逝く者、いくもの

18章

 四月十八日早朝、松前の東南の白神に小五郎は一人立っていた。
 天気晴朗なれど、まさに波高し。眼下に広がる広大な海は、本日は波が異常に高く、激しく浜に打ち付ける。また突風も吹き、その激しさは小五郎の身をぐらりと揺らすほどでもあった。
 昨夜より歩きに歩き、ようやく白神までたどり着いたところだ。
 福島より松前への距離はおよそ七里。宵の時分、人目を避けつつ小五郎は松前に向かってひたすらに歩き続けた。ただ頭上に輝く月の灯りのみが頼りの道行であり、 時折、松前より引き上げてくる箱館側の兵士の幾人かに出会い、重傷の兵士を見つけると、懐に入れてきた薬草を使っての応急処置を施した。小五郎には箱館政権の総裁榎本武揚よりの従軍医者の手形があり、 それが兵士たちの警戒を解き、松前の状況を聞きやすくさせた。
 二十歳前後の遊撃隊士が、征討軍の松前折戸浜台場への攻撃の詳細を簡単に話してくれた。海から艦隊が無数の弾丸を放ってくるかと思えば、陸から怒涛のような進軍があった。台場からも征討軍の艦隊に向けて砲弾を放つも、そのほとんどが海の中に消えて行った。 それでも一度、あの「甲鉄」の左舷に砲弾が命中した時は、台場にある遊撃隊兵士は歓呼の雄たけびを放ち、抱き合って喜んだものだという。
「俺は未だに分からないことが一つあるんだ。牛の上刻(十二時)を回ったころにピタリと敵の砲撃が止まったんだ。それからしばらくの間、一発も撃ってこなかった」

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 おそらくそれは艦隊の方は「余裕綽綽」気分で、昼飯を取っていたのだろう、と小五郎は検討をつける。戊辰の戦の時もよくあった。圧倒的な兵力を有する側にとって、攻撃はさして急ぐものではないのだ。
 遊撃隊士は、その際敵の罠なのか、と台場は騒然としたといい、だが格好の小休止の時間となり、一息ついた心境になったという。台場から放つ砲はほとんどが海の藻屑と化したが、征討軍の弾丸は五割の確率で台場に命中し、見るからに人も大砲をも軽く吹き飛ばしていた。
 この機に大砲を打ちまくりたくとも、哀しいかな。征討軍の方では台場が撃つ砲の距離を計算し、決して届かぬ距離に悠々と浮いていた。反撃もできず、およそ三時間ほどの間、台場は休戦するしかなかった。
「腹が立った。あの海にゆらりと浮いている艦隊にイライラしてならなかったんだ。小馬鹿にしやがって」
 その後、艦隊と照らし合わせたのか、砲撃と同時に一個小隊が右翼、左翼の両側より台場に攻め込み、台場側は防戦一方となった。
「先陣を駆けてくるちっこい将校がいたな。誰かが、アレが大将だ。長州の参謀だと叫んでいたよ」
 瞬間、薬草を塗る小五郎の手がピタリと止まる。長州の参謀と言えば、ただ一人しかいない。山田市之允だ。箱館を出るまでの情報だと江差に上陸した山田は、二股口の指令をしていると耳に入っていた。 それが松前に出てきている。全軍の事実上の大将である山田は、松前総攻撃を人の手に任せきれなかったのかもしれない。
 台場を陥落させた征討軍はそのまま吉岡に逃げ去る箱館軍に

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追い打ちをかけず、松前の守備を固めた。松前城を始め、その周囲に征討軍の陣が張り巡らされている。
 この情報は実にありがたがったが、小五郎はわずかに危惧を抱いた。松前の陣に単身斬り込むことを考えているのだが、山田市之允の存在が心に躊躇いを抱かせる。
(市……)
 弟の如く可愛がっていた後輩を思い、小五郎の心は揺れた。この身は斬り込みによる死を求めてやまぬが、事切れた身体を決して長州の仲間に見せたくはなかった。他の兵士共々、野に打ち捨てられ、いずれ名もない兵士として葬られるのを望む。小五郎は、誰も知るものがない野に朽ち果てたい。それはこの身の遺体を見れば、かの長州の仲間たちは如何様に哀しむのかを、心の底から知っているからとも言える。
「遊撃隊の本山さんも死んだ。岡田さんも逝った。今は伊庭隊長が残るくらいだ」
「本山……小太郎さんも来ていたのか」
「本山さんは敵を抑えるために崖に一隊を率いて向かって死んだ」
 遠き昔の江戸の風景が、今、走馬灯のように過去のものになっていく。練兵館の塾頭であった小五郎。その横を如才ない風貌で歩いていた土方。団子を実に美味しそうに食べながら歩いていた伊庭八郎を、その友人の一人である本山小太郎は快活に笑って見ている。
 あれは夢だったのか。互いに笑いあい、今となっては馬鹿げた遊びもした。互いの身の上など語ることはなく、その分剣術について語り、世の動静について熱し、黒船に乗って異国にいってみたいと本気で話しあったあの頃は、もう思い出の名の遠い遠い

