逝く者、いくもの

9章

「どこにいったんだ、あの人は!」
 ここは東京の長州藩邸。
 榎本艦隊に乗り込み箱館に渡っているとは露ほども考えてはいない伊藤博文は、今日も今日とて雄たけびを上げる。
「そろそろ出てきてくださいよ。こんな大変な時に! いったいどこでのほほんと油を売っているんだ」
 求める人が、現在は蝦夷地の箱館で永井尚志と共に馬に乗っているなど、夢にも思うことすらなかった。
 明治二年三月。
 いわゆる「神戸問題」を万国公法に基づいて処理した兵庫県知事の伊藤は、今、東京に居る。
 この時の処置をめぐり、この一月後には知事を罷免され、同県の判事という格下げ決定をされるのだが、そのようなこと、今の伊藤にはどうでもよいことだ。
 長州閥の一員として、現在の伊藤にとっての最優先事項と言えば、「長州の首魁」の探索。ただその一条に定められている。
「本当にどこにいったんだか。萩にはいねぇ。箱根にもいねぇ」
 伊藤の叫びを平然と受けるのは、同じく長州藩出身。現在新潟の離島佐渡県の知事をしている井上馨である。
 ちなみに井上と伊藤は藩士時代より兎角仲が良く、行動を共にすることが多いので、お神酒徳利と称されている。
 井上はこの頃凝っている煙管にタバコを詰め、煙草盆に襟首をあて、火をつける。その姿は妙な艶を醸し出し、様になってきていた。

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「……山縣が現在、とっても暇みたいだからさ。六月に洋行だっけ。それまでの間、一部の奇兵隊を使って探索してくれるって」
「会津征討総督参謀を顎で使っているのか、おまえ」
 煙管を美味しそうに吸っている井上は、多少呆れた顔をする。
「僕が山縣を使えるはずがないじゃない。頼んだよ。それはそれは腹が立つけど頭を下げてさ。……アイツだって木戸さんは心配なはずだから……」
 その時の悔しさを思いだし、伊藤は唇を少し噛んだ。
「確かに山縣は桂さんにだけは過保護で……心配性だ。だが奇兵隊を大規模に出せばな。……奴さんに知られるぞ」
「そこは僕も山縣も抜かりはないよ。秘密裏に……薩摩の包囲網にかからぬほどに極秘に処置することにしている。それに木戸さんは今は……箱根で静養ってことにしておいたしね」
 けれど、と伊藤は吐息をつく。
「本当にどこにいったんだろう」
 総裁局顧問専任となり、政務の最終的決定を任された長州藩の木戸孝允は、現在、その所在が不明となっている。
 五ヶ条の御誓文をまとめあげて後、帝都を「東京」か「大坂」に置くかの議論が紛糾する中、六月に木戸は佐賀の大木喬任とともに調査のため東京に入り、消息を絶った。
 大木曰く、京都への帰路の途中、夜盗に襲われたという。
 腕が立つ木戸が夜盗をひきつけ、大木に「応援を」と叫んだというのだ。
 その場で刀を抜き、奮戦する腕は大木にはない。むしろ有段者の木戸の邪魔となると判断した大木は、その場より駆けに駆け、番屋に飛び込み応援を呼ぶのが精々だった。
 戻ったその場には、泡を吹いて倒れている夜盗たちの姿のみ。

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 木戸孝允の姿は、どこにもない。
 夜盗たちは訊問で「おそろしい……」と震えるばかり。華奢な男と油断したのが災いし、瞬く間に打ちのめされ、その男は颯爽と去って行ったと証言した。
 だが一人で二十名ほどの夜盗を相手にしたのだ。身体面にかなりの疲労を負ったに違いない。もしや怪我をして、どこぞで手当てを受けているのではないか。
 神戸で報告を受けた伊藤は、急ぎ東京に向かった。
 この時、京都で「暇だなぁ」と意見書ばかりしたためている佐渡に赴任する気は皆無の井上馨も引っ張って連れてきた。
 現在、東京にある長州藩邸では、「木戸孝允」探索本部が置かれていたりする。
「……魔がさしたかな」
 井上はニヤリと笑った。
「桂さんという男はな。走っている時は一途に私心を捨てて走るが、いざ立ち止まると……色々な心労が表に出る」
「国家の体制は木戸さんの手にかかっているこの時だよ」
「けどよ、あの人にはもう何もないんだ。国家の夢や希望はあろうがあの人自身の思いはない。高杉と世界に旅立つ夢すら」
「……聞多」
「どこにいったかな。……俊輔、市には連絡したか」
「あっ市にね。まさかあの東北列藩あたりは魔が差したとしても赴くとは思えないけど、万に一つがあるから探索するようにはいってある」
「まさかのまさかで箱館にいっていたら、笑えるな」
「ないない。木戸さんは寒さが苦手だよ。それに……箱館に長州の首魁がいっていて悟られたらどうするのさ。

