松菊探偵事務所―事件ファイル2―

13章

 それは、あの動乱の京都でのことだった。
『桂さん。こいつ、一人ぼっちなんじゃよ』
 高杉晋作が手を繋いで連れて来た少年は、決して人を信じぬという……猜疑心丸出しながらも、静かな目を向けてきた。
 黒で染められた髪の毛先に、わずかだが金の色が見え隠れしている。陽の光を浴びると、チカチカと光り輝くその金粉を、あの時自分は眩しげに見つめ、
『きれいだね』
 思わず笑んでしまった。
 少年は少しばかり驚いた顔で瞬きを繰り返す。
 きっとこの髪のために今まで苛められてきただろう。鎖国として二百数十年あり続けたこの国の人は、自分たちと違う「色」を認めはしない。
 微笑みながら、自分はその髪に触れる。ビクリと肩を揺らしたが、少年は拒みはしなかった。
『お日様の色だね、君のこの髪は』
『桂さんならそういうと思ったんじゃ。きれいなのによ。隠していてもったいないじゃろうが』
 長州藩きっての攘夷の急先鋒の高杉だが、明らかに異国の血が流れているその少年には優しい顔をする。
 思えば高杉は身に深い傷を負った人間には、本人は自覚はないのだろうが、とても優しい人間だった。
『しゃあないよな。この髪は染めんとお天とうさんの下は歩けんしな。こんなにきれいなのにもったいない。自分は好きじゃよ』

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 高杉は自分より少しばかり背が小さな少年の頭をポンポンと叩く。すると少しだけ首を振った少年に、そうじゃ、と高杉は手を打った。
『弐……という名前じゃ面白味が無い。そうじゃな。この髪はまるで蝶のようじゃとおもっちょった。どうじゃ。蝶次という名前は』
 少年は無表情なままポカーンとしている。
『今日からおまえさんの名前は蝶次じゃ。どうじゃ、気に食わんか』
『晋作。そのようなまた強引に』
『ずっと名前を考えていたんじゃよ。数の弐としか呼ばれていなかったというからじゃ。自分としては良い名じゃと思うが』
『蝶……次。蝶次……』
 少年は高杉が名づけた名を繰り返し、そして少しばかりはにかんだ笑顔を見せた。
 それは親に玩具を購入してもらった子供のような。嬉しさはその笑顔でしか表現できず、だが精一杯の喜びを笑顔で知らしめた。
『気に入ったじゃろう。そうか、嬉しいか。今日からおまえは蝶次じゃ』
 蝶次と名づけた少年を、高杉は自分桂小五郎に預けた。昨今忙しさを理由に食を受け付けなくなっている自分の見張りに適度だろう、と高杉は笑ったものだ。
 始めは何一つ感情を表に出さなかった少年が、自分を「桂先生」と呼び始めたのはいつ頃だったろう。
 頬に触れようと、頭を撫ぜようとも厭わず、ただ下を向いて自分の袖を握り締めた少年に、

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 自分は、幼い頃の自分自身をどことなく思い出していた。
 呪われた子、いらぬ子、と異母姉に突きつけられ、実家で居場所がどこにもなかった自分。この少年も同様の傷のつく言葉を何度も突きつけられてきただろう。
 傷つけられることに慣れ、好奇と蔑みに慣れ、優しさに微塵も慣れぬ少年には、人の温かさには警戒と猜疑を抱いてしまうのだろう。
『なにかあれば私を呼びなさい。必ず助けに駆けていくから』
 指きり、と小指を差し出すと、少年はまたきょとんとしたが、すぐに小さな笑い声を立て、小指を絡ませてくる。
『約束ははじめてデス』
 この少年が自らを偽らず、自らを傷つけられず、堂々と陽の光の下を歩いていけるように。
 この自分がかつて高杉に陽の光を感じたように、少年にとって何らかの光になれたら、と。
 蝶次という少年との最初で最後の約束は、常に自分の胸にとどまり続けていた。