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ものとなってしまったのか。
 本山小太郎は征討軍の松前総攻撃のその日に逝った。最期に「俺は死ぬ」と遊撃隊の仲間に告げて絶命したと言われいる。
 元は幕府評定所の下級役人であったが、鳥羽伏見にて戊辰の戦の火ぶたが切られて後は、伊庭の遊撃隊に参加し、静岡、箱根と転戦。榎本艦隊と行動を共にするが、乗り合わせた美嘉保丸が転覆となり、船より脱出し江戸に命からがら戻ったという経歴がある。以降、政府軍と戦う意思が固く、 再度伊庭と共に横浜から英国の箱館行きの商船に乗り込み、霜月の半ばに箱館に到着した。箱館政権では歩兵頭として他の遊撃隊士共々松前の防備にあたっていたという。
「小太郎さんも……逝ったのか」
 あのお江戸の街で出会い、別れて以来、ついに一度として顔を合わせることがなかった友の、いつも朗らかに笑っていた顔を思いだし居たたまれない気持ちに苛まれる。
「伊庭隊長はどのあたりにおられますか」
 これだけは尋ねておかねばならない。道中、道すがらにばったりと出会う訳にはいかない人間だ。
 話によると伊庭は殿(しんがり)を引き受けたとのことで、一番最期に引きあげてくるのではないか、とのことだった。
 傷の応急手当も終わり、小五郎はそこで遊撃隊士と別れた。共に福島に引きあげようと誘われたが、後方から来る怪我人の治療を、と答えて、先を急ぎ、途中傷ついた殿の遊撃隊士を崖の上から目にした。
 威風堂々として歩く一人の兵士。軍服の左の肘より下はひらひらと風に舞う。箱根にて隻腕になったということは聞いた。その戦いぶりの凄まじさは東京にて錦絵になるほどに人気で、

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大勢の士族が伊庭に憧れていることも知っている。
 小五郎は遠くから伊庭の姿を見送った。これが殿ならば、箱館軍はすべて福島に引きあげは適う。征討軍に追い打ちをかける意思はやはりないようだ。
「……哀しいではすまない……苦しいでも。それは半身を奪われたかのように……やるせなく受け入れ難く。そうではないかい、八郎くん」
 本山は伊庭にとってはかけがえのない友であった。何よりも大切な、大切ということを一切隠さずに、いつもその目に込めて見ているほどに……愛くるしいまでに素直な思いでもあった。
 亡くした幼馴染を思って小五郎はやるせなくなる。あのとき、この身につきあげてきた痛みは、今も疼きになって心を攻め立てる。忘れるはずがない。この命ある限り、この痛みと共にあり続けよう。できうるならば、一時でも早く……今すぐにでも……逢いたくてたまらない。
 伊庭の姿を見送って後は、不思議と心に迷いがなくなった。もとよりこの箱館にこの身はあってはならぬ人間だ。その自分に気づく長州人があろうとも、なかろうとも、もはやこの足は止まらない。
 松前の市街地に入ると、所々に死がいが放置されていた。回収されていないところを見ると箱館側の兵士なのだろう。五体満足の遺体はほとんど見当たらず、首がない遺体。胴体が半分になっているものや、両足がないもの。大砲によって吹き飛ばされたと推測する。
「刀もいらない。ただ兵器の性能だけが勝負を決める」
 小五郎は松前の市街を見回しつつ、一隊が配置されている陣をくまなく探した。

