逝く者、いくもの

15章

 新政府軍が乙部に上陸し、真っ先に攻め入った江差では、ほとんど戦闘もなく、すんなりと事は運んでいた。
 今、宿舎より一人坂道を登っていた山田市之允は、一本の松の前を通り過ぎる。
 榎本脱走艦隊はこの江差を占拠し、奉行所も置いた。だが軍艦が入港する際に、榎本が心血を注いだ幕府最新鋭の旗艦「開陽」が沖合に沈んだという。
 地元民の話によれぱ、この小高にある松より、ちょうど開陽が沈んでいく情景が視えたらしい。榎本とあの新選組の土方が、この松より沈みゆく開陽を見つめ、松の枝を叩きながら涙したという真か否かは知れぬ話を耳にした。
 樹齢は三十年くらいだろうか。まだ若々しい松であり、枝ぶりもほっそりとしている。だが自分の背丈より高いことに山田は憎しみをこめて松を睨み据えることをやめはしない。
 先ほど、松前総攻撃が決した。
 現在、山田たちは地元の豪商村上三郎右衛門宅を本陣としており、今も軍議の最中だが、山田はあえて外に出た。
 海沿いということもあり江差は実に風が強い。ニシン漁の時期になると、海沿いに無数の人間が網を張るとも言う。その時期ももうすぐだ。風の音がこの港町をざわつかせる。
「……箱館か」
 ここより約八十キロ先には箱館がある。五稜郭を拠点とする敵将榎本武揚は、今、なにを考えているだろうか。
 榎本は、おそらく征討軍が一挙に「箱館」総攻撃に打って出る

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ことを警戒していただろう。
 箱館の東南にあたる立待岬に全軍を上陸させ、箱館市内と五稜郭を総攻撃する作戦は薩摩の黒田がしきりに唱えた。
 それが何よりも犠牲を少なくし、短期決戦には最良の手ではある。
 だが、全軍の事実上の指揮者である山田は、この作戦を退けた。
 敵も百戦錬磨の幕臣である。伝習隊、遊撃隊など当時の幕府最新鋭の兵が、そのまま五稜郭にはある。
 短期で戦局が決するならば良いが、もし長引いたならば、補給地点がない自分たちが追い込まれるのではないか。
「まずは江差。その次は、松前」
 確たる補給地点あってこそ戦う兵は安堵を抱く。
 戦争で補給を断たれ、飢餓地獄に至った過去の戦争を、山田は十二分に学んだ。
「それにあっという間に終わらせるとね。……少々、上が困るらしいし」
 あっさり白旗を挙げられたならば、新政府軍の軍備の巨大さを内外に示すことができない。
 何せ最新鋭の英国製の「甲鉄」を導入した戦争である。
「市ぃ……市!」
 坂の下から聞き馴染んだ声が聞こえ、山田は視線を下げる。
「大田黒参謀がしかめっ面をしているよ。そろそろ戻った方がいい」
 松下村塾で共に学んだ二歳年上の駒井政五郎が息せき切って、坂を上ってきた。駒井は、整武隊軍監である。
「それにしてもこの江差という場所は、急な坂が多い」

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 駒井ははぁはぁ、と呼吸を整える。
「高台に砦でも造れば守るに堅く、攻めるに難だけど……さ。今は高台にも甲鉄なら海から大砲でドカン。時代は変わったってことかな」
 この檜山奉行所が置かれた地点より、海までは一キロもない。
 榎本政権で江差奉行たる松岡四郎次郎が早々に松前に撤退した理由も、そこにあろう。
「今日の海が凪いでいる。艦隊には走行しやすいね」
「艦隊には木古内でようよう働いてもらうつもりだから、今のうちによぉく休んでもらわないとさ」
「市」
「なんだよ、駒井」
 駒井は何を思ってか、さらに上へと坂を登り始めた。
「……駒井?」
「ここは鰊がよく捕れるらしいね。戦争などに来ているのでなければ、若い兵たちも連れて美味しい鰊料理を食べたいところだけど」
「………」
「怖い目だね、市。そういう目をする時の君が僕は少し怖いよ」
「仕方ない。僕は全軍を預かっている」
「……いち……」
「村田先生が僕を押した。あの西郷は僕では危ういと思ってか、自分が出るつもりでいたらしいけど、それを先生は突っぱねたんだ。僕は先生の期待をこの戦争で示さねばならない」
 駒井はわずかに顔をしかめ、複雑そのものの顔をした。そして、山田より五歩ほど坂を登った地点で足を止める。
 駒井は海を見据えた。

