逝く者、いくもの

1章

 出会いは、嘉永六年。その年の六月にはペリー艦隊が浦賀に現れたあの年。
 未だ剣道道場の寄宿生でしかなかった自分。
 そこに石田散薬という薬を売りに来た……一人の青年。
 互いにその目に含む「孤高」に惹かれたのは、生い立ちゆえの哀しみからか。
 出会いはきっかけでしかなく、また運命という二字にあてはまった。妙に歩調が合い、共に並んで江戸の街を歩いた。
 あの頃が今は懐かしい。随分と遠くにきたものだ。
 ペリー率いる「黒船」が、国を、時を、そして二人の運命をも大きく変え、歪ませ、そして「今」に至る。


 明治二年、二月。蝦夷地箱館。
「これほどまでにさらさらとした雪は初めて見ました」
 故郷の萩も冬になると雪が多く降る地域ではあるが、雪というものは大量に水分が含むもので、水が固まり白くなったものとしか認識はしていなかった。
「そうだね。私も雪ってもんがこんなもんとは知らなかった」
 元将軍家奥詰医師である高松凌雲が、屈んで雪に触れる。
 掌に雪をよそうと、それは風に乗ってさらさらと流れて行った。
 蝦夷地とは、「未開の土地」とよく表現されるが、雪ひとつとっても奥が深い。

逝く者、いくもの 1-1

「……雪解けと共に始まるな」
 そしてこの雪を踏みにじるかのように、この未開の地で、今、戦の火蓋が切られようとしていた。
「小五郎くん。君は、もう少し穏やかなところで療養をした方が良いね」
「いいえ。私は此処におります」
 この蝦夷地にたどり着く前、船中で労咳と診断された。
 だが症状は軽く、比較的に早い時点で発覚したのと、この未開の地の清んだ空気と穏やかな日日が病を随分と回復させていた。
 激しい咳をもたらすことも、もうほとんどない。
 家族が胸を病んで次々に倒れていったのを見ている自分にとって、我が身だけが病を鎮めようとしていることが「罪」のように感じることもあった。
「先生のお手伝いを、少しはできると思いますし」
「それに……土方くんが気になるかい」
 えぇ、とわずかに微笑んで、また雪を見据える。
「あまり無理をするでないよ」
 高松は病院内に戻っていった。
 旧幕府軍……海軍副総裁榎本武揚が、旧幕府の軍艦を率い、多くの幕臣と共にこの蝦夷地に上陸し四ヶ月ほどが経過していた。
 上陸後は、元新選組の土方歳三や旧幕臣の大鳥圭介が箱館に向け軍を進め、箱館近郊では箱館府の兵と小競り合いが勃発した。早々に箱館府知事清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、異国船で青森に退避。十月二十六日に旧幕府軍は五稜郭を占領した。無血開城となった。
 榎本が旗艦開陽で箱館港に入り、五稜郭に入城を果たしたのは雪がしんしんと落ちる十一月一日のことであった。

逝く者、いくもの 1-2

 箱館は江戸時代より商船の行き来が活発な場で、松前、江差と共に蝦夷三大港と呼ばれる栄えた港町となっていた。さらに繁栄したのは日米和親条約のもと異国への開港によってであり、幕府は箱館を直轄地として、箱館奉行を置いてからは、街が見違えるほどに整備された。
 その箱館の街の外れにそびえるのが、柳野城。通称「五稜郭」である。
 江戸時代中期より、幕府中枢においては北の露西亜を意識し、蝦夷地の防衛力の強化が度々議論にあがっていた。伊能忠敬の地図、松浦武四郎の蝦夷地探索などは、露西亜を意識し、蝦夷地の概要を把握するために行われたものとも言える。御三家水戸藩の徳川斉昭などは防衛を意識し北海道開拓の上奏を幕府に提出している。にわかに北方防衛が重視され、幕府は東北七藩に蝦夷地の警備を命じ領土支配をも許した。
 その最中、ついにペリーに続き露西亜使節プチャーチンが長崎に到来すると、露西亜への北方の抑えが必要不可欠となった。そこで洋式軍学者として名高い武田斐三郎に命じ設えたのが城郭に等しい「五稜郭」である。武田はかの「天才」を自負する洋兵学者佐久間象山に学んだ人物であり、また適塾で緒方洪庵に師事している。
 武田を語る上でひとつ逸話を紹介すると、日米和親条約締結により箱館が開港と決まると、ペリーは箱館港を旗艦にて見物、測量に赴いたことがあった。 その際、このペリーとの引見に当時樺太調査を命じられた堀織部正一向とともに青森にいた武田は駆り出される。松前藩に泣きつかれた、というのが正しい。この時の武田をアメリカの通訳ウィリアムは「堂々たる人物」と述べている。 引見の際、武田は蘭語で筆談したという記録が残る。

