逝く者、いくもの

2章

「そろそろ横になりなさい」
 箱館病院では院長である高松凌雲の命令は絶対である。
 彼が仏蘭西で体験してきた病院を兼ねた医学学校「神の家」
 そこでは医者は、患者に対し一切の貧富の差別なく接し、常に最良の治療を施すという。
 その精神を高松は箱館で自ら実践しようとしている。
 高松は「自由・平等・博愛」の精神のもと、患者は平等とし、敵味方なく負傷すべきものは治療している。これには、いまだに箱館政権内でも反対するものが数多くいるが、高松は自らの信条を頑として曲げず、総裁榎本武揚(釜次郎)からもその方針の許可を取り付けた。
 そのため箱館病院には、新政府側につき松前で捕虜となったものや、峠下の一戦で傷ついた箱館府の兵士もいた。
「顔色が悪くなってきている。君のその病気には、疲労がいちばんの敵だよ」
 小五郎は言われるままに頷き、与えられた寝床にもぐりこんだ。
 労咳と診断されたその時より、自らの身はこの高松に預けている。今では一日のわずかなときのみだが外に出て空気を吸うことを許され、また医学の知識も若干あることから、高松の手伝いをして軽傷の患者の手当てにも当たっている。
「………」
 数日前に部屋は個室から十人が雑居する大部屋に移った。此処には完治に向かっているものが収容されている。

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床に畳を敷き、その上にそれぞれに与えられた蒲団が並べられていた。一人ずつが確保しているのは畳二枚(一畳)ほどの場所に過ぎない。
 高松の指導のもと徹底して清掃されているため衛生的に問題はなく、増築したばかりということもあり木の香りがする。
「……なぁまた歌を歌ってくれよ、小五郎殿」
 傍らに眠る二十歳くらいの青年が言った。
「痛みも紛れる。みんなそうだ。歌を歌ってくれ」
 小五郎は青年と目をあわせ、コクリと頷いた。
 傷ついたあどけない少年に、よく眠れるようにと小さく歌った「子守唄」が、いつしか部屋の人間たちが知るところになり、請われるようになってしまった。
「歌ってください」
 目を負傷した壮年の年の男が相槌を打つ。
 その部屋にあるほとんどの男たちが次々に賛同したため、小五郎は小さな幼馴染を寝かしつけるためによく歌った思い出の子守唄を今日も口ずさむ。
 ねんねこしゃっしゃりませ
 今日は二十五日
 明日はこの子の
 宮まいり
 ねんころろん ねんころろん
 もしも周防、長門を始めとした中国地方の出身者がいるならば、なじみ深い子守唄だろう。小五郎の母もよくこの子守唄を歌いながら妹のハルを寝かしつけていた。そして小五郎も、六歳年下の幼馴染をよくこの腕に抱いて、寝かしつけるときに歌った。
「小五郎殿の声はほんとうに安らぐ」

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 これを子守唄にし、激痛を忘れるかのように一人また一人と目を閉じ、眠りの中に入って行く。
 ゆえに知らない。
 小五郎は歌いながら、涙をポロリと落とす。
 故郷を思う。亡くした友を思う。この手から切り離してきた仲間をも、思う。
『江戸に行くのですか。本当に大丈夫ですか? 護衛は必ずお連れ下さいね。……あぁ僕が一緒に行ければいいのに。危険です。山縣がいたら奇兵隊を伴ってもらうのになぁ』
 大げさだね、と自分は笑って江戸に向かい、そして今はこの蝦夷地で雪を見る。
 現在、御所では、新政府の方針など重大なことばかりを話し合われているだろう。いや、風の噂で東京への行幸も聞いた。誰もが無謀と口にする版籍奉還。それを手がけていたのは、紛れもなく自分であった。そのわずか数か月前の出来事が今はとても遠い。
 泣きつかれて毎日、眠る。夢もほとんど見ない。
 誰にも捕まらぬ場所に来た。この自分という人間を知らぬ場所で、知らぬ人々の中に入り、望むのは京都では得られなかった「死に場所」だった。
 新政府樹立に貢献したものが与えられた全てを放棄することを仲間も国家も決して許すまい。事実、身を引き故郷に戻ることを望んだ際、全て「何の冗談」と苦笑されたものだ。
 ただ先に逝った仲間たちの思いにこたえるがために戦い、国が治まるのを見、そして自らの望みを適えるために……逃げた。
『約束じゃ。すべてが終わったら、自分といっしょに異国に船出じゃ』

