逝く者、いくもの

13章

 宮古湾海戦より半月ばかり。
 まるで蝦夷に遅い春を運ぶかのように、日本海側の江差沖に新政府軍が上陸した。
 明治二年四月九日早朝のことである。
 上陸の場所は江差のわずかに北となる乙部という場所だ。
 おそらく江差が厳重なる警護で固められていると判断し、北の乙部の港への上陸を選んだと考えられる。
 現在、この乙部町の海沿いには新政府軍上陸の地碑が建てられている。そこから見る日本海は時にあらぶるかの如く激しく波が打ちつけるが、晴天の日はさざ波が優しく人の耳に届くそんな場所といえた。
 その穏やかな港に、その日の早朝、突如艦隊が姿を現し、千五百名からなる征討軍が上陸したのである。地元の人々の驚きも騒ぎも相当のものであっただろう。
 征討軍の上陸を阻止すべく江差より一聯隊が出兵していたが、すでに上陸していた先鋒隊の松前藩士と衝突。一聯隊は撃破され、江差に撤退した。その後、征討軍は南下し、小競り合い程度の戦いで難なく江差を手中に収めている。
 甲鉄をはじめとする海よりの艦隊砲撃に、江差奉行松岡四郎次郎は、戦の最中、相当に頭を抱えたらしい。やんぬるかな。江差砲台より敵艦へは一発も砲弾が届かないという有様だった。
 武器の性能の善し悪しが戦争を左右する。
 松岡は、港よりわずか数十キロメートルのところに沈んでいる開陽を、どれほど苦々しく思ったか知れない。

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 あの船があれば、甲鉄とも互角の戦いを海の上で為しただろう。いや、その甲鉄を宮古湾で奪取できたならば、この戦をもう少し『まとも』なものにできたかもしれない。
 言ってもせんないことと知りつつも、松岡は苦々しく海の上の艦隊を見据えただろう。
 箱館より西に約八十キロメートル先の海沿いで、すでに戦いが始まっていた。


 乙部に上陸した先発隊の報は、その日のうちに箱館に入った。
 先発隊を率いるのは、大村益次郎が太鼓判をもって押した征討軍陸海軍参謀山田市之允。上陸と同時に、九日のうちには江差に向けて出撃の命を下している。
 その名に、小五郎の心がチクリチクリと痛みを刻み続ける。覚悟はしていたが身近に居た後輩が、事実上の征討軍の総大将という現実。今まではその名を聞こうとも、鈍い痛みが体を襲い現実感はなかったが、この蝦夷に上陸したという報にようやく現実味が帯びた。
(市……)
 江差の地でかの後輩は今、なにを思うのだろうか。
 小五郎は病院の敷地に咲く桜を見ながら、土方のことを思い浮かべた。
 先日不意に訪ねてきたのだ。
 あの日、桜は蕾の一厘だけ花を開いた。
 その花を見つつ、包帯を巻く手を止めたその時、宮古湾以来、休みなく動いていた小五郎は、唐突にくらりと眩暈がおそいその場に倒れてしまった。

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『小五郎くん』
 高松の驚いた声に、どうにか意識だけは保ったが、すぐに抱えられ病室の方に移された。
『すまない。無理をさせてしまった』
『私は……大丈夫ですよ』
 無理に笑おうとも、高松は痛々しい顔をするばかりだ。
『患者を医者として使うなど、最低なことだ』
『私はもう患者ではありません。身体もほとんど回復しています』
『違うよ』
 小五郎くんは此処と此処の病人だ、と頭と胸を差し、わずかに声をあげて高松は笑った。
『玉置くんの病状を見に、土方くんが来るようだ。君の顔を見るためでもあると思うよ。少し休んだ方がいい。いいかい、無理して看病に来るでないよ』
 そのまま高松は診療所に戻っていった。
 十人一緒の集合部屋に戻された小五郎は、手持ち無沙汰となったが、周りの人間たちと話すことで気を紛らわす。横になると目眩は去り、不調は随分と良くなった。
『小五郎殿は新選組の副長を知っていると聞いた』
 横の腕と足に傷を負った青年が声をかけてくる。
『あの都で鬼と言われて攘夷志士をひっとらえていたあの……』
 青年の傷は宮古湾で負ったものだ。
『知っていますよ。私の知る土方という人は、とてつもなく不器用で優しい人ですが』
『俺、憧れていたんだ。かっこいいよね』
 その隣の未だ幼さが顔に残る少年も、話に加わってきた。

