逝く者、いくもの

28章

 四月三〇日。
 井戸で水を汲んでいた小五郎は、病院に駆け込んできた若い兵士のその形相になぜか嫌な予感がし、その後を追い、男がもたらす報せを、大部屋の端でひっそりと聞くことにした。
「夜中に千代田形が暗礁に乗り上げて座礁しました。そこで艦長の森本さんは早々に離礁を諦め、砲に釘を打ち全員脱出したそうなんですが」
「阿呆が。未明になれば潮が満ちるだろうが」
 四十代後半の負傷兵がさも当然という風に鼻で笑った。
 昨夜は天候がよかった。大鳥を見送ったときには星がきらめいていたのを覚えている。だが蝦夷は唐突に天候が急変する土地でもあり、真夜中には激しく音を立てて雨が降っているのを夢現で聞いた覚えもあった。
「えぇ、えぇ、その通りなんです。悪天候もあり、満潮の時刻を考える余裕がなかったそうで。それで見捨てた千代田形はその後、離礁しまして……」
「悠々と敵に拿捕されたってことか。甚だ笑えん仕儀だ」
「昨今の船乗りはどうなってんだ。あっさりと舟を見捨てやがって……」
 そして拿捕された千代田形は征討軍の艦としてこの戦争に投入されるのだろう。
 方々で森本を罵る声があがる中、小五郎は身をひるがえし桶を持って院長室に向かった。千代田形の艦長である森本の処遇や、艦を見捨てたその判断について、小五郎には関心も無い。

逝く者、いくもの 28-1

むしろ悪天候の中、一人も犠牲者を出さずに脱出できたということは、よほど乗組員の連携が取れていたのだろうと、そんなことを思った。
 院長室のベッドには本多が眠っている。
 明け方近くに高熱を発し、今も全身から汗が噴き出ている状態だ。高松の指示で全身の汗をぬぐいで拭き、できる限り傷を冷やすのが最適とのことで井戸の冷水で拭いを絞って、傷口の上にあてることを繰り返していた。
『かなりこの傷は放置していただろうが、それなりに大鳥さんが応急処置をしたんだろう。それほど細菌などは入ってないようだ。今は、炎症がおさまるのを待つしかない。高熱が出るのは悪いことばかりではないんだよ、小五郎くん。熱が出るというのは、体が必死に防御しているってことだ。だが……あまり体力がないときにこれが続くといささか困ったことにもなる』
 現在、高松は重傷患者の診察をしている。さきほど事務長の小野がヒョイと顔を出し、本多の顔を見て無言で去っていった。様子が気になっているようだ。
 時折うなされつつも、本多は眠り続けている。その疲弊しきった顔を見るとここ数日は満足な眠りについていないことが分かった。本多は前線の指揮官であり、伝習隊の総督でもある。向こう見ずで評判な伝習隊を彼がおさめているのだ。
 汗を拭いつつ、そろそろ衣服を着替えさせた方が良いかなと小五郎は思った。この箱館病院ではこまめな着替えを徹底していた。衣類は日に何度も洗濯をし、いつでも清潔な身なりでいること。ただそれだけで病が回復することもあるというのだから驚きだった。
「お……おおとり…さん」

逝く者、いくもの 28-2

 本多は熱にうかされながら、何度も上官の名を呼んだ。
 そんなとき、小五郎は少しばかり迷うのだが、その手を握りしめる。大鳥がこの場にいたならば、きっとそうするはずだ。
 だが一向に本多の熱が下がらないのが気になっていた。それに昼までに熱が下がらないときは報せるように高松より指示を受けている。
(もう少しだけ様子を見よう)
 ここ数日、小五郎が病院内より外に出ることは極端に少なくなっていた。日課でもあった蓬摘みは沢辺が変わってくれ、昨日などはカゴいっぱいの蓬の葉が届けられた。中には新芽も入っており夕食の一品になっている。
 それでも少し手が空いたときには敷地内より出て坂の上から海を見る。そこにはびこる軍艦の姿に無意識に、戦慄した。
 今、こののどかな箱館の街が戦場となろうとしている。良港として栄え蝦夷三大港と呼ばれる箱館は、波が穏やかなときは漁師たちの舟が沖にうっすらと見え、文月となれば昆布漁が始まる。
 原住民であるアイヌの反乱は何度か勃発しているが、この箱館は実に戦からは遠いのどかな街でしかない。かの日米和親条約により港が開かれ異国の文化も持ちこまれたが、それもうまい具合に溶け込んで箱館という街の魅力となっている。それが旧幕臣が大挙して押し寄せたことにより、街は風雲に包まれた。
 本多の顔を見ながら「なにもなければ」と思わず呟いてしまう。そう風雲とは縁遠いのどかな箱館の風物詩を見てみたい。
(この時代、なにもなければ、などは絵空事だと分かっているだろうに)
 わずかに苦笑をして、小五郎は立ち上がった。そろそろ水がぬるくなってきている。冷たい水を汲んでこよう。