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市街よりわずか一里ほどのところに多くの兵が詰めているのが知れる。あれが話に聞いた折戸浜台場だろうか。
 箱館より肌身離さず握ってきた愛刀備前長船清光を見る。数ある小五郎の刀の内、この刀はいちばん古くから小五郎の側にあった。
『これからの時代は刀など無用の長物』
 それを身をもって語った自分が、刀を愛しく抱きとめる。
 侍の時代は終わる。武士もいらぬ藩もいらぬ……この国は「日本」というひとつの国家として生まれ変わっていく。
 それを声高に叫んできたのは誰でもなく自分だ。
 維新の成就を、維新の大業を為すために戦争は必要と心では分かっている。数多の兵士を自らの号令のもとで戦地に送りだした際、小五郎は「正義」を語って鼓舞した。 人は戦争を始める際、命より尊ぶものがある、とし、平時になると命を最たるものとして尊ぶ傾聴がある。その伝統を承知の上で、大義を命の上に置いた。
 だが、だ。近代的兵器の優劣のみを競う現在の戦争は、それは「殺戮」でしかないのではないか。
 このような戦は知らない。このような……殺し合いではない一方的な「殺人」は見たことがない。
「いっそ……これたけの兵力があるなら……」
 五稜郭に総攻撃をかければいい。甲鉄という国内最強の軍艦がある今、征討軍はそれができるのではないだろうか。投入されるだろう兵士の数も箱館軍の倍以上となろう。 兵器も英国への借財をさらにふくらませようとも、必ず投入してくる。
 五稜郭への直接攻撃が海からしか適わぬというならば、まずは箱館の港に入り、市街地を抑える。

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 いや……むしろあの箱館山を抑えれば、全ては終わるのではないか。
 土方と共に見た箱館山の悠然とした姿を思い、あの際、小五郎は山頂になびく錦の御旗を夢想したことをも思い出す。
 なぜにそれをしないのか。まるで兵力を見せ付けるように、陣地のひとつひとつを壊滅していくのか。
 小五郎は軍事に明るくはなかった。自分には不得手と承知していたため、長州の軍事は村田と高杉に丸投げした。一切の口出しはしない。必要な武器、兵糧を確保するのが自分の役割と定めた。
『桂さんは外交が専門職だろう。政治家の顔で政治家として当たれ。戦は自分たちにまかせちょけ』
 政治家とはなんなのだろう。
 ふと疑問が胸によぎる。
 政治家はなにを為せばよいのか。当然、頭にあった答えが今は揺らいで、そして消えていった。考えてはならない。もう考えなくても良いではないか。自分は今から鬼籍に入る人間でしかないはずだ。
「……武士はいらない、刀もいらない」
 けれど、小五郎は笑う。
「私は武士だよ」
 剣術道場「練兵館」で学び塾頭に立った。剣士として名を馳せながらも、生涯、刀にて人を斬らぬという覚悟を抱き、小五郎は決して剣を用いはしなかった。 その頃から剣により為しえた「名」を下敷きとして、長州藩の外交官の道を知らず知らず辿ってきた。 剣を封じる。人を活かす剣と自らに刻み、人を殺す刃は必要ない、と言い聞かせて。

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 武士ではない、と揶揄されようとも、笑って、ここまで来た。
「最後くらい良いね、晋作」
 私に侍としてあることを許して欲しい。刀を握り、一人の武士として戦い、散ることを願う。
 ゆっくりと敵陣まで歩く。小五郎一人。しかも刀を持つのみで武装をとってはいない。見ようによっては、陣よりはぐれた味方の兵士と見ることもできよう。真っ直ぐ、ただまっすぐ歩を繰り出した。敵も不信に思いつつも武装をしていない小五郎に斬りかかってこない。
 歩く。
 稀有に思った兵士が「どこの藩だ」と尋ねてきた。
「………」
 答えなどない。
「蝦夷のものか。賊軍か」
 何度も耳にした言葉だった。小五郎自身もかの蛤御門の変の後、何度「薩賊」「会賊」と罵ってきたか知れない。戊辰の戦の折は、官軍の内部に身を置き、敵たるものを「賊軍」と一方的に貶めて、それを何一つ奇異に感じはしなかった。
「あの長州征伐の折、長州藩からして賊軍であった」
 自然と洩れた一言は、小五郎の心に突き刺さる。賊軍の汚名を返上するために、長州は駆け、暴走し、幾人の得がたい命が散ったか。
「なんだと」
 幕府が朝廷に働きかけたことにより長州藩は「賊軍」の汚名を被り、征伐まで受けた。以来、長州のものは「賊軍」に過敏に反応する。
「我が長州藩を愚弄するか」