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あそこには中島さんという木戸さんと顔見知りの人もいるしね」
「……さすがに箱館は飛躍しすぎか」
「そうだよ。きっとどこぞの温泉地で静養していると思うから、一つ一つ潰していくよ。それとも灯台もと暗しで……ここにいたりして」
「東京ならもう少し引っかかってくると思うんだがな」
「やはり出石あたりかな。それとね城崎。あそこは木戸さんの庭みたいなものだし」
「俺はてっきり箱根で静養していると思っていたぜ」
 などとお神酒徳利が顔を見合わせ、ため息をついている頃、
 当の木戸孝允……小五郎自身も大きくため息をついていたりする。

「高松の言うことなど、やれ医者を増員しろ。箱館病院だけではなく分院にもきちんと人員をまわせ。薬、包帯などをどうにかしろ、と費用のことばかりだろうが」
 と、高松の書状を読む前より永井は内容が思い当たるらしい。
「中島、鳥を呼んで来い。陸軍の方の軍医を臨時的に貸せって」
「そんなこと大鳥さんが許すはずがないと思いますがね」
「んじゃあ大鳥自ら応援に行けっと言っておけ。ちょうどいい。もともとは医者の倅だ。しかも高松と同じく適塾の出。思いっきりこき使ってやればいい」
 ニヒニヒと永井は笑った。どうやら永井と大鳥もそれなりに親しい間柄にあるのが、口ぶりから察することができる。
「陸軍奉行にそんなことをさせたら、後で報復がきます」
「あんなちびっこの鳥など怖くないってよ。勝もよくひな鳥といって笑っていたが、その通りじゃないか」

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「永井さま……あまり大鳥さんをいじめるでありません」
「ちびっこはちびっこで十分。自分がいかんなら伝習隊の軍医を貸せって言ってやれ」
 吐息をひとつ漏らし、中島は「仕方ありませんね」と部屋より出ようとし、やはり気になるのか小五郎に目配せをしてきた。
 大丈夫かい、とその目は言っている。
 小五郎はただコクリと頷いておく。
 下手な真似はできない。ここは箱館政権の本丸である五稜郭。自分はその中に迷い込んでしまった「敵」に等しい。
 後ろ髪を引かれる思いで中島は出ていった。
「んで、小五郎。酒は飲める年になったか」
「……酒くらいは飲めますよ」
「わしに言わせればまだまだガキだけどな。こんな箱館などに若いもんがくるんじゃねぇよ。まだ勝のところに居た方がいいが。勝も今頃は静岡だろうがな」
「………」
 江戸城無血開城を成し遂げた「お江戸の恩人」と言われる勝安房守だが、幕府方に言わせれば「裏切り者」に等しい立場に立たされている。
 恭順を示した徳川慶喜が静岡での謹慎生活に入り、多くの幕臣がそれに従い静岡に下る。勝も静岡に下り、無血開城までの責を取り謹慎生活に入っている。だが新政府に人脈が多くある勝は、今後は政府と徳川家を繋ぐ調整役をしていかねばなるまい。
「勝さんはこの蝦夷に来たかったかもしれませんね」
「あの勝がか」
「いちばんに我慢が大嫌いな方でしたから。その嫌いなことを今、させられています」

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「一人で徳川家を守ったような面をしているがな」
「………」
「いつ勝と会った?」
「ずいぶんと会ってはいません。お忙しい身でございましょう」
「そうかぁ。まぁ働き盛り。一生分働けばいいぞ」
 永井は茶を小五郎の前に置く。それに頭を下げ、小五郎は飲みほした。少しばかり体が冷えていたのだ。
「で、お主。なんで……こんなところに戦いに来たんだ」
「………」
「見るからに死にに来ましたって顔だな。幕府に忠義がある訳でもねぇ。行き場がないわけでもねぇだろ。勝のところに行けば、なんとかしてくれたさ」
「……剣術しか取り柄のない私には、居場所などありません」
「まさか!あの京都で人斬りとかしていたんじゃねぇだろうな」
「えっ」
「そういうやつらはたんといる。政府に追われているやら……指名手配やら。そんな優しい顔をしてお主……」
「あの……その……」
 小五郎は話の展開についていけなくなっていた。
 人斬り……に散々に追われた記憶はある。狙われた数などもうすでに両方の指でも数えきれない。
「剣術しか取り柄がないってやつは、たいていはそんなものだな。そうか……追われている身か」
「あの……」
「土方も政府に睨まれているがな。新選組って知っているだろう。攘夷志士をそれは斬りまくった。その恨みが長州にはある。それにな」