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『……鬼と言われたほどの人だ。怖い御人だろうが』
 それでも青年の目からは、土方に向ける絶対的な憧憬が消えはしない。それは、その隣の少年も同様だった。
 この箱館政府において常勝将軍と言われる土方歳三。
 軍神なみの崇拝を受け、京都の新選組時代よりの逸話もあわせて、若者には格好の『英雄』となっているようだ。
『酒は苦手で、いつも面白い発句ばかりしている……』
『なんだと、小五郎殿』
 噂をすると、どこからか当の本人が現れた。
 一様にその場の空気が緊張する中、小五郎は穏やかに微笑む。
『面白い発句ではありませんか。確か……梅の花、一厘咲いても、梅は梅』
『そんなの覚えているんじゃねぇよ』
『まだありますよ』
『いいから……わすれてしまえ』
 顔を真赤にして恥ずかしがる新選組の鬼副長に、その場のものが唖然としている。
『……倒れたと聞いた』
 土方の手が気遣わしげに小五郎の頬に触れ、そして額に触れる。
『熱はないな』
『玉置くんを見舞いに来たのでしょう』
 新選組隊士の玉置良三は、胸の病で箱館病院に預けられていた。入院して早四か月ほど。共に高松の指示で療養してきたが、発覚当時、小五郎よりも数倍玉置の病状は進んでいた。
 命の刻限が迫っている。今はただ穏やかに、少しでも命が長引かせるように、と高松は言う。

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『良い空気を吸って、体を十二分に休め、精神的に良好なら、一月の命が一年になることもあるんだ』
 その言葉は、まるで高松自身が呪文のように自分自身に言い聞かせているかのように聞こえた。
 そして玉置は、自分の命の刻限をおそらく知っている。
『あぁみてきた。またこけた……な』
『よい空気を吸い安静にしていれば大丈夫ですよ。よく高松先生がおっしゃっています。命に命数などない。本人の気の持ちようと安静にすることで、一か月の命も一年、十年と伸びると』
『そうだな……そう俺も思っている』
『昨日は、相馬くんと田村くんがひょっこり見舞いに来ました』
『……野村のことが……かなり……』
『……はい』
 宮古湾海戦で戦死した新選組隊士にして陸軍奉行添役の野村利三郎は、玉置を弟のように可愛がっていたと言う。
 戦死した敵兵の遺体は、そのまま海に投げ捨てられたと聞いたとき、小五郎は胸が震えて苦しく息を紡ぐことも困難といえた。
 死者に対して一分の情も、礼儀も持ち合わせていない。それは上野の彰義隊での一戦において、遺体の埋葬を許さず放置のままにしたことにも言える。『官軍』の勝者の奢りがそこに見れた。
 彰義隊しかり。会津も同様という。
 見せしめという残酷な刑は、死してなお死者を苦しめる。
『玉置がアンタのことを嬉しげに話していた。いつも……すまん』
『歳……どの』
 額より離れて行く際、土方の手のひらが見え、驚いて無意識ににその手を取る。小五郎は一瞬だけ視線をそらしてしまった。

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『宮古湾でな。この手をどれほどに伸ばそうとも野村の手はつかめんかったよ』
 伸ばした手に残った傷は、土方にとって野村の形見なのかもしれない。
『俺はもうすぐ二俣口に行くことになる。すでに先発隊は出発した。その前に……アンタの顔を見ておきたくてな』
『私に釘を刺しに参りましたが』
『察しの通り、だ。いいか……ここにいろ。ここから出るな』
『聞けません』
 小五郎はこの戦にこの命を渡すつもりでいる。
『これから蝦夷地は戦場になる。政府軍が上陸したら、兵器の差があるからな、この戦……正攻法ではとても当たれんよ、敵さんには。俺や大鳥さんが出陣するんだ、総力をあげたものになる。また負傷兵が多く出る。大人しくここで手当てをしていてくれ』
『私は医者ではありません』
『いいじゃないか。もとは医者の生まれだろう。ここでその生まれ育ちが生かされる』
『歳どの』
『昔はそうとは思わんかったが、本当にアンタは鉄砲玉だ。どこにでも飛んでいくからな。だが、今回は飛ぶな。あんたにはアンタの使命がある』
『………』
『アンタが死ねば……悲しむ人がたんといるんだ』
 小五郎の脳裏に数多くの仲間や、家族の姿が映った。
 そして心に常に抱く幼馴染の無邪気な笑顔が、一瞬にして小五郎の胸を鋭く刺す。
 ……約束じゃ、桂さん。

