逝く者、いくもの

3章

『桂さん』
 その幼馴染ほど、この自分の名を愛しげに呼んだ男はいない。
『好きじゃ、桂さん。いつまでも、いっとう好きじゃ』
 恥じらいもなく、面と向かってそんな言葉を紡ぐ幼馴染に、いつも自分は顔を真赤にして、説教をする。
 幼馴染はなにを言っても笑って、最後にはいつも『好きじゃ』で済ますそんな男。
 どれほどに愛しかったか知れない。
 その満面の笑顔が、自分を呼ぶ声音が、最後に差し伸べられたその骨と皮しかない手が……。
 あの手を握り締めて、いっそ一緒に逝けたらどれほどに楽か、と自分の心に過ぎった。
『生きて、いきて。桂さん、いきるんじゃ。自分や久坂らが見れんかったこの国の夜明けを見て欲しい』
 約束する。
 自分はいつも雲の上から、アンタの生きる道を見ているから。
 だから、桂さん。
 生きれんかった皆の分も生きて、いきて……。もういいとおもっても、生きて。決してその命を、自分から投げ出すことはせんといてほしい。
 厄介な誓いをしたものだ。おかげで自分は自ら命を断つこともできず、死に場所を求めて北の果てまでやってきてしまった。
 雪雲に覆われた空を見つめ、
 はらりはらりと降る雪を見据えて、

宵ニ咲ク花の如シ 3-1

 その空に映る面影に、いつも小五郎は涙する。
「迎えに来ておくれ」
 もう一度、今いちど、おまえたちに会いたい。


 その日は、普段の代わり映えのない日日とは少々違った。
「院長、榎本総裁がお越しです」
 小五郎はドキリとした。
 だが次の瞬間には自然と安堵を抱く。病室まで榎本は訪れることはあるまい。
 箱館政権(蝦夷共和国)の総裁に選挙によって選ばれた榎本は、旧幕府において海軍に席を置き、軍艦を管理する立場にいた。幕府側と官軍側の締結により、廃棄されるはずだった軍艦を率いて蝦夷地に趣き、ここに「独立政府」を築くことを宣言している。
「高松さん」
 よく通る声が響く。
 直接には顔を合わせたことはないが、彼のオランダにおける留学時代の話は耳に入ってきていた。
 この箱館政権で、小五郎と直接的に関わりがあるのは箱館奉行並の中島三郎助と土方くらいで、その他に顔を知るものはほぼない。それに安堵しているが、それでも万が一の場合があると思い、人と滅多に会することがない箱館病院にいることにした。
 榎本は高松とともに院長室に入っていく。
 おそらくこれからの戦についての話し合いだろう。
 小五郎は構わず治療を続けていると、
「小五郎殿」
 と、声がかかった。

逝く者、いくもの 3-2

 見知った声に顔をあげると、軍服姿の土方が立っている。榎本と共に病院を訪れたようだ。
「……歳どの」
 小五郎はわずかに笑んで駆け寄った。
「体の方はどうだ? 少しは持ち直したか」
「えぇ。無理をしなければ動くことも許されていますよ」
「それは良かった」
 かつて戦乱の京都で「鬼副長」と呼ばれし新選組副長土方歳三だが、この蝦夷地では和やかな顔ばかりだ。
 隊員もこの土方をよく慕い、一糸乱れぬ行動をする、と新選組は評判になっている。小村や田村といった若い隊員は「親」を見るように土方を見ていた。
「蝦夷地の冬は実に寒い。南国生まれの小五郎殿には過ごしづらくはないか」
「大丈夫です。雪はとてもきれいで、見ていて楽しいですよ」
「……そうか。小五郎殿」
「はい」
「弘前に集結しつつある征討軍を編成しているのは、……征討軍参謀薩摩の黒田。同じく長州の山田市之允だと耳にした」
「………」
「大丈夫か」
 この男らしい不器用な優しさに、小五郎は笑んだ。
「一介の兵士に、敵の大将の名は不用です」
「だが……」
「歳どの。私のことはお気になさらぬように。あなたは死に場所を与えてくださるだけでいい。……私の望みは闘って死ぬことだけになったのですから」