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 男が刀を抜いた。
 なれぬ手つきだ。刀を用いたことなどないものだろう。
 小五郎は男を一瞬で峰打ちし、さらに歩く。
 異変に気付いたのか、十数人が陣屋から一斉に出てきた。
 ただ一人の襲来に鼻で笑うものが多い中、愛刀を手に、向かってくるものを瞬く間に気絶させ、小五郎は歩を止めはしない。一度身につけた剣術は衰えはしても、敵に対する感覚だけは抜けはしないのだ。
「刺客だ」
 思えば藩は自分を「刺客」にしようとは一度もしなかった。
 政務役の周布は、にんまりと笑いながら「政治」への行く道をいつも示してくれていた。剣士として名を馳せた小五郎に、剣術を求めはしない。無数の人斬りが横行した時において、剣を極めた小五郎に政を取らす。それは藩の一貫とした小五郎への意思といえた。
 京の街で、新選組などに常に命を狙われ続けた小五郎を、剣など知らぬものが身を挺して守ろうとした。あの時のやるせなさ。刀を抜こうと何度も思い、その度に幼馴染の言葉が耳に突き刺さった。
『アンタの手はきれいなままにしておきたい』
 この両手はどれほどの血に染まっているか知れないというのに、
 ただ人を斬ってはいない、というだけの手を握り締めて、幼馴染はそう嘯くのだ。
『きれいな手じゃ』
 この手を汚さぬためにどれほどの人が死んだだろう。
 自分が殺したのだ、と小五郎はいつも自分を責めて、

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 けれど、歩みを決して止めることはせず、ここまで来た。
「征討軍に申したきことあり」
 声高に告げる。
「ただ、その思いのみである」
 ……晋作、おまえは知っていたのかい。
 一度、刀を抜き、人を倒していくと、この刀は決してこの手より離れなくなることを。
 これが剣士の道であり、修羅の道。
 打ちかかるものをその手で倒し、銃弾を刀を翳し刀身にあてて避け、小五郎は進む。
 そこに陣幕から一人の背丈の小さな将校が出てきたのが目に入った。
「一人で我が陣屋に突入するとは、恐るべき剣豪? それとも死にたがり?」
 その声にピクリと小五郎の足は止まりかける。
 なぜ……やはり。
 その二重の感想は小五郎の素直なものと言えた。遊撃隊士が語っていた通り、事実上の総大将たる参謀山田市之允の姿がある。
(やはり松前にいたのかい、市)
 あるとしても松前城の内部にあってほしい、と心中では願っていた。
「一人で申したき事がありなんて、滅茶苦茶で無茶だけど、話しがあるなら聞くよ。僕は征討軍参謀山田市之允。ここまで一人で来る無茶苦茶な大バカ者は、実は大好きだ」
 ゆっくりと近寄ってくるその人の姿に、ついに小五郎は足を止めざるを得なくなった。
「山田参謀」

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 護衛の兵士が山田の前を取り囲んだが、山田はそれを邪険にするかのように手で追い払う。
「たった一人だ。しかも……見事な腕だね。ついでに誰一人殺していないところなど徹底……して……」
 それは、と言いかけたとき、山田の目がパチリと見開かれた。
 ここまでだ、と小五郎は悟る。
 死ぬために一人で此処まできた。立ちあうものに自分を殺してくれ、と願いながらも、この刀は敵を打ち倒し、誰一人として、この腕に憑いた剣に適うものはなく、死ぬどころか敵の大将の前まで来てしまった。
 不覚だった。何ゆえに銃の発射をしない。単発ならば、自分は条件反射でどうしても避けてしまう。
「………」
 敵の内部に深く入り込み、もはや引き返そうにも、背を向ければ、それで終わりだ。
 武士として敵に背を向けることは、死を覚悟した今、小五郎の矜持がどうしても許せない。
 一歩もう一歩と、山田に視線を向けたまま下がる。
「なんで……待って。待って……」
 一瞬の狼狽より我に返ったのか。山田が一歩、また一歩と近づいてくる。小五郎はそれに合わせて、一歩と下がる。
「誰も討つな。この人は敵ではない」
 指令を放ち、山田は足を速めた。
 刀の切っ先は近づく山田に真っ直ぐに向けたまま、退き、その手は例えようがないほどにガタガタと震えている。
「どうして……こんなところに」
「………」

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「なぜこんなところにいるの。どうして……ここは戦場だよ。戦場なんだよ」
 山田は銃刀を抜かず、ただ右手のみ小五郎に伸ばす。
 その手が刃をつかみ、握り締め、ポタリと血が滴るその時、刀がガタリとその場に音を立てて落ちた。
 この手より決して離れぬ刀。血を一滴も吸わぬ愛刀。もし手より離れるとするならば、それは、小五郎の命が消える時か、それともこの刀をして「殺したくない」と思わせる人間と対峙した時のみ。
「桂さん……桂さん」
 その場に崩れた小五郎を、両腕が包み込む。
 身体よりすべての力が抜けきり、その場に廃人のように小五郎は沈んだ。
「無事で、無事でよかった。どれほど…心配したか。桂さん……桂さん」
 激しく風が吹きすさび、
 青い空に雲が一筋行く。
 目で追いながら、身体はどこまでも冷え、心は冷めていった。
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