのため木戸が預かる文部省には福沢の門下生が多数連なった。田中不二麿や九鬼隆一といった一種癖のある天才肌の男を木戸は取り入れた。
「在野にて探偵事務所たるものを開いたと聞き、覗きがてら依頼をさせていただきたくお訪ねした」
「福沢先生が探偵に依頼を。……意外です」
「というかゆーたんよ。単に何か学生に質問されて、分からねぇって言えなかったんじゃないのか。それで誰かに調べてもらおうってな」
「……黙りやがれ、福地、ゆーたんとは言うな」
「……図星かよ」
「………」
 福沢の表情を明確に読んだ福地は、クックッと喉を鳴らして笑った。
「共に使節団で異国にいった時に知ったその癖、変わらんな。図星を突かれた際は、わずかに口元が開く」
「………」

事件ファイル2― 20-1

 この二人、文久遣欧使節団に通訳として加わっている。当時、幕臣で正確な英語を話せる人間としては、後に「天下の双福」と呼ばれるこの二人が最も名を馳せていた。
「と言うことで、木戸さん。ここはたんとゆーさんに恩を売っておけば後々に役立つかもしれん。どんな依頼なのか聞くだけは聞いてやろうってもんだ」
「何さまのつもりだ、福地」
「俺様は福地源一郎さまだ。それが何だゆーたん」
 胸を張る福地に、わずかに襖を開けて障子越しに事の成り行きを見ていた青木は、つい扇子をポンと投げつけてしまった。
「なにをするか、チビガキ」
「だから自称の天才くんは嫌だねぇ。自分より賢そうな人間を見るときゃんきゃん吠える。僕はいつもこれで苦労をさせられているというか」
「なめんな、この馬鹿で無能なガキが」
 福地は部屋を出て行き、またしても青木と取っ組み合いの喧嘩を始めた。この頃は仕事といっても頭脳戦となっているので、おそらく体力が有り余っているのだろう。そうに違いない。
「おやめなさい。それほどに力があまっているなら、道の普請に赴き日銭を稼いできなさい」
 わずかに肩越しに振り向いた木戸の目には、吉富に猫のように襟首をひっつかまれた二人の姿がある。間違いなくお外にぽいの体勢だった。
「……騒々しく申し訳ありません」
「だが、木戸さんは楽しそうだ」
 福沢は口元に冷めた笑みを乗せる。と、扉が開きなぜか井上が茶を運んできた。福沢はそれを手に取り、

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「井上元大蔵大輔がここにいるとはな」
「俺様は実業界入りしたのさ。三井の手助けもあるし、益田といっちょ大きな仕事をしようと思っている」
「……官には戻らんと受け取れる言い方でもあり、いつか戻るとも受け取れる」
「さぁな。俺様も後々は知れん。必要となれば戻るかもしれんが、政府なぞよりも経済の方がたんと面白いぞ」
 なぁ。政治家嫌いな福沢先生よ、と井上は幾分揶揄を込めた笑いを見せた。
「……井上元大蔵大輔の言う通りかもしれん。政府よりも財界などの方が貴君にはよくあっているように見えなくもない」
「ほうほう。福沢先生は物分かりがよいな」
「だが、ひとつ。この真っ黒な茶は何か」
 ハッとしたのは木戸だ。思わず湯呑茶碗の中を覗きこみギョッと腰が引けた。そこにはドロドロな人を一人か二人殺せそうな真っ黒な液体が入れられている。
「これは滋養の効果がたんと込められた俺様特性の茶だぞ。中国の漢方の書を下地に俺様が作ったんだ。この頃、桂さんも顔色が悪いしよ。ついでに福沢先生もさえない顔色をしているからな。遠慮せずに飲んでくれ。いっぱい作ってある」
 福沢は見事に固まっている。気持ちだけはとても木戸には分かった。これが一握でも邪な思いがあるならば、不気味なものを飲むつもりはなかろう。だが、だ。この政界の汚職の権化と言わしめた井上馨が、まさに善意一色で茶を差し出しているのだ。それも多分な気遣いまで加えるという隙のなさまで見せている。さすがに天下の福沢諭吉も、人の好意を無にすることはできぬことと言えた。