逝く者、いくもの 1-3

 要塞の設計を引き受けた武田は、この後は、西洋の大砲を機軸とした戦争を考慮に入れ、亜米利加、英国の領事の人間とも話し合い五角形に設計したと言われる。
 各国よりも絶賛された要塞だが欠点を挙げるなら、海より二・五キロメートルしか距離がないことだ。要塞を探知されれば海上よりの砲撃にさらされる。また固い岩で周囲を囲んだ弁天岬台場に比較すると堅固さに劣る。
 この武田は後に箱館に諸術調所が設置されると教授となっている。この調所にて学んだのが、長州五傑と称される井上勝であり山尾庸三であった。彼らは英国密留学に至る知識を箱館で取得したとも言える。郵便の父と言われる前島密もこの調所の学生の一人であった。また直に武田に学ぶことは適わなかったが、同志社大学創立者の新島襄も渡航前にこの調所に身を置いたこともあった。現在箱館東坂を下り海沿いに出た場所に、この新島襄の海外渡航の碑がある。その右横の基坂中腹にある諸術調所跡と伝える説明文と共に当時の箱館の近代的情緒の一翼を今に伝えている。
 この武田と、嘉永六年に蝦夷樺太調査を命じられた堀織部正に小姓として随行した榎本は箱館にて顔を合わせている。この時、榎本は十九歳。 その際、武田に対して随分と厳しい印象を受けたようだ。後にその武田が築きし五稜郭を占領し「蝦夷共和国」を宣言する榎本と武田には不可思議な縁が見られる。
 箱館開港時に、五稜郭内部に奉行所が移された。元は英国領事館などが並ぶ箱館の市街地元町にあった。皮肉なことだが、五稜郭本陣と言われるこの奉行所の天辺の楼閣が、後に新政府軍の海からの格好な大砲の標的物とされている。北方防衛の拠点として設置された五稜郭の弱点は、奇しくも箱館戦争の際に、同じ日本人により露見するという歴史の皮肉を垣間見せることとなった。

逝く者、いくもの 1-4

 良く晴れた日に箱館山から北東に見えるこの五稜郭は、実に壮観で、巨大ながらも孤高な幻影とも見て取れた。
 彼、和田小五郎が、石巻で榎本艦隊の一つ「回天」に乗船し、開港された箱館に降り立ったのは十月二十七日。
 この時、明治新政府を見てみると、明治天皇が京都より「東京」に行幸され、江戸城は「東京城」と改名。当面の皇居と決まった。これが十月十三日のこと。時代は着実に動いていた。
 雪降る中、小五郎は回天の甲板に立ち、遠くに見える「五稜郭」の姿に、遠くに来てしまった、と思ったものだ。故郷を捨て、仲間を捨て、地位も名誉も捨て、そして……国をも捨て。
 太政官制度における総裁局顧問が、不意に神隠しにあったかのように跡形もなく消えるという事態を起こしたのだ。
 しかも「江戸」を帝都とするか調査を命じられ、佐賀の軍務官判事大木喬任とともに、江戸へ趣き、その帰途での失踪だった。
 これにも訳がある。
 品川宿を出ると、幕府の敗北による治安悪化により往来には山賊が跋扈するようになっていた。大勢の護衛を引き連れていればそれはすぐに商人か政府の「大物」と検討はつく。
 ましてや山賊に、急設えの「護衛」など全く役に立たず、十数名はすぐに打ち負かされた。
 小五郎はこの時、自らは剣に自信があるといい、どうにか山賊たちは樹木を背に相手となり、大木を逃したのである。
 そして山賊を相手にしながら、命からがらどうにか逃げ仰せ、ふと気付いたら、西ではなく、東に走っていた。
 後で考えれば、魔が差したとしかいえない。
 大木はおそらく江戸の奉行所に入り助力をこい、また都に戻っては、帰途で何が起きたか報告をしているだろう。

逝く者、いくもの 1-5

 事の真相を知った仲間たちは血眼になって自分を探しているのは疑う予知すらない。死体があがらねば、決して諦めはしない。
「……小五郎くん」
 雪に幻影を重ねていた小五郎は、そこでハッと我に帰った。
「冷えてきたね。もう中に入った方がいい」
 病院内より高松の気遣う声が響く。「はい」と返し、小五郎は踵を返した。
 和田小五郎。
 その名以上に彼について知るものは、この箱館病院にはない。
▼ 逝く者、いくもの 二章へ

逝く者、いくもの 1-6

逝く者、いくもの 1章

  • 【初出】 2010年3月14日
  • 【改定版】 2011年6月14日   【修正版】 2012年12月20日(木)   【第二次改定版】 2017年1月21日 (日)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。