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「今の市は、あの海も……戦争をする上での道具にしか見えていないみたいだ」
「……海は海でしかない。僕も、さ。駒井。あの海を更地にすることはできやしないさ」
 わずかにおどけて見せたが、駒井の表情は険しいままだ。
「けど……ね、市。あの海はきっと山口に繋がってる」
「……駒井」
「海を見ていると故郷を思う。そして、あぁ遠くまで来た。僕たちは、未開の果てまで来たと感慨深くなってしまうのだよ」
 駒井は海をジッと見続けている。
 遠く遠くを見つめるその目は、長州に残してきている父母や許嫁のことを思っているのかもしれない。
「さっさとこんな戦は終わらせてさ。帰ろうよ、駒井。僕も……山口に帰りたい。ついでにみんなに会いたい。いっとう桂さんに……」
 思わず口に出た名前は、長州の首魁たる木戸孝允の名である。
 極秘に東京の伊藤より伝えられた伝達に寄れば、現在行方不明とのことだ。
 伊藤や井上は「どこぞの温泉」で休んでいるのではないか、と考え、関東の温泉街を山縣などの奇兵隊を使い探索させているようだ。
 万が一にもないとは思うが、東北に居ることもあるかもしれないので、時間があれば周囲で聞きこみをして欲しい、と指令が届いていた。
 駒井は整武隊参謀の品川弥二郎と共に青森周辺で木戸の探索にあたったが、どこも全くのなしのつぶてだった。
「どこにいったのかな、桂さん」

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「あの方は……今まで背負ってきたものがあまりにも重いものだったから、ついに……緊張の糸が切れたのかもしれないね」
「なに? 駒井。それって桂さんが……」
「今、いちばんに必要なのは雲隠れなのかもしれない。体と心を休める場所を欲していると思うよ」
「確かにそうだけどさ。……今は、そんなことを言っていられる時じゃないと思う。桂さんあっての長州だし」
「市……あの長州征討の時から僕たちは桂さんに頼って……逃げられぬところに追い込んでしまった。だから、これからは少しでも桂さんを楽にしてあげないとダメなのだよ」
「駒井は……」
 山田は海を睨むようにして見つめる。
「こういう時、とっても大人だと思う。なんか悔しい」
「これでも市よりは二歳年上なのだから。僕もしっかりとしないとならないよ。……さて、大将殿。そろそろ軍議に戻らないと、大田黒殿の怒号が飛びますよ」
「戻りたくないなぁ」
「………市」
「分かっているけどさ。……そうだ、駒井。終わったら、鰊をたらふく食べよう。五月がニシン漁の最盛期だと聞いたんだ。僕は、鰊の子どものあのしゃきしゃきとした感触が大好きだったりする」
「……市らしいね」
「鰊御前を食べきれないほど目の前に並べてもらうんだ。ついでに燻製というやつ? 伊藤さんたちに土産に買って行こうかな」
 登ってきた坂を山田は駆け足で降りるが、駒井はいつまでたっても降りてはこない。

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「どうした、駒井」
「……なんでもないよ」
 坂の上に並ぶ民家を見ながら、駒井はようやく下ってくる。
 塩っ気を含む海風が駒井の髪をわずかに揺らしたが、それに構わず駒井は歩いた。
「どうしたんだよ、駒井らしくないな」
「……笑わないかい」
「面白い事なら腹を抱えて笑う」
「……別にね。面白いことじゃないよ。……この坂を登り切ったあの高台。何もないけど……あそこからならきっと海もきれいに見えるのかなって考えていたんだよ」
「昔から駒井は本当に海が好きだな」
「この北国の海はとても青く澄んでいて気に入っているんだよ。アイヌの人と少し話したのだけど、この箱館からはるかかなたの北東には、ね。人の目を惹いてやまぬ青き海があると言うんだ。……見てみたいなぁ」
「青き海……ね」
「険しい山を越えねばいけないところだと聞いた。それこそ命がけの経路と言うけど……」
「いいじゃないか、それ。僕もその青い海、見てみたいよ」
「本当に? それじゃあいつか……市、一緒に」
「そのためにも、この戦。さっさと終わらせるよ」
「そうだね。その意気込みだよ、大将殿」
「茶化すな」
 傍らに並んだ駒井は笑いながら、山田の背に肩を回す。
 五尺に満たない山田と、五尺二寸ほどの背丈の駒井。均衡は保てないが、いつもこうして二人は歩んできた。

