松菊探偵事務所―事件ファイル2―

7章

 深夜に派手な騒音を奏でることになった福地は、どうにか受身態勢でなんと顔と利き手の左手を庇っての着地に成功した。
 それでも右半身は打ちつけ、胸元などかなり強打するはめに陥った。
「ステキな格好だね、福地君」
 そんな福地を上より見下ろし、青木はにんまりと笑う。
「このチビガキ。せっかくお前めがけて落ちてきたのに、なぜよける」
「なぜこの俺が福地君の着地用座布団にならないといけないのかな。……福地君のために痛い思いをするなんて、俺は絶対にごめんだよ」
「この俺様が怪我をしないために座布団にしてやるんだ。光栄に思え」
「ありえない。あぁだから嫌だ。こう天才を自称する男は唯我独尊すぎて」
「チビガキ」
「なにかな。高所恐怖症という自分の欠点を認めず、無謀にも木伝えで家に入ろうとして見事なまでに落下した格好悪い福地源一郎君」
「この野郎」
 身にいまだに激痛が残っていたが、その体に叱咤して福地は必殺の一撃を打ち出した。
 青木はふんと鼻で笑いながらその一撃を優雅に避けようとしたのだが、悪いことに避けたところに拳が繰り出されたのである。

事件ファイル2― 7-1

「ぐわぁ」
 福地の落下した傍らにばたりと倒れた青木を、今度は福地が見下ろす。
「このチビガキの分際で、俺をなめるからだ」
 衣服についた砂をはらい、打ちひしがれている青木の背中をゲシゲシと踏みながら、福地はズキリズキリと痛む胸元に触れた。
 咄嗟に利き腕と顔を庇った自分の判断力には感嘆するが、胸のこの痛みは予想外のことだ。
「おまえが座布団になればこんな痛みもなかったんだ」
「この自己中心なうぬぼれの……」
「なにかいったか。はん?」
 さらにゲシゲシと背中を踏みつけると、青木は「ふぎゃあ」とネコが威嚇しているときのような声をあげ、地面に顔を突っ伏した。
 ざまぁみろ、と笑った福地は、上よりの視線に気付き顔をあげる。
「源一郎、どうしたのだい」
 木戸の心配そうな顔を見て、福地はニタリと笑った。
「この通りさ、木戸さん。二階に上ろうとしたのだが、どうも俺は目があまりよろしくない。しかも月も星もないからな。灯篭の灯りが消えた瞬間、なにも見えなくなってこのざまだ」
「大丈夫? それにどうして周蔵が倒れて……」
「このチビガキのことはどうでもいいさ。どうせ……たんに今はこうして倒れていたいだけというやつだ」
「何が倒れていたいだけだ。公……僕の公。福地君がこうして僕を苛めますぅ」
「甘ったれた声を出すな。耳障りだ」

事件ファイル2― 7-2

「たかが二階にも上れずに無様にまっさかさまにおちた福地君に言われたくはないね」
「俺様はわざわざおまえめがけて落ちてやったのに、受け止められもしなかったチビガキが何をいう」
「はん? どうしてこの僕が福地君を受け止めないとならないのかね。頭でも打ってくれたら少しはまともな人間になれたかもしないのに、あぁ残念だ」
「このチビガキ」
「なにかな、自称天才なだけの福地源一郎君」
 またしてもこの深夜の長屋町で、しかも公衆の路で取っ組みあいをはじめようとしている二人に向け、
「黙れなさい」
 ばしゃり、と何一つ容赦なく、桶に入れてきた水を降りかけたのは吉富簡一だ。
「あなた方は反省も静かにできないのですか」
 寝巻き姿の吉富はまさに起こされて不機嫌といった体だ。怒るときはたいていは壮絶な微笑を称え、そこが頗る怖いといった感じなのだが、今はまさに不機嫌極まりないという気を体中に立ちこめ、はっきりといって福地はいつもの吉富以上に身の危険を感じるものがあった。
「ぼ、僕は悪くない。二階に上りだしたのも勝手におちたのも福地君ですよ」
「このチビガキ。おまえが受け止めなかったから悪いんだろう」
「勝手に昇っておちた福地君がよくもしゃあしゃあ、と」
「二人とも」
 低く、徹底された抑揚のない声音が、深夜の闇の中にこだまする。