逝く者、いくもの 28-3

 桶をもって院長室を出て、そのまま縁から外に出ようとしたのだが、ふと気になって個室を覗いてみた。そこには高松と小野が難しい顔をして一人の患者を凝視している。
 諏訪常吉。矢不来で銃弾を受けこの箱館病院に運ばれてきたときは虫の息だった。一時は危篤にまで陥ったが、今は小康状態を保っている。会津遊撃隊の隊長でもある諏訪を、毎日のように会津藩の仲間が見舞いに訪れているが、その人たちの顔は皆一様に暗い。
 矢不来の陣屋に諏訪が残した置き手紙については、すでに箱館側では知らぬものはない。その内容が、現在の戦争のただ中において容認できるものではないからだ。
 ……遠路の御出馬、御苦労に存じ奉り候。然るは小子儀、素より戦を好まずに候間、早々に引き揚げ申す。已むを得ざる際に立ち至り候はば、御用捨を蒙り候儀も御座有るべく候。以上。
 この置き手紙は津軽藩の斥候により発見され、すでに征討軍の中枢に知れ渡っているという。先日、榎本が有川に赴き陣頭に立ったのも士気の低下を恐れたからに他ならない。
(和平……和睦という言葉が出ぬ戦場はない)
 ただし、敗色が濃い中で、最初に「和平」を切り出す人間は命がけだ。戦争のただ中では、人の意識は高揚しまたは憔悴し、それは狂気の沙汰のように何も考えず「闘う」ことだけに全意識を集中している。そこに、ひとり「和平」を叫ぶは「殺される」覚悟をもってしなければならない。
 諏訪が個室に収容されているのは、味方からの襲撃を考えての高松の処置だった。それほどに諏訪の身は危うかった。
 目を細めて凝視すると諏訪はかほそい息で必死に命を繋いでいる。

逝く者、いくもの 28-4

 もしもこの戦争が「和平」にと向かうそのときは、おそらく諏訪の置き手紙が何らかの突破口になるかもしれない。
 死人のように血の気のないその顔を少しばかり見て、小五郎は外に出た。朝から何度も繰り返しているように水を汲み、そして息をひとつ落とす。
 見上げると、空にどんよりとした雲がかかっていた。そう大鳥は夜討ちをかけるといっていた。このまま曇りであれば夜討ちには最適。雨も降れば人馬の音も消え、まさに夜討ち日和となる。

 院長室に戻ると、いつのまにか高松が戻っていた。
 見ればうっすらと本多が目を開けている。
「二股口の土方くんの部隊が戻った。明日には新選組の屯所に顔を出すかもしれないな」
 高松は誰ともなく話し始めた。
「土方くんには生き抜きが必要。そして君には養生が必要だ、本多くん」
 答えずに本多は視線を下に流す。
 高松は本多の腕を取り脈を見、大きなため息をついた。
「まだまだ熱が高い。今の君が夜討ちに加わろうともそれは足手まといが増えるだけだ」
「それは分かっています」
 本多はそっと顔をあげ、高松と視線を合わせ、
「無茶はいたしません。今の私の役割は体を治すことだと心得ています」
「どうだか。どうも君には死神が思いっきり引っ付いているようだ。いいか本多くん。この病院では医者の命令は絶対だ。君には大鳥さんが迎えに来るまでここにいてもらう」

逝く者、いくもの 28-5

「………」
「本日中に熱は下がるだろうが、その左腕は簡単に元通りにはなるまい。糸を抜くのは四日後。それまでは養生とそして適度な運動だ。それにかけてはここにいる小五郎くんがよく心得ている」
「………」
 本多の目がわずかに動いた。
「察しの通り見張りだよ。本多くん、この私が完治と認めん限りは君は患者だ。患者は医者の言いつけに逆らうことは許されん」
 この箱館病院では高松という頭取は「絶対」である。患者は誰一人として彼に逆らうことは許されない。そして高松の意志は徹底されており、病人や負傷している間は「患者」として医者に絶対服従をさせるが、完治した患者がどこでなにをしようとそれは本人の意志として尊重している。 怪我が治った兵士が戦場に向かおうとも、決して止めはしない。完治した人間は医者の領分から外れるというのが理由だ。
「養生だ、本多くん」
 本多の肩を叩き、高松は椅子から立ち上がった。
「少し熱が下がったがまだ高い。今日はよく看ていてくれ」
 コクリと頷くと、高松は小五郎の肩もポンポンと叩いて部屋から出ていった。
 本多は観念したのか一つ吐息を落とし、
「諏訪さんは……いかがですか」
 ベッドの横に置かれている椅子に座り、まず小五郎は「横になってください」といった。
 本多は言われるままに横になる。その姿にホッとするが、ここで安心してはいけない。高松があれほど念を押すということは、この本多は相当に無茶をする人と思われる。