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「永井さま。私は……」
「まぁ気にするな。大丈夫だ。ここにいる限りは政府がなぁんかいってきても知らん存ぜぬにしといてやる」
 はぁ?と小五郎は思ったが、ふと「指名手配」はあながち間違いではないと思った。
 現新政府の要職にありながら、この蝦夷地に来てしまった身。地位も職も仲間も捨てて、今、ここにある。
 それは裏切りに違いなく、いわば新政府の「重要犯罪人」とも言える身なのだ。
「……お恥ずかしい身ですが」
 どちらともとれる言い回しを小五郎はした。
「そうか。よう分かったが、まだ若いんだ。命をむげにするんじゃあないぞ。剣術しか取り柄がないってな。それ以外になぁんかできることねぇのか」
「……まったくお恥ずかしい限りです……」
「恥ずかしいってな……来たな」
 耳を澄ますと軽い足音が聞こえる。この部屋に向かってきているようだ。永井はニタリとそのまさにタヌキ顔をゆがませると同時に、バン、と扉が開いた。
「永井さま。軍医を貸さないなら俺に分院に行けって?」
 飛び込んできた大鳥圭介に、永井は二ヤッと笑った。
「行け、今すぐ行け。そんなちびっこの体でも役に立つっていうことだ」
「この忙しい時に……。おや小五郎殿じゃないか。どうしたんだい。てっきりもう帰ったと思っていたのに」
「帰り際にわしが捕まえた。なんだ、鳥もしっとるのか。わしの昔の知り合いなんじゃよ」

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「……永井さまと……。面白いつながりですね。小五郎殿は土方くんの古くからの友人だそうですよ」
「なんじゃ……土方だと。そうか……それで頷ける。そんなんなら政府から指名手配を受けることになろうが」
 大鳥は首をかしげ、
「小五郎殿が指名手配ですか」
「だろうが。京都で人斬り稼業をしていたんじゃろうが。土方と同業なら政府に疎んじられても仕方ない」
「指名手配ね。まぁ俺も手配を受ける身ですしね」
「お気楽鳥。さっさと分院にいって医者をしてこい。今すぐ行け」
「……軍医は何事もなければ出せるのですが、これから少し必要になりますからね。俺が暇なら言ってもいいんですけど」
「毎日、ゴロゴロしているんだ。仕事など本多に渡して、行け。奉行より医者の方が人に感謝されるだろうが」
「ひどい言いようだなぁ。……それを言うならこの小五郎殿は高松の助手ですよ。医学の心得があるということで」
「なんだ小五郎。お主、医学も少しはできるんか。剣術などよりずっと役に立つじゃないか」
 嬉しげに肩をポンポンと強く叩かれ、わずかに前のめりになった小五郎だが、先ほどより絶えず視線を送ってくる大鳥のその目が、鼓動を早めた。
 鷹揚として理知深く優しげな目だというのに、時折ゾっとするほどに冷ややかな目をする。
 まるで人を値踏みしているかのような、そんな目だ。
「……永井さま。小五郎殿とはどういう付き合いですか」
 探りを入れることを忘れない。

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 小五郎は思う。この大鳥は……全てを承知で自分を泳がしているだけではないか、と。
「あん? ずいぶん昔に勝のところでな。それは飯はおごってやったし、可愛がってやった縁さ」
「そうして見こんだ人間を餌付けしていく癖、昔からなんですね」
「鳥は見こみちげぇだな」
「なんとでも言うといいですよ。……こんな酔いどれタヌキの……酒の飲み相手を探しているだけの永井さまに付き合うことはないよ。もう暗い。本多にでも送らせるよ」
 心配気な顔をしてくれているが、小五郎は大鳥の心の底に警戒を覚えている。できるのならば、これ以上関わり合いにはなりたくない。
「いいえ。大丈夫です。一人で戻れますから」
「こら小五郎。わしの酒の相手をしろ。十数年ぶりじゃあねぇか」
「それは俺がしてあげます。小五郎殿は良くなったとはいえ労咳患者ですから、無理に酒はだめですよ。もちろん永井さまの秘蔵の酒を飲ませてくれるんですよね」
「おまえに飲ませる酒など一滴もねぇ。このザルが。人の酒をしこたま飲んでいきやがる」
「ずいぶんと嫌われたもんだなぁ」
「鳥は鳥らしく山にでも帰れ」
「………タヌキも山に帰った方がいいですね」
「誰のことじゃ」
「俗に言うタヌキじじぃって奴ですね」
「この本多がおらんとなぁんもできん方向音痴の迷い鳥が」