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 ニカッと笑って約束を口にした幼馴染はもうこの世にはない。
 ……全てが終わった、ときの望みはなくなった。
 自分は「切り開く」までの人間たることは、小五郎はよくよく承知している。この後の築き、育てることは適した人間がなせば良い。
 それが生まれ変わった国家たる所以といえよう。
 今までの家柄で縛られた封建の身分制度ではなく、これよりは能力に応じて適材適所に人を配置すればよい。
 小五郎は泣きながら目を閉じていく。
 未開の地に、旧幕府軍とともに訪れ、そして病み、箱館病院に世話になってしまった。自分はまだ死ねずにいる。
 一介の兵士として戦って死ぬことを望んでここまで来た。決して自ら命は断たぬ、という誓約のため、ここまで逃げた。病では死ねず、今、ひとまず回復を遂げようとしている。
 雪とともに、本州の大陸より戦の香りが運ばれてきている。新政府軍が雪解けをジッと待っていることを、誰もが知っていた。


 その翌日、小五郎は高松に言われるままに薬を煎じていた。
 実家が藩医を生業にしていたため、小五郎は初歩的な薬の扱い方は会得していた。専門は眼下であったものの、父は漢方などにも詳しく、幼いころより薬草の見分け方、煎じ方は見聞きしてきている。
 今は咳を和らげる療法があるという薬を作り、それを一人の少年に水とともに渡す。
「………」
 その少年は松前に陣取っていた新政府軍の人間だ。

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 旧幕府軍との戦闘で傷つき、城内で他の負傷兵と身を隠していた折に、発見された。当然殺されると覚悟したようだが、高松の方針のもと大鳥圭介が松前でとらえた兵は希望者は青森に送り返すという指令を出したと言う。この少年は手当てが必要だったため、箱館病院に運ばれてきて、今は治療を受けている。
 少年は「死にたくない」と叫んでいたという。
 この自分とはまるで反対だ。
 いつもギラギラとしたその目が「なぜ助ける?」と突きつけてくる。
「………」
 ある脚を負傷した人間には傷に薬を塗り、痛みを和らげるために薬を飲ませ、小五郎は中々に動く。
 適度な運動は、体には良いと高松はいう。どうやら人の介護くらいは適度らしいが、それも時間で制限されていた。
 昨今は咳は出なくなったが、まだまだ油断が出来ないと高松の目は光る。
 労咳も初期段階で診断され、空気が良いところでゆっくりと療養したのが功を奏したらしい。小五郎の回復は著しい。
「小五郎くん。そろそろ休みなさい。少し顔色が悪い」
 ハッとし、「大丈夫」と口にしようとしたが、いざ体のことでは高松には決して逆らわぬ、と決めている。
「……はい」
 頷き、小五郎は寝床に戻った。
 日日の半分も横になっていると体がなまり、腰も痛くなるのだが、高松に言わせれば患者は寝ることが「仕事」なのだそうだ。
 療養は実に暇である。
 体を横たえ、せめて本でもと思うが、

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頭を使わずボーッとする時は必要とのことで、高松は本を小五郎には滅多に渡してはくれなかった。
 ボーッと休んでいるのは好まない。イヤでも思い出してしまう。捨ててきたものが頭をかすめる。
 小五郎は吐息を漏らし、目を閉じる。眠りは訪れはしない。仲間の顔が浮かび、それを振り払うがために、この蝦夷にいたるまでのあれこれを頭で追ってみる。
 新政府へ恭順の姿勢に藩論が一変した仙台藩に、半ば追いたてられる形で仙台港より北の石巻に移動した榎本艦隊に、小五郎は彰義隊や会津、仙台、庄内藩士と共に旗艦回天に乗船することが適った。
 江戸よりの押しかけでもあり、彰義隊残党に混ざっての参加であったため、小五郎のことを誰もが「幕臣」と思い込んでいるようだ。
 現に江戸より走り、途中からは彰義隊の生き残りの兵と出会い、その隊に入れてもらったといういきさつもある。
 長年江戸住まいであったため、言葉に「お国訛り」がないことがうまいこと「幕臣」で通ることができた。また幕臣の中島三郎助に昔、学んだことがあるといった縁が、疑いというものをそらした要因といえる。
 回天に乗り込んですぐだった。船内の人の夥しさや、悪環境で、旅の最中より気にしていた咳が悪化したのだ。
「高松先生」
 運良く乗船していた高松凌雲が診察し、すぐに労咳の初期状況だと判じた。
 回天の狭い一室に隔離されたが、高松は笑いながら「初期だから療養すれば治まる」といった。