逝く者、いくもの 28-6

「大鳥さんを夜討ちに出すのは心配でなりませんが、今の私が横にいてもお役に立てません」
「……本多さん」
「ただぼんやりと、意識がありながらも意志がない私をもう見せてはならないと思います」
 昨夜の本多は、言葉なく、ただぼんやりと視線の焦点も定まらない……まるで人ではない不可思議な存在に小五郎には見えていた。
「諏訪さんは生きています」
「………」
「生きているだけです」
 戦場を生きる者にはこの言葉ですべてが通じるだろう。
「頭に血がのぼった誰かが、彼を襲撃しなければよろしいのですが」
「それは高松先生の頭にもあるとは思います」
「諏訪さんの意識が回復するならば、私は彼と話してみたいと思っていたのです」
「………」
「かの置き手紙を、彼がどんな思いで書いたのかを知りたい。困った置き手紙ですが、それもまた戦には必然の現象ですから」
 小五郎は桶の水を盥に移し、枕元にある拭いを手にとって盥に浸した。
「……看病をしていただきありがとうございます」
 拭いを絞り、それを本多の額に乗せ、その際に頬や首もとに触れてみる。まだ熱いが、朝と比較すると随分と熱が下がった。
「………夢にまで」
 本多の目を見据えながら、小五郎は問うてみた。

逝く者、いくもの 28-7

「見るほどに大鳥さんが心配ですか」
「えぇ」
 本多は軽く微笑む。
「放っておくとなにをするか分からないので。とても学があり、学がありすぎてありえない策を立て、それに誰もついていけなかったり、たまにトンチンカンなことを言う人で」
「………」
「付いていなければ危なっかしくて、目が離せない」
 本多は、大鳥を上官としてだけではなく「大鳥圭介」という男を心底から敬愛しているということは分かった。
 小五郎にもいる。側に付いていないと危なっかしくて、目が離せなくて、今でも夢に見る幼なじみが、いた。
 自分がその幼なじみを語るとき、果たしてどんな顔をするのだろう。苦しみか。哀しみか。寂しさか。痛みか。分かっていることは、今の本多のように優しく微笑んで語ることなど出来そうにはないということだ。
「大鳥さんの元に戻るために養生をしてください」
 そのときの本多は二十歳をわずかに超えたばかりの年相応の若者の顔をして頷いた。
 昨夜の「何も見ず、何も感じず」といった本多はどこかに消えてしまったかのように、優しく若若しいその表情に、小五郎の胸はズキリと痛む。
(……なぜ…)
 それはいつだったか。どんなときだったか……心底に沈みあまりにもおぼろで掴めない。
 だが自分もかつて今の本多と同じような笑顔をどこかで見たような気がする。あれは誰だったか、どこで……。

逝く者、いくもの 28-8

『桂さん。あなたは生きのびてください』
 突如、脳裏に響いた声がその答えを明確に突きつけていた。
 あれは久坂と入江だ。禁門の変において、この自分のもとから離れていく彼らが、振り返ってみせた表情は静謐で初々しくさわやかな……無邪気なまでの。
(これはいけない……)
 普段達観している人間が無邪気さを見せるその一瞬が何なのかを小五郎は痛いほど知っている。
 そうそれは……。
(死ぬ覚悟をとうにきめてしまっている)
 そんな人間が見せる一瞬の隙ともいえた。
「本多さん」
 だから言わなければならないと思った。
 自分はきっと時を戻せるならば、久坂らにも同じことを言うだろう。今まで心に封じてきた、けれどいちばんに言いたかっただろうこの言葉を。
「死なないでください」
 本多は目を少しばかり大きく見開いて小五郎を見た。
「………」
 言葉はない。視線と視線が合わさって、それもすぐにやんわりと本多が外した。
 大鳥の盾となって死すことを唯一の願望と決めこんでいる人間が、腕の負傷ぐらいでとどまるはずがないのだ。例え身は足手まといになろうともいざというときに、大鳥の弾よけにはなれる。そういう考えをする人ではなかったか、本多は。
 自分自身の命よりも大鳥が大切ならば、本多が取る行動は一つしかない。

逝く者、いくもの 28-9

 言葉なく、視線も合わさず、互いの息吹のみを聞いて、二人はただ同じ部屋に在り続ける。
 本多を夜討ちに行かせないために、小五郎は一瞬の隙も見逃さないほどに周囲を注視し始めた。
▼ 逝く者、いくもの 二九章へ

逝く者、いくもの 28-10

逝く者、いくもの 28章