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「松前の次は……二股か木古内。どちらに出てくると思う?」
「……新選組の土方のこと?」
「うん。京都でいろいろとあったから、できるなら土方と戦いたいと思っている。池田屋のこともあるし」
「それは運だな。けど土方はどちらかと言うと野武士の戦法が得意そうだ。二股の山奥かも知れない」
 今の今まで、優しく揺れていた駒井の目に熱が宿る。
「じゃあ僕は二股に行こう。市の勘が良く当たるのを信じて」
「それはこれからの軍議で決めるんだよ。あぁぁ、大田黒参謀の説教は長いからな。嫌だなぁ」
 番屋の前では、腕を組んでコチラを見ている品川の姿が見えた。
「うわぁ弥二だ。行こう、駒井。また御得意の嫌味を浴びせられる」
「そうだね」
 江差の地は、新政府軍に平定され、ほとんどの榎本側の旧幕臣は松前に退いていった。
 運悪く逃げ遅れた兵は、山田らが処罰する前に、幾人は地元の民に殺されている。残りの兵は無残だがさらし首とした。
 榎本軍が駐留して以来、関所が設けられ、その往来に老若男女すべてから通行税を徴収された。ニシンで賑わう街とは言え、税金を今までの二倍ほど科せられたなら、恨みも募るだろう。
 江差。アイヌ語「エサシ」より由来する地名である。語源の意味を尋ねると「岬」を意味すると知った。
 江戸時代からニシン漁で賑わい、その最盛期は「江差の五月は江戸にもない。出船入り船三千隻」と唄われるほどの繁栄を見せている。北前船の交流地点ともなり、人の行き来も盛んだ。

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 ニシン漁の時期である五月ごろは港は人で埋め尽くされるとのことだ。
(榎本軍さえ来なければ、平穏に毎年の五月がおくれただろうに)
 侍の矜持か何か知れぬが、地元の民には迷惑至極に違いない。
 ましてや榎本は朝廷に「蝦夷開拓」の願いを出したが、それを朝廷がわずかでも許すと考えたのだろうか。
 荒唐無稽と岩倉具視が退け、征討という二字が奏上された。
「僕はさ、駒井。にぎわう五月の江差の鰊漁を見てみたいよ」
 戦争よりも、その土地に生きる人々の営みである「ニシン漁」の方がずっと価値がある。
 戦など一月が二ヶ月もあれば片付くのは分かりきったこと。
 だがニシン漁はこれから先、幾歳もこの地で続いていく。
 また、戦によりニシン漁を中断させてしまっては、住民にとっては死活問題になり、その恨みの矛先は新政府となる。
「ニシンは体には良いらしいから、燻製を桂さんに土産で持って行こうと思っているし」
「市はほんとうに桂さんが好きなんだね」
「なんだよ。駒井は好きじゃないのか」
「好きだよ。だから……時々、僕は本当にあの人が哀れでならない」
 駒井の言う哀れという意味が、山田には掴み切れずにいた。
 長州閥の首魁。新政府ではこの後は、首班としてこの国を動かすことを約束された木戸が、なぜに「哀れ」なのか。
「おや、そこにいるのは市ではないか。いやぁ……遠くてね。さらに小さく見えるから、どこぞの幼子が駒井と一緒に歩いているのではないかと思ったよ」

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 品川が近寄ってきて、相変わらずの嫌味を山田に浴びせる。
「くわぁぁぁぁ、弥二、抹殺」
「まぁまぁ市。そう怒らないで」
「これが怒らずにいられるか」
「幼子じゃなくて市だったんだね。いやはやまた縮んだんじゃないか」
「くわぁぁぁぁ」
 村塾より変わらぬ風景。年も近かったこともあり、三人は机を並べて師吉田松陰より学んだ。
 松陰にその性格をとかく愛された品川弥二郎だが、一皮向けると嫌味が表に出、それもほとんどは山田に向く。
「敵さんが二股に砦を作っているという情報が入った」
 散々に山田をからかって後、顔を引き締めて品川が告げる。
「大田黒参謀が怒り顔で待っている」
「……分かった」
「ついでに、な。地元の豪商に兵糧などの依頼の書状を連名で書くとのことさ。市、少しは名が売れたじゃないか」
「うるさい」
 江差の風は本日は穏やかに西南に吹く。
 道南で比較的穏やかな気候に恵まれたこの地は、冬でも降雪はほとんどなく、また気温もそれほど下がらない。
 まるで京都の気候の変動に似ていると言われるが、その海は、京都で見る海とはまるで違う。蒼くあおく……日本海の海はあらぶることが多いというが、今は静かに、波を打つ。
(この海よりもさらに青いのか……ちょっと見てみたいなぁ)
 北東のオホーツクの海は水深が深いことと、冬と夏の気温差が激しいためか、海は透き通るように青く魚介の宝庫だという。

