逝く者、いくもの

14章

 二か月前までサラリとした雪に覆われていた蝦夷地に、今は福寿草がひょっこりと顔を出す。
 箱館市内からは、箱館山がまるで目前にあるかのように見ることができる。間近より見れば険しい山だが、一時ほどで徒歩で登ることができるという。それほどの標高はない。
 その箱館山のわずか先、海岸沿いに設えられているのが弁天台場である。箱館山のふもとと言える場所だ。万が一、箱館山が敵に奪われたならば、弁天台場は海と山の両局面から砲撃を浴びるだろう。
 弁天台場には、土方が率いてきた新選組の仲間が居ると聞く。
 小五郎は箱館市内の情勢を見ながら、わずかにふらつきながらも前へと歩いた。
 市内は騒然としていたが、今はまだそれほどに荒んではいない。だが榎本艦隊上陸より、箱館という街はどちらかというと良くて中立、悪くて箱館政府に反感を持っている。
 ペリー来航以来、異国に開かれた港町としてにぎわいを見せる箱館に、突如押し寄せた旧幕臣の集団は、そこに住まうものとしては厄介至極なものといえた。
 軍資金として用意してきた資金も底が付いたらしい。噂では開陽の沈没と共に海深く沈んだともいう。当初より財政難であったのだ箱館政権は。副総裁の松平太郎は、苦肉の策として貨幣鋳造に打って出た。贋金の方がまだ立派だ、と言われる劣悪貨幣が生まれ、それを市中に出回せる。後に戦後、この貨幣の回収に時の大蔵省はそれはそれは苦労をさせられた、という経緯まである。

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 また市中に関所を作り、老若男女すべての人間より通行税を徴収した。これがさらに評判を悪くした。賭博場を見逃す代わりに金銀を要求し、また楼閣や遊郭にも税をかけた。
 取れるところから、とにもかくにも税を押収するという徹底さに、箱館市民が憎悪に近い感情を持つのは致し方ないことかもしれない。
 それでも行き詰った財政。冬の蝦夷からはわずかな魚介物以外なにも確保できない現状。もはや市内の豪商から金銀を押収するしかない、という結論に至った松平を、これは土方が止めている。
 このような事情から、新政府の征討軍を箱館市民は歓迎する節すら見られた。早く言えば、彼らは箱館政権を黙認はしていたが、できれば今すぐにも出ていってほしかった。
 箱館政権も征討軍が上陸した場合、地元民が複数協力することは予想している。征討軍の密偵として地元民が入り込むことも、覚悟している。
 高松に黙って病院を抜けてきた小五郎は、市内の奇妙な静寂と喧騒をその目で見ていた。
 箱館市内をも占領されたならば、その時は……五稜郭も終わりを迎える。
『あまり歩き回るな。市内は荒れている』
 後を追ってきたのだろう。
 土方に腕を取られた時、小五郎は必死に呼吸を繰り返していた。わずかに立ちくらむのを察した土方が、人通りより連れだしてくれ、休む場所を見つけてくれた。
 小さな稲荷の中に入り、境内におかれた石を椅子変わりとして小五郎は座る。

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 胸よりこみあげる嘔吐感と、気を抜けば奪われかねない意識。
 体調が良くない時に無理をすると、それ見たことか、と体は悲鳴をあげ、苦しむ。
 土方が水を汲んできてくれた。それを飲み干し静かに呼吸を繰り返す。すると嘔吐感は静まり、どうにか喋れるほどに体調は落ち着く。
『相変わらずの無鉄砲さだ』
 冷や汗を土方は袖で拭ってくれた。
 小五郎は微笑を礼とし、もう一度水を口にする。
『少し血の気が戻ってきたな。土気色ですぐにも倒れるかと思ったぞ』
『……申し訳ありません。歳どの』
『申し訳ないと思うならな……無理はしないでくれよ。あんた、良くなったとはいうが労咳だぞ。俺は……その病でアンタを死なせたくはないんだ』
 新選組一番隊組長であった沖田総司が、江戸で労咳により亡くなったことは風の便りに聞いた。
 一度、剣を合わせたことがある。沖田自身は小五郎を『桂小五郎』とは知らなかっただろうが、あの無邪気な剣は私心もなく殺気すらない。無に等しく、無ゆえに冴えわたった。
 京都の街を震撼させた沖田も、局長近藤勇もすでにない。
 各隊の隊長も、ほとんどが鬼籍に入っているという。
 彼ら新選組に追われた長州の仲間たちも、国について語った多くの同志も姿を消した。あの禁門の政変で、逝ったものは多い。
 敵も味方も数多の血を流し、今、迎えたこの維新という革命。
 そこに小五郎は血の赤しか見いだせず、そして自らの血を持って『泰平』の供物としようとしている心をあえて否定はしない。