事件ファイル2― 7-3

 思わず福地も青木もみをただし、まるで伺うように吉富の顔を見た。
「しばらく君たちは反省をすべきであると私は思います。そう……二人顔を合わせればいがみ合うばかり。このような夜中に人様の迷惑も考えず。よろしいですか。人様に迷惑のかからぬ反省をなさい。私が反省したと判断するまで、お二人とも、食事は抜きです」
 はい? と福地も青木も目を丸くした。
「反省もせずに食事にありつきたいのならば、自ら稼いでいらっしゃい。それまでは事務所の敷居を跨ぐことも許しません」
 それから木戸さん。その後ろに持っている縄でこの二人を家に入れてやろうなどとはお考えになられぬように。
 この二人にはお灸が必要です。
「よ、吉富さん。僕はなにも……」
「青木君も福地君も連帯責任ということをお忘れなく」
 ピシャリと戸を閉め、錠が下ろされる音が重く響いた。
「……公……」
 青木がまるで縋るように木戸を見上げる。
「なんだか俺はチビガキ同様に子ども扱いされているようで面白くないぞ」
「福地君。君は一刻も早く反省したまえ。僕はよぉく反省した。だから君もしたまえ」
「なにをしたんだよ、チビガキ」
「反省だよ。僕は君みたいな人間に付き合い低能な言い合いをしてしまったことを恥じ入るばかりだ。今後は君の誘いにはのってやらずに、僕は大人の処置をとることにする。だから君も悔い改め、さっさと反省したまえ」

事件ファイル2― 7-4

「まったく全然反省していないだろうが。そんなのであの吉富さんに通じると思っているのか。おまえがこうだと……いつまでも俺まで中に入れてもらえないではないか」
「よい気味ではないか」
「いいか、チビガキ。よぉく聞けよ。食事にありつけん。中にも入れてもらえない。とすれば……おまえ。おまえの生き甲斐たる木戸さんの側に寄らせてもらえないということだぞ」
 ピキッと青木の顔面に何か皹が入るのを見たような気が福地にはした。
「公……僕ぅ反省しました。今、とっても反省しました。うわあぁぁ……吉富さん、入れてぇ」
「馬鹿野郎。そうやって騒いでいればなおさら吉富さんの勘気はとけないだろうが」
「もとはといえば福地君が」
「おう、やるかチビガキ」
 二人を見つめている木戸は、重い重い吐息をこぼして、そっと臥所を閉めた。
 外でなにやら喚いている声は聞こえるが、気にしなければ良い。眠れないこともないのだ。
「助け縄を出すのかと思ったが」
 山県が灯篭をつけ、黒の異国製の目がねをかけて、なにやら手帳をめくっている。
「そのつもりだったけど……あの二人は少しばかり反省というものをした方がいいね」
 山県の側に寄り「疲れたよ」とその肩にもたれながら、ふと何か手帳に書き込んでいるのを見て、木戸は首を傾げる。
「どうしたのだい?」

事件ファイル2― 7-5

「明日、山田の予定はどうなっていたかと思いまして」
 陸軍卿たる山県は、おおよそ各人員の予定などを手帳に細かく記し把握していた。
「市に用事があるのかい」
「佐賀の乱の始末についての報告を受けねば、と」
「……そうだね」
 元参議にして佐賀の七賢人とまで称された江藤新平の刑死を思うと、木戸のその目は哀しくひそめられる。それを灯篭の淡い灯りが映し出していた。
 江藤新平という男は、今でもこう囁かれる。
 ……生まれるべきところを間違えた。彼が長州に生まれれば、木戸のよき補佐となれただろう。
 木戸と江藤にはその思考に共通点があり、望むべき理想にもさして違いはなかった。そのため最期の最期まで木戸は江藤を庇い、またその能力を高く評価していたのである。
 その江藤も佐賀の乱の首謀者に祭り上げられ、あの乱からして大久保に仕組まれた点もあるが……逝った。
「狂介……」
 灯篭が映し出す丸い点を目で追いつつ、木戸は山県の肩もとにもたれたままでいる。
「この世とは無情でしかないのかい」
 ひっそりと呟く声音に、ふと山県は何か嫌な物を感じてか木戸に視線を移した。
 その問いには答えなど要求していなかった。そっと木戸は目を閉ざす。
 外からはまだ福地と青木の言い合いが聞こえてくる。
 木戸は目を閉ざしながら、山県の吐息を聞いていた。

事件ファイル2― 7-6

 こうして甘えさせてくれる同郷の仲間があるのは実にありがたく、心を穏やかにさせてくれる。
「貴兄はそろそろ眠られたがよい」
 木戸さん、と肩をぽんと叩かれ、目をあけてコクリと頷きながら、
「やはり縄をたらしてあげようか」
「よした方がいい。あの二人が図に乗るだけだ」
「……外では寝づらいのではないかい」
「人間、眠るときはどこでも眠れる。まして凍死することもない気温だ」
「……狂介は……あの二人の心配はしてやらないのだね」
「貴兄が……実にお人よしすぎるのだ。ついでに昔からあの手の男に好かれすぎだ」
 学もあり弁も立ち、なによりも非凡な才能がある唯我独尊的な男に、木戸は妙に好かれる傾向がある。
「あのような男たちを構っていては疲れはしないのか」
「なぜ? とても楽しいよ」
 然様か、と決して理解できぬ心理に感服したように山県は呟き、灯篭を消すためにか手を伸ばす。
「つけておいた方がよいのではないかい。源一郎は目がさしてよろしくないから……」
「灯りを消せば貴兄が眠りについたと思い……あの二人も少しは静かになると思うが」
「そうかな」
 山県が灯篭の灯りを消すと、なぜかピタリと外よりの言い合いの声がやんだ。
 木戸はついクスクスと笑い声を出してしまう。