逝く者、いくもの 3-3

 土方は誰もに「昔からの友人」と小五郎を紹介し、箱館病院には見舞いに訪れる。実名が知れれば、小五郎の身は箱館政権の恰好な「人質」となり取引材料となり得る。それを避けるためにも、病院はうってつけの場所と言えた。
「私の死に場所を探してくださるのでしょう?」
 一刻も早く逝きたい。けれど自分から命を縮めることは決して許されない。そのため小五郎は身も心もボロボロになりながらも、こうして生きてきた。
「私は高松先生に快癒と認められれば、刀をもって戦場を駆けます」
「………」
「それだけが望みです」
「……一国をあんたは担える立場にあった」
「それは私の役割ではないのですよ」
 小五郎はもう一度笑うと、折りしも高松と榎本が院長室より出てきた。土方がわずかに目配せするが、小五郎はそのまま黙ったまま土方を見つめる。
 少し離れたところには護衛の人間も息を潜めて警戒にあたっていた。
「土方くん」
 榎本は穏やかに声をかけ、
「おや、そちらは」
「古くからの友人です」
 土方はそれだけを口にし、踵を返そうとした。
「君には治療にもあたってもらっているとも聞く。ありがとう」
 榎本が手を差し出す。これが西洋式の挨拶だと熟知していた小五郎は、無自覚にその手を取った。

逝く者、いくもの 3-4

「………君は西洋について学んだことがあるのかい」
 ハッとしても後の祭り。「蘭学で」と小五郎は付け加えた。
「その若さで医学の知識もある。これからも高松さんを助けてあげてください」
 榎本はわずかに奇異を感じたようだがそのまま去っていった。
 息が詰まる。
 自らを偽っている訳ではないが、ここでは一瞬でも気を許せない張り詰めたものがあった。
 小五郎は、年よりも数段と若く見える童顔を十二分に活用し「二十五歳」と年を偽ってもいる。
 名も真実の名ではない。当の昔に捨てた「小五郎」というありきたりの名を名乗るのも「死ぬため」だ。
 墓碑もいらない。名もいらない。
 一介の兵士として野に朽ち果ててよい。
 仲間が眠る京都にも萩にも戻れずとも、この雪が美しき地で自分はただの名もなき者として……在れればよかった。
「小五郎くん」
 と、高松が呼ぶ。
「君はここにいると苦しげな顔ばかりをする」
「私は治癒いたしましたら、兵士として……いきます」
「死ににいくのかい。それとも……生きるためにいくのかい」
「………」
「何故かな。君からは何一つ生への執着が見られない。何一つ見出せず、何一つ求められず。悟りきった感じが……儚すぎるな」
「高松先生は、親しきものを一時に失ったことがございますか」
「……患者以外でというならないね」
「いつも面倒ばかりをかけて、私の胃を痛くして。

逝く者、いくもの 3-5

それでも大切だった仲間が次々とあの戦乱で逝きました。私は彼らが望んだために生きて、ここまできました。ただ……それだけのために」
「自らの生きる希望は持てずに……かい」
「そのようなもの、幼馴染を亡くしたときに消えました」
「……君が生きることを望む人は多かろう」
「それも……捨ててきました」
 この蝦夷地には「過去」があるものが多い。
 その過去に誰もが触れずにいる。
「君の病は治らないよ」
「………」
「心の病が治らない限り、私は治癒とはいわん」
「……先生」
「土方くんは君が生きることを望んでいる。死ぬために治癒するなどごめんさ。医者にも失礼だ」
 ふん、と鼻を鳴らして高松は背を向けた。
「それに君は私の大事な手助け。ここにいるといい。すべてが終わるまで」
「………」
「いずれここにも官軍の連中らがくるやもしれん。……その際、私は戦う。患者を守るために戦う。武器は一切持たん。君はその手を見ると剣術ができると見た。ここでの仲間を守るために竹刀を握ってはくれないかね」
 武器ではなく、守るための「竹刀」
 新政府軍はおそらく銃を手にしているだろうが、それを竹刀で防げるとも思わず、何かの気休めに等しい。
「気休めですね……」