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 また真冬には北方より「流氷」というものが流れ着き、海が氷に占領され、その上を人は歩けると言うのだ。
 駒井が目を輝かせるのもうなずける。山田も、その未開の光景をぜひ見てみたい。
「海……青き海」
 呟きつつ、山田は陣屋にと戻った。


 四月十一日、松前奉行人見勝太郎の指令のもと、遊撃隊と陸軍隊が江差奪還に向け進軍を始める。
 松前半島の海岸線を北上するこの路は、現在でいう江差を終着とする国道二百二十八号にあたる。この海沿いのルートは曲がりくねり、また日本海より叩きつける潮風が四月(旧暦)とは言え、気温以上の寒さを進軍する兵士に味あわせただろう。
 街道にはいくつかの逸話が残っている。
 この道沿いを通ると分かることだが、実に「松」の群生が目立つ。それゆえに生まれた逸話かもしれないが、現在の上ノ国町に芯止之松という話が残る。
 愛宕神社境内がその舞台だ。
 言い伝えを抜粋すると、明治二年、新政府軍と旧幕府軍の武士が神社前の街道で斬り合いになった。おそらくこの江差奪還戦の時のことと思われる。
 そこで優勢に切り合いを展開していた一方の武士が「お互いになんの恨みもないのだから、無駄な殺し合いはやめよう」と、近くの若い松を切って去ったという。
 以来、この松は「首切り松」と言われ、現在もその「首切り松」と思われる松は、枝を伸ばし悠然と神社にそびえている。

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 さて、旧幕府軍による江差奪還戦に話は戻す。
 松前を守る音に聞こえた遊撃隊の勇猛さはこの戦争では際立った。
 進軍する征討軍を一時は江差まで押し戻し、そのまま江差奪還をもくろんだが、征討軍はもう一方のルート(現在の道道五号)より木古内を伺う動きを見せたため、松前に退却を余儀なくされている。
 この間、五稜郭の本部と松前・江差方面の連携は実にお粗末なものと言わずを得ない。
 江差を放棄した江差奉行松岡四郎次郎と一聯隊だが、その後は部隊を編成し新政府軍と互角の戦いを展開していた。
 まさか江差・松前方面が勝利しているとは知れず、五稜郭本部は撤退の命令を出し、松岡は止むなく松前城に入ったといういきさつがある。
 そんな戦局は、箱館市内には伝わってはいない。
 明治二年四月十一日、その日の箱館は良く晴れ渡っていた。


 さして眠れずに起き上がった小五郎は、音を立てずに部屋より出た。四月とは言え、箱館の外気は冷たい。軽く寝巻に羽織って、外に出る。
 悠然とそびえる箱館山は、いつも通り泰然とある。山頂にも変化はなく、いつもと変わらぬ朝の清涼な空気が小五郎を包みこんでいた。
 乙部に新政府の征討軍が上陸したと情報を聞いて以来、確たるものは耳に入らない。混乱した情勢の中、征討軍は一万や五万といった噂は耳に入るが、端から小五郎は信じてはいなかった。

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 戊辰の戦で疲弊しているのは、薩長土肥を中心とする新政府も同様である。
 弘前藩と松前藩などの兵を投入したとしても、軍艦で最初に投入できるのは、多くて三千が良いところだろう。
 屈強な薩摩兵はほとんどが鹿児島に戻ったはずだ。
 まず出てくるとなれば、当然と言えるが長州を中心とし福山藩など山陽地方の部隊となるのではないか。
「……市……」
 この箱館で、敵の総大将に等しい人間を思うのは、いささか気が引けるが、小五郎は、約八十キロメートル先の江差にある男のことを考えていた。
 自然と手が合わさる。
 あかあかと輝く東の太陽に向けて、無自覚に祈りを捧げる形となった。
「私は……」
 二日前にこの病院を去って行った軍服姿の土方歳三の後ろ姿を思い、
 同時に「桂さん」と自分を慕ってくれた弟同様に思っている故郷の後輩を思う。
「なんと私は……情けないのか」
 この蝦夷に「死にに来た」ものが未だに生きている。
 そして知人たちがあい争う「戦争」を前にして、何もできずにこうして太陽に祈るしかない不甲斐ないこの身。
 胸に手をあて、小五郎は自らの鼓動を確かめる。
 堅く握った拳でもう一度、胸を叩く。そして、意思を込めて笑った。
「私もいきます、歳どの」

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 いつまでもこの病院内で忸怩たる思いを抱えていることに、もう小五郎は耐えられそうにない。
「きっとあなたは怒るでしょうけど」
 私は自分の願いをかなえるために、ただそのためだけにいく。
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逝く者、いくもの 15-13

逝く者、いくもの 15章