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 顔をあげれば目前に箱館山が見える。ここからもまるで目前に差し迫るかのような迫力で、悠然として山が在る。
 一度、山の頂上に登ってみたいものだ、と思ってきた。市内や五稜郭が頂上より見渡せると聴く。それは美しく、またちっぽけな造形のごとく……。
『歳どの。あの箱館山は見事な陣屋になります。征討軍にとっては』
 あの山を奪われたならば、すべてが終わる。
 山よりなだれ込む敵兵の姿がこの目に見える気がした。逃げ惑う箱館市内の人々。応戦する箱館政権の兵士。血が流れる。また血が無数に舞う。
『あそこは難航不落。手勢は置いているが、そう簡単には奪えんさ』
 箱館山を奪うために、征討軍はどの地点よりの上陸を目指すだろうか。
 一報では長州の山田が江差沖に上陸し、各地を落としつつ五稜郭に向かうとするならば……。
(薩摩は……西郷は出てこないのか)
 薩摩の巨匠がこの地に乗り込むとは考えられない。ましてや西郷自身、政府樹立とともに鹿児島に引き込んだ。農夫になりたいと本気で思っているそんな男だが、戦術面においては空恐ろしさを備える。
 長州のみに蝦夷を任せることはまずはありえまい。ならば薩摩で今すぐ出てくるのは、参謀黒田了介となる。
 陸の征討を長州に任せ、別働であの黒田ならば何か奇策をもって当たってくるのではないか。
『私は君たちより山田と黒田いう男は知っています』

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 おそらく黒田のことは、元教官として指導した大鳥がいちばんに詳しいだろう。
『………』
 思えば自分も大鳥も因果なものだ、と小五郎は思った。
 弟のように可愛がっていた後輩が、征討軍の事実上の総大将陸海軍参謀。
 江川塾で大鳥自身が教鞭をとった教え子であり、打ち解けた仲であった男が、征討軍陸軍参謀。
 同じ国に住まう『人』が、大義をかけて戦火を交える時世。合いまみえる人の中には、当然親しきものもある。顔見知りも、親戚同士ということもある。
 何かが間違っていた。何かが狂っている。
『山田市之允は軍略の天才村田蔵六の一番弟子です。機動と臨機応変を旨とする。師団を預かりながらも、時に別働隊を率い単身……なにをするか知れない』
『そこがアンタの胃の傷める要因だったのか』
『……山田も高杉も計り知れない叡智に恵まれていましたが。戦の天才には常にその心に歪というものがあるのかもしれません』
『箱館山か』
 土方はぽつりと呟き、顔をあげた。
 小五郎は睨むように箱館山に見つめ、いずれそこに立つだろう錦の御旗をこの時、夢想した。
 御旗が立つとき、人は息を飲み、呑まれる。
 あの鳥羽伏見の戦いで、尊皇攘夷の総本山というべき水戸藩出身の最後の将軍徳川慶喜は、どんな思いで御旗を見たのだろう。
 恭順姿勢を貫き兵を捨てて江戸に戻る最中に、なにを思ったのか。

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『歳どの』
『うん?』
『わたしは……いつまで生きているのでしょう』
『そんなことは知らんよ。そんなことは死んだら分からなくなる。だが、アンタはそう簡単には死ねんさ』
 ニッと笑った土方は、そのまま小五郎の手を引き、病院に戻り、病室に放り込んでいった。
 あまりに顔色が悪かったため、途中で馬を借り、嫌がる小五郎を馬に乗せ、その手綱をゆっくりと土方が引いたものだ。
『出陣前に……もう一度だけ来る』
 土方はそういって去った。
 高松が『無茶を』と怒り、今度は病室に監禁された小五郎だが、あの箱館山の姿が目より離れはしない。
 いつか訪れる未来。御旗が風になびくとき、自分はその御旗に刀を向けられるのだろうか。
 ふと、そんなことを思った。


 花がゆらゆらと揺れる。
 視線を感じ、土間に目を向けると、今、思い返していた人間の姿があることに気づく。
 先日訪れた際、出陣前にもう一度だけ顔を出すと言っていた。
 あの時は花は一厘しか咲いていなかったが、今は八部咲きといったところだ。風に揺れ、花は時に空を舞う。
「……行ってくる」
 土方のその軍服姿に小五郎の胸が跳ねた。
 乙部に上陸した征討軍との戦闘がきられたことは、

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すでに箱館病院にも一報が入っている。
 征討軍参謀山田市之允は直ちに江差に進軍を命令。峠越えとなれば、未だ山深くには雪が残るが、蝦夷にも初夏が近いこの時期だ。寒波に苦しむことはまずはない。
(……市……)
 覚悟済みとはいえ、参謀山田の名をこの耳に聴くたびに、小五郎の胸は痛んだ。
 ましてや山田が参謀として率いるならば、おそらく整武隊も一緒なのだろう。親しい人間の顔が目に浮かぶのを、小五郎は必死に打ち消す。
「多くのけが人が出ると思う。……その時は、頼む」
「歳どの……」
 軍服姿の土方は、まるで自らの分身と言うかのように刀を手に持つ。和泉守兼定。京都より片時も離さず土方の傍にあり続けたその刀は、今もまた戦の供をしようとしている。
「……生きて戻ってきてください」
「無理をしていうな。アンタ……今、かなり辛いだろう」
「………」
「俺はアンタの大事な人をこの刀で殺すかもしれない」
「……それでも」
 小五郎は顔をあげる。
「生きて戻ってきてください。私を置いて、私の知らぬところで先に逝かないでください」
 すると土方はわずかに戸惑った顔をしたが、続いて、フッと昔と変わらぬ邪気のない顔をして、小五郎を見る。
「二股という地の峠は、人間よりも熊の方が多いと思われる所だ。そこに台場を設けて敵を迎え撃つ。