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「も……聞多。茶には人が好む味があるのだよ。さすがに今は、滋養ではなく普通の茶をね」
 これ以上、井上料理の犠牲者を作ってはならない。
「けどな、桂さん。どう見ても福沢先生は顔色が優れないと思うぞ」
「福沢先生はいつもこのような顔色なのだよ」
「そうなのか。じゃあそれを飲むとな。きっと赤味がさして、顔色が良くなるぞ」
 さらに断れない境地に福沢を追いこんでしまった。
 申し訳ない、と会釈を合図に送るが、福沢は何か悲壮な覚悟をしたらしく、無表情でその茶を一気に飲み干したのだ。
(なんと無茶な……)
 ゴクリと喉を鳴らして飲み干し、コトンとその茶碗を畳の上に置いた瞬間、福沢は仰向けのまま倒れてしまった。
「……福沢先生」
 慌ててその体を支えた木戸だが、福沢は白眼をむいている。この茶は相当に強烈なものだったに違いない。
「大丈夫ですか、福沢先生。しっかりしてください」
 わずかに気に病んだのか、井上は「うーん」と木戸の方に出した茶を見て、一口ゴクリと飲んでみる。
「なぁんも変わらん。漢方のちょいと濃いくらいの茶だぜ」
 井上のちょいと濃いは……はなはだ濃いと解釈しないとならない。いやそれはまだまだ甘い考えだ。言いかえるならば、一人や二人、三途の川に吹き飛ばす効力があるといった方がいい。木戸は顔面蒼白となり、鼓動もドクドクと飛び跳ねる。
 わずか後、福沢の白眼がきちんと光を持ち始めた。木戸は安堵の吐息を落とす。

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「福沢先生」
「……美しき花畑と川を見た。子どもたちが石を摘んでいる景色も見えた」
 きっとそれは賽の河原に違いない。あぁおそらく一瞬にして三途の川付近に飛んでしまったのだろう。
「そんなに変な味がしたか、福沢先生」
 この答えを聞くのが、木戸はとても怖かった。なにせ木戸や長州の人間は、井上の善意でしかない手料理を未だに「不味い」と言えずにいる。
「味はいまいち分からない。が、不思議なくらい頭が冴えわたっている」
「えっ……」
 木戸は思わずポカーンとした顔となってしまった。
「今からならば原稿がとてつもない早さで進むだろう。英書の翻訳が効率より進むに違いない。井上元大蔵大輔。今の頭をすっきりさせる茶、どう作ったか。この俺に教える気はないか」
 気は気は確かか……福沢先生、と叫びたい木戸だが、福沢の目はまさに本気だ。
「いいぜ。俺様は自分の手料理については、包み隠さず誰にでも門戸を開くのじゃ」
「長州閥にしては実に寛大。この茶を義塾で広めれば、さぞや学生たちも頭もさえ勉学にいそしめるに違いない」
 福沢は今、何かの闘志に静かに燃えている。
「おう。大いなる未来がある諸君のために俺様はこの茶の作り方を福沢先生に教えようじゃないか」
「頼もしい限りだ。これからは貴君をただの汚職官とは見ずに、一人の料理人として見ることにしようじゃないか」