「……蝶次」
 木戸の声に、力士の肩に担がれている男は、その目を見下ろすかのように向けて来た。
 一陣の風は蝶次の伸ばされた髪を悪戯をするかのように舞いあげる。
 ドキリとした。光を映す左目と、生まれながらに光を宿さぬその右目。左は木戸を見据え、右は無感情のまま真っ直ぐ前のみに向けられる。

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「蝶次」
「きゃあぁぁぁぁ」
 木戸の覇気とした声は、背後よりあがった悲鳴にかき消された。
 振り返った木戸の前には、銃刀を構えた山県とピストルを真っ直ぐに向けている井上。その前には……。
「公使夫人」
 何者かに押さえ込まれ首に短刀を突きつけられたこの度の宴の主催英国公使パークス夫人がある。
 公使ハリー・パークスの方は、急な出張で横浜に赴くことになったため、この場には居ない。
「遅れて悪かったな、蝶」
 公使夫人を押さえ込む男は、黒き頭巾に顔を覆われていた。目のみをさらす。
「遅い」
「だから悪かったって言っているだろう」
 男はニタリと笑い、スッと公使夫人の首筋に刃を軽く擦り付ける。
「久しぶりだな。長州の桂小五郎」
 木戸にはその男の顔に見覚えがあった。数ヶ月前、あえて木戸が馬車を殺気血走る場所に飛び込ませたとき、襲撃した連中らの頭目と思われる男だ。
 その時と同じ低き声が、誘う。
「人の邪魔が入らぬときにお迎えにあがると言いおいたが……邪魔ばかりだな」
 フッと笑ったのか頭巾がわずかに動いた。
「……長州閥か」

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 いつしか伊藤がピストルを、山田が短刀を男に向けて突きつけている。誰もが衝撃のあまりその場につんのめる者や泡を吹いて倒れるものがいる中、さすがにあの動乱の時代を駆けてきたものは反応が早い。
 一歩下がった位置にいる大久保を、サッと駆けつけてきた警視庁の川路利良ら巡査が身を囲んだが、長州の人間は皆、木戸の前に立ちそれぞれの武器を構えていた。
「邪魔だな」
 その男が小さく呟く。
「気をつけろ。眠り香を使う」
 出入り口でうずくまる福地の声に、緊張が走った。
 背後の二階の階段先に立つ五、六人の男が一斉に動く。木戸は前方を後輩たちに任せ、蝶次に視線を上げた。
「蝶次、君がその刃を向けるのは私だけではないのか」
 ヒラリと巨漢の男の肩から舞い降りた蝶次は、
「あなたは何も分かってはいない。昔も今も……桂小五郎」
「蝶次」
 生まれつき視力の持たぬ右目は、何一つ光を宿さぬというのに、一心に木戸だけを見据えているように見えた。
 空虚なまでに空虚に。されどその空虚が著しく哀しみを抱いているように見え、ドキリと胸が痛んだ。
 十年ぶりに再会した蝶次は、少年の時同様に華奢な体格ではあるが、背が若木のようにスラリと伸び、髪は長くふわりとしている。前髪は右目だけを隠す。
 木戸は守り袋の中に入っている写真の十五歳の蝶次しか知らない。
(背が伸びたね。髪が長くなって……大人になった)