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「やはり助け縄を出してあげようかな」
「明日の夜まで吉富さんの勘気がおさまらねば、そうすればよい」
 今は眠った方がいい。今、助け縄を出せば、貴兄にあの吉富さんの怒りが向く。
 木戸は蒲団の中に入り、再び目を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。
 妙に疲れているということもあり、すぐにも眠りに身を任せようとしたときに、その脳裏に浮かんだ少年の姿に、手を伸ばして抱きしめたいと思った心。
 胸がぎしりぎしりと痛む。
 ……私に憎まれる資格はまだあるのかい、蝶次。


 早朝にいつも通りに目が覚めた山県は、傍らで規則正しい寝息を立てている木戸の顔を見て、なぜか安堵を抱いてしまった。
 あの幕末のときも、維新の後も、こうして木戸の寝顔を見つめてきたが、安らかな寝顔はそれほど見たことがない。
 いつも何かに堰きたてられているかのように息苦しく、何度も宙に手を伸ばしては失った存在を呼び続けたものだ。
 その木戸が今は規則正しい呼吸を繰り返し、その表情に安らぎに似たものを写している。
 音を立てぬように寝巻きを脱ぎ、背広をいつものように隙なく着込んだ山県は、見下ろすように木戸の顔を見つめ、その後にそっと自らの手をその頬に当ててみた。
 目が覚める気配はない。ほんのりと温かなその頬に、山県は「命」というものを思い、この人はここに在るという

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揺るぎのない事実にやはりホッとする。
(貴兄は……)
 無防備な寝顔を守りたいと思うのは、己の勝手。
 あの廟堂に立つ傷だらけの木戸を見守ってきただけに、思う。今のわずかに寂寥は感じるものの活き活きとした木戸を見られるならば「探偵」でもかまわないのだ。
 この国家の重鎮たる木戸の、一種の道楽に等しい「探偵」は、そのうち何かの圧力により粉々に粉砕するかもしれない。
 仲間に求められ、国に求められたならば、天性の政治家たる木戸孝允は、やはり居場所は「廟堂」しかないと、傷をさらに深めることを覚悟の上で立たねばならないときも来よう。
 それでも……今だけは。
 この春の夢にも似たこの一瞬のときだけは、山県は木戸の思いのままにすごさせてやりたいと思うのだ。
 頬より手を離すと、ふと木戸の手がゆらゆらと宙をさまよい、山県の手に触れた。
 ほんのわずか握り締めて後、ふわりと笑った木戸の顔を見て、よい夢でも見ているのだろう、と感じる。きっと遠き昔、まだ誰も失わず、心に傷を負う前のあの長州の地に。誰よりも大切だと認めていた幼馴染のもとに帰っていっているのではないか、心だけは、
 その手をゆっくりと離させ、気配を殺して、一階に下りた。
 日の出よりそれほど時は経過していない。東の空には朝の始まりを告げる緋色が闇をゆっくりと焼くかのように広がっている。
 薄いコートを羽織り、空を見つめながら静謐な空気を感じる。
 この時間が一番に心地よい。空気はすんでおり、この美しく冷えた空気は、人の心をも新たにしてくれるかのようだ。

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「………!」
 山県はふと足を止めた。
 事務所の前に積み重なっている酒樽に乗っかり、身を丸めて眠っている二つの姿が目に入る。
 表通りに大沢屋という酒屋の大店があり、その使用済みの酒樽が裏の長屋通りたるこの近辺に長く無造作に積み重ねられているという現状だ。この探偵事務所の横の千坪はくだない敷地は、その酒屋が居住区として使用人たちにあてている長屋である。
 山県は何一つ表情を変えずに、コートを脱いだ。
 人の気配にも目覚める気配がない青木と福地は、それなりに寒いらしく、無自覚とは思うが二人引っ付いて眠っている。
 外で眠らねばならないほどに、この二人に行き場所がないわけではあるまい。現在木戸家に居候中の青木はまだしも、福地にはこの帝都に一軒家を構えていたという記憶が山県にはあった。
 ぐったりと疲れきったという顔で熟睡している二人は、起きていれば小賢しく騒がしい男たちだが、寝顔は妙に落ち着いていて素直さが見える。
 ふわりと二人の背中にコートをかけた山県は、外気にわずかに震えたが、かまわずにその場より歩き出した。
 この時間ではおそらく馬車などつかまるまい。飯田町より九段の自宅まではさしたる距離はなく、歩こうと思った。
 ……本日は忙しない一日となろう。
 あの山田顕義を陸軍卿室に呼び出さねばならない。
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