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「鳥の方がタヌキよりずっと可愛いと思いますよ。迷い鳥けっこう。どこにいようと本多が迎えにきてくれますので」
「えばれたことか」
 妙な堂々巡りの戯れの席に同席してしまったものだ。
 この隙にどうにか部屋を出て、帰路につけないものだろうか。
 小五郎はつい視線をさまよわせたが、大鳥と視線が合うと、にこりと笑われてしまった。
「どうやら本多が来たようです。……軍医の方は保留でお願いします」
「おまえんところの伝習隊の軍医と医者の心得がある奴もいたな。そいつも派遣しとけ」
 トントントンと扉が叩かれ、一泊後に、顔を出したのは大鳥の予見通り本多だった。
「本多、その鳥を山に帰せ。ひな鳥以上にうるさくてかなわんよ」
「いつもご迷惑をおかけし申し訳ありません。ほら大鳥さんも、謝ってください」
「なんで俺が謝らんとならん。俺は悪くないぞ。上官を庇護しないでどうするんだ」
「……大鳥さんですから……」
「なんだよ、その言い方は。なんだかとてつもなく面白くない」
「……小五郎さん。このような所においででしたか。探しました。馬でお送りしますよ」
 本多の申し出は、今は渡りに船だった。
「……できれば……お願いしたいのですが」
「こら小五郎。酒飲みに付き合わんか」
「労咳患者に無理に言わないでくださいよ、永井さま。

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だいぶ完治していますがね。小五郎殿はこれで箱館病院の患者なんですよ」
「……労咳……か。それで血を……か」
 小五郎はわずかにいたたまれなくなり下を向くと、
「酒は完治祝いにしてやろうじゃないか。病院に樽ごと運んでやろう」
「……その時はぜひともに……」
「そのうち、な。酒は敵さんが来る前に、な」
 あっさりと小五郎は解放されたが、その代わり、大鳥の襟首を永井は掴んだ。
「しゃあねぇな。今日は鳥が相手だ。本多、小五郎を丁重に送るんだぞ。剣術はできるようだが、そんなほそっちい体だ。たいした腕ではないさ」
「……永井さま。先ほどの立ちあいで小五郎殿は本多を打ちのめしたんですよ」
 仕方ない、と椅子に座した大鳥がこたえた。
「なんだって。こんなほそっこいのに……か。やはり人斬りは強いんだなぁ。土方とやったらどっちが強いんだ」
「土方くんは立ちあいなら、小五郎殿の方がずっと強いといってましたよ。強い人はいいですね」
「……剣術しか取り柄がないくらい強いってことかい。こりゃあ面白いな。完治したら奉行所の護衛にでも雇ってやろうか」
「その前に土方くんが引き取るでしょう」
「鳥、おまえも習ったらどうだ。その腕で陸軍奉行とは笑える」
「……俺には本多がついているので、腕など必要ないんですね」
「たいへんだな、本多。伝習隊時代からこの鳥のお守ばっかりさせられてよ」

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 本多は少し困った顔をしたが、そこで失礼します、と頭を下げ、小五郎の袖を引いてくれた。
 この二人の相手をしていたら、きっと日も暮れる。
「小五郎。そのうち、酒を飲みに病院の方に行くからな」
 はい、と頭を下げて、ようやく解放された。
「では馬を連れてきますので、ここでお待ちください」
「いいえ。永井さまより解放していただけただけで十分です。一人で戻れますよ」
「今から戻ればずいぶんと遅くなりますよ。馬で飛ばした方がいい。……待っていてください」
 と、本多は笑って駆けていった。
 それにしても激動の一日だ。まさか二人の知人に顔を合わせる羽目になろうとは思いもよらなかった。
 日本という国は案外狭いのかもしれない。
 小五郎は苦笑し、自らの手を見た。
 血に汚れきった手で、あの永井の手に触れた。
 世には神のいたずらとしか思えぬ偶然がこうも転がっているのか。
 本多が栗毛の馬を引いてきた。頑丈な馬だ。二人で乗ろうともピクともしないだろう。
「では参りましょう、小五郎さん」
 馬にまたがり、本多が手を差し出してくる。
 その手を取り、馬にまたがった小五郎は、「すみません」と小さくつぶやいた。
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逝く者、いくもの 9-9

逝く者、いくもの 9章

  • 【初出】 2010年7月1日
  • 【改定版】 2011年6月18日   【修正版】 2012年12月21日(金)  【第二次修正版】 2017年1月26日(木)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。