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 嬉しくて涙が出てきそうだ。大人になったね、と蝶次を抱きしめたいと思い、それは決して許されぬことだと木戸は知る。
「全ての人間に告ぐ。そこから一歩でも動くな。動けば、この女の首はない」
 男は低く宣言し、さらに公使夫人の首元に刃を食い込ませる。
 ツーッと赤い血がポタリと床に落ちた瞬間、公使夫人は言葉なく、ふらりと意識を失った。
 ハリー・パークス夫人は明治前に、夫パークスと共に女人禁制の富士山に登頂したことで知られる。パークスは夫人を男装させて登らせた。
 夫人は舞踏会に招かれる日本の上流貴族婦人と比較すると、体格は頑健である。健康そのもので、あの難関の富士山に登頂できたのも頷ける。だが、これは一部の人間以外内密とされていることだ。その芯が強く気丈な夫人も、刃の前では自我を保って入られなかったらしい。
「蝶次、このようなことをしてどうする」
「貴方とて昔は攘夷のために駆け巡ったはず」
「……蝶次」
「時代が変わったとは言わせない。貴方の一言でどれだけの人間が血を流したか」
 短刀を握り締める手が震える。
 そんな木戸を察してか、伊藤が肩越しに振り返り叫んだ。
「木戸さん、聞かないで下さい。貴方を責める資格など誰にもない。この国はこの国家は……」
「攘夷と声高に叫んでいた長州がある時から掌を返した。裏切り者」
 そして伊藤の言葉を遮り、蝶次は声高に響く声で宣言する。

事件ファイル2― 13-6

「異国の者。異国と手を組む者。全てが敵だ」
 出会ったときより、蝶次は変わらない。
 異国人を憎み、異国を呪い、何よりも自分という存在を嫌った。
 長崎のオランダ商館勤めの蘭人と、長崎の遊郭の女郎との間に生まれた自らを。
 金色の髪を、視力の持たぬ右目を、自らに流れる異国の血を。憎んで恨んで、その思いは異国の人間に注がれた。
 だが、憎悪の中にある真なる思いを……気付かされたのは少しばかり後のことたが、木戸は分かっている。
 攘夷と叫ぶのは悲鳴。本当はいつも血の涙を流して、叫んでいた。
「蝶次」
 あの日、木戸は言った。もう攘夷など叫ばなくていい。君はそれを言ってはならない。
 いつか誰もが攘夷など叫ばない国になる。それまで辛抱しておくれ。異国人を好奇や揶揄をこめた目で見る人はいなくなるから。
「もういいから。やめなさい。こんなこと君はしてはいけない」
「……貴方はいつもそう奇麗ごとだ」
「蝶次」
「そうして……その奇麗事に命を賭ける」
 最後の最後まで守れず、導けず、まるで見捨てるかのように別離となってしまった蝶次。どれほどに自分を憎んできたか、と木戸の胸は痛む。どれだけ約束を破った自分を今この時でも呪っていようか。
「木戸さん」

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 山県の低き声に、感傷に浸っていた自らに気付く。
「自らが何をせねばならぬのか、たがえぬように」
「狂介」
「貴兄は……危うい」
 今、右目よりポタリと流れたのは感傷の涙。
 胸の痛みにより流れ落ちた思いは、木戸孝允としての思いとは別物の、過去の自分の思いの結晶。
「そろそろ終わりにしよう、長州の首魁殿」
 男は公使夫人をその場に突き放し、懐より何かを取り出した。
「目的は達した。桂、次の予告は仏蘭西公使館の舞踏会。厳重な警備を張れ。国の威信をかけろ。その威信というものがどんなに脆いものか見せよう。これは政府と俺らの勝負」
 そこの新聞記者を目指す元一等書記官殿、これは挑戦状だ。
 政府の威信にかけて逃げるな。威信にかけて賊など入らぬ警備をしろ。
 逆に新政府の威信を守るなら、異国に笑われる仰々しい警備はするな。
 さぁ新政府の高官。どちらを選ぶか。威信をかれるか、威信を守るか。
 最後の言葉とともに、男は懐から取り出したものを床に投げつけた。
 一瞬にして広がる煙の乱舞。一人、また一人と倒れていくのを見て、煙による即効性の催眠かと察した。
「き……きどさん……すっちゃ……ダメ」
 肩膝を折って耐える山田と、呼吸が乱れわずかにふらつく伊藤。
「なんじゃこれは。俺様はダメだ」