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 邪気のない幼馴染の顔は、今の自分を責めているような気がして、いつも小五郎に痛みと哀しみだけを与えた。
 呼吸を整えて、微笑みと共にわずかな哀しみをその声に乗せる。
『それは歳どのも同様でしょう』
 土方には仲間がある。京都以来彼に従ってこの蝦夷まで着いてきた仲間がある。戊辰の戦の折に、彼を慕って入隊してきた若き少年たちもいる。
『……小五郎殿』
『……私はすべて捨ててきました』
 相変わらず頑固だな、という顔をした土方は、小五郎に『外に出よう』と誘った。
 周りの患者たちが『小五郎殿は安静中です』と止めたが、小五郎は柔らかに笑んで外に出る。
 わずかに体がふらつく。それを察してか土方は敷地内に設えられた木の長椅子に座した。笑んで、小五郎も傍らに座す。さすがに立ち話は体に酷といえた。
『……江差方面に遅くとも十日には先発隊が上陸する。率いるのは長州の山田参謀だ。薩摩の方は第二陣となるだろうが、それほど日を置かずに来る。敵さんは、江差を拠点にし、木古内、二俣から進軍してくる。いいか小五郎殿』
 確かにとても病室では聞かせられない話ではある。
『江差からの砲台は、敵艦にはまったく届かんだろう。松前も時間の問題となる』
『大鳥さんと歳どのが出陣するのでしょう? それでも……』
『二俣と木古内は重要要所だ。ここで踏みとどまらなければ、終わりだからな。二股は山の奥地。海からの砲撃は避けられる。

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ゲリラ戦法で俺に適うものは、敵さんにはないさ』
『……ついに……はじまるのですね、戦が』
『あぁ。木古内の大鳥さんはまったく実戦にむいちゃいねぇからな。まだ怪我が治っていねぇから出したくはなかったが、本多くんをつけた。良く補佐してくれるだろうな、彼なら。こっちは新選組と伝習士官隊で……やる』
『………』
『アンタの仲間をやるかもしれない』
『私には仲間などおりません』
『アンタの……知人も縁者もいるだろう』
『歳どの』
『帰れよ、小五郎殿。もういいだろう。まだ頑なに留まるのか。あんたがいたら……』
『いざとなれば、人質にでも見せしめに殺す道具くらいにはなりましょう』
『……アンタ……』
 怒りを身に刻んで土方はその手で小五郎の襟首を掴んだ。
『俺にアンタを見損なわせるな。俺には……最後の最後まで小五郎殿でいてくれ』
『………』
『頼む。まだ商船が出る。まだ……いける。年若いものたちも逃がすことにした。あんたも一緒に……』
『私はここを離れません』
『……小五郎殿』
『八つ裂きにして下さろうと構いません。私は…ここにいます』
 これ以上、話すことはない。土方も中島も小五郎の顔を見れば、必ず『還れ』と言うばかりだ。

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 小五郎は身を翻し病院の敷地内より出る。
 小五郎殿、と呼びとめる土方の声を無視して、走る。
 土方は死に場所を探してくれるといった。その言葉を小五郎は信じていた。だが土方の本心は、心ではよくよく分かっていた。
 わずかに息が上がったが、恐れていた眩暈はおこらず、そのまま市内に向けて駆けた。
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逝く者、いくもの 13-9

逝く者、いくもの 13章

  • 【初出】 2010年11月24日
  • 【改定版】 2011年6月18日   【修正版】 2012年12月21日(金)  【第二次修正版】 2017年1月31日(火)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。