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「そうしてくれよ。福沢先生がこんなに料理に理解があるとは思わんかったな」
「貴君がこれほどに寛大で大らかな性格とは思いもよらなかった。人はみかけに寄らずを実地で知らしめてくれて礼を言いたい限りだよ」
 普段は冷静な福沢が妙に昂ってはいるが、言っていることはやはり「毒」が随所に見られた。それを井上は一握たりとも気付かずに、ニコニコと笑うのだ。
「俺様の料理で役に立つものがあれば何でも言ってくれよ」
「それを、この福沢が新聞に載せても良いか」
「それが世のため人のためになるならば、喜んでだ」
 その一言に福沢はどうも感動したらしい。井上の手を握り「君は素晴らしい人だ」と絶賛。照れるぜ、と頭をかく井上を見つつ、
「この後は君を馨さんと呼ばせていただこうじゃないか。確か年も同じのはず」
「そうか。なら俺も俺も諭吉さんと呼ばせてもらうぜ」
 ここに一組の利害が一致したらしい友人関係が成立してしまった。しかも料理を媒介にし、三途の川を隔てた友情と言える。
「まだこの茶の残りがあるんだ。材料とかもあるしよ。どうだ、諭吉さん。見るか」
「ぜひとも拝見させていただこうじゃないか」
 二人連れたって土間の方に下りて行こうとするのを、ようやく我に返った木戸がさしとめた。
「福沢先生。本日の探偵事務所への御依頼は」
 これを聞かねば、今、背後で目を輝かせて事の状況をひっそりと見守っている吉富に促される。

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 一瞬何のことか、と考え、あぁ、と思いだしたらしい福沢は、
「探ってほしいことがひとつ」
「……探る?」
「現在、三田ではこの話題でもちきりだ。だが誰一人として真相にたどりつけず……議論紛糾の状態といえる」
「それは何でしょうか。我々で探れることなのでしょうか」
「廟堂の摂理は木戸さんに打ってつけであろう」
「……廟堂の摂理……」
「幕府時代より囁かれてきた七不思議のひとつのようなものだ。……今まで不思議の域をでなかったが、昨今は現実味をいささか帯びている。聞いたことはないかな、木戸さん。廟堂には司法や警察の手にて裁けぬものを抹殺する闇の始末人がいると言われている」
「はっ……はい?」
「その始末人は実在するのか。それとも七不思議に過ぎんのか。三田では議論が紛糾しておさまらない。さすがにこの俺も質問され、知らんとは言えんかった」
「私には初耳ですよ」
「そのため探ってもらいたいと依頼に参った。他でもない木戸さんに、だ」
「福沢先生。その廟堂にある闇の始末人がいるならば、ここにいる井上さんは真っ先に始末されているのではないですか」
 もっともな吉富の言葉だが、福沢はと言うと、
「世のため人のためこの後役に立つと悟ったのであろう」
「よう分かっているじゃないか、諭吉さんよ」
 木戸は頭が痛くなってきた。この福沢がこの井上と波長があう性格とは思っても居なかったのである。

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「七不思議の域をでないか、それとも実在するか。探ってほしい。そのための資料は提供する。……話では、その始末人と繋ぎを取る方法もあるようだが、多数あり何とも言えないのだ」
「繋ぎを取れるのですか」
「おそらくその手のことは、あの大久保内務卿あたりが詳しいのではないかと目星をつけている。……これを達成できるのは木戸さん。あなたしかいないだろう」
「おう、その通りだぜ。あの内務卿を探れるなど桂さんだけだろうよ」
「この件、お頼みする。早ければ早いほど良いといった状態だ。もしも我々の議論が現実味を帯びるならば……大転換になりかねん」
「福沢先生……」
「とりあえずは……これで依頼の内容は終わりだ。検証が済み探偵の材料となるものは木戸さんにお渡しする。よし、馨さん、その茶はどこだ」
「こっちだぜ」
 天にでも浮くかのような気分で井上についていった福沢の背を見つつ、木戸は茫然自失でその場で沈んでいた。
 七不思議。闇の始末人? そんなものがいたら、この世の中、もう少しまともになっているか。それともあの内務卿や川路に使われているならば、暗黒の時代がチラチラと見える。
「……木戸さん、この依頼」
「やりますよ」
 吉富に向けて木戸は力なく笑った。
「実在するならば、どのような機関でどのような命令系統にあるのか、きちんと探らねばならないですから」

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 もしかすると大久保内務卿の喉元に突き刺す刃となるほどの「弱味」になるやもしれない。
 蝶次に思いを馳せ、胸を痛め続けるよりは、そう……何かに夢中になっている方が今はいい。
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事件ファイル2― 20-9

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