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 井上がその場にバタリと倒れると同時に、多くの人間が眠りに誘われる。
「木戸さん」
 大久保に名を呼ばれた。
 薩摩の人間はまさに気力だけでその場に立っていたが、川路などは既に目に気力は何一つない。
 木戸はその右に握っていた短刀を目の前の男に向けて放った。
「卑怯な手だ」
 短刀は男の右腕を刺し貫く。
「目的は達している。これは退散の手なだけだ、長州の桂」
 血がポタポタと音を立てて滴り落ちるのが響いた。男は短刀を構わず抜き、血が放出するのをまた関心が無いように放っておいた。
「私は桂ではない」
「私も蝶次も貴方を桂小五郎としか見ぬ。桂ゆえに挑む。桂ゆえに望む」
 男は笑った。
「志士桂小五郎に対し、我らは卑怯な手は用いはしない。今、この場で攘夷もできれば腐敗した政府の要人も全て殺せるが、それはしない。これはおまえとの勝負。我らを止められるのも、おまえ次第」
 幼い頃より体が弱く薬漬けであった木戸は、今でも医者より何種類もの薬を飲まされているため、こういう眠り香などにはほとんどかからない。だが周囲にチラリと視線を向ければ、先ほどまで陰口を叩いていた貴婦人たちは折り重なるように倒れ、貴族の男連中はある者は泡を吹き、ある者は白目を開けたまま……失神している。

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 周囲のほとんどの人間が眠り作用に負け倒れ、香りと戦うものでも膝を付き必死に眠気と戦うだけだ。
「これは挨拶代わりだ。こんなことに対処できぬならば政府など物の役に立たない」
「逃がさん」
 銃刀を男に突きつけたまま微動だにしない山県が、告げる。
「長州の山県か。その姿、高杉晋作が見たらいかが思うか」
 山県は昔より薬というものが全く効かぬ体をしていた。話では幼い頃、貧困のあまり山で食べれるものは捕り尽くし食べつくしたという。
 その中には毒草が混ざっていたらしく、何度か死にかけたこともあったらしいが、毒薬も処置すれば薬になり、また食べ物になる、と知ったという。これでは薬も効かなくなる。
 山県は顔を上げる。
「何を思おうが構わん」
 男は一歩引くと、山県の銃刀が一瞬の隙を逃さず突きに出た。
「山県陸軍卿よ」
「おまえらはこの人のいちばんの傷に触れた。たわけた乱舞まで用意してな」
「ほぉ」
「攘夷や天誅など如何様であろうと良かろう。卑怯呼ばわりされようが、攘夷を実行するならば異人を殺せばいい。それをせぬのは……おまえらの襲撃の意図は」
「勘の良い男は好かぬな」
 山県は銃刀を次の一撃に備え、
 木戸は、片足で軽軽と蝶のように飛ぶ……そう見えた蝶次の、姿だけを追った。

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 巨漢の男がその蝶次をまた肩に担ぎ、眠り香にて動けぬ人間たちを尻目に表門より颯爽と出て行く。
「蝶次」
「木戸さん、深追いはしない方が良い」
 駆け出そうとした木戸を、山県が片腕を広げて制止した。
 今度は山県の隙を目の前の男が見逃さない。退く絶好の機会とばかり、剣先を避け三歩後ろに下がった。
「………」
 しまった、とくり出した山県の一撃を軽くかわし、先に玄関先に駆けた仲間を追うように背を向ける。
 追おうとした山県だが、その時をして始めて膝の力が抜けた。
「狂介!」
 木戸がその体を支えるのとほぼ同じ時に、唯一この眠り香から無事だった福地源一郎が、ランプに灯りをともした。
「た……大変だ……き、木戸さん」
「どうしたんだい、源一郎」
「しょ……書記官がやられている」
 木戸の目の前は真っ暗になった。
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