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 戦ではなく病で自分は死ぬのだろうか。何を成すこともなく。それならばそれで良い、と思ってしまった。
 江戸より「追われる」かのようにひたすらに北上したため、すでに小五郎の体はボロボロだった。ただ「死に場所」が欲しい、という願望だけが、今、この体を動かしている。
 各隊の負傷者や病人は軍医が一手に担うため、口出しはできない高松は小五郎の専任になっていた。そんな隔離されている小五郎のもとを訪ねるのは同部屋だった彰義隊の大塚くらいで、静かに船に揺られていた。
 その男が、「和田小五郎」という名を聞きつけ、探りに来たとき、小五郎は褥に横になっていた。
「冗談ではないのか。……アンタ、死ににきたのかよ」
 懐かしい声音に振り向き、小五郎は笑った。
 いちばんに殺してくれるだろう人間が目の前にいる。
「今ごろ、政治の中枢で指図する立場にあるあんたが・・・こんなところに何の用だ」
「と……し殿」
「なんだ」
「また逢えましたね」
 新選組副長……自他ともに認められる「鬼」土方歳三は、何ともいえぬ表情をした。
 小五郎が軽く咳き込むと、土方は慌てて水をいれ湯のみを渡す。そして背中を摩るのだ。
「この病は安静にしないとすぐに……悪化する」
「えぇ」
「俺は母や兄姉を労咳で失った」
「私も母と姉たちを亡くしましたから」

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 遠き昔、これと似た話を二人ともがしたことを思い出した。
「……死ににきたのか」
「歳どのは人が良いですね。探りにきたとは思わないのですか」
「それはない。密偵ならもっと適した人間がたんといる。……あんた、今では政府の親玉なはずだ」
 大将自ら乗り込んでくるという酔狂は、きっと新政府の連中は許しはしないだろう。
「……死に場所を私にください」
 呟くようにして小五郎は告げた。
「一介の兵士として。名もないただの男として、私は闘って死にたい」
「官軍の親玉が賊軍に味方して死ぬ。笑えぬ冗談だ」
「……すべてを捨ててきました」
「……」
「もう此処にいるのは、あなたが知っている和田小五郎という男です」
 土方は困ったような顔をしたが、艦内のものには「友人」と小五郎を紹介し、時に部屋を覗きに来て、栄養のあるものを置いていった。
 あの男は決して自分の「身上」を誰にも言うまい。また捕らえて「人質」となす男でもない。人質とするくらいならば、一思いに殺す。
 あのペリー艦隊が来航した嘉永六年、自分たちは出会い、知らぬ間に「敵」となり、そして今はただの「友人」であると小五郎は信じたかった。
 十月ニ七日。旗艦回天より小船に移り、箱館港に上陸した際、港には高松が迎えに来てくれていた。

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「土方くんは松前に立った。何度も小五郎くんのことをそれは頼んでいったよ。良い友達を持ったね、君は」
 高松は未だふらつく小五郎を肩に担いで、箱館の急斜面を登る。この坂の中腹に高松が院長として勤める旧幕府の医学所があるそうだ。
「土方くんから手紙を預かっているよ」
 その手紙には、ただの一言。
 ……死に場所を探してやるよ。
 小五郎は笑った。
 箱館に降り立ったあの日、小五郎はすべてを捨てて、ただ願うは「死ぬ」ことだけになっていた。
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逝く者、いくもの 2-9

逝く者、いくもの 2章

  • 【初出】 2010年3月18日
  • 【改定版】 2011年6月14日   【修正版】 2012年12月20日(木)   【第二次改訂版】 2017年1月23日(月)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。