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俺の戦法には適した場所さ」
 征討軍は江差を拠点とし三方面より、箱館を攻撃すると思われる。
 各拠点を落とすよりも、箱館湾に艦隊を結集させ、まず市内を落とす。敵の総本山のみ潰す一挙集中型も考えられたが、それを征討軍は避けた。
 この作戦に備えるために防備は箱館方面は厳重にしてはあるが、榎本自身、この作戦がいちばんに恐れたのではないか、と考えられる。
 犠牲も最小限で済む。箱館湾より五稜郭まで標準さえあえば、おそらく旗艦甲鉄よりの砲撃は着火するのではないか。
 征討軍がこの作戦を避けた理由として、軍備が強固となっているだろう箱館に集中攻撃を浴びせるより先に、兵糧などに補給拠点をひとつ確保しておく必要を考えたのだろう。
 ましてや短期間で戦争を終わらせては「見せしめ」の効果は少ない。
 じっくりと時間をかけ、軍備の差を旧幕府軍の最期の頑固者たちに、新政府としては知らしめる必要性もある。
 されど、三方面よりの進軍は利点もあれば、危険も多い。それでも山田市之允は、この戦法で行くことを全軍に通達した。
 江差を手中にするのはおそらく時間の問題と見れる。江差をひとつの拠点として、もうひとつ松前を手中にすれば、ここに三方面よりの箱館攻略に目途がつく。
 一つは海沿いの木古内方面。ここは大鳥と本多が向かう。海より艦隊の放射が予想される地域で、守備には困難を極めるだろう。ましてや木古内には、松前、江差両方面からの進軍が可能だ。

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 もう一つの江差より山沿いを通り箱館に入る二股口。
 土方は二股の山中の台場山に拠点を造り、ここで政府軍を迎え撃つ戦法をとる。
 地元民でも迷うけもの道であるが、されどここは一本道だ。左右より迎え撃てば、勝機は視える。
 山の奥深くというところも良い。海よりの艦隊の砲弾は考えなくても良いのだ。
 ただ……木古内方面とは連携となる。この二つの道は、箱館の手前の大野で合流する。また箱館のすぐ間近にある七重浜の海辺を守護する海軍が破れれば、帰路と兵糧路をふさがれるため撤退を余儀なくされるだろう。どちらかが破れ、政府軍に陣地を奪われれば、もう一方は退路を遮断され孤立する。
「……一緒に行きたそうな顔をしているがダメだ。アンタはまだ病みあがり。ついでに……コチラの方面は必ず……」
 長州の大物たちが出てくるに違いない。
「………」
「どんなに覚悟をしようとな。仲間の顔というのは、覚悟を粉砕するほどの威力を持つ」
 山田がいるならば、まず整武隊は一緒だ。おそらく品川や駒井といった村塾出身の馴染みのものも含まれる。
 もしも戦場であいまみえることとなったならば、自分は刃を「馴染み」のものたちに向けられるだろうか。
 想像するだけでも膝に力が入らず、その場で崩れそうになる。
 小五郎は息を乱しつつも、土方の軍服の袖を掴んだ。
「……必ず生きて……」
 わずかに動揺が含まれたその瞳を、小五郎は必死に見つめ続ける。

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「小五郎殿」
「………」
「アンタは生きろ」
 土方はそのまま踵を返し、去って行った。
 近づく夏を感じさせる温かな風が、土方のまっすぐな黒髪を戯れのように弄っては通り抜ける。
 小五郎は祈らずにはいられなかった。
 どれほどに残酷で、この胸を痛めつけることであろうとも、祈りをささげてしまう。
 ……どうか無事で。
 その思いは土方と同様の強さで、今、江差より攻め上がろうとしている馴染みの人間たちにも注がれる。
「……どうか……」
 そして思い知るのだ。
 どれほどに覚悟を決め、どれほどにかつてを捨てようとも、心の奥底に眠る「思い」というものだけは小五郎にはどうにもできない。この思いを沈めることも埋没させることも、凍結させることも……やはりできぬ。
(市……市は……今……)
 この戦に何を思い、今、その目は何を見ているのだろうか。
 土方の背が見えなくなったところで、小五郎は病院内に引き返した。
 大きく息を吸う。
 もう一度「覚悟」という二字を思い返し、思わず頭を左右に振った。
 覚悟はつけようとも、心は……「思い出」という感傷が、どこまでも自分の往く手を邪魔し続ける。

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「とし……どの……いち……」
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