逝く者、いくもの 3-6

「それでもできることがある」
 小五郎は何も言わず、病院の内部に戻った。
「小五郎殿」
 と、同部屋の患者たちは、小五郎の顔を見ると笑う。
 負傷したものには敵味方もない。
 捨ててきた感情とはいえ、「薩摩」と「会津」にどれほどの憎しみを抱いているか知れぬ自分。
 だが高松の精神に感化されたのか、ここに「憎い相手」がいようとも、自分は「患者」と口にはできる。そこにどれほどの葛藤があろうか。矛盾があろうか。きれいごとをどれほどに並べ、患者を手当てしようとも、小五郎の心は悲鳴をあげ続けている。
 ……憎い。どれほどに憎いか。
 かの八月十八日の政変を。池田屋を。蛤御門の政変を。長州征討を。思い出せば出すほどに苦しくて息が止まるのではないか、と思う。
 敵味方なく公平に尽くす。
 所詮はきれいごとではないか、と時に冷ややかな視線を高松に向け、心の中では高松はあの戦争の際は徳川昭武の遣欧使節と共に西欧にいたゆえに知らぬのだ、と叫ぶ。
 人の心など所詮はその当人しか知れぬこと。憎悪も愛情も誰かと共有することは適わぬ……。
 小五郎は思う。
 この憎しみを、この哀しみを、このむなしさを誰かに理解されようとは思わない。
 憎くて憎くて……。
 会津の地が焦土にまみれ、無数の命が散り、罪もないものが阿鼻叫喚の地獄の中にあると聞こうと、それでも心は鎮まらない。

逝く者、いくもの 3-7

(……憎い!)
 不意に全てを諦観しきった自分の心に、未だ熱い「憎悪」が巣くっていることに小五郎は驚いた。
 憎しみは何も生み出しはしない、と理屈では分かろうとも、心がそれに納得はしない。この自分の狭量さは国家の政治家として致命的な欠点だと小五郎自身が認める。
(それでも……)
 仲間たちが死していくのをこの目で見た小五郎には、どうしても納得できないのだ。
 敵に情けをかける。患者となったその時より、すべての人を公平に等しく扱う。
 高松の精神はどこまでも尊く気高い。
 あの医者ならば、例え身内を殺した男でも、自らを傷つけた男でも……その精神のもと「患者」として扱い、公平に扱うことが適うのかもしれない。
 小五郎は会津遊撃隊の人間の古傷を手当てした。手は震え、顔などは真っ青になっていたようだ。ガタガタと震える自分を、その傷ついた会津兵はどこかすまなげに見ていた。
「……憎くて憎くて」
 人の心の「憎悪」の風化には時がどれほどかかるのだろう。また永遠に風化せぬ「傷み」とて存在しよう。
「……薩長が憎い」
 と、叫ぶ会津兵もいる。
 小五郎は微笑みながら、時に涙して、自らの感情を表に出す。
「……薩摩が憎い」
 人の感情とはそういうもので、どれほどに「偽善」の心で自らを覆いかぶそうとも、最終的には表に出る「憎悪」は

逝く者、いくもの 3-8

とめられはしない。
 先ほど榎本としたように、この手で同盟の際に薩摩の西郷吉之助と握手を交わした。
 できるならば一生、触れたくはなかった。憎いにくいその手は、大きく、温かく。人のぬくもりが、妙に悲しかった。
▼ 逝く者、いくもの 四章へ

逝く者、いくもの 3-9

逝く者、いくもの 3章

  • 【初出】 2010年4月3日
  • 【改定版】 2011年6月15日   【修正版】 2012年12月20日(木)   【第二次修正版】 2017